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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
34/79

どちらも本当

 翌朝。嵐は去っていた。山肌には薄く雪が積もり、空は昨日までの荒天が嘘のように澄んでいる。


 出発の前、コレットは二人へ乾燥させた果物と薬草を渡した。


「目的地までは、ここから西の尾根を越えるのでしょう?」


 ラズは驚いて顔を上げる。


「どうして分かったんですか?」


「この先へ向かう道は、それしかありませんから」


 コレットは少し表情を曇らせた。


「ですが、あちらには、昔使われていた礼拝堂が一つあるだけです」


 シオンの目が細くなる。


「礼拝堂?」


「はい。もう使われていません。神殿の者も、随分前から近づいていないはずです」


「何者かが住んでいる可能性は」


 シオンが尋ねる。


「分かりません。ただ……何年か前に、煙を見たという者はいました」


「煙?」


「ええ。誰かが火を使っていたのではないかと」


 コレットは少し迷い、それから声を落とした。


「この辺りでは、神殿を離れた元神官様が山奥に隠れ住んでいる、という噂もあります。真偽は分かりません。私自身、その方を見たことはありませんから」


 シオンは黙っていた。

 その沈黙が、急に冷たくなった気がして、ラズは彼の横顔を見る。

 実験施設。神官。白い部屋。シオンの過去に関わるものは、どれも彼の怒りの炎へ薪を焚べる。今の言葉も、何かに触れたのかもしれない。


「そうか」


 シオンはそれだけ答え、歩き出そうとした。


「待ってください」


 コレットが呼び止めるが、シオンは振り返らない。


「昨夜、あなたたちの話が少し聞こえてしまいました」


 ラズは息を呑んだ。


「聞くつもりはありませんでした。でも、部屋が近かったので」


「……それで? 神官へ知らせるか」


 シオンの声が低くなる。


「私は神官ではありません」


「だが、お前はデウスを信仰しているだろう」


「はい」


 コレットは胸元の木製の飾りへ手を添えた。翼と光輪を模した、小さな紋章。彼女にとってそれは、触れると心が安らぐ御守りのようなものなのかもしれない。


「この場所も、村も、町も、星も、すべてデウス様の加護に守られています」


「なら止めるか」


 シオンがようやく振り返った。コレットを射抜く視線は鋭く、冷たい。


「俺はデウスを殺す。守ってくれる加護とやらも、失われるかもしれない」


 コレットの顔が強張った。

 ラズは緊張した面持ちで、二人の間を見る。


「……それができるとは思いません」


 コレットは答えた。

 何も知らない者から見れば、シオンは少し近寄り難い雰囲気のある青年でしかない。怪物のような力を持ち合わせながら、姿は人間そのものだ。神を殺すほどの力があるなど、簡単に信じられるはずがなかった。


「そうか」


「ですが、あなたが嘘をついているようにも見えません」


 コレットはシオンの瞳を見つめた。

 闇を溶かした紫色の右目。鮮血のように真っ赤な左目。不気味とも言えるその瞳を見ても、彼女は目を逸らさなかった。


「デウス様が人間を傷つけたという話は、信じたくありません」


「信じなくていい」


「それも、記録に残っていたのですか」


「見せるつもりはない」


「そうでしょうね」


 コレットは僅かに俯いた。

 信じたくない。けれど、完全に否定することもできない。その二つの感情の間で、彼女は揺れているようだった。

 彼女にとってデウスは、壁画の中の救い主であり、今もこの場所を守る加護そのものだ。その神が人を壊したと聞いて、すぐに受け入れられるはずがない。


「私は、デウス様に救われた者たちの子孫です」


 コレットは言った。

 雪崩から救われた人々。神に救われた分、次は自分たちが誰かを助ける番だと、この休息所を建てた者たち。彼女もまた、その意志を受け継いでいる。


「今も、あの方の力に守られています。だから、デウス様を殺してほしくない」


「そうか」


「それでも行くのですか」


「ああ」


 シオンの答えは揺るがない。


 コレットは唇を噛んだ。その顔には、怒りよりも戸惑いが濃かった。

 彼女はシオンを止めたい。信仰を守りたい。けれど、目の前の青年が抱えている何かの重さも、僅かながら感じ取っている。だからこそ、強く責めきれないのだろう。


「あなたのご家族も、デウス様に守られていたのではありませんか」


 その言葉を聞いた瞬間、シオンの表情が変わった。


「……何?」


「この星の人間なら、誰もがあの方の加護の中で生きています」


 コレットは心からの善意でそう言っていた。彼女にとって、それは慰めの言葉だったのだろう。あなたの大切な人も、神の加護の中にいた。だから、神を憎みきらないでほしい。そう願っての言葉だった。

 だが、その善意は、シオンにとって最も深い傷へ触れるものだった。大切なものを、すべて神に奪われたシオンには。

 彼女はそれを知らない。知らないから、言えてしまった。


「あなたのご両親も、大切な方も。デウス様が星を守ってくださらなければ、生まれることさえ——」


「黙れ」


 低く凍てついた声が、朝の空気を切った。

 コレットが息を止める。


 シオンの拳から、赤黒い力が僅かに漏れた。足元の雪が音もなく溶ける。黒く濡れた土へ、細い亀裂が走った。


「シオン」


 ラズが名前を呼ぶ。


 シオンはコレットを睨んでいた。その瞳には、激しい怒りと憎悪が宿っている。

 コレットの背筋が凍りついたように強張った。


「俺の家族を」


 シオンの声は、抑え込んだ怒りで震えていた。


「俺の大切なものを」


 拳が握られる。


「あいつの恩恵に数えるな」


 コレットは身体を震わせながら言葉を失っている。


「あいつが守った星で生きていたから何だ」


 赤黒い力が、さらに強く揺れる。


「最後には、あいつが全部奪った」


 シオンの声は低く、鋭かった。そこには、目の前のコレットへ向けられた怒り以上に、デウスへ向けられた憎しみが溢れていた。


 ラズは、それを感じ取って息を詰める。

 このまま放っておけば、シオンの怒りは膨れ上がる。けれど、コレットを殺したいわけではないはずだ。

 彼女は何も知らない。ただ、信じている神を守ろうとしただけだ。そのことを、シオン自身もどこかで分かっている。


「……申し訳ありません」


 コレットは深々と頭を下げた。


「何も知らずに、出過ぎたことを口にしました」


 その謝罪に、シオンは僅かに息を吐いた。

 拳から漏れていた赤黒い力が、少しずつ収まっていく。


「謝罪する必要はない」


 コレットが顔を上げる。


「お前の先祖が救われたことも、この場所が守られていることも事実だ」


「……」


「だから、お前はそれを信じていればいい」


 コレットの目が揺れた。

 ラズも驚いてシオンを見る。

 シオンが、コレットの信仰を切り捨てると思っていたわけではない。しかし、ここまで明確に肯定するとは思わなかった。


「では、あなたのことは」


「知る必要はない」


 シオンはコレットに背を向ける。


「お前にとってのデウスと、俺にとってのデウスは違う」


 同じ神でありながら、一方には救いを与え、一方からはすべてを奪った。どちらか一方だけが真実なのではない。シオンはそれを、記録を見て知った。そして、知った上で憎むことを選んでいる。


「どちらかが間違いなのではない」


 意外な言葉だった。

 ラズもコレットも、思わずシオンを見る。


「どちらも本当だ」


 人々を救った神。人々を材料にした神。星を守るために戦い続けた神。一人の少年を壊し、その手で大切な者を殺させた神。どれも、デウスという一柱の神の姿だった。


「その上で、俺は殺す」


 シオンの声は冷たい。だが、デウスに対する単純な否定ではなかった。


「すべて知った上で、俺の天秤は憎悪に傾いた。それだけだ」


 シオンは歩き出した。

 ラズはコレットに小さく一礼し、慌ててシオンの後を追う。


 コレットは呼び止めなかった。ただ、二人の姿が見えなくなるまで、その背を見続けていた。


◇


 休息所が見えなくなるまで進んだ頃、ラズが口を開いた。


「シオン」


「何だ」


「あの人に、どちらも本当だって言ったね」


「だから何だ」


「記録を見る前なら、そういうことは言わなかった気がする」


 シオンは答えなかった。ただ、僅かに眉を顰める。


「前は、デウスの善行を聞くと、すぐに顔を背けてた」


「今もそうだ。奴への賛辞など不快でしかない」


「少し違うよ」


「何がだ」


「今は、過去のデウスを認めた上で殺そうとしてる」


 シオンの足が止まった。それに合わせて、ラズも立ち止まる。

 山道には、二人の足跡だけが残っていた。


「それが何だと言うんだ」


「分からない」


「俺の復讐が、ましになるとでも思うのか」


「思わない」


 ラズは首を横に振った。


「むしろ、前より怖い」


「なら離れろ」


「でも、前より分かった」


「何をだ」


「シオンは、デウスが悪い神だから殺すんじゃない」


 シオンの瞳が細められる。


「悪いことしかしていないからでもない」


 人々を救った。星を守った。壊れる前は、慈悲深かった。今も彼の加護に守られている命がある。


「それでも、自分が赦せないから殺す。憎いから殺す」


「……そうだ」


「星にとって必要かどうかも、正しいかどうかも関係なく」


「ああ」


 ラズは胸元で手を握る。


「それが、シオンの復讐なんだね」


「最初からそう言っている」


「うん。でも、今までは全部分かってなかった」


 デウスを単純な悪として見れば、神殺しは正義に見える。悪逆の限りを尽くす神を倒し、犠牲者の無念を晴らす物語。それは英雄譚のように語れるかもしれない。

 だが、違う。

 デウスが救った命も、守った星も実在する。シオンは、それらを救う英雄になるために歩いているのではない。正義を掲げているわけでもない。自分がこの星にとって悪となるかもしれないことを、分かっている。人々の暮らしを混乱へ落とすかもしれないと知っていて、自分の復讐を選んでいる。

 それは、ひどく身勝手なものなのだろう。彼は英雄などではない。ただの復讐者だ。そしてシオンは、自分がそういうものだと知っている。


「軽蔑したか」


 シオンが尋ねた。

 ラズは少し考えた。


「分からない」


 シオンは呆れたように目を僅かに細める。


「またそれか。便利な言葉だな」


「でも、正直な言葉だよ」


 ラズはシオンを見据える。


「怖いとは思う」


「……」


「間違っているとも思うかもしれない」


「そう思えばいい」


「でも、デウスを赦せとは言えない」


 シオンの目が僅かに揺れた。


「デウスの記録も、あなたの記憶も見たから」


 デウスが壊れていった過程を知った。同時に、その果てに何をしたのかも見た。デウスは苦しんでいた。だが、その苦しみは罪を消さない。そのことを、ラズも理解していた。


「デウスに救われた人の代わりに、彼を赦してほしいとは言えない」


 ——そして。


「あなたに殺された人の代わりに、復讐してとも言えない」


 死者が何を望んでいるのか、ラズには分からない。勝手に赦すことも、勝手に復讐を求めることもできない。


「だから、見る」


 ラズは言い放った。


「シオンが、自分で何を選ぶのか」


「もう選んでいる」


「——この先も」


 座標の場所。使われなくなった礼拝堂。そこに何が待っているのかは、まだ分からない。


「次に会う人が、もしデウスの罪に関わっていたら」


 ラズの声が僅かに揺れる。


「シオンがその人をどうするのかも、見る」


 シオンは何も答えなかった。

 この先にいるかもしれないという、神殿から逃れた者。それがもし、デウスの罪に関わる者や、実験関係者だったのであれば、それをどうするかは、シオンの中では既に答えが出ているのだろう。

 その沈黙を、ラズはそう受け取った。


 シオンは再び歩き始めた。ラズも少し後ろをついていく。

 二人の前方には、雪を被った尾根が伸びている。その向こうに、記録へ残された座標の地点がある。


 神に救われた人々の暮らす休息所を離れ、二人は、デウスへの手がかりかもしれない場所を目指して進む。

 そこで待っているのは神か、神官か、それとも別の何かなのか。

 まだ、分からない。


 山の上で、白い光が空を横切った。デウスがこの星を覆うために張り続けている、巨大な結界だ。

 シオンは一度だけ空を見上げた。

 この光の下で生きるすべての人間を敵に回すことになっても。星が守りを失い、混乱へ落ちても。デウスを殺す。その決意は変わらない。——そして、その先で自分自身を殺すことも。

 何も変わっていない。それが、彼にとっての復讐だった。


「行くぞ」


「うん」


 二人は、廃れた礼拝堂を目指して歩き続けた。

短めでしたが、これで第三章終了です。今回はデウスに焦点を当てた章でした!

次章から物語は一気に加速していきます。引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

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