神亡き後
夜も更けた頃。結界の外から、魔物の咆哮が響いた。
ラズは目を覚ました。
部屋の中は暗い。燭台の火は落とされ、窓の外から差し込む白い結界の光だけが、薄く室内を照らしている。
寝台の上で身体を起こすと、窓の向こうに巨大な影が見えた。猪に似た魔物だった。太い前脚を振り上げ、休息所を包む白い光の膜へ爪を立てている。
結界に波紋が広がった。だが、破られはしない。
魔物は低く唸り、何度か爪を叩きつけた後、諦めたように闇の中へ消えていった。
「まだ起きてる?」
ラズが尋ねる。
「眠れないと言っただろう」
案の定、窓際からシオンの声が返ってきた。彼は椅子に腰掛けたまま、窓の外を見ている。
白い結界の光が、銀白の髪と、左右で色の違う瞳を淡く照らしていた。
「結界、強いね」
「そのようだな」
「デウスが残したものなんだよね」
「ああ」
「シオンなら壊せる?」
「わざわざ壊す理由がない」
「そうじゃなくて、壊そうと思えば」
シオンは窓の外へ視線を向けた。
魔物の爪を受けても揺らぐだけで保たれている、古い加護の光。それをしばらく見つめてから、淡々と答える。
「この程度ならな」
強がりでも、驕りでもない。ただの事実としての声だった。
ラズは毛布の中で膝を抱えた。
シオンの圧倒的な力を、今さら知らないわけではない。けれど、こうして誰かを守っている結界を前にして、その力の方向があまりにも違うことを改めて思い知らされる。
デウスの力は、少なくともこの場所では人を守っている。シオンの力は、壊すためにある。
その差が、胸の奥に小さく刺さった。
「デウスを殺した後、シオンが代わりに守ることはできないの?」
「何をだ」
「この星を」
「できない」
即答だった。
「でも、シオンは強いよ。力は……申し分ないと思う」
「俺の力は守るためのものではない」
それは以前、シオンから生き残り方を教わった時にも聞いた言葉だった。
「壊すことしかできない」
「でも、村を助けた」
「落ちてきた岩を壊しただけだ」
「魔物がわたしを襲った時も、倒してくれた」
「魔物を殺しただけだ」
「結界が消えた後で魔物を倒せば、それで助かる人だっていると思う」
「星中のすべての魔物を殺すのか」
ラズは黙った。
「俺一人で、デウスが守ってきた全域を見張れると思うのか」
「……思わない」
「なら、俺にはできない」
「それでも、目が届く範囲くらいは」
「しない」
シオンの声は冷たかった。
できない、ではなく、しない。その違いを、ラズは聞き逃せなかった。
「この星に、俺が守りたいものはもう存在しない」
シオンは窓の外を見たまま言う。
「守る価値などない。それに、俺はあいつの代わりにはならない」
「なりたくないの?」
「なる資格も、理由もない」
シオンは自分の拳を見る。白い結界の光に照らされた黒い手袋。そこに包まれた拳が、これまで何を壊してきたのか、ラズは知っている。
「この力は、星を守るために作られた」
デウスはそのつもりで、シオンへケイオスを埋め込んだ。異星の神々を殺すための兵器。守護神を超える力を宿す、人間の器として。
「だが、俺は星のためには使わない」
「デウスを殺すためだけに?」
「ああ」
「それが終わったら、自分も死ぬから?」
シオンは答えなかった。その沈黙こそが肯定だった。
ラズは窓の外の結界を見る。
白い光が、静かに休息所を包んでいる。神が守った場所の中で、その神を殺そうとする者が夜を明かしている。その矛盾を、シオンは分かっている。分かった上で、何も変えようとしない。
「デウスは、自分がいなくなった後が怖かったのかもしれないね」
「それは記録にあった」
「だから、別の力を作ろうとした」
「それが俺だ」
「シオンを、自分の代わりにしようとしたのかな」
「さあな」
「でも、シオンは拒んだ」
「そうだな」
「神がいなくなった後の星を、守らないんだね」
「ああ」
ラズは目を伏せた。言葉にするほど、胸が重くなる。
シオンは星を壊すためにデウスを殺すわけではない。混乱を目的としているわけでもない。けれど、デウスを殺した結果として、この星の守りが揺らぐことを知っている。知っていて、それでも止まらない。
デウスが最も恐れていたことを、シオンは起こそうとしている。
「シオンは、デウスが一番怖がっていたことをするんだね」
シオンは答えなかった。
星の守護神を殺す。その結果、守りが失われるかもしれない。人々が混乱に陥るかもしれない。
デウスにとって、それは最大の敗北なのだろう。守り続けた星が、自分の死と共に揺らぐ。しかも、それを成すのは、自分が作り出した星を守るための兵器。
シオンは、そこまで理解している。理解していて選んでいる。
「それも復讐?」
ラズが尋ねた。
しばらく、沈黙があった。
「……そうだ」
やがて、短い答えが返ってくる。
「あいつを殺す。それで、あいつが築いたものも、守ろうとしたものも揺らぐなら——」
シオンの声は低かった。
「それも、あいつへの復讐になる」
「それを望んでるの?」
「当然だ」
冷たい声だった。
けれど、ラズは覚えている。
寝る前の会話で、自分が「人が死んでも」と尋ねた時。シオンは、ほんの僅かに答えるのが遅れた。迷いと呼べるほどのものではなかったのかもしれない。それでも、あの短い沈黙は残っている。
シオンの中に、何もないわけではない。ただ、怒りと憎しみと死への願望が、他のすべてを押し潰している。ラズには、そう思えた。
「おやすみ、シオン」
ラズは小さく言った。
「……ああ」
珍しく、返事があった。
ラズは目を閉じる。眠りに落ちる直前、白い結界の光が瞼の裏へ滲んだ。




