罪を記す者
古い礼拝堂に、一人の男がいた。
山の中腹。巡礼路から外れた、地図にもほとんど記されていない場所だった。
かつては神へ祈る者たちが訪れていたのだろう。白い石で造られた壁には、翼と光輪を模した紋章が刻まれている。だが、その大半は風雨に削られ、輪郭を失っていた。天井には大きな穴が空き、そこから差し込む光の中を、細かな埃が漂っている。崩れかけた柱には蔦が絡まり、床の石板は何枚も割れていた。
祈りの場だったものは、長い年月の中で忘れられた廃墟になっている。
その奥。砕けた祭壇の前で、男は膝をつき、紙に文字を書いていた。
痩せこけた老人だった。白髪は伸び放題で、髭も乱れている。深く刻まれた皺は、年齢だけでなく、長い恐怖と後悔によって削られたもののように見えた。
身に纏っているのは、高位の神官だけに許された白い法衣。だが、その白はもう白ではない。埃にまみれ、裾は擦り切れ、ところどころに古い染みが残っている。それでも胸元には、神殿の紋章がまだ縫い込まれていた。
男の名は、ロイエ。
かつて神殿で記録係を務めていた神官だった。今はもう、神殿にはいない。デウスのやり方についていけず、逃げ出した。逃げ出したから神殿とは無関係なのだと、彼は自分に言い聞かせている。
だが、本当は分かっていた。逃げたところで、罪から逃れられるわけではない。
ロイエの前には、何十枚もの紙が積み重なっていた。そのすべてに、名前が書かれている。
年齢。出身地。収容日。処分日。
それは、神殿の地下で行われた実験——その被験者たちの記録だった。
ロイエは毎日、それを書き写している。
何のためなのか。弔いのつもりなのか。贖罪のつもりなのか。あるいは、自分は彼らを忘れていないと、自分自身へ言い聞かせるためなのか。もう、自分でも分からなかった。
「私は、命令に従っただけだ」
掠れた声が、誰もいない礼拝堂へ落ちる。
「星を守るためだった」
ペン先が震えた。
「デウス様が、お決めになった」
そうだ、神が決めた。自分は神官だった。神の命令に従うことが役目だった。
実験体の移送も。記録の改竄も。死亡報告の処理も。遺族への虚偽通知も。被験者がどこへ消えたのかを隠すための書類も。魔物に襲われたことにするための調書も。存在しない巡礼任務も。存在しない病死も。存在しない事故も。
ロイエは、記録係だった。刃を握ったわけではない。実験体に何を植え付けたわけでもない。魔物の檻へ被験者を放り込んだわけでもない。少なくとも、直接手を下したことはほとんどない。
「私は殺していない」
言葉と同時に、ペン先が紙を破った。黒いインクが滲む。破れた紙に書かれていたのは、一人の少年の名前だった。
——シオン。
ケイオス適合体。成功個体。
ロイエは、その名だけを最後まで書けなかった。何度書こうとしても、手が止まる。
あの少年を運び込んだ日のことを、今でも覚えている。
艶のある黒髪。夜空のように深い青の瞳。拘束されながらも、まだ光を失っていない人間の目をしていた。なぜ自分がここにいるのか分からず、恐怖に震えながら、何度も問いかけていた。
——帰してくれ。何をするつもりだ。村には戻れるのか。リゼは無事なのか。
その声を、ロイエは聞いていた。聞いていながら、記録を取り続けた。
実験後には、少年の黒髪から色が抜け始めていた。青かった瞳は紫へ変わっていた。身体は急激に筋肉が発達し、大きくなった。元の少年の面影は急速に失われていった。
叫び声。祈り。神官たちの興奮した声。そして、デウスの静かな声。
——成功だ。
記憶の中で、その声が蘇る。
ロイエは耳を塞いだ。塞いでも、声は消えなかった。
「私は……」
その時、礼拝堂の扉が、大きな音を立てて開いた。眩い陽の光が入口から差し込む。ロイエはびくりと肩を跳ねさせ、振り返った。
そこに、銀白の髪を持つ青年が立っていた。
黒い衣服。獣の毛皮を縫いつけた外套。紫色の右目と、赤色の左目。あの頃より背は伸び、肩幅も広くなり、顔つきも大人びている。纏う空気は、記憶の中の少年とは比べものにならないほど冷たく、暗い。
それでも、忘れるはずがなかった。忘れられるはずがなかった。
ロイエの喉が引き攣る。
「……シオン」
青年は礼拝堂へ足を踏み入れた。真っ直ぐにロイエを見据え、歩いてくる。
その後ろに、少女がいた。桃色の髪に、碧の瞳。かつて、少年が何度も名を呼んでいた少女に酷似したその姿。彼女は、デウスの——
ロイエは、その顔を見た瞬間、さらに顔を青ざめさせた。
◇
自分の名を呼ぶ声に、シオンの目が細くなる。
「俺を知っているのか」
男は一歩後ずさった。視線が一瞬、周囲に散らばった紙へ向く。そこには、無数の名前が書かれていた。
ラズは息を呑む。
この場所に満ちている空気は、祈りの場のものではない。懺悔の場。あるいは、罪を数え続けるための檻のようだった。
「知っている」
男は震える声で答えた。
「いや……忘れられるはずがない」
シオンが男へ一歩近づく。
「何者だ」
老人は唇を震わせた。それは、逃げようとしているようにも、すべてを吐き出したがっているようにも見えた。
「私は……かつて神殿で記録係をしていた、ロイエと言う」
喉の奥から絞り出すような声だった。そして、観念したように続ける。
「おまえの実験にも、関わっていた」
ラズの身体が強張った。
その言葉が落ちた瞬間、礼拝堂の空気が一段冷えたように感じた。
シオンの表情が消える。怒りも、驚きも、憎しみさえも見えない。ただ、何も浮かんでいない顔。その空白が、ラズには却って恐ろしく見えた。
「そうか」
返事はそれだけだった。
しかし、ロイエにとってはその言葉だけで十分だったのだろう。自分が今、殺されてもおかしくない相手の前にいることを理解して、慌てて両手を上げた。
「待ってくれ。私はもう神殿から逃げた」
声が裏返る。
「デウス様のやり方についていけなくなったのだ。罪を告白するために、記録を秘密裏に持ち出し、ここに隠していた」
「罪を告白?」
シオンの声には、不気味なほど感情がない。怒鳴られるよりも、その静けさの方が怖く感じる。
ラズは、シオンの横顔を見た。
今の彼は、怒りを抑えているのではない。抑える前に、感情そのものが凍りついているように見えた。深すぎる憎悪が、心の奥深くで凝り固まり、表に出てこれない。そんな風に感じる。
「そうだ」
ロイエは必死に頷く。
「私は、真実を残すために——」
「……真実」
シオンが繰り返す。その一言に、ロイエの肩が震えた。
それでも、彼は続ける。
「おまえには、この真実を知る権利があると思っている」
ロイエの視線が、シオンの左胸へ向く。そこに何が埋め込まれているのか、知っている者の目だった。
「望むなら、包み隠さず話そう」
ラズはシオンを見る。
この男を、このまま生かしておくべきなのか。それとも、今すぐ殺すべきなのか。シオンの中では、すでに答えが出ているのかもしれない。
それでも、ラズには一つだけ分かっていた。この男は、何かを知っている。デウスへ繋がるものを。シオンがまだ知らない真実を。
「聞こう」
ラズは慎重に提案した。
「デウスの手がかりになるかもしれない」
シオンはしばらく沈黙した。恐ろしいほど静かにロイエを見ている。瞬きすらしない。
やがて、短く告げた。
「話せ」
ロイエは、ひとまず殺されなかったことに安堵したのか、口元に引き攣った笑みを浮かべた。だが、シオンがその笑みを見て不快そうに眉を寄せた瞬間、慌てて顔から笑みを消した。
「分かった。すべて話す」
ロイエは震える手で祭壇の下へ手を伸ばした。
そこから、古い羊皮紙の束と、デウスの記録を見た時と似た記録板を取り出す。紙束は何重にも布で包まれ、湿気を避けるためか、油紙まで巻かれていた。
彼はそれを大事そうに広げる。いや。大事にしているというより、壊れ物へ触れるような慎重さだった。
「まず、おまえの中に植えつけられたものについてだ」
ロイエは記録へ目を落とした。
「我々は、それをケイオスと呼んでいた」
ラズの胸が僅かにざわつく。
「ケイオスが封じられていた赤黒い石は、デウス様が異星の神を倒した際に発見されたものだ。この星のものではない」
そこまでは、記録板で見た内容と重なる。シオンもラズも、特に驚きはしなかった。
ロイエは続ける。
「あれに関しては、ひたすら研究と調査を重ねた。だが、名称も、由来も、本当の正体も、ほとんど分からなかった」
彼は一度、唾を飲み込む。
「ただ、デウス様は仰っていた。神すら超える力を秘めている、と」
ロイエの声が小さくなる。
「そして、邪悪でありながら、神性に似た気配が混じっているとも」
ラズは、精神世界で見た黒い影を思い出した。人の形をしているようで、人ではないもの。シオンを器と呼び、熟すのを待つと笑った声。
ロイエは苦々しげに続ける。
「そこから、我々はあれを“邪神”と仮に定義した」
——邪神。
その言葉に、ラズの指先が冷たくなる。
だが、邪神という単語を出したロイエ自身の顔には確信がなかった。何かを説明するために、手持ちの言葉を無理やり貼りつけたようだった。
「もっとも、本当に神なのかは分からない」
ロイエは震える声で言う。
「神に似た何かを宿しているだけなのか、神に近い存在なのか、それともまったく別のものなのか。我々には判断できなかった」
シオンは無言で聞いている。
「だからこそ、仮称としてケイオスと呼んだ。混沌、飢え、形のない破壊衝動。あれはそうとしか言いようがなかった」
ラズは息を呑んだ。
ケイオスは、自分を何と呼んでいたわけでもない。正体を明かしたわけでもない。神官たちが、理解できなかったものへ仮の名前をつけただけなのだ。
「石に直に触れた神官は、発狂した」
ロイエの声がさらに低くなる。
「石に触れた瞬間に肉体が崩れ、数分と保たず死に至った。デウス様ですら、長く触れてはいられなかった」
ロイエはシオンを見る。
「だが、デウス様があの石へ触れた瞬間、見知らぬ少年の姿が思い浮かんだと仰った。——シオンという名の少年だ」
礼拝堂の中に、沈黙が落ちる。
「ケイオスは、自ら器を選んだのではないか。デウス様は、そう考えた」
ロイエは紙をめくる。パラパラという音が礼拝堂に響いた。
「石は、まるで自我があるかのように、おまえに強く反応した。だが、なぜおまえだったのかは散々調べても分からなかった」
ラズはシオンを見る。
シオンは動かない。
今聞かされているのは、自分の人生が壊れ始めた理由だ。それなのに、その横顔には感情がほとんど浮かんでいなかった。ただ、左右で色の異なる瞳だけが、鋭い冷たさを宿している。
「我々は、適合者であるシオンという少年を探せというデウス様の命令に従い、おまえの故郷である辺境の村・オラケルへ神官を遣わした」
その地名を聞いた瞬間、シオンの指が僅かに動いた。ラズは、それを見逃さなかった。たったそれだけの反応。けれど、シオンの中で何かが軋んだことは分かった。
「儀式と称して、村の子どもたちを一人ずつ石の前に立たせた。神の祝福を受けるためだと説明した」
ロイエの声が震える。
「石は、おまえにだけ反応した」
シオンは黙っている。
「その後、おまえは神殿へ連れて行かれた。表向きには、神に選ばれた者として特別な役目を与えられたことになっていた」
ラズは拳を握った。
神に選ばれた。祝福。特別な役目。華々しいその言葉の裏で、一人の少年は実験台へ運ばれた。黒髪と青い瞳を持っていた少年は、赤黒い石を胸に沈められ、今のシオンへ作り変えられたのだ。
「デウス様は、おまえを星を守るための兵器にするつもりだった」
ロイエは言葉を続ける。
「ケイオスの力を使えば、異星の神々に対抗できると考えた。自分一人ではいずれ星を守れなくなる。その恐怖が、デウス様を急がせた」
そこまでは、ラズも記録板で見た。
だからこそ苦しい。デウスの恐怖は本物だった。星を守ろうとした意思も、本物だった。だが、その果てに選んだ手段は、シオンを壊すことだった。一人の少年を犠牲にし、星という全を守ろうとした。
「しかし、実験の中で分かった」
ロイエは紙をめくる。
「ケイオスの力は、ただ埋め込んだだけでは真価を発揮しなかった」
彼は古い記録を読み上げる。
「被験体の感情変化により、ケイオスの出力が変動する現象を確認。増幅条件の特定が必要」
紙を持つ手が震える。
「恐怖状態では、出力増幅は乏しい」
ラズは精神世界で見た闘技場を思い出した。
魔物を前に震えていた幼いシオン。ただ逃げようとしていた少年。あの時の彼はひどく怯えていた。
「一方、怒り、憎悪、敵意への反応は顕著。破壊衝動へ転化した際、出力が急激に増大」
それも、ラズは見た。
家族やリゼの名を使われ、怒りを煽られたシオン。恐怖を押し退けて燃え上がった怒りと憎悪。その瞬間、魔物を内側から爆ぜさせた、人の域を超えた赤黒い力。
「怒りと憎悪が鍵だと判明した」
ロイエは、息を吸う。吐く息が震えている。
「その報告を受けたデウス様は、おまえに最も強い怒りと憎悪を刻み込むことを決めた」
礼拝堂の空気が重く沈む。
「星を守る力を得るために」
ラズの胸が嫌な音を立てた気がした。
シオンを見る。
彼の表情は読めない。怒っているのか、苦しんでいるのか、何も感じていないのか。それさえ分からない。
だが、ラズには一つだけ分かった。今のシオンは、感情を失っているのではない。あまりにも深いところで感情が反応しているが故に、表面に何も出てこないのだ。
ロイエは紙を握りしめる。くしゃりという音をたてて紙が歪んだ。
「おまえの故郷であるオラケルは、四年前に壊滅した」
ラズの身体が強張った。
これまで、シオンが口にしてきたのは、父と母とリゼのことだけだった。だが、ロイエは今、村の名を言った。壊滅、と。
嫌な予感がラズの胸を騒がせる。
「神殿は、それを魔物の襲撃によるものだと公表した」
ロイエは続ける。
「遺体の損壊が激しく、確認は困難。魔物の異常発生による被害として処理する。そう記録された」
ロイエの目が震えている。
「だが、真実は違う」
シオンは答えない。沈黙だけが落ちる。それが、答えだった。
ラズは息をすることさえ忘れそうになった。
シオンが言っていた。リゼを殺した。父を殺した。母を殺した、と。だが、まさかそれだけではなかったのか。
ロイエの視線は、シオンから逸らせなかった。
「おまえは知っているはずだ。あの夜、何が起きたのかを」
シオンはゆっくりと目を閉じた。その瞬間、シオンの閉じられた記憶の扉が、再び開き始めた。
次回からしばらくシオンの過去回想となります。
いよいよ過去のシオンのすべてが明かされます。お付き合いいただけますと幸いです!




