揺らがぬ答え
食事が終わると、休息所に集まっていた人々は、それぞれに毛布を受け取った。
壁際の長椅子で身を寄せ合って眠る者。炉の近くで冷えた手足を温める者。割り当てられた小さな個室へ戻っていく者。
外では、氷雨がまだ窓を叩いていた。風が吹くたびに、古い建物の壁が低く軋む。
シオンとラズにも、一つの個室が与えられた。
部屋は狭い。寝台は一つだけ。小さな机と椅子があり、壁には簡素な燭台が掛けられている。窓は古びていたが、そこから休息所を包む白い結界がよく見えた。
ラズが寝台を使い、シオンは窓際の椅子へ座ることになった。
シオンは眠らない。眠れない。だから、寝台が一つしかないことに、彼は何の不満も示さなかった。
窓の外では、白い光の膜が静かに揺れている。氷雨が叩きつけても、風が荒れ狂っても、遠くで魔物の咆哮が響いても、その光は消えない。
ラズは寝台へ腰掛け、荷物の中から記録板を取り出した。
「また見るのか」
窓際から、シオンが問う。
「座標を確認するだけ」
「もう覚えている」
「シオンは覚えていても、わたしは確認したいの」
ラズは記録板へ指を触れた。魔力とは違う、冷たく澄んだ力が、胸の奥から僅かに吸い上げられる。今も、その力の名前は分からない。しかし、記録板は確かに反応した。
淡い白い光が浮かび上がり、空中に山岳地帯の簡素な図が表示される。現在地から、記録の最後に残されていた座標までは、あと半日ほど。天候が回復すれば、明日の昼には辿り着ける距離だった。
「この先に、何があると思う?」
「知らん」
「神殿の施設かな」
「可能性はある」
「もし、デウス本人がいたら?」
「殺す」
迷いのない答えだった。ラズの指先が、記録板の上で止まる。供給していた力を切ると、淡い光はすぐに薄れ、山の図も消えた。
部屋には、窓の外の白い結界だけが残る。ラズはその光を見つめた。
「デウスを殺したら、この結界も消えるのかな」
「さあな」
「消えるかもしれない?」
「ああ」
「ここだけじゃないよね」
シオンは答えない。
ラズは膝の上で、記録板を抱え直した。
この休息所を守る結界。村を守る古い加護。土地を潤す雨。魔物が人の領域へ踏み込みすぎないように定められた境界。空に横たわる、白い光の帯。
どこまでが本当にデウスの力なのか、ラズには分からない。だが、守護神が死ねば、何も変わらないとは思えなかった。
町は混乱するだろう。神殿は揺らぐだろう。人々の信仰も、生活も、当たり前だと思っていた安全も、失われるかもしれない。
ラズは記録の中で見た、かつてのデウスを思い出した。
一人で異星の神々と戦い続けていた姿。守れなかった都市の跡地で、雨に濡れながら膝をつく姿。自分が倒れれば、この星も終わる。そんな恐怖を抱えながら、それでも人間を巻き込むまいとしていた神。そして、少しずつ壊れていった神。
「シオンは、分かってるんだよね」
「何をだ」
「デウスを殺したら、星がどうなるか」
「正確には分からない」
「混乱するかもしれない」
「それは確かだろうな」
「結界が消えて、魔物が人里へ来るかもしれない」
「そうだな」
「異星の神が、また来るかもしれない」
「ああ」
シオンの声は、少しも変わらなかった。
ラズは膝の上で手を握る。
その平坦さが怖かった。知らないから迷わないのではない。知った上で、迷わない。それが分かってしまうからこそ、胸が冷える。
「それでも殺すんだね」
「そうだ」
「全部知った後でも?」
シオンがラズを見る。その瞳には、怒りよりも、冷たい疲労があった。
同じ問いを何度も向けられることへの苛立ち。それでも、ラズが引き下がらないことをどこかで理解している諦め。そして、それでも答えは変わらないという、固い決意。
「何度確認するつもりだ」
「分からない」
「答えは変わらない」
「どうして?」
「もう話しただろう」
「デウスがあなたを壊したから?」
「ああ」
「両親とリゼを殺すように仕向けたから?」
「ああ」
「星の混乱よりも、その復讐を選ぶの?」
「ああ」
ラズの問いに、シオンは一度も迷わなかった。
「この中にいる人たちが、デウスの加護を失って危険に晒されるかもしれなくても?」
「それでも——俺はデウスを殺す」
その一言が、ラズの胸へ重く沈んだ。
シオンは窓の外へ視線を戻す。
「俺に何を言わせたい」
「分からない」
「本当は迷っていると言ってほしいのか」
ラズは答えられなかった。
もしかすると、そうだったのかもしれない。記録を見て、デウスにも過去があったと知った。人を救い続けた神だったと知った。今もなお、その恩恵の中で生きている人々を目の前にした。ならば、シオンの憎しみにも僅かな迷いが生まれるのではないか。どこかで、そう期待していた。
シオンが迷えば、自分も楽になれる。デウスを殺すことが本当に正しいのか分からないまま、隣を歩き続ける不安を、少しだけ分け合える気がした。
だが、シオンは迷わない。迷えないほど、深いところで憎しみに縛られている。
「迷ってなどいない。迷うわけがない」
その声には、感情がほとんどなかった。けれど、空っぽではない。あまりに強い怒りと憎しみが、長く燃え続けた末に、冷えた刃のような形になっている。
「記録を見ても、何も変わらなかった」
シオンは窓の外の結界を見ている。
「俺の怒りも、憎悪も、あいつらが死んだ事実も。何一つ変わらなかった」
ラズは唇を噛む。
「デウスが最初から残酷だったわけではないことは分かった」
シオンは続ける。
「人間を助けたことも、星を守っていたことも、今も残した加護で、人を守っていることも」
一度、言葉を切る。
「全部、事実だろう」
「それでも?」
「それでもだ」
シオンは自分の左胸へ手を当てた。
黒い衣服の下。肌の奥、さらに深いところ。心臓に埋め込まれた、赤黒い石。
「壊れていく前に何人救ったかなど、俺には関係ない」
「……関係ない?」
「救った命の数で、壊した命が消えるのか」
ラズは黙り込んだ。何も反論できなかった。
「この休息所にいる人間が生きているのは、デウスのおかげかもしれない」
シオンは、白い結界へ目を向ける。
「それを否定するつもりはない」
その言葉に、ラズは僅かに顔を上げた。
「お前と出会ってすぐの頃に立ち寄った村も、あいつに救われたのだろう。崖に残っていた傷も、村人の話も、恐らく本物だった」
あの村で、岩が落ちた時。人々はデウスへ祈っていた。古い結界が砕けた後、代わりに村を救ったのはシオンだった。村人は、シオンの力を神の御業と呼んだ。シオンはそれを拒絶した。
「記録の中の善行も、本物だろう」
「じゃあ——」
「本物だから何だ」
シオンの声が低く、鋭くなる。
「善いことをした者は、その後で何をしても赦されるのか」
「赦されるとは言ってない」
「昔は優しかった。多くの命を救った。星を守る重圧に耐えきれず、壊れてしまった」
シオンは、記録の中で見たものを淡々と並べる。
紫と赤の瞳が、ラズへ向いた。
「だから、俺を怪物に仕立て上げたのも、俺の身体を使って両親とリゼを殺させたのも、仕方なかったと?」
「違う」
「何が違う」
「わたしは、赦してほしいとは言ってない」
「なら何だ」
ラズは言葉を探した。
自分でも、何を伝えたいのかはっきりしていなかった。シオンの復讐を止めたいのか、デウスを擁護したいのか。それとも、ただ、知ってしまったものの重さに耐えきれず、誰かと分け合いたいだけなのか。
少し考えて、ラズはようやく答えた。
「……悲しいと思っただけ」
「何がだ」
「デウスのことが」
シオンの目がさらに冷たくなる。
それでも、ラズは続けた。
「彼は、本当にこの星を守りたかった」
「そうだな」
「守ろうとし続けて、壊れた」
「ああ」
「それで、守りたかった人たちを、自分で傷つけるようになった」
記録の中のデウス。人間を実験材料として並べ、命を数字として扱う神。けれど、その出発点にあったのは、星を失う恐怖だった。守れなかった命への悔恨だった。
「それが、悲しい」
ラズは言った。
「そうか」
シオンの声には、ほとんど感情がなかった。
その冷たさに、ラズは少しだけ胸を痛める。けれど同時に、分かってしまう。今のシオンにとって、デウスの悲しみを悼む余地などないのだ。
彼の中には、自分の苦しみさえ悼む余地がない。故に、すべての元凶であるデウスの崩壊を悲しむことなど、できるはずがなかった。
「シオンは、悲しくない?」
「何がだ」
「デウスが壊れたこと」
「なぜ俺が悲しむ?」
「少し似ているから」
部屋の空気が変わった。
シオンの顔から、僅かに残っていた温度が完全に消える。
「誰と誰がだ」
「シオンと、デウスが」
ラズ自身、口にしてから怖くなった。
言って良い言葉なのか分からなかった。シオンが決して触れられたくない場所へ踏み込んでいる自覚はあった。それでも、止められなかった。
「大切なものを守れなかったことを、自分のせいだと思ってる」
「一緒にするな」
「デウスは、もっと力があれば星を守れたと思った」
「黙れ」
「シオンは——」
「黙れと言っている」
「もっと力があれば、リゼたちを守れたって——」
窓際に座っていたシオンの姿が消えた。
次の瞬間、彼はラズの目の前に立っていた。
攻撃されたわけではない。触れられてもいない。それなのに、その距離と眼差しだけで、ラズの呼吸が止まりそうになった。
赤い左目が、暗い部屋の中で妖しく光っている。
「俺とあいつを同じにするな」
地の底から這い出たような、低い声だった。怒鳴ってはいない。だからこそ、抑え込まれた怒りが、より深く響いた。
「デウスは守れなかったから、別の人間を犠牲にした」
シオンの声が、僅かに震える。
「俺は守れなかったんじゃない」
拳が握られる。
「俺が殺した」
「それは操られて——」
「関係ない」
「でも……」
「俺の拳で殺した」
いつもの言葉だった。何度も聞いた言葉。けれど今、その言葉がどれほど強くシオン自身を縛っているのか、ラズには少しだけ分かるつもりでいた。
シオンは握った拳に視線を落とす。
「父さんも、母さんも、リゼも。俺の手で壊した」
かつて愛した者たちを、原形すら残さず殺した拳。今は生きるために魔物を殺し、デウスを殺すために握られている拳。シオンにとって、それは守るための手ではない。奪った手であり、血を浴びた記憶だけが残る手だった。
「俺は、守るために誰かを犠牲にしたわけじゃない」
シオンの声が、さらに冷えていく。
「最初から、守る側にすらいなかっただけだ」
ラズは何も言えなかった。
シオンが僅かに顔を歪める。
「それに、俺は、壊れていく前のデウスなど知らない」
人々を救っていた神。穏やかに微笑んでいた神。ラズたちが記録の中で見たデウス。シオンも、幼い頃にはデウスの伝承を聞いて育ったのかもしれない。けれど、シオンが実際に目にした神の姿は、それではなかった。
冷たい実験台。白い部屋。胸へ沈む赤黒い石。自分をケイオスの器として見下ろす、光のない黒い瞳。それが、シオンにとってのデウスだ。
「俺が出会った時にはもう、あいつは人間を材料としか見ていなかった」
一歩、ラズから離れる。
「昔は慈悲深かったと言われても、俺にとっては別人と同じだ」
「でも、同じデウスだよ」
「分かっている」
「だから、全部知った上で——」
「殺す」
シオンは迷いなく言い切った。
「善行も、苦しみも、守ってきた星も。全部纏めて殺す」
ラズの胸が強く痛んだ。
「星が混乱しても?」
「殺す」
「この結界が消えても?」
「殺す」
「人が死んでも?」
その問いにだけ、ほんの僅かな沈黙があった。
短すぎて、迷いと呼べるのか分からないほどの間。だが、確かにあった。
シオンはすぐに口を開く。
「それでもだ」
その声は冷たかった。けれど、無感情ではなかった。
自分が言っていることの意味を、知らないわけではない。誰かが死ぬ可能性を、想像できないわけでもない。
それでも止まらない。止まれない。
その決意の固さが、ラズには却って痛ましかった。
「俺の目的は、星を壊すことじゃない。リゼたちの死と無関係な者を殺したいわけでもない」
その言葉に、ラズは顔を上げる。
「だが、デウスを殺した結果、この星が混乱するとしても、それが俺を止める理由にはならない」
シオンは窓の外の白い結界を見る。
「俺にとって、この星は、リゼがいない星だ」
言葉が静かに落ちる。
「父さんも、母さんもいない。帰る場所もない」
その声には、怒りよりも深い深淵があった。
「そんな場所の未来を、俺は自分の復讐より上に置けない」
ラズは俯いた。
デウスは、少数を犠牲にしてでも星を救おうとした。シオンは、星が混乱に陥る可能性を知っても、自分の復讐を止めようとしない。星を守る責任と重圧で壊れたデウスと、自分が殺したという責任で自分を縛り続けるシオン。似ていると感じた部分はある。けれど、二人はまったく違う方向を向いている。
守るために踏み外した神。奪われたもののために、すべてを踏み越えようとする人間。
どちらも正しいとは言えない。どちらも簡単には否定しきれない。だからこそ、ラズは苦しかった。
「……そっか」
「怖くなったか」
「少し」
ラズは目を伏せたまま、正直に答えた。
「なら離れろ」
今までに何度も繰り返されてきた言葉だった。だが、その言葉は今までよりも重く聞こえた。
シオンは本気で突き放そうとしている。自分がこれから選ぶものを見れば、ラズが傷つくと分かっている。それでも止める気はないから、せめて離れろと言っている。それはきっと、彼なりの不器用な優しさなのだろう。
「今なら、この場所に残れる」
シオンは窓の外の結界を見る。
「ここにはデウスの加護がある。ある程度の安全は約束されている。ここにいる人間たちは、お前を追い出さないだろう」
「わたしがここに残ったら、シオンは一人で座標へ行くの?」
「ああ」
「そこにいるのが、デウスじゃなくても?」
「手がかりになる者なら話を聞き出す」
「話してくれなかったら?」
シオンは答えなかった。
左右で色の違う瞳が、鋭くラズを射抜く。その視線と沈黙だけで、答えは分かった。
「……殺すの?」
「必要ならな」
明日向かう座標。そこに誰がいるのか、二人はまだ知らない。デウスなのか、神官なのか、神殿関係者なのか。あるいは、まったく関係のない誰かなのか。何も分からない。
それでもシオンは進む。必要なら奪う。その覚悟を隠さない。
ラズは胸元で手を握り、真っ直ぐにシオンを見据えた。
「……わたしも行く」
「なぜ」
「見ていたいから」
「何をだ」
「シオンが、何を選ぶのか」
シオンの眉間に皺が寄る。
「もう分かっただろう」
「まだ全部は見てないと思う」
「見れば後悔するぞ」
「そうかもしれない」
「ならここに残れ」
「嫌」
ラズは顔を上げた。声は震えていた。それでも、言葉だけは逃げなかった。
「デウスが人を助けたことも、星を守ったことも、壊れていったことも知った」
記録の中で見たものを、忘れない。
「シオンが、それを知った上で殺すと決めたことも知った」
その事実からも、目を逸らさない。
「全部見た上で、それでも一緒に行くかを、自分で決めたい」
「今決めればいい」
「だから、決めるために行く」
シオンは理解できないものを見るように、ラズを見つめた。
「俺の復讐を止めないのか」
「止めるべきなのか、まだ分からない」
「またそれか」
「デウスを赦していいとは思わない」
ラズはゆっくりと言葉を選ぶ。
「でも、星が混乱しても構わないとも思えない」
一度、言葉を切る。
脳裏を過ぎったのは、シオンが以前口にした言葉だった。
——だから、俺も最後には死ぬ。
神を殺すだけでは、シオンの復讐は終わらない。デウスを殺し、そして自分も死ぬ。そこまで含めて、彼は復讐だと思っている。
星の混乱は、目的ではない。ただ、彼が止まらなかった結果として起きるかもしれないもの。けれど、シオン自身の死は違う。それは彼が自分で望み、復讐の終点として選んでいるものだった。
「それに——復讐の果てにあなたが死ぬのも、いいことだと思えない」
シオンの表情は変わらなかった。救われた顔も、怒った顔も、嬉しそうな顔も、寂しそうな顔もない。ただ、少しだけ目を細める。
「なら、俺とは相容れないな」
「そうかもしれない」
「それでもついてくるのか」
「うん」
「なぜだ」
「シオンが何をしても、肯定するためじゃない」
ラズは、一呼吸置いた。自分の中にある言葉を、できるだけ正しく形にするために。
「間違っていると思ったら、そう言うために」
シオンの目が僅かに細められる。
「俺が聞くと思うのか」
「聞かなくても言うよ」
「迷惑だ」
「知ってる」
シオンは深く息を吐いた。そして、窓際の椅子へ戻る。
「……好きにしろ」
それは、いつもの言葉だった。拒絶であり、呆れであり、それでも、完全には突き放せない時に、シオンが口にする言葉。
ラズは記録板を荷物へ戻した。
窓の外では、白い結界がまだ揺れている。
その光に守られた部屋の中で、神を殺すと決めた青年と、それでも隣にいると決めた少女は、互いに背を向けることなく、長い夜を過ごした。




