救われた者たち
記録板による映像の最後には、座標のようなものが残されていた。淡い白い光で浮かび上がった地形図の上に浮かぶ、記号の列。ラズには、それが何を示しているのか分からなかった。
だが、シオンはその表示を見て、僅かに目を細める。
「神殿の座標かもしれない」
「デウスが、ここにいるの?」
「さあな」
シオンは記録板へ視線を落としたまま答える。
「だが、手がかりには違いない。当たってみるしかない」
「行くの?」
「当然だ」
迷いのない答えだった。
ラズは頷き、記録板を布で包んだ。それを荷物の奥へしまいながら、胸の内に残る違和感へ意識を向ける。
この記録板を動かした時、自分の内側から吸い上げられた力。魔力ではない。もっと冷たく、澄んでいて、硬質な光のようなもの。
名前はまだ分からない。けれど、普通の人間が持つ力ではないのだろうという予感だけはあった。
記録板は、魔核があれば誰でも扱える魔導具ではない。神殿関係者だけが閲覧できるように、何か特別な力を鍵として起動する道具だったのかもしれない。そして、その鍵となる力に、ラズは触れることができた。
なぜ、自分はそんなものを持っているのか。そもそも、自分は何なのか。どうしてリゼと同じ顔をしているのか。
分からないことは、まだ多すぎる。それでも、今は進むしかなかった。
◇
記録板の最後に残されていた座標は、山岳地帯の奥を示していた。
記録を見た狩猟小屋から北西へ数日。街道を外れ、古い巡礼路へ入り、さらに山の中腹を目指す。
地図には、集落も神殿も記されていない。そこにデウスがいるとは限らなかった。神殿の施設かもしれない。別の研究所かもしれない。あるいは、既に何も残っていない可能性もある。それでも、他に手がかりはなかった。
シオンは、記録板に残された簡素な地形図を一度見ただけで道筋を覚え、その後はほとんど口を開かずに歩き続けている。ラズは彼の少し後ろを歩いていた。
デウスの記録を見終えた直後から、二人の間には重い沈黙が残っている。
ラズの荷物の中には、アルミナの地下施設から持ち出した記録板が入っていた。そこには、昔のデウスが映っていた。傷ついた人間を癒やす姿。異星の神へ一人で立ち向かう姿。祈りを捧げる人々へ、穏やかに微笑みかける姿。
彼は最初から、人間を材料としか見ない神だったわけではない。人々を助けていた。この星を守ろうとしていた。守れなかった命を前に膝をつき、自分の無力さに怯えていた。そして、その恐怖と責任の重さの中で、少しずつ道を踏み外していった。
ラズは胸元へ手を当てる。
記録板を起動させた時、自分の内側から吸い上げられた、魔力とは異なる力。あの感覚も、まだ胸の奥に残っていた。
「シオン」
呼びかけるが、返事はない。しかし、聞こえていることは分かった。
「少し休まない?」
「必要ない」
「わたしには必要」
「なら勝手に休め」
「勝手に休んだら置いていくでしょう?」
「座標は教えた」
「地図を見ても、わたし一人じゃ辿り着けないよ」
シオンは足を止めなかった。ただ、歩調がほんの僅かに遅くなる。
ラズは小走りで距離を詰めた。
「まだ怒ってる?」
「元より、俺を動かしているのは怒りと憎悪だけだ」
「でも、記録を見た時は、いつもよりもっと怒ってた」
「今さら知ったことではない」
シオンの声は平坦だった。
「デウスが何を考えていようと、何を恐れていようと関係ない」
「でも、知らなかったこともあった」
「だから何だ」
記録を見ていた時と同じ言葉だった。冷たく、何も寄せつけない声。
「最初から酷いことをしていたわけじゃなかった」
「知っている」
「たくさんの人を助けてた」
「それも見た」
「星を守ろうとしてたことも——」
「何度言わせる気だ」
シオンが足を止めた。振り返った顔には、苛立ちが滲んでいる。
「それで、リゼたちが生き返るのか」
ラズは口を噤む。
「デウスが昔は慈悲深かったと分かれば、俺がされたことも、させられたことも、なかったことになるのか」
「そういう意味じゃない」
「なら、何の意味がある」
「……分からない」
ラズは正直に答えた。
「でも、知ったことを、なかったことにはしたくない」
シオンはしばらくラズを見ていた。いつものように、理解できないものを見る目だった。
やがて、興味を失ったように前を向く。
「昔のデウスを、なかったことにしているわけではない」
シオンは再び歩き出す。
「知った上で、俺はあいつを殺すことを選ぶ。それだけだ」
ラズは何も言い返せなかった。
二人は、再び山道を進み始めた。
◇
夕方になる頃、山の天候が急に崩れた。冷たい風が谷から吹き上がり、灰色の雲が山頂を覆う。最初は細かな雨だった。しかし、やがて雨粒は氷を含み、硬い音を立てて地面を叩き始めた。
二人が歩いている古い巡礼路は、急な斜面に沿って続いている。道の片側は切り立った岩壁。反対側は、底の見えない谷だった。足元の石は雨で濡れ、滑りやすくなっている。
ラズは風に煽られ、何度も足を止めた。
「まだ歩けるか」
前を行くシオンが尋ねる。
「大丈夫」
ラズがそう答えた直後、濡れた石に足を取られた。
「きゃっ」
悲鳴と共に身体が谷側へ傾く。その瞬間、シオンの手が、ラズの外套の背を掴んだ。
有り合わせの布を繕っただけの外套が引き攣れ、そのままラズの身体ごと強引に道の中央へ引き戻される。
「前を見ろ」
「見てたよ」
「見ていないから落ちるんだ」
「雨で見えにくいの」
「言い訳をするな」
シオンは手を離した。
ラズは外套の背を直しながら、谷を覗き込む。霧に覆われ、底は見えなかった。
「落ちたら、助けてくれる?」
「落ちる前に気をつけろ」
「落ちた後は?」
「知らん」
そう答えながらも、シオンはラズを谷側へ歩かせなかった。
しばらく進むと、岩壁の向こうに灯りが見えた。
石造りの大きな建物だった。神殿ほど立派ではない。低い屋根と太い壁を持つ、古い宿泊所のような建物。
入口の上には、翼と光輪を組み合わせた紋章が刻まれている。ただし、それは神殿施設に見られるような、神官の力で刻印された整った紋章ではなかった。石を削り、人の手で刻んだらしい、少し歪な紋章だ。
古い巡礼路にある、旅人のための民間による休息所なのだろう。
「ここに泊まれそうだね」
ラズが言った。
シオンは宿泊所を一瞥し、不快そうに視線を逸らす。
「泊まる必要はない。このまま進む」
「この雨の中を?」
「あの紋章が見えないのか」
「見えるよ」
「なら分かるだろう」
シオンは足を止めようとしない。
ラズは濡れた髪を顔から払いながら、その後を追った。
「記録の座標へ着く前に、わたしが動けなくなるかもしれない」
その言葉に、シオンの足が止まった。振り返ったその顔は、心底不愉快そうに眉が寄せられている。
「……俺を脅すつもりか」
「事実だよ」
「さっきは大丈夫だと言っていただろう」
「さっきは大丈夫だったの」
空で雷鳴が響いた。山全体が震える。ラズは思わず肩を竦めた。
その様子を見て、シオンは露骨に顔をしかめる。
「……一晩だけだ」
「うん」
「中に神官がいれば、すぐに出る」
「分かった」
「絶対に余計なことを話すな」
「何が余計なことなのか分からない」
「俺たちの目的だ」
「神を殺しに行くこと?」
「声が大きい」
シオンは僅かに声を潜めてそう言うと、ようやく休息所へ向かった。
◇
宿泊所の扉を叩くと、まだ若い女性が現れた。金色の髪を後ろでまとめ、粗末な灰色の衣服を身につけている。首元には神殿の紋章を模した木製の飾りが下げられていたが、神官の法衣ではなかった。
女性はずぶ濡れの二人を見るなり、すぐに扉を大きく開く。
「大変! 早く中へ。凍えてしまいます」
「ありがとうございます」
ラズが頭を下げる。
シオンは無言のまま、建物へ入った。
中には広い食堂があった。中央の炉では火が燃え、壁際には長椅子が並んでいる。
そこには十人ほどの人間が休んでいた。旅人らしい夫婦。脚へ包帯を巻いた若者。幼い子どもを連れた母親。皆、山を越える途中で悪天候に遭い、ここへ避難してきたようだった。
女性は二人へ乾いた布を差し出した。
ラズは礼を言いながら受け取り、濡れた髪を拭く。
シオンは手を身体の前に出すようにして、それを拒んだ。
「ここは、星灯りの家と呼ばれる休息所です」
女性が説明する。
「巡礼者向けに建てられた場所ですが、巡礼者でなくても利用できますよ」
「神殿が管理しているんですか?」
ラズは布で髪を拭きながら尋ねた。
「昔はそうだったそうです。ですが、今はこの辺りの村々で維持しています」
女性はちらりとシオンを見る。銀白の長髪。左右で色の違う瞳。全身を覆う黒い衣服。異質な風貌に僅かな警戒は浮かんだものの、追い出そうとはしなかった。
ラズの方ばかりと話すのも不自然だと思ったのか、シオンへ向かって柔らかく声をかける。
「食事もありますよ」
「要らない」
「どうか遠慮なさらず」
「食べられない」
女性が不思議そうに眉を下げた。
ラズがそっと補足する。
「身体が、受けつけないんです」
「それは……失礼しました」
病気か何かだと解釈したのだろう。これ以上追及しない方が良いと思ったのか、女性はそれ以上、何も尋ねなかった。
ラズは炉の近くへ案内される。
シオンは人々から最も離れた壁際に立ち、濡れた外套を脱ごうともしなかった。
「服、乾かさないの?」
「必要ない」
「水が落ちてるよ」
「それが何だ」
「床が濡れちゃうよ」
シオンは足元を見る。黒い外套から、確かに水が滴っていた。しばらく沈黙した後、不機嫌そうに外套を外し、壁の鉤へ掛ける。
ラズは小さく笑った。
「何だ」
「ちゃんと言うことを聞くんだと思って」
「床を濡らす意味がないだけだ」
◇
食事が配られた後、休息所の管理人である女性は、自分をコレットと名乗った。彼女は神官ではない。山の麓にある村で薬師をしており、数日ごとにこの建物へ来て、怪我人や病人の世話をしているという。
「この建物は、ずっと昔からあるんですか?」
ラズは温かなスープを飲みながら尋ねた。
「建物自体は、何度か建て直されています」
コレットは炉へ薪を足しながら答える。
「ですが、この場所が旅人の避難所になったのは、三百年ほど前からだそうです」
「三百年……」
「昔、この山で大きな災害が起きました」
コレットは、炉の向こう側にある壁を指差す。そこには、古い壁画が描かれていた。
雪崩に呑まれかけた人々。逃げ惑う巡礼者。そして、その前へ降り立つ、白い翼を持つ神の姿。
「デウス様が、山を割って雪崩を止めたと伝えられています」
ラズは壁画を見つめた。
かつてシオンと出会って間もない頃に立ち寄った村にも、似たような伝承があった。
巨大な魔物から村を救った神。崖に残された光の剣の跡。人々は、その偉業へ今も感謝を捧げていた。
「その時に助かった者たちが、後から来る旅人のために、この小屋を建てたそうです」
「救われた人たちが?」
「はい」
コレットは頷く。
「自分たちは神に助けられた。なら次は、自分たちが誰かを助ける番だと」
ラズは食堂を見回した。
負傷した旅人には包帯が巻かれている。幼い子どもには温かな毛布が渡されている。外から来た者に、炉の近くの席が譲られている。
誰も対価を求めていない。デウスが一度救った命から、何世代にもわたって別の善意が続いている。
シオンは壁際に立ったまま、その会話を聞いていた。その表情は変わらない。
コレットは食堂の奥へ視線を向けた。
そこには、小さな祭壇がある。祭壇の上で、淡い白色の光が揺れていた。
「この辺りには、夜になると山の魔物が集まります」
コレットは静かに言う。
「ですが、この建物の周囲だけは、古い加護に守られています」
「結界……ですか?」
「そう呼ばれています」
コレットは窓の外を見る。
氷雨の向こう。建物を囲むように、淡い光の膜が浮かんでいた。
「デウス様が残した力だと伝えられています」
その時、遠くから獣の咆哮が聞こえた。休息所にいる者たちが、一瞬だけ顔を強張らせる。
窓の向こうで、巨大な影がいくつか動いた。魔物だ。雨と霧の向こうを、獣とも虫ともつかない姿が横切る。
だが、それらは光の膜へ近づこうとしない。しばらく周囲をうろついた後、やがて森の奥へ消えていった。
「毎晩、ああして守ってくださいます」
コレットは祭壇へ頭を下げた。
「デウス様がいなければ、この道はとうに使えなくなっていたでしょう」
ラズは、シオンを見た。
彼もまた窓の外を見ている。紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳に、白い結界の光が映っていた。あれが偽物ではないことは、シオンにも分かるはずだった。
デウスは、かつて人々を救った。そして、その時に残された力が、今も人々を守り続けている。それは、記録の中だけの過去ではない。この瞬間にも、目の前で命を救っている現実だった。
壊れた神。赦されない神。それでも、誰かを救った神。
ラズは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
シオンは何も言わない。ただ、白い結界の光を、じっと見つめていた。




