幕間─復讐のための武器
アルミナを脱出した後、シオンとラズは追っ手を撒くため、しばらく休むことなく森の中を進み続けた。
夜はすっかり更けていた。木々の枝葉が頭上を覆い、月明かりはほとんど届かない。足元は暗く、湿った土が靴裏へまとわりつく。
それでも、二人は止まらなかった。背後から追ってくる人の気配が、完全に遠ざかるまでは。
◇
やがて森の奥に、古い狩猟小屋を見つけた。屋根の一部は沈み、壁板の隙間から冷たい風が入り込んでいる。扉は傾き、床のあちこちには埃と落ち葉が溜まっていた。まともな寝床と呼べるものはない。それでも、雨露をしのげるだけで十分だった。
二人にとって、こうした廃屋で夜を明かすことは、すでに珍しいことではなくなっている。
ラズは床へ布を広げ、その上に横になった。瞼を閉じる。だが、眠りはすぐには訪れなかった。
アルミナで見たものが、今も目の奥に焼きついている。
人ではないものへ変えられた実験体。それを殺していくシオン。血に濡れた地下施設。
そして、シオンの精神世界で見た、拘束台へ縛りつけられた黒髪の少年。赤黒い石が胸の奥へ沈んでいく瞬間。苦痛に絶叫しながら、髪から色が失われ、青かった瞳が紫へ変わっていく光景。
あれが、シオンの始まりだった。人間だった少年が、無理やり今の姿へ作り変えられていく瞬間だった。
忘れられるはずがなかった。
◇
どれほど眠っていたのかは分からない。ラズが目を開けた時、小屋の中は静まり返っていた。
焚き火はほとんど消えている。熾火だけが、灰の中で赤く小さく光っていた。
「……シオン?」
小さく呼ぶが、返事はない。
いつもなら、壁際に彼の姿があるはずだった。眠ることのできないシオンは、ラズが目を覚ますと、大抵は眠る前と同じ場所で夜明けを待っている。
だが、今はそこにいない。
ラズはゆっくりと身体を起こした。胸の奥に、小さな不安が生まれる。
危険が迫っているなら、シオンが何も告げずに離れるとは思えない。魔物を狩りに出たのだろうか。それとも、どこかで魔物の肉を喰らっているのか。そう考えかけたが、なぜか違う気がした。
以前は追うなと言われた。今回も追うべきなのかとラズは逡巡する。
しばらく迷った後、ラズは布を肩へかけ、小屋の外へ出た。
夜の森は冷えていた。葉の隙間から差し込む月光が、地面に薄い斑模様を作っている。
少し歩くと、川の音が聞こえた。
耳を澄ませると、流れる水音に混じり、ばしゃばしゃと水が跳ねる音がする。
自然の音ではない。誰かが、水を使っている音だった。
ラズはその方角へ向かった。
◇
木々を抜けると、暗い川面が現れた。流れは緩やかで、月光が細く揺れている。
岸辺の岩には、黒い上着やシャツ、革手袋が広げられていた。洗われたばかりらしく、布の端から水が滴っている。
その先に、シオンがいた。川の浅い場所に立ち、濡れた銀白の髪を背へ垂らしている。上半身には、何も身につけていなかった。
ラズは足を止めた。
最初に抱いたのは、驚きですらなかった。
——理解できない。そう思った。
普段のシオンは、全身を黒い衣服で覆っている。何枚もの布を重ね、その上から毛皮付きの外套を羽織っていた。それでも体格が良いことは分かっていた。背も高く、肩幅も広い。肩口に纏った毛皮で、肩幅はさらに広く見えていた。だが、それ以上のことは、厚い衣服に隠されて見えなかった。
それ故に。その下にあるものを、ラズは初めて見た。
シオンの肉体は、人間の身体と呼ぶにはあまりにも異質だった。
肩は異様なほど大きく張り出し、首の両側には分厚い筋肉が隆起している。胸は岩塊を積み重ねたように厚い。腕はラズの胴よりも遥かに太く、力を入れている様子もないのに、筋肉が常に張り詰めているように見えた。腹部に柔らかさはない。一つ一つの筋肉が硬質な塊として噛み合い、より大きな力を生むという目的だけのために、異常な密度で配置されている。
それは鍛え上げた戦士の身体ではなかった。訓練を重ね、少しずつ作られた肉体には、動きに必要な靱やかさがある。
シオンの身体には、それがない。
過剰だった。
人間が持つ必要のない量の筋肉。本来の骨格では支えられないはずの重さ。より強い力を生み出し、その衝撃へ耐えることだけを目的として、肉と骨を無理やり積み増したような形。人間の身体を土台にしながら、人間であることを無視して作り変えられた器だった。
細く整った顔だけが、その肉体から切り離されたように見える。
濡れた肌が、月明かりを反射していた。何も身につけていないはずの上半身は、普段衣服を身につけている時よりも寧ろ大きく見える。
その表面には、細い筋が幾重にも走っている。特に左胸。そこを中心として、赤黒い亀裂のような模様が肩や腹部へ薄く伸びていた。
傷痕とも血管とも違う。まるで皮膚の下に埋まった何かが、内側から身体を割ろうとしているようだった。
「……シオン」
名前を呼んだ瞬間、彼の顔が上がった。紫色の右目と、赤い左目。二色の瞳がラズを捉える。
一瞬だけその顔に驚きが滲んだ。しかし、それはすぐに苛立ちへ変わる。
「見るな」
低い声だった。
シオンは岸辺へ置いた衣服を取ろうとした。だが、洗ったばかりの服はまだ濡れている。すぐに身につけられる状態ではなかった。
彼は代わりに、身体を僅かに背ける。巨大な筋肉の塊がひしめき合うように配置された、分厚い背中がラズに向けられた。
「戻れ」
「でも——」
「戻れ」
同じ言葉が、先ほどより強く繰り返された。
それでも、ラズは動かなかった。シオンの眉間に、深い皺が刻まれる。
「聞こえなかったのか」
「聞こえたよ」
「なら戻れ」
「嫌」
川の音だけが、二人の間を流れた。
シオンは明らかに不機嫌だった。けれど、ラズを力ずくで追い返そうとはしない。
それを知っているから、ラズも退かなかった。
「アルミナで……あなたの心の中で見た」
シオンの眉が僅かに動く。
「あなたにケイオスが埋め込まれた時のこと」
ラズはゆっくりと言葉を選ぶ。
「身体が変わっていくところも」
「……そうか」
「でも、あの時は、ここまでじゃなかった」
実験台の上にいたシオンも、すでに普通の少年とは違う身体へ変えられつつあった。胸や腕は膨れ、赤黒い亀裂が走り、白い拘束が食い込んでいた。
それでも、今、目の前にある肉体とは比べものにならない。あれは、変化の始まりにすぎなかったのだ。
「その後も、変わったんだよね」
シオンは答えない。
「どうして、こんな身体になったの?」
「お前には関係ない」
「あるよ」
「ない」
「わたしは、あなたと一緒にいる」
シオンの視線が冷たく細められた。
それでも、ラズは続ける。
「これからも隣を歩くなら、知らないままではいたくない」
「知ってどうする」
「分からない」
正直に答えた。
「だけど、知らなければ何もできない」
シオンはしばらく黙っていた。やがて、諦めたように川面へ視線を落とす。
「力を使った結果だ」
「ケイオスの?」
「ああ」
短い返事だった。
「ケイオスの力を引き出せば、身体に負荷がかかる」
シオンは自分の腕へ目を向けた。
「耐えきれない部分は壊れる」
「壊れるって……」
「筋肉が肥大し、それに耐えきれず皮膚が裂ける」
あまりにも平坦な声だった。
「骨が砕ける。内臓が潰れることもある」
ラズの背筋が凍った。想像するだけで、呼吸が詰まりそうになる。
それほどの痛みを、それほどの損傷を。シオンは、壊れた道具の状態でも説明するように淡々と語っている。
「だが、死なない」
その一言に、ラズは息を詰めた。
「壊れた箇所は、ケイオスが修復する」
水滴が、異様に盛り上がった筋肉の谷間を伝って落ちる。
「そのたびに、同じ力では壊れない形へ作り替えられる」
「作り替えられる……」
「力を使う。壊れる。直る。その繰り返しだ」
シオンは静かに言った。
「ずっと……?」
「実験の後からな」
ラズは何も言えなかった。
あの白い部屋で始まった変化は、そこで終わったわけではなかった。シオンが力を使うたび、身体は壊れ、ケイオスに直され、次は同じ出力へ耐えられるよう、さらに人間から遠ざけられていった。
「あなたが望んで手に入れた力じゃないのに」
その言葉に、シオンの瞳が僅かに動いた。
「関係ない」
「関係あるよ」
「俺はこの力でリゼたちを殺した」
シオンの声が冷える。
「そして今も、復讐のためにこの力を引き出している」
一度、間を置く。
「これは俺の意思だ」
「……それでも」
ラズの声は震えていた。
「最初に、何も選べないまま壊されたのは、酷いと思う」
鍛え上げた強さではない。努力の成果でもない。本人が望んだ姿でもない。壊され続けた結果として作られた身体。より強い力に耐え、さらに大きな破壊を生み出すためだけに、ケイオスによって改造され続けた器。
それを酷いと言わずに、何と言えばよいのか分からなかった。
けれど、シオンは何の感情も見せない。
「これがなければ、デウスは殺せない」
「だからって……」
「必要なものだ」
短い言葉だった。
その言葉は、自分に言い聞かせているようには聞こえなかった。心から、そう思っている声だった。
ラズには分かった。
シオンは、自分の身体を自分のものだと思っていない。痛みを感じる肉でも、守るべき命でもない。
復讐を遂げるための武器。拳を振るい続けるための道具。壊れれば、また使えるようになるまで修復される器。それ以上の価値を、シオン自身が認めていない。
「今は——」
ラズは、言葉を慎重に選んだ。
「今の身体なら、どれくらいの力まで耐えられるの?」
シオンが訝しげにラズを見る。
「なぜ聞く」
「知っておきたいから」
「何のために」
「あなたが壊れそうな時、止めるために」
シオンの瞳が、はっきりと冷たくなった。
「余計なことをするな」
「余計じゃない」
「お前に止められるものではない」
「それでも知りたい」
「知ったところで変わらない」
「わたしが変える」
ラズが言い切ると、シオンは黙った。
怒鳴りはしない。ただ、理解できないものを見るような目で、彼女を見つめている。
やがて、深く息を吐いた。
「……山を一つ吹き飛ばしでもすれば、耐えきれない部分が出るだろうな」
ラズは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「山を……一つ?」
「完全に消し飛ばすならな」
規模が違いすぎた。
ラズが想像していたのは、大きな岩を砕くとか、建物を壊すとか、その程度だった。
だが、シオンにとって身体が壊れるほどの出力とは、そういうものではない。大地そのものを破壊し、地形を変えるほどの力を引き出した時、ようやく今の身体でも耐えられない部分が多少は出てくる。そういう話だった。
「普段の戦いでは、壊れないの?」
「人間や魔物を相手に、そこまで力を引き出す必要はない」
「結界を壊したりしても?」
「人が作ったものだろう。問題にならない」
シオンは淡々と答える。
アルミナで、ラズは数多くの武器や魔法を見た。実験施設を守る結界。聖騎士が振るっていた剣。神官が放った魔法。攻撃用の魔導具。そのどれもが、シオンには大した障害にならなかった。
「他には?」
ラズが尋ねる。
シオンは僅かに視線を逸らした。
「デウスの攻撃なら、今の身体でも耐えられない可能性がある」
「……デウスの」
「あれの力は、人間のものとは違う」
声には憎悪が混じっていた。シオンは自分の拳を見る。
「それと、デウスを殺せるだけの力を引き出した時もだ」
ラズの胸が冷たくなる。
「耐えられないの?」
「今の身体ではな」
シオンは、何の迷いもなく言う。
「それだけの力を引き出せば、恐らく俺は死ぬ」
「それでも使うつもりなの?」
「そのために生きている」
即答だった。
ラズはシオンを見つめた。
月明かりの中に立つ肉体は、どんな人間よりも強靱に見える。剣も、魔法も、魔導具の攻撃も通さない。山を滅ぼすほどの力にも、ある程度は耐えられる。
それなのにシオンは、その身体が壊れることを前提としていた。デウスを殺せるのなら、腕が裂けても、骨が砕けても、内臓が潰れても、そのまま死に至っても、構わないと思っている。
「まだ、足りない」
シオンは拳を握った。それだけで、腕の筋肉がはち切れそうなほど激しく隆起する。
「奴を殺すには、もっと力を引き出さなければならない」
デウスを殺せるだけの力を得る。それは、シオンの復讐に必要な条件だった。それと同時に、シオン自身を死へ近づけるものでもある。
「そんなの……」
ラズは言葉を続けられなかった。
「戻れ」
シオンは、もう一度同じ言葉を口にした。先ほどよりも、少しだけ声が弱かった気がした。
ラズは俯く。
「あなたが壊れるのは、嫌だよ」
「お前が嫌かどうかは関係ない」
「わたしには関係ある」
シオンは答えなかった。
川から上がり、捲り上げていたズボンの裾を下ろす。靴を履き、岸辺の岩に置いていた布を取った。まだ完全には乾いていない。それでも構わず、袖を通す。
まず、薄い黒のシャツ。その上から、身体の線を拾わないゆったりとした上着。最後に、毛皮付きの外套を肩へ掛けた。
布が重なるたび、異様な肉体は見えなくなっていく。張り出していた肩も、岩のような胸も、腕の太さも、赤黒い亀裂も。すべてが黒い衣服の下へ隠れた。外套まで身につけると、そこにいるのは少し体格の良い青年にしか見えない。つい先ほどまで川の中に立っていたものと、同じ存在だとは思えなかった。
ラズは、ようやく理解した。
シオンがいつも身につけている服は、単に寒さを防ぐためのものではない。人目を避けるためだけでもない。シオンが、自分の身体を隠すために選んだものなのだ。誰にも見られないように。誰にも問われないように。他者に恐怖すら抱かせるその肉体を、曝け出さないために。
「帰るぞ」
シオンはラズの横を通り過ぎた。
その背中は、いつもと変わらない。大きな外套の下に、壊され、作り替えられ続けた身体があることなど、もうどこからも分からなかった。
ラズはその背を追う。少しだけ、距離を縮めた。
「シオン」
「何だ」
「さっき言ったこと、覚えておくから」
「忘れろ」
「忘れない」
「勝手にしろ」
冷たい返事だった。
それでも、歩く速度はラズを置き去りにするほど速くはならなかった。
森の中へ戻りながら、ラズは外套に覆われた背中を見つめ続けた。
あの身体を、シオンは復讐のための武器としか思っていない。ならば、自分だけでも覚えていようと思った。それは、壊れても構わない道具ではない。復讐のために捨てて良い武器でもない。どれほど異質な形へ変えられていても、あれは、シオンが今も人間として生きている身体なのだと。




