↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
27/79

赦さないまま

 ラズは、地下施設の床へ倒れ込んだ。


「……っ、げほっ……!」


 冷たい石床。鼻を刺す血と薬品の臭い。割れた水槽。床へ広がった液体。動かなくなった実験体たち。漂う、濃い死臭。

 ここは現実だった。


 ラズは激しく咳き込む。

 身体には傷はない。けれど、心だけが、まだあの血の世界へ取り残されているようだった。


「ラズ」


 頭上から声がして、ラズは顔を上げる。

 シオンが立っていた。

 実験体たちは、すでにすべて動かなくなっており、部屋の中もあちこちに亀裂が走っている。

 精神世界に入る前は、シオンはほぼ半狂乱と言っていい状態に陥っていたが、心の中に入ったことが影響しているのか、今は少し落ち着いたようだ。


 彼の黒い衣服は血を吸い、さらに暗い色へ変わっていた。銀白の髪にも、赤い飛沫が付着している。

 紫色の右目と、赤色の左目が、ラズを見下ろしている。

 今までは、それがシオンという人間の容姿なのだと思っていた。目立つ髪に、珍しい瞳。そういうものなのだと。

 だが、もう以前と同じようには見えなかった。

 黒かった髪が、痛みの中で色を失っていくところを見た。青かった両目が、赤黒い力に侵され、紫へ変わっていくところを見た。

 今のシオンの姿は、彼が生まれ持ったものではない。デウスに身体を作り変えられた痕跡だった。


 シオンは、呆然と自分を見つめるラズへ眉を寄せた。


「お前、何をした」


 懐疑が滲んだ低い声だった。


 ラズは、すぐに答えることができなかった。自分が見たものを、どう説明すれば良いのか分からない。


「……シオンの中に、入ったみたい」


 少しの沈黙の後、ようやく言葉を絞り出す。

 その言葉を聞いたシオンの眉間に皺が寄った。


「何?」


「心の中……だと思う」


 ラズは床へ手をつき、ゆっくりと身体を起こした。


「そこで、記憶を見た」


 シオンの表情が変わった。


「俺の記憶を?」


 ラズは小さく頷く。


「何を見た」


 短い問い。だが、その声は、先ほどまでよりさらに冷たくなっていた。


 ラズは一瞬迷いつつも、その言葉を口にした。


「あなたは……操られていたんでしょう」


 沈黙が落ちた。

 壊れた魔導灯が、遠くで小さく火花を散らす。ぱち、ぱちという乾いた音だけが響く。


 シオンは、ちっとも救われたような顔をしなかった。驚きもしない。ただ、瞳からは温度が失われていくだけだった。


「だから何だ」


 言葉に詰まったラズに、シオンは続ける。


「操られていたなら、殺したことが消えるのか」


「そういうことじゃ——」


「殺された者の痛みが消えるのか。苦しみが消えるのか」


 静かな声だった。

 シオンは、自分の血に濡れた手を見る。


「俺の手で命を奪ったという事実が、なくなるのか」


 ラズは答えられない。


「デウスは俺を操った。俺の身体を使って、リゼたちを殺した。だから、デウスも殺した側だ」


 シオンは、そこで一度言葉を切り、拳を握った。実験体を屠ったばかりの黒い手袋から血が滴る。


「だが、直接殺したのは、この手だ」


 シオンは自分の拳を見る。


「俺が殺した。それだけで十分だ」


 その声は、あまりにも静かだった。


 ラズは、ようやく少しだけ、分かった気がした。シオンがこれまで、操られていたことを語らなかった理由を。

 真実を隠したかったからではない。それを口にすれば、自分には仕方がなかったと、自分も被害者だったと、そう言えてしまうからだ。同情される余地が生まれる。自分を庇う言葉になってしまう。

 シオンは、それを望んでいない。自分を赦さないために、自分を責め続けるために。一番重い言葉だけを選び続けている。

 ——俺が殺した。

 その一言で、彼は自分自身を縛っている。


 ラズは、ふらつきながら立ち上がった。足が震える。それでも、シオンから目を逸らさなかった。


「……それでも、全部を一人で背負うのは違うと思う」


 シオンの目が鋭くなる。射抜くような視線が、ラズへ向けられた。


「お前に何が分かる」


 身体が竦みそうになる。

 ここはきっと、シオンが最も触れられたくない場所だ。安易に踏み込んではいけないのかもしれない。

 それでも、逃げなかった。ここで何も言わなければ、シオンはこれからも自分を呪い、罰し、デウスを殺した後は自分も死のうとする。


「まだ、全部は分からない。分かったなんて言えない」


 ラズは素直に答える。嘘はつかなかった。


「でも、見た」


 シオンは黙ったままラズの言葉を聞いていた。


「あなたが止めようとしてたこと。逃げろって叫んでたこと。それでも身体が動いてたこと」


「……」


 シオンの表情は変わらない。


「それから——」


 ラズは一度息を吸った。


「ケイオスにも会った」


 その瞬間、シオンの瞳が僅かに揺れた。


「……あいつと会ったのか」


「あなたの中で」


「何を話した」


 ラズは思い出しながら言葉を紡ぐ。


「あなたが怒って、憎んで、復讐して。そうやって、もっとケイオスに近づくのを待ってるって」


 シオンは何も言わない。


「デウスを殺す頃には、良い器になるって」


 ラズは震える手を握りしめた。


「あなたが少しずつ侵されて、最後には、シオンという人間が消えるのを見てろって言われた」


 シオンの目は、驚くほど静かだった。


「それだけか」


 ラズは目を見開く。


「それだけって……」


「そんなことは、とっくに分かっている」


「え?」


 シオンは自分の左胸へ手を当てた。


「あいつが俺を利用していることくらい、昔から分かっている」


「だったら、どうして——」


「利用すればいい」


 シオンはラズの言葉を遮り、自身の左胸を強く掴んだ。


「ケイオスの力で、デウスを殺す。実験に関わった者も殺す」


 そして。


「最後に、俺も死ぬ」


 何の迷いもなく、そう言った。


「それができるなら、何も問題はない」


「問題あるよ」


「ない」


「ある」


「俺が消えれば、それで終わる」


 シオンは淡々と言う。


「死者も、それを望んでいる」


 その言葉に、ラズは眉を寄せた。

 記憶の中で、リゼや両親の声を聞いた。しかし、彼らはシオンに死ねなどと一言も言わなかった。断片的に見ただけに過ぎないが、彼らがそんな言葉を言うような人物には見えなかった。

 シオンが聞いているのはきっと、死者の姿を借りた、シオン自身の声だ。

 ケイオスも言っていた。シオンは死者の声を勝手に作り、自分自身を死へ追い立てると。


「それって……本物のリゼたちの声じゃないんだよね?」


 その問いに対して返ってきたシオンの答えは、ラズの予想に反して淡々としたものだった。


「ああ。分かっている」


 ラズは目を見開いた。


「分かっているのに、どうして——」


「本物かどうかなど、関係ない」


 ラズの言葉を遮るように、シオンが口を開いた。その言葉は、ラズには理解し難いものだった。


「……え?」


「あいつらは俺に、恨み言を残す時間すらないまま死んだ。俺が奪った」


 シオンは淡々と言葉を続ける。そこには、恐ろしいほどに何の感情も籠っていなかった。まるで、至極当然のことを語るように。


「なら、あいつらが言えなかった言葉を忘れないために、俺が聞き続ければいい」


 ——歪んでいる。そう思った。

 シオンは幻を本物だと思い込んでいるわけではない。幻を幻だと理解した上で、自分への刑罰として意図的に幻に自責の言葉を吐かせている。

 ラズの眉間の皺が深くなる。


「本物の言葉じゃないと分かっているのに、死ぬの?」


「ああ」


「……それでも、ただあなたが死ぬのと、ケイオスにあなたの身体を渡すのは同じじゃない」


 ラズは退かなかった。

 シオンは冷たく答える。


「ただ死ぬにしろ、身体を奪われるにしろ、俺が消えるなら同じことだ」


「同じじゃない!」


 ラズの声が、地下室へ響いた。普段の彼女からは考えにくいほど、大きな声だった。

 シオンの目が僅かに見開かれる。

 ラズ自身も、身体が震えていた。身体だけではない。声も、手も、頼りなく震えている。

 ——怖い。それでも、引かない。


 ラズは一歩近づく。


「あなたが消えた後、ケイオスが、あなたの身体で誰かを殺したら?」


 シオンは黙る。


「それでも、同じなの?」


「……」


「あなたは、自分の身体でリゼを殺したことを、ずっと悔やんでるんでしょう」


 ラズの声が震えた。

 シオンの瞳が揺れる。


「なのに、今度は自分から、その身体をケイオスに渡すの?」


 ラズはさらに言う。


「それでまた誰かが殺されても、自分はもういないから関係ないって。本当に、そう言えるの?」


 長い沈黙が訪れる。

 ほんの一瞬、シオンの視線が、僅かに揺れた。それをラズは見逃さなかった。


「それは違うよ」


 シオンの唇が僅かに動く。

 だが、すぐに低い拒絶の声が落ちた。


「……黙れ」


「嫌」


「黙れと言っている」


「嫌だって言ってるの」


 ラズは真っ直ぐに、シオンを見る。その澄んだ碧色の瞳には、強い光があった。

 シオンが、ずっと昔に失ってしまったもの。自分の未来を、まだ決めつけずに見ようとする光。


「わたしは、あなたのことを、まだ全部知らない」


「……」


「全部分かったなんて言わない。でも——」


 声を強くする。


「あなたが消えるべきっていうことだけは、違うと思う」


 シオンは怒鳴らなかった。しばらくラズを見ていたが、やがて顔を逸らす。


「……勝手にしろ」


 ラズは、小さく息を吐いた。

 それは何度も聞いた言葉だった。突き放すための言葉。それでも、完全には拒絶しきれない時に、シオンが口にする言葉。

 その言葉に、ラズは静かに頷いた。


「うん。勝手にする」


 その時、遠くでけたたましい音が鳴り始めた。

 警報だった。赤い魔導灯が一斉に点灯し、地下通路を不規則な光で染める。

 神官や研究員たちの叫び声。扉が開け放たれる音。重い足音。聖騎士たちが地下へ集まり始めている。


 シオンは、血に濡れた拳を下ろした。腕を振り、付着していた血を床へ飛ばす。


「出るぞ」


「うん」


 ラズも頷いた。

 部屋を出ようとした、その時。

 足元に散らばる器具の中に、一つだけ違和感のあるものを見つけた。


「待って」


 ラズは屈み込む。

 目に留まったのは、神殿の紋章が刻まれた、小さな板状の器具。魔導具にも見える。だが、見たところ魔核が使われていない。術式らしき細い線は刻まれているものの、ラズが市場で見た魔導具とは構造が違っていた。表面には、いくつもの小さな記号が浮かんでいる。


「何をしている」


 シオンが振り返る。


「これ」


 ラズは板を持ち上げた。


「何か記録する道具かもしれない」


「捨てろ」


「どうして?」


「こんな場所で使われていた物など、持ち歩く価値がない」


 シオンは冷たく吐き捨てる。

 ラズは板へ目を落とす。


「でも、デウスのことが記録されてるかもしれない」


 シオンは黙り込む。


「この施設が何をしてたのか、どこから命令が来てたのか、デウスがどこにいるのか。何か、手がかりになるかもしれない」


 沈黙が訪れる。

 シオンは明らかに不満そうだった。だが、シオンはデウスへ繋がる可能性を捨てろと言うことはできない。


「……勝手にしろ」


 ラズは僅かに笑った。


「うん。持っていく」


 記録板を布で包み、荷物の中に入れる。


「足手まといにはなるな」


「できるだけならないようにする」


「できるだけではなく、なるな」


「努力する」


「……今すぐ捨てたくなってきた」


 ラズは慌てて記録板の入った荷物を抱え込んだ。


「捨てちゃ駄目」


 シオンの力ならば、捨てようと思えばラズから記録板を無理やり取り上げ、破壊できただろう。しかし、シオンはそれをしなかった。

 代わりに深く息を吐き、そのまま部屋を出た。



 地下通路には、既に聖騎士たちが集まり始めていた。


「いたぞ!」


「シオンだ!」


「拘束しろ!」


「生け捕りにせよ!」


 白い鎧を纏った聖騎士たちが、一斉に剣を抜く。その後方では、魔法が使える神官が魔法陣を展開し、魔法を使えない神官は魔導具を構えている。

 多勢に無勢。八方塞がり。しかし、シオンは歩みを止めなかった。


「ラズ」


「何?」


「下がっていろ」


 次の瞬間、聖騎士の一人が踏み込んだ。剣が振り下ろされる。しかし、シオンはそれを避けもしなかった。刃が肩へ当たり、ガキンという甲高い金属音が響く。どう考えても人の皮膚を斬った時に鳴る音ではない。

 次の瞬間、シオンの傍には、折れた剣の切っ先が地面に突き刺さっていた。攻撃を受けたシオンの肩ではなく、剣の方が折れたのだ。


「な——」


 驚く暇すら与えられず、シオンの拳が、騎士の鎧ごと胸部を打ち抜いた。身体が後方へ大きく吹き飛ぶ。


 別の神官が魔法を放つ。炎が通路を満たした。だが、その中から、シオンが何事もなかったように歩いてくる。


「ひっ……」


 一人、また一人。シオンは、道を塞ぐ者を倒していく。

 全く攻撃が通用しないシオンの姿を見て、恐怖のあまり逃げ出す者もいた。シオンは逃げた者は追わず、立ち向かってくる者や進路を塞ぐ者に拳を振るった。


 ラズは、その光景からできるだけ目を逸らさなかった。

 怖い。血を見るのも、人間が壊れるところを見るのも。決して慣れたくはない。それでも、見なければならないと思った。

 シオンが何をしているのか。何を背負っているのか。何を考えているのか。そして、今もなお、何を選び続けているのか。それを知らないまま、ただ「隣にいる」と言うのは違う。ラズはそう思った。



 二人が地上へ出た時、研究棟の一部から、炎が上がっていた。地下で起きた破壊が魔導具や研究設備へ波及したのだろう。窓から煙が噴き出し、白い壁を赤い炎が舐めている。

 周囲では、街の人々が騒ぎ始めていた。


「火事だ!」


「研究棟が燃えているぞ!」


「神殿兵を呼べ!」


「魔物でも入り込んだのか?」


「デウス様!」


 誰かが祈る。


「どうか、お守りください!」


「嗚呼、デウス様!」


「神よ!」


 人々は、何も知らないまま、まだ神の名を呼んでいる。

 シオンは、その声を聞きながら、燃える研究棟を見つめていた。怒り、悲しみ、憎しみ。そのどれか一つでは表せないほどもっと深く、長く積もった何かが、その横顔に沈んでいる。

 ラズは、何も言わなかった。


 まだ追っ手の気配がある。遠くから、複数の足音が近づいてくる。

 シオンが炎へ背を向けた。


「行くぞ」


 ラズは、髪に留めた青い星へ一度だけ触れた。


「うん」


 二人は走り出す。

 混乱に包まれ、神の名を呼ぶ声と、燃え上がる研究棟を背に、魔導具研究都市アルミナを後にした。

第一章と比べると短めでしたが、これにて第二章のアルミナ編が終了となります。

一話だけ幕間を挟んだ後、次の話に移る予定です。ここから物語がどんどん進んでいきますので、お付き合いいただけますと幸いです。

よろしければ、感想、評価、ブクマ、リアクションなどいただけますと励みになります。よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。