どちらも本当
翌朝。嵐は去っていた。山肌には薄く雪が積もり、空は昨日までの荒天が嘘のように澄んでいる。
出発の前、コレットは二人へ乾燥させた果物と薬草を渡した。
「目的地までは、ここから西の尾根を越えるのでしょう?」
ラズは驚いて顔を上げる。
「どうして分かったんですか?」
「この先へ向かう道は、それしかありませんから」
コレットは少し表情を曇らせた。
「ですが、あちらには、昔使われていた礼拝堂が一つあるだけです」
シオンの目が細くなる。
「礼拝堂?」
「はい。もう使われていません。神殿の者も、随分前から近づいていないはずです」
「何者かが住んでいる可能性は」
シオンが尋ねる。
「分かりません。ただ……何年か前に、煙を見たという者はいました」
「煙?」
「ええ。誰かが火を使っていたのではないかと」
コレットは少し迷い、それから声を落とした。
「この辺りでは、神殿を離れた元神官様が山奥に隠れ住んでいる、という噂もあります。真偽は分かりません。私自身、その方を見たことはありませんから」
シオンは黙っていた。
その沈黙が、急に冷たくなった気がして、ラズは彼の横顔を見る。
実験施設。神官。白い部屋。シオンの過去に関わるものは、どれも彼の怒りの炎へ薪を焚べる。今の言葉も、何かに触れたのかもしれない。
「そうか」
シオンはそれだけ答え、歩き出そうとした。
「待ってください」
コレットが呼び止めるが、シオンは振り返らない。
「昨夜、あなたたちの話が少し聞こえてしまいました」
ラズは息を呑んだ。
「聞くつもりはありませんでした。でも、部屋が近かったので」
「……それで? 神官へ知らせるか」
シオンの声が低くなる。
「私は神官ではありません」
「だが、お前はデウスを信仰しているだろう」
「はい」
コレットは胸元の木製の飾りへ手を添えた。翼と光輪を模した、小さな紋章。彼女にとってそれは、触れると心が安らぐ御守りのようなものなのかもしれない。
「この場所も、村も、町も、星も、すべてデウス様の加護に守られています」
「なら止めるか」
シオンがようやく振り返った。コレットを射抜く視線は鋭く、冷たい。
「俺はデウスを殺す。守ってくれる加護とやらも、失われるかもしれない」
コレットの顔が強張った。
ラズは緊張した面持ちで、二人の間を見る。
「……それができるとは思いません」
コレットは答えた。
何も知らない者から見れば、シオンは少し近寄り難い雰囲気のある青年でしかない。怪物のような力を持ち合わせながら、姿は人間そのものだ。神を殺すほどの力があるなど、簡単に信じられるはずがなかった。
「そうか」
「ですが、あなたが嘘をついているようにも見えません」
コレットはシオンの瞳を見つめた。
闇を溶かした紫色の右目。鮮血のように真っ赤な左目。不気味とも言えるその瞳を見ても、彼女は目を逸らさなかった。
「デウス様が人間を傷つけたという話は、信じたくありません」
「信じなくていい」
「それも、記録に残っていたのですか」
「見せるつもりはない」
「そうでしょうね」
コレットは僅かに俯いた。
信じたくない。けれど、完全に否定することもできない。その二つの感情の間で、彼女は揺れているようだった。
彼女にとってデウスは、壁画の中の救い主であり、今もこの場所を守る加護そのものだ。その神が人を壊したと聞いて、すぐに受け入れられるはずがない。
「私は、デウス様に救われた者たちの子孫です」
コレットは言った。
雪崩から救われた人々。神に救われた分、次は自分たちが誰かを助ける番だと、この休息所を建てた者たち。彼女もまた、その意志を受け継いでいる。
「今も、あの方の力に守られています。だから、デウス様を殺してほしくない」
「そうか」
「それでも行くのですか」
「ああ」
シオンの答えは揺るがない。
コレットは唇を噛んだ。その顔には、怒りよりも戸惑いが濃かった。
彼女はシオンを止めたい。信仰を守りたい。けれど、目の前の青年が抱えている何かの重さも、僅かながら感じ取っている。だからこそ、強く責めきれないのだろう。
「あなたのご家族も、デウス様に守られていたのではありませんか」
その言葉を聞いた瞬間、シオンの表情が変わった。
「……何?」
「この星の人間なら、誰もがあの方の加護の中で生きています」
コレットは心からの善意でそう言っていた。彼女にとって、それは慰めの言葉だったのだろう。あなたの大切な人も、神の加護の中にいた。だから、神を憎みきらないでほしい。そう願っての言葉だった。
だが、その善意は、シオンにとって最も深い傷へ触れるものだった。大切なものを、すべて神に奪われたシオンには。
彼女はそれを知らない。知らないから、言えてしまった。
「あなたのご両親も、大切な方も。デウス様が星を守ってくださらなければ、生まれることさえ——」
「黙れ」
低く凍てついた声が、朝の空気を切った。
コレットが息を止める。
シオンの拳から、赤黒い力が僅かに漏れた。足元の雪が音もなく溶ける。黒く濡れた土へ、細い亀裂が走った。
「シオン」
ラズが名前を呼ぶ。
シオンはコレットを睨んでいた。その瞳には、激しい怒りと憎悪が宿っている。
コレットの背筋が凍りついたように強張った。
「俺の家族を」
シオンの声は、抑え込んだ怒りで震えていた。
「俺の大切なものを」
拳が握られる。
「あいつの恩恵に数えるな」
コレットは身体を震わせながら言葉を失っている。
「あいつが守った星で生きていたから何だ」
赤黒い力が、さらに強く揺れる。
「最後には、あいつが全部奪った」
シオンの声は低く、鋭かった。そこには、目の前のコレットへ向けられた怒り以上に、デウスへ向けられた憎しみが溢れていた。
ラズは、それを感じ取って息を詰める。
このまま放っておけば、シオンの怒りは膨れ上がる。けれど、コレットを殺したいわけではないはずだ。
彼女は何も知らない。ただ、信じている神を守ろうとしただけだ。そのことを、シオン自身もどこかで分かっている。
「……申し訳ありません」
コレットは深々と頭を下げた。
「何も知らずに、出過ぎたことを口にしました」
その謝罪に、シオンは僅かに息を吐いた。
拳から漏れていた赤黒い力が、少しずつ収まっていく。
「謝罪する必要はない」
コレットが顔を上げる。
「お前の先祖が救われたことも、この場所が守られていることも事実だ」
「……」
「だから、お前はそれを信じていればいい」
コレットの目が揺れた。
ラズも驚いてシオンを見る。
シオンが、コレットの信仰を切り捨てると思っていたわけではない。しかし、ここまで明確に肯定するとは思わなかった。
「では、あなたのことは」
「知る必要はない」
シオンはコレットに背を向ける。
「お前にとってのデウスと、俺にとってのデウスは違う」
同じ神でありながら、一方には救いを与え、一方からはすべてを奪った。どちらか一方だけが真実なのではない。シオンはそれを、記録を見て知った。そして、知った上で憎むことを選んでいる。
「どちらかが間違いなのではない」
意外な言葉だった。
ラズもコレットも、思わずシオンを見る。
「どちらも本当だ」
人々を救った神。人々を材料にした神。星を守るために戦い続けた神。一人の少年を壊し、その手で大切な者を殺させた神。どれも、デウスという一柱の神の姿だった。
「その上で、俺は殺す」
シオンの声は冷たい。だが、デウスに対する単純な否定ではなかった。
「すべて知った上で、俺の天秤は憎悪に傾いた。それだけだ」
シオンは歩き出した。
ラズはコレットに小さく一礼し、慌ててシオンの後を追う。
コレットは呼び止めなかった。ただ、二人の姿が見えなくなるまで、その背を見続けていた。
◇
休息所が見えなくなるまで進んだ頃、ラズが口を開いた。
「シオン」
「何だ」
「あの人に、どちらも本当だって言ったね」
「だから何だ」
「記録を見る前なら、そういうことは言わなかった気がする」
シオンは答えなかった。ただ、僅かに眉を顰める。
「前は、デウスの善行を聞くと、すぐに顔を背けてた」
「今もそうだ。奴への賛辞など不快でしかない」
「少し違うよ」
「何がだ」
「今は、過去のデウスを認めた上で殺そうとしてる」
シオンの足が止まった。それに合わせて、ラズも立ち止まる。
山道には、二人の足跡だけが残っていた。
「それが何だと言うんだ」
「分からない」
「俺の復讐が、ましになるとでも思うのか」
「思わない」
ラズは首を横に振った。
「むしろ、前より怖い」
「なら離れろ」
「でも、前より分かった」
「何をだ」
「シオンは、デウスが悪い神だから殺すんじゃない」
シオンの瞳が細められる。
「悪いことしかしていないからでもない」
人々を救った。星を守った。壊れる前は、慈悲深かった。今も彼の加護に守られている命がある。
「それでも、自分が赦せないから殺す。憎いから殺す」
「……そうだ」
「星にとって必要かどうかも、正しいかどうかも関係なく」
「ああ」
ラズは胸元で手を握る。
「それが、シオンの復讐なんだね」
「最初からそう言っている」
「うん。でも、今までは全部分かってなかった」
デウスを単純な悪として見れば、神殺しは正義に見える。悪逆の限りを尽くす神を倒し、犠牲者の無念を晴らす物語。それは英雄譚のように語れるかもしれない。
だが、違う。
デウスが救った命も、守った星も実在する。シオンは、それらを救う英雄になるために歩いているのではない。正義を掲げているわけでもない。自分がこの星にとって悪となるかもしれないことを、分かっている。人々の暮らしを混乱へ落とすかもしれないと知っていて、自分の復讐を選んでいる。
それは、ひどく身勝手なものなのだろう。彼は英雄などではない。ただの復讐者だ。そしてシオンは、自分がそういうものだと知っている。
「軽蔑したか」
シオンが尋ねた。
ラズは少し考えた。
「分からない」
シオンは呆れたように目を僅かに細める。
「またそれか。便利な言葉だな」
「でも、正直な言葉だよ」
ラズはシオンを見据える。
「怖いとは思う」
「……」
「間違っているとも思うかもしれない」
「そう思えばいい」
「でも、デウスを赦せとは言えない」
シオンの目が僅かに揺れた。
「デウスの記録も、あなたの記憶も見たから」
デウスが壊れていった過程を知った。同時に、その果てに何をしたのかも見た。デウスは苦しんでいた。だが、その苦しみは罪を消さない。そのことを、ラズも理解していた。
「デウスに救われた人の代わりに、彼を赦してほしいとは言えない」
——そして。
「あなたに殺された人の代わりに、復讐してとも言えない」
死者が何を望んでいるのか、ラズには分からない。勝手に赦すことも、勝手に復讐を求めることもできない。
「だから、見る」
ラズは言い放った。
「シオンが、自分で何を選ぶのか」
「もう選んでいる」
「——この先も」
座標の場所。使われなくなった礼拝堂。そこに何が待っているのかは、まだ分からない。
「次に会う人が、もしデウスの罪に関わっていたら」
ラズの声が僅かに揺れる。
「シオンがその人をどうするのかも、見る」
シオンは何も答えなかった。
この先にいるかもしれないという、神殿から逃れた者。それがもし、デウスの罪に関わる者や、実験関係者だったのであれば、それをどうするかは、シオンの中では既に答えが出ているのだろう。
その沈黙を、ラズはそう受け取った。
シオンは再び歩き始めた。ラズも少し後ろをついていく。
二人の前方には、雪を被った尾根が伸びている。その向こうに、記録へ残された座標の地点がある。
神に救われた人々の暮らす休息所を離れ、二人は、デウスへの手がかりかもしれない場所を目指して進む。
そこで待っているのは神か、神官か、それとも別の何かなのか。
まだ、分からない。
山の上で、白い光が空を横切った。デウスがこの星を覆うために張り続けている、巨大な結界だ。
シオンは一度だけ空を見上げた。
この光の下で生きるすべての人間を敵に回すことになっても。星が守りを失い、混乱へ落ちても。デウスを殺す。その決意は変わらない。——そして、その先で自分自身を殺すことも。
何も変わっていない。それが、彼にとっての復讐だった。
「行くぞ」
「うん」
二人は、廃れた礼拝堂を目指して歩き続けた。
短めでしたが、これで第三章終了です。今回はデウスに焦点を当てた章でした!
次章から物語は一気に加速していきます。引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
よろしければ感想、評価、ブクマ、リアクションなどいただけますと励みになります!




