過去編─白い花の約束
辺境に、オラケルという小さな村があった。山の裾に寄り添うように作られた、貧しい村だった。
豊かな土地ではない。畑は広くなく、冬が長い年には蓄えが心許なくなることもある。街道からも外れており、商人が訪れることも多くはなかった。
それでも、村は穏やかだった。春になれば、斜面に小さな花が咲く。夏には、古い井戸のそばで子どもたちが水を汲みながら笑い合う。秋には、収穫した作物を分け合い、冬には家々の窓から暖かな明かりが漏れる。
空にはいつも、白い帯が横たわっていた。村人たちはそれを、デウスの加護だと言っていた。この星を守る神の光だと。
人々が夜の祈りを捧げる時、子どもたちは大人の真似をして手を組み、空の白い帯を見上げた。
この村に住む、一人の少年——シオンも、そうして育った。
少し長めに伸びた黒髪を一つに結び、夜の底を映したような深い青の瞳を持つ少年。それが、オラケルの村にいた頃のシオンだった。
身体は今よりずっと細く、背もまだ伸びきっていない。けれど、同じ年頃の子どもと比べると力は強かった。
荷車がぬかるみに嵌れば、真っ先に後ろから押す。壊れた柵を直す大人がいれば、頼まれてもいないのに木材を運ぶ。森の近くで魔物らしき影を見たと聞けば、大人たちに止められても様子を見に行こうとする。
無鉄砲で、危なっかしい。意地っ張りで、ぶっきらぼう。けれど、困っている人を見ると放っておけない。そんな少年だった。
村人たちは、よく苦笑した。
「あいつ、また余計なことに首を突っ込んでら」
「でも放っておけないんだろうな」
シオンはそう言われるたび、不機嫌そうに顔を背けた。
褒められるのが苦手だった。感謝されるのも、少し落ち着かなかった。ただ、誰かが困っているのを見て見ぬふりをすると、胸の奥が気持ち悪くなる。それだけだった。
シオンの父は、豪快によく笑う人だった。息子が無茶をするたびに大声で怒鳴り、拳骨を落とし、それでも最後には必ず肩を叩いて笑った。
母は、優しくも強い人だった。シオンの服が泥だらけになるたびに長々と説教をし、怪我を見つければ眉を吊り上げた。それでも説教の後には、必ず温かい食事を用意してくれた。
裕福ではなかった。特別でもなかった。それでも、シオンには帰る家があった。怒鳴る父がいて、叱る母がいて、温かい食卓があった。
そして、その日々の隣には、いつもリゼがいた。
リゼは、村の薬師の娘だった。可憐で、優しく、けれど芯の強い少女だった。誰かが怪我をすれば、すぐに薬草と包帯を持って走る。泣いている子どもがいれば、無理に泣き止ませようとはせず、隣に座って一緒にいてやる。大人に意見する時も、声を荒げることは少ない。けれど、譲れないことは決して譲らなかった。
シオンとリゼは家族ではない。ただ、年が近く、家も遠くなく、幼い頃から自然と一緒に育った幼馴染という関係だった。
◇
リゼとの最初の記憶は、村外れの木の下だった。
その日、幼いシオンは、靴を飛ばして遊んでいた子どもが泣いているのを見つけた。靴が木の枝に引っかかり、取れなくなっていたのだ。シオンは何も考えず、木に登った。だが、枝は思ったより細く、足をかけた途端に折れてしまう。そのまま見事に地面へ墜落し、腕や膝を擦りむき、服を土まみれにした。
痛かった。だが、周りに子どもたちがいる手前、泣くわけにはいかない。
シオンが歯を食いしばっていると、小さな足音が駆け寄ってきた。包帯と薬草の入った袋を抱えた少女、リゼだった。
彼女はこの村でそこそこ有名な存在だった。薬師の娘であり、自身も薬師を目指しているのか、怪我をした村人がいればどこからともなく駆けつけ、手当てをするリゼという少女。話したことはなかったが、シオンも噂くらいは耳にしたことがあった。
「あなた、シオンくんだっけ」
リゼはしゃがみ込み、シオンの膝を覗き込む。
「もう、そそっかしいんだから。痛いでしょ。泣いてもいいよ?」
からかうような声に、シオンは頬を膨らませる。
「泣くわけないだろ。このぐらい、なんともない」
リゼは包帯を取り出しながら、じっとシオンの顔を見た。
「じゃあ、痛くないの?」
真っ直ぐ見つめられ、シオンは気まずくなって目を逸らす。本当は痛かった。けれど、痛いと言うのは負けたようで嫌だった。
少し黙ってから、渋々答える。
「……痛くない、こともない」
「じゃあ、強がらないで、痛い時は痛いって言っていいんだよ」
リゼはそう言って、薬を塗った。薬はひどく染みた。シオンは思わず顔をしかめる。
「痛い」
口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。痛いと言っても、世界は終わらなかった。誰も笑わなかった。
リゼは安心したように、それでいて少しだけ得意げに微笑む。
「うん。言えて偉いね」
その言葉に、シオンはますます頬を膨らませる。
「痛いって言ってもいいって、お前が言ったのに。バカにしてるだろ」
「ふふっ。別にバカにしてないよ」
「笑ってる」
「笑ってるけど、バカにはしてない」
「同じだろ」
「違うよ」
リゼは楽しそうに笑った。その笑顔を見ているうちに、シオンのむくれた顔も少しずつ緩んでいった。
痛みはまだあった。けれど、不思議と嫌ではなかった。
痛いと言ってもいい。強がらなくてもいい。そのことを初めて教えてくれたのは、リゼだった。
それからも、シオンはよく怪我をした。木から落ちた。川で滑った。壊れた柵を直そうとして手を切った。森へ入り、枝で頬を擦った。
そのたびに、リゼは呆れた顔で手当てをした。
「また?」
「大したことない」
「大したことあるかどうかは、手当てするわたしが決めます」
「偉そうだな」
「怪我人は黙って座る」
そんなやり取りを何度も繰り返していくうちに、二人の距離は少しずつ近くなっていった。
◇
成長してからも、二人は自然と一緒にいた。
森へ薬草を採りに行く時、シオンは必ずリゼについていった。
「力は強い方だからな」
そう言って、荷物を持つ。護衛のつもりでもあった。それを見たリゼは毎回、少し困ったように笑う。
「一人でも大丈夫だよ」
「森には魔物が出る」
「この辺りには滅多に出ないよ」
「滅多に、だろ」
「もう、心配性」
「お前が無茶するからだ」
「それ、シオンには言われたくないなぁ」
言い合いは、いつも同じところで終わる。結局、リゼはシオンを追い返せない。シオンも、リゼを一人では行かせない。
村人たちは、そんな二人を見るたびに微笑んだ。
「おまえたち、本当に仲がいいな」
「もう夫婦みたいなものじゃないか」
そう言われるたび、シオンは顔を真っ赤にした。
「ふ、夫婦っ……?」
声が裏返り、思わずそっぽを向く。
「違うに決まってるだろ」
リゼも耳をほんのり赤くしていた。けれど、彼女はシオンほど顔に出さないようだ。
寧ろ、にんまりとした笑みを浮かべて、彼を覗き込む。
「えー、違うの?」
「……違う」
「本当に?」
「……」
シオンはリゼから顔を逸らし続けた。
本当は、違うと言い切りたくなかった。けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
リゼは、ただの幼馴染ではなかった。家族のように近い。友人のように気安い。けれど、それだけではない。
リゼが他の村の男の子の手当てをしていると、胸の奥にもやもやしたものが生まれる。彼女が誰かに笑いかけていると、嬉しいはずなのに、少しだけ落ち着かない。リゼが泣いている子どもの隣に座る姿を見ると、自分まで温かい気持ちになる。けれど同時に、その優しさを自分だけが知っていたかったような、身勝手な感情も湧いてくる。
シオンには、その感情の名前が分からなかった。分からないから、よく黙った。ぶっきらぼうな態度を取り、顔を逸らし、何でもないふりをした。
リゼは、決して口数が多いとは言えないシオンの変化にすぐ気づいた。
彼が落ち込んでいる時は、何も聞かずに隣へ座った。無理に笑っている時は、誰より早くそれを見抜いた。彼が誰かを助けるために傷ついた時は、怒りながらも丁寧に手当てをした。
シオンは力が強い。それ故なのか、よく無茶もする。けれど、心は意外なほど傷つきやすかった。誰かの何気ない言葉に落ち込み、自分では気にしていないふりをして、一人で抱え込むことがある。リゼはそれを知っていた。だから、シオンの強がりの奥にある痛みにいつも気づいた。
◇
ある春の日。リゼはシオンを村外れの丘へ連れていった。そこには白い花が一面に咲いていた。風が吹くたび、細い茎が揺れ、花弁が光を受けて淡くきらめく。
空には、神の加護である白い帯。足元には白い花。静かな丘だった。
この白い花は、ツェルトリヒという。季節を問わず、どこにでも咲くありふれた花だ。けれど、リゼはこの花が好きだと言っていた。
「ここ、好きなんだ」
リゼは言った。シオンは隣に立ち、花を眺めるリゼの横顔を見ていた。
「ツェルトリヒが好きだからか?」
「そうだね」
リゼは微笑む。
「この花は、とても優しい花だから」
「花が優しい?」
「うん。見ていると、とても優しい気持ちになれるの」
シオンには、その意味がよく分からなかった。花に対して、優しいとか、優しくないとか、そんなことを考えたことはない。けれど、リゼがそう言うな、きっとそうなのだろうと思った。
シオンにとって大事なのは、花そのものよりも、それを見ているリゼの表情だった。リゼが穏やかに笑っている。それだけで、この丘はいい場所なのだと思えた。
リゼはツェルトリヒを一輪だけ手折ると、くるりとシオンの方を向いた。
「これ、持ってて」
差し出された白い花を見て、シオンは首を傾げる。
「なんで?」
「いいから。持ってて」
「理由を言えよ」
「聞く前にまず持って」
リゼに押し切られ、シオンは渋々花を受け取った。小さく、柔らかな花だった。強く握れば、すぐに潰れてしまいそうだった。
「なんで俺に?」
シオンが尋ねると、リゼは少しだけ真剣な顔になった。
「シオンがまた無茶しそうになった時、これを見て思い出して」
「何を?」
「絶対、ここに帰ってくるって」
シオンは瞬きをした。
「帰るも何も、俺はこの村から出る予定はないけど」
「そういうことじゃなくて」
リゼの声は穏やかだった。けれど、その奥にある心配を、シオンは感じ取った。
リゼは、シオンが誰かのために簡単に自分を傷つけることを知っている。怪我をしても、いつも必ず大したことないと言うことを知っている。危険だと分かっていても、誰かが困っていれば飛び出してしまうことを知っている。
だから、怖いのだ。シオンがいつか、本当に帰ってこなくなることが。
「約束して」
リゼの瞳が、真っ直ぐにシオンを見た。澄んだ碧の瞳。そこには、いつものようにからかう色はない。
シオンは少しの間、黙り込む。そして、手の中の白い花を見た。
こんな小さな花で、自分が変わるとは思えない。それでも、リゼが真剣に願っていることは分かった。だから、軽く扱いたくなかった。
「分かった」
シオンは頷いた。
「約束する」
リゼの表情が少しだけ緩む。
「本当に?」
「ああ」
シオンは白い花を見つめたまま、少し照れくさそうに言う。
「ここに帰ってくる」
リゼは安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、シオンの胸の奥が強く揺れた。自分の気持ちがようやく分かった。——自分は、リゼが好きなのだと。
家族のように大事だからではない。友人として気が合うからでもない。リゼが笑うと嬉しい。リゼが泣くと苦しい。リゼが自分の名前を呼ぶだけで、胸が温かくなる。この人のいる場所へ帰りたいと、心からそう思う。
その感情の名前を、シオンはその日、初めて自覚した。けれど、言葉にはできなかった。まだ口に出す勇気はなかった。ただ、手の中の花を壊さないように、そっと持ち直す。
リゼはその様子を見て、少し不思議そうに首を傾げた。
「シオン?」
「……何でもない」
「顔、赤いよ」
「夕日のせいだ」
「まだ夕方じゃないけど」
「うるさい」
リゼは楽しそうに笑った。
シオンは顔を背けながらも、白い花を離さなかった。
その日の夜。シオンは、リゼからもらったツェルトリヒを押し花にした。不器用な手つきだった。形は少し歪んだ。それでも、大切に紙へ挟み、乾かした。約束の証として。必ず、この村へ帰ってくるために。リゼのいる場所へ、何度でも戻るために。
シオンは、その押し花を小さな革に包んで持ち歩くようになった。




