壊れた神
記録板が映し出したのは、見知らぬ空だった。青い空。緑の大地。人々が暮らす街。デウスの守護である白い帯が空に走っているが、今とはどこか違った景色。
その上空に、白い翼を持つ神が立っている。デウスだった。
だが、ラズが記憶の中で見た冷たい神とは違っていた。
白い髪。純白の大翼。人間離れした美しい顔立ち。姿形は確かに同じだ。それでも、表情には柔らかさがあった。眼差しには疲労よりも慈しみがあり、地上を見下ろす横顔には、守るべきものへ向ける静かな愛情が宿っているように見えた。
場面が変わる。
干ばつで苦しむ村。枯れた畑。空になった井戸。地に膝をつき、空へ祈る人々。
デウスはその上空から、地上へ手をかざした。
空に雲が集まる。乾ききった大地へ、雨が落ちた。最初は一滴。やがて、無数の雨粒が畑を濡らし、井戸の底へ水音を響かせる。
人々が歓声を上げる。泣きながら神へ感謝する者もいた。デウスはそれを見て、ほんの僅かに微笑んだ。
次の記録へ移る。
魔物の群れが村を襲っていた。柵は壊され、家屋の一部は炎に包まれている。逃げ遅れた人々の悲鳴が、記録板の淡い光の中から聞こえてきた。
そこへ、デウスが降り立つ。白い翼が広がり、彼の周囲に無数の光の槍が生まれた。槍は雨のように降り注ぎ、魔物たちを貫いていく。
地上へ倒れた魔物の群れが消え、村人たちが恐る恐る顔を上げた。怪我をした子どもを抱えた母親が、泣きながらデウスへ頭を下げる。
デウスは悲しげに目を伏せ、その子どもの傷へ手をかざした。淡い光が傷を包む。泣き声が止まり、母親の顔に安堵が広がった。
さらに別の記録。
人間同士が争っていた。村と村なのか、領主同士なのか、詳しい事情は分からない。ただ、武器を持った人々が互いへ怒号を飛ばし、今にも殺し合いが始まりそうだった。
その間に、デウスが降り立つ。彼は武器を向け合う人々の中央に立ち、穏やかな声で言った。
「人は、互いを殺すために生まれたのではない」
怒号が少しずつ静まっていく。
「この星は、まだ若い。人も、町も、祈りも、ようやく根づき始めたばかりだ」
デウスは両陣営を見渡した。
「奪い合うためではなく、共に生きるために、その手を使ってほしい」
その声は、どこまでも穏やかだった。
ラズは息を呑む。
「これ……昔のデウスだよね」
呟いた声は、小屋の中へ小さく落ちた。
「デウスは、本当に人間を守ろうとしていたんだ」
シオンは答えなかった。記録板が映す過去のデウスを、冷えきった目で見つめている。
◇
次の記録へ移った瞬間、空が割れた。青い空に、黒い裂け目が走る。
その向こうから、人影が降りてきた。人の形をしている。だが、人間ではない。その身には、デウスと同じように神の気配が宿っている。
ただし、それはこの星のものではなかった。もっと遠く、もっと異質で、別の場所からこの星へ踏み込んできた存在。
——異星の神。
異星の神は地上の町を見下ろした。そこに暮らす人々を見ているはずなのに、その眼差しには何の感情もない。
まるで虫を払うように、片手を振る。それだけで街の一部が消し飛んだ。建物が、人が、声が。一瞬で光に呑まれる。
デウスが、苦しげに歯を食いしばった。次の瞬間、彼は異星の神へ向かって飛び出していた。
白い翼が広がる。光が空を裂く。二柱の神が衝突し、空と大地が震えた。
ラズは胸を押さえる。
「これが、異星の神……」
シオンは黙ったままだ。その表情には何の感情も浮かんでいない。ただ、底冷えするような瞳で、記録を見ていた。
映像はさらに続く。
一度異星の神を退けた後も、侵攻と干渉は終わらなかった。
魔物の異常発生。魔物の凶暴化。星の外から降ってくる、見たこともない魔法。人間の夢へ入り込み、精神を狂わせる神性。そして、再び直接この星へ降り立つ異星の神々。
そのたびに、デウスは独りで戦った。村を守り、町を守り、人々の祈りへ応え、異星の神々をどうにか退け続けた。
だが、無傷ではなかった。翼は裂ける。神力は削られる。白い衣は血に染まる。
それでも、傷が癒えると、デウスはすぐに地上へ戻った。何事もなかったかのような顔で、人々の前に立つ。祈りへ応え、雨を降らせ、魔物を退け、子どもの傷を癒やす。
記録の中のデウスは、少しずつ疲れが見え始めていた。それでも、まだ彼は言っていた。
「人々は何も知らず、あまりにも無力だ」
神殿の奥。傷を負ったままのデウスが、白い石柱に手をつきながら呟く。
「異星の神々との戦いに、人間を巻き込むことなど許されない」
傍らにいた神官が、何かを言いかける。だが、デウスは首を横に振った。
「人間を守るために、人間を犠牲にしてはならない」
その言葉に、ラズは胸を押さえた。シオンの眉間にも、深い皺が刻まれる。二人が知る今のデウスからは、考えられない言葉だった。
◇
別の記録が再生される。
巨大な都市が映っていた。人々が暮らし、祈り、商いをし、子どもたちが通りを走っている。魔導具が普及する以前なのだろう。町並みは今より素朴だったが、そこには確かな生活があった。
その上空に、異星の神が現れる。デウスは間に合わなかった。
空から光が落ちる。次の瞬間、都市の中心が消えた。悲鳴も、祈りも、逃げる時間さえ、ほとんどなかった。ただ地上に、巨大な傷だけが残る。
記録の中のデウスは、その跡地に立っていた。
燃え残った建物から煙が上がり、泥と灰が足元へ混じっていた。デウスは膝をつき、灰になった町を見つめている。
その顔にあったのは、怒りではなく、恐怖だった。
守れなかった恐怖。自分一人では、いずれこの星を守れなくなるという予感。神でありながら、届かないものがあるという無力感。そして、自責。
「私一人の力では……」
デウスは呟く。
「いずれ、この星を守れなくなる」
白い髪が、俯いたデウスの瞳にかかった。
「何か、対抗する術を見つけなければ」
その声は、あまりにも悲痛だった。
ラズは言葉を失う。
だが、隣で記録を見ていたシオンが、口を開いた。
「……それで?」
ラズは彼を見る。
シオンの表情は変わらない。
「同情しろとでも言うのか」
「そうじゃない」
「なら何だ」
ラズは言葉を探した。
「最初から、今のデウスだったわけじゃないんだよ。きっと、少しずつ壊れていったんだろうなって」
「だから何だ」
シオンの声は冷たい。
「自分が壊れたから、他人を壊していいのか」
ラズは何も言えなかった。
「怖かったから、人間を材料にしていいのか」
シオンの視線は、記録の中のデウスへ向けられている。
「星のためなら、リゼも、俺の両親も、犠牲にしてよかったのか」
「……」
「こいつの過去がどれほど痛ましくても、俺には関係ない」
その声は静かだった。しかし、その静けさの中には、深い憎しみが色濃く滲んでいた。
◇
記録はさらに続いた。
都市の消滅後も、デウスは異星の神々との戦いを繰り返していた。
以前よりも傷が増えた。癒えるまでの時間も長くなった。それでも、彼は戦うことをやめなかった。
ある時。デウスは、一柱の異星の神を討ち倒した。
崩れていく神の身体。砕け散る神性。その残骸の中に、奇妙なものが浮かんでいる。
赤黒い石だった。掌ほどの大きさ。宝石にも似ている。だが、その石の周囲だけ空間が歪んでいた。尋常ではない力が、内側から滲み出している。神であるデウスですら、触れることをためらうほどの気配だった。
「これは……」
デウスが石を見下ろす。
それと共に、映像が乱れた。音声がかき乱される。
赤黒い石の奥から、声のようなものが漏れた。明確な言葉ではない。それでも、ラズの身体は強張った。
あれがシオンの胸の奥にいる、ケイオス。そう直感した。心臓を掴まれるような感覚が胸へ走る。
デウスは石へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、赤黒いものが、皮膚へ食い込むように広がった。
「……っ!」
デウスが小さく呻き、すぐに手を離す。
侵食された指先から、白い光が散った。赤黒い痕は消えない。
「私では扱えないか」
デウスは、手を見下ろしながら呟く。だが、その目は石へ釘づけになっていた。
「だが……触れた瞬間、何かが見えた」
声に、恐怖と興奮が混じる。
「見知らぬ少年の姿が」
見知らぬ少年。その正体に見当がついてしまったラズは、息を止めた。
ちらりと横目でシオンの様子を伺うが、シオンは動かない。ただ、浮かび上がる映像を見ている。
「この石を扱える存在がいる。……これは、神を超える力だ」
その声は、少し震えていた。
「異星の神々に抗う、唯一の力かもしれない」
場面が切り替わる。
神殿の奥。デウスと数人の高位神官が、赤黒い石を囲んでいた。石は厳重な結界の中に浮かんでいる。それでも、赤黒い光は結界の内側で脈打ち続けていた。
一人の神官が口を開く。
「危険です」
その声には恐怖があった。
「これは、我々の手には負えない代物です」
デウスは答える。
「手に負えないからこそ、必要なのだ」
「ですが、適合者が必要だというのは……」
「石が求めている」
デウスは赤黒い石を見つめる。
「この力を宿す、器となる人間を」
ラズは拳を握りしめた。
シオンは無言のままだった。
「この星を守るには、私以外の力が要る」
その言葉は、まだ悲壮な決意に聞こえた。だが、次の記録では、その言葉は少し変わっていた。
デウスは神殿の奥で、静かに語っている。
「少数の犠牲で星が守れるなら、それは大義ではないのか」
さらに次の記録。
白い部屋。並べられた術式。その中で、デウスは呟く。
「彼らは死ぬのではない。星を守る力になるのだ」
また別の記録。
デウスの声は、以前よりも冷たくなっていた。
「人間の心は脆い。だが、脆いからこそ、憎悪によって容易に形を変えられる」
ラズは顔を歪める。
「怒りは力を引き出す。憎しみは器を強くする」
言葉が変わっていく。人間を守る神の言葉ではなくなっていく。人間を、ただの材料として見る者の言葉へ変わっていく。
デウスは、最初から非道な神だったわけではない。
責任。善意。恐怖。守れなかった悔恨。星を失うことへの焦り。それらが積み重なり、神の心を少しずつ歪ませていった。
ラズは震える声で言う。
「デウスは……怖かったんだね」
シオンは即座に返した。
「俺も、かつては怖かった」
ラズは息を呑む。
シオンは恐ろしいほど静かに、淡々と続ける。
「実験台に縛られた時も。魔物の前に放り込まれた時も。身体が勝手に動いた時も。全部、怖かった」
ラズは何も言えなかった。
「俺が殺した者たちも、怖かったはずだ」
シオンの瞳が、さらに冷たくなる。
「何が起きたのかも分からず、逃げる間もなく、遺言すら残せずに死んだ」
声が低くなる。
「あいつらは、俺を恨んでいるはずだ」
「シオン……」
「神を名乗るこいつが怖かったから何だ」
シオンは記録の中のデウスを睨む。
「星のためだったから何だ」
黒い手袋に覆われた拳が、固く握られた。
「俺は、こいつに怪物にされた」
淡々としていた声に、憎悪が滲む。
「こんな力さえなければ、俺は何も奪わずに済んだ」
一度、唇を噛むように黙る。
「あいつらも、苦しまずに済んだ。今も生きていられたはずだ」
ラズは否定できなかった。ただ、シオンの怒りを黙って聞いていた。
シオンは記録板を見下ろす。
「壊れた神が、人を壊した。それだけだ」
シオンの声は冷えきっていた。
淡い光の中で、記録のデウスは赤黒い石を見つめている。今にも何かへ縋るように。あるいは、踏み越えてはならない線を踏み越える決意をするように。
シオンは冷たく吐き捨てた。
「俺は赦さない。あいつの過去が、どれほど凄惨なものだったとしても」
ラズは、その言葉を否定できなかった。




