開かれる記録
アルミナを脱出してから、一夜が明けた。二人は再び、森の中を進んでいた。
昨夜、身を潜めた狩猟小屋はとうに離れている。追っ手の気配はもうない。だが、神殿直轄の研究施設を破壊した以上、街道を堂々と歩くわけにはいかなかった。
シオンは人の通る道を避け、獣道に近い細い跡を選んで進んでいる。
ラズはその後ろを歩きながら、胸に抱えた板状の道具へ視線を落とした。
それはアルミナの地下施設から持ち出したものだ。掌よりも少し大きく、薄い金属の板に似ている。表面には神殿の紋章が刻まれ、いくつもの細かな線が絡み合うように走っていた。
魔導具にも見える。だが、魔核はついていない。代わりに、中央へ小さな白い石のようなものが埋め込まれている。魔核のように濁った魔力を発してはいない。もっと冷たく、澄んだ、硬質な気配だけがあった。
ラズには、それが何なのか分からなかった。それでも、この中に何かが眠っていることだけは感じていた。デウスのこと。ケイオスのこと。シオンの実験に関すること。そして、もしかすると自分自身のことも。
アルミナでの一件以来、ラズの中にはいくつもの疑問が渦巻いている。
なぜ、自分はシオンの心の中へ入れたのか。なぜ、神殿の複雑な結界を初めて見ただけで解除できたのか。なぜ、自分はリゼとこれほど似ているのか。自分は何者なのか。
考えても答えは出ない。だが、この記録なら、何かを教えてくれるかもしれない。ラズは板を抱く手に、少しだけ力を込めた。
「……まだ持っていたのか」
前を歩くシオンが、振り返らずに言った。
「うん」
「捨てろ」
「嫌」
「役に立つとは限らない」
「デウスの手がかりになるかもしれないって言ったら、あなたは止めなかった」
シオンは黙った。図星だったのだろう。
ラズはその沈黙を受け、さらに続ける。
「それに、知りたい」
「何をだ」
「デウスのこと。ケイオスのこと。あなたのこと」
一度、言葉を切る。
「……わたしのことも」
シオンの足が止まった。
朝の森には、薄い霧が漂っていた。濡れた草の匂いと、遠くの鳥の声が聞こえる。まだ陽は高くない。白い霧の中で、前に立つシオンの銀白の髪が淡く揺れている。
彼はゆっくりと振り返った。紫色の右目と、赤い左目。左右で異なる瞳が、ラズを見つめる。
以前のラズなら、ただ不思議な色だと思ったかもしれない。美しいとも、少し怖いとも感じたかもしれない。
けれど今は、もう同じようには見られなかった。
黒かった髪が、苦痛の中で色を失っていくところを見た。青かった瞳が、赤黒い力に侵され、紫へ変わっていくところを見た。そして、その黒い外套の下に隠された肉体も知ってしまった。力を使い、壊れ、そのたびにケイオスによって作り替えられた身体。
今のシオンの姿は、生まれ持ったものではない。全身がデウスとケイオスによって刻まれた傷痕そのものだった。
ラズの視線に気づいたのか、シオンは不快そうに目を細める。
「何を見ている」
ラズは小さく息を呑んだ。それでも、視線は逸らさない。
「見るよ。シオンのこと」
シオンの眉間に皺が寄る。
「見る価値などない」
「価値があるから見るんじゃないよ」
「俺が怖いんじゃなかったのか」
「うん。怖いよ」
ラズは正直に頷いた。
「でも——」
板状の道具を胸に抱えたまま、静かに続ける。
「あなたの隣にいるなら、見ないふりはしたくない」
シオンは苛立ったように舌打ちした。だが、それ以上は言い返さない。
ラズの真っ直ぐさに、シオンが折れる。この旅の中で、何度も繰り返されてきた形だった。
「……好きにしろ」
いつもの諦めたような拒絶の言葉に、ラズは頷いた。
「うん。好きにする」
シオンはもう何も言わず、再び歩き出した。
◇
その夜。二人はアルミナからさらに距離を取り、森の奥にある廃れた狩猟小屋へ身を寄せた。
かつて猟師が使っていたものらしい。壁の一部は崩れ、屋根にも穴が空いている。床板は軋み、隅には古い獣の骨が転がっていた。それでも、外で夜を明かすよりはましだった。
シオンは入口近くへ腰を下ろし、外の気配を探っている。
ラズは小屋の奥で布を広げ、その上に例の板状の道具を置いた。
「これ、動かせるかな」
「知らん」
「たぶん、魔導具とは違うんだよね」
「そういうものには疎い。俺に聞くな」
「シオンは、魔導具のことはあんまり知らないの?」
「使う機会がない」
当然と言えば当然だった。シオンはほとんど野宿で旅をしている。荷物は最低限しか持たない。灯りを必要とすることも少なく、火を起こす道具も、水を浄化する道具も、護身用の道具も必要としない。傷を負っても、すぐに再生する。そもそも、刃すら通さない彼の身体は、傷を負うことがほとんどない。
彼にとって魔導具は、便利な生活道具ではなく、町の人間が使う遠いものなのだろう。
「昔も、魔導具は使わなかったの?」
村で普通に人間として暮らしていた頃のシオンなら、魔導具と縁のある暮らしだったのではないか。そう思い、ラズはシオンに尋ねた。
シオンの瞳が僅かに伏せられる。何かを思い出し、そして微かな痛みを感じているときの表情だった。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「俺がいたのは辺境の村だ。そういったところには、まだ魔導具はあまり普及していなかった」
故郷の村にもあまり魔導具はなかったらしい。
市場で見たときも、魔導具はそれなりに値の張るものだった。田舎で慎ましく暮らす村人にとっては、手が届かないのも無理はないのかもしれない。
「そうなんだ」
ラズは頷く。
ラズ自身も、魔導具に詳しいわけではなかった。
アルミナでは人々が当たり前のように使っていたというのに、自分たちはほとんど扱ったことがない。
「変なの」
思わずそんな言葉が漏れ出た。
ラズは板を覗き込む。
「魔導具の町から持ってきたのに、使い方も分からないなんて」
「分からないなら捨てろ」
「捨てない」
ラズは即答した。
シオンは小さく息を吐き、視線を外へ戻す。
ラズは中央に埋め込まれた白い石へ指を伸ばした。
魔核ではない。魔核特有の濁った気配も、魔物の残滓も感じない。けれど、完全に空っぽでもなかった。
触れた瞬間、指先の奥で、何かが静かに震えた。
「……あれ?」
ラズは目を細める。
アルミナの地下施設で扉の結界を解除した時と同じように、指先が自然と力の流れを探り始める。
だが、その板はラズの魔力には反応しなかった。
火を灯す時の魔力。結界を張る時の魔力。治癒術を使う時の魔力。それらとは違う場所へ、板の中の術式が触れてくる。
ラズの内側。もっと深いところ。魔力より冷たく、澄んでいて、硬質で、光のようでありながら、熱を持たない力。名前は分からない。知識として知っているわけではない。それでも、板状の道具は、その力に反応していた。
中央の白い石が、淡く光る。
ラズの中から、ほんの僅かに何かが吸い上げられる感覚があった。痛みはない。ただ、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「動くかも」
ラズが呟く。
シオンは最初、興味がなさそうに外を見ていた。だが、板から淡い白い光が広がった瞬間、その視線が鋭く動いた。
「お前、何をした」
「分からない。でも、反応してる」
板の表面を、白い線が走っていく。細く刻まれていた紋様が一つずつ光を帯び、絡み合い、複雑な円を描いた。
小屋の中の空気が変わる。
焚き火の熱とは違う。魔力の揺らぎとも違う。静かで、澄んだ圧力が、狭い空間を満たしていく。
シオンの表情が変わった。
外を見ていたはずの目が、完全に板へ向けられている。
「これは……」
低く、警戒を含んだ声だった。
ラズは板から手を離そうとした。だが、もう光は止まらなかった。
中央の白い石が強く輝き、板の上へ小さな光の粒が浮かび上がる。それらは空中で集まり、薄い幕のようなものを作った。
揺らめく光の中に、景色が映り始める。そこに現れたのは、見知らぬ空だった。
ラズの知っている空とはどこか違う。この星の空にいつも横たわる、白い帯は存在した。この星の空であることには違いないのだろう。しかし、今の空とはどこかが違う。そんな気がした。
ラズは息を呑む。
シオンも黙って、その光景を見つめていた。
やがて、記録板から、ひどく静かな声が流れ始めた。




