赦さないまま
ラズは、地下施設の床へ倒れ込んだ。
「……っ、げほっ……!」
冷たい石床。鼻を刺す血と薬品の臭い。割れた水槽。床へ広がった液体。動かなくなった実験体たち。漂う、濃い死臭。
ここは現実だった。
ラズは激しく咳き込む。
身体には傷はない。けれど、心だけが、まだあの血の世界へ取り残されているようだった。
「ラズ」
頭上から声がして、ラズは顔を上げる。
シオンが立っていた。
実験体たちは、すでにすべて動かなくなっており、部屋の中もあちこちに亀裂が走っている。
精神世界に入る前は、シオンはほぼ半狂乱と言っていい状態に陥っていたが、心の中に入ったことが影響しているのか、今は少し落ち着いたようだ。
彼の黒い衣服は血を吸い、さらに暗い色へ変わっていた。銀白の髪にも、赤い飛沫が付着している。
紫色の右目と、赤色の左目が、ラズを見下ろしている。
今までは、それがシオンという人間の容姿なのだと思っていた。目立つ髪に、珍しい瞳。そういうものなのだと。
だが、もう以前と同じようには見えなかった。
黒かった髪が、痛みの中で色を失っていくところを見た。青かった両目が、赤黒い力に侵され、紫へ変わっていくところを見た。
今のシオンの姿は、彼が生まれ持ったものではない。デウスに身体を作り変えられた痕跡だった。
シオンは、呆然と自分を見つめるラズへ眉を寄せた。
「お前、何をした」
懐疑が滲んだ低い声だった。
ラズは、すぐに答えることができなかった。自分が見たものを、どう説明すれば良いのか分からない。
「……シオンの中に、入ったみたい」
少しの沈黙の後、ようやく言葉を絞り出す。
その言葉を聞いたシオンの眉間に皺が寄った。
「何?」
「心の中……だと思う」
ラズは床へ手をつき、ゆっくりと身体を起こした。
「そこで、記憶を見た」
シオンの表情が変わった。
「俺の記憶を?」
ラズは小さく頷く。
「何を見た」
短い問い。だが、その声は、先ほどまでよりさらに冷たくなっていた。
ラズは一瞬迷いつつも、その言葉を口にした。
「あなたは……操られていたんでしょう」
沈黙が落ちた。
壊れた魔導灯が、遠くで小さく火花を散らす。ぱち、ぱちという乾いた音だけが響く。
シオンは、ちっとも救われたような顔をしなかった。驚きもしない。ただ、瞳からは温度が失われていくだけだった。
「だから何だ」
言葉に詰まったラズに、シオンは続ける。
「操られていたなら、殺したことが消えるのか」
「そういうことじゃ——」
「殺された者の痛みが消えるのか。苦しみが消えるのか」
静かな声だった。
シオンは、自分の血に濡れた手を見る。
「俺の手で命を奪ったという事実が、なくなるのか」
ラズは答えられない。
「デウスは俺を操った。俺の身体を使って、リゼたちを殺した。だから、デウスも殺した側だ」
シオンは、そこで一度言葉を切り、拳を握った。実験体を屠ったばかりの黒い手袋から血が滴る。
「だが、直接殺したのは、この手だ」
シオンは自分の拳を見る。
「俺が殺した。それだけで十分だ」
その声は、あまりにも静かだった。
ラズは、ようやく少しだけ、分かった気がした。シオンがこれまで、操られていたことを語らなかった理由を。
真実を隠したかったからではない。それを口にすれば、自分には仕方がなかったと、自分も被害者だったと、そう言えてしまうからだ。同情される余地が生まれる。自分を庇う言葉になってしまう。
シオンは、それを望んでいない。自分を赦さないために、自分を責め続けるために。一番重い言葉だけを選び続けている。
——俺が殺した。
その一言で、彼は自分自身を縛っている。
ラズは、ふらつきながら立ち上がった。足が震える。それでも、シオンから目を逸らさなかった。
「……それでも、全部を一人で背負うのは違うと思う」
シオンの目が鋭くなる。射抜くような視線が、ラズへ向けられた。
「お前に何が分かる」
身体が竦みそうになる。
ここはきっと、シオンが最も触れられたくない場所だ。安易に踏み込んではいけないのかもしれない。
それでも、逃げなかった。ここで何も言わなければ、シオンはこれからも自分を呪い、罰し、デウスを殺した後は自分も死のうとする。
「まだ、全部は分からない。分かったなんて言えない」
ラズは素直に答える。嘘はつかなかった。
「でも、見た」
シオンは黙ったままラズの言葉を聞いていた。
「あなたが止めようとしてたこと。逃げろって叫んでたこと。それでも身体が動いてたこと」
「……」
シオンの表情は変わらない。
「それから——」
ラズは一度息を吸った。
「ケイオスにも会った」
その瞬間、シオンの瞳が僅かに揺れた。
「……あいつと会ったのか」
「あなたの中で」
「何を話した」
ラズは思い出しながら言葉を紡ぐ。
「あなたが怒って、憎んで、復讐して。そうやって、もっとケイオスに近づくのを待ってるって」
シオンは何も言わない。
「デウスを殺す頃には、良い器になるって」
ラズは震える手を握りしめた。
「あなたが少しずつ侵されて、最後には、シオンという人間が消えるのを見てろって言われた」
シオンの目は、驚くほど静かだった。
「それだけか」
ラズは目を見開く。
「それだけって……」
「そんなことは、とっくに分かっている」
「え?」
シオンは自分の左胸へ手を当てた。
「あいつが俺を利用していることくらい、昔から分かっている」
「だったら、どうして——」
「利用すればいい」
シオンはラズの言葉を遮り、自身の左胸を強く掴んだ。
「ケイオスの力で、デウスを殺す。実験に関わった者も殺す」
そして。
「最後に、俺も死ぬ」
何の迷いもなく、そう言った。
「それができるなら、何も問題はない」
「問題あるよ」
「ない」
「ある」
「俺が消えれば、それで終わる」
シオンは淡々と言う。
「死者も、それを望んでいる」
その言葉に、ラズは眉を寄せた。
記憶の中で、リゼや両親の声を聞いた。しかし、彼らはシオンに死ねなどと一言も言わなかった。断片的に見ただけに過ぎないが、彼らがそんな言葉を言うような人物には見えなかった。
シオンが聞いているのはきっと、死者の姿を借りた、シオン自身の声だ。
ケイオスも言っていた。シオンは死者の声を勝手に作り、自分自身を死へ追い立てると。
「それって……本物のリゼたちの声じゃないんだよね?」
その問いに対して返ってきたシオンの答えは、ラズの予想に反して淡々としたものだった。
「ああ。分かっている」
ラズは目を見開いた。
「分かっているのに、どうして——」
「本物かどうかなど、関係ない」
ラズの言葉を遮るように、シオンが口を開いた。その言葉は、ラズには理解し難いものだった。
「……え?」
「あいつらは俺に、恨み言を残す時間すらないまま死んだ。俺が奪った」
シオンは淡々と言葉を続ける。そこには、恐ろしいほどに何の感情も籠っていなかった。まるで、至極当然のことを語るように。
「なら、あいつらが言えなかった言葉を忘れないために、俺が聞き続ければいい」
——歪んでいる。そう思った。
シオンは幻を本物だと思い込んでいるわけではない。幻を幻だと理解した上で、自分への刑罰として意図的に幻に自責の言葉を吐かせている。
ラズの眉間の皺が深くなる。
「本物の言葉じゃないと分かっているのに、死ぬの?」
「ああ」
「……それでも、ただあなたが死ぬのと、ケイオスにあなたの身体を渡すのは同じじゃない」
ラズは退かなかった。
シオンは冷たく答える。
「ただ死ぬにしろ、身体を奪われるにしろ、俺が消えるなら同じことだ」
「同じじゃない!」
ラズの声が、地下室へ響いた。普段の彼女からは考えにくいほど、大きな声だった。
シオンの目が僅かに見開かれる。
ラズ自身も、身体が震えていた。身体だけではない。声も、手も、頼りなく震えている。
——怖い。それでも、引かない。
ラズは一歩近づく。
「あなたが消えた後、ケイオスが、あなたの身体で誰かを殺したら?」
シオンは黙る。
「それでも、同じなの?」
「……」
「あなたは、自分の身体でリゼを殺したことを、ずっと悔やんでるんでしょう」
ラズの声が震えた。
シオンの瞳が揺れる。
「なのに、今度は自分から、その身体をケイオスに渡すの?」
ラズはさらに言う。
「それでまた誰かが殺されても、自分はもういないから関係ないって。本当に、そう言えるの?」
長い沈黙が訪れる。
ほんの一瞬、シオンの視線が、僅かに揺れた。それをラズは見逃さなかった。
「それは違うよ」
シオンの唇が僅かに動く。
だが、すぐに低い拒絶の声が落ちた。
「……黙れ」
「嫌」
「黙れと言っている」
「嫌だって言ってるの」
ラズは真っ直ぐに、シオンを見る。その澄んだ碧色の瞳には、強い光があった。
シオンが、ずっと昔に失ってしまったもの。自分の未来を、まだ決めつけずに見ようとする光。
「わたしは、あなたのことを、まだ全部知らない」
「……」
「全部分かったなんて言わない。でも——」
声を強くする。
「あなたが消えるべきっていうことだけは、違うと思う」
シオンは怒鳴らなかった。しばらくラズを見ていたが、やがて顔を逸らす。
「……勝手にしろ」
ラズは、小さく息を吐いた。
それは何度も聞いた言葉だった。突き放すための言葉。それでも、完全には拒絶しきれない時に、シオンが口にする言葉。
その言葉に、ラズは静かに頷いた。
「うん。勝手にする」
その時、遠くでけたたましい音が鳴り始めた。
警報だった。赤い魔導灯が一斉に点灯し、地下通路を不規則な光で染める。
神官や研究員たちの叫び声。扉が開け放たれる音。重い足音。聖騎士たちが地下へ集まり始めている。
シオンは、血に濡れた拳を下ろした。腕を振り、付着していた血を床へ飛ばす。
「出るぞ」
「うん」
ラズも頷いた。
部屋を出ようとした、その時。
足元に散らばる器具の中に、一つだけ違和感のあるものを見つけた。
「待って」
ラズは屈み込む。
目に留まったのは、神殿の紋章が刻まれた、小さな板状の器具。魔導具にも見える。だが、見たところ魔核が使われていない。術式らしき細い線は刻まれているものの、ラズが市場で見た魔導具とは構造が違っていた。表面には、いくつもの小さな記号が浮かんでいる。
「何をしている」
シオンが振り返る。
「これ」
ラズは板を持ち上げた。
「何か記録する道具かもしれない」
「捨てろ」
「どうして?」
「こんな場所で使われていた物など、持ち歩く価値がない」
シオンは冷たく吐き捨てる。
ラズは板へ目を落とす。
「でも、デウスのことが記録されてるかもしれない」
シオンは黙り込む。
「この施設が何をしてたのか、どこから命令が来てたのか、デウスがどこにいるのか。何か、手がかりになるかもしれない」
沈黙が訪れる。
シオンは明らかに不満そうだった。だが、シオンはデウスへ繋がる可能性を捨てろと言うことはできない。
「……勝手にしろ」
ラズは僅かに笑った。
「うん。持っていく」
記録板を布で包み、荷物の中に入れる。
「足手まといにはなるな」
「できるだけならないようにする」
「できるだけではなく、なるな」
「努力する」
「……今すぐ捨てたくなってきた」
ラズは慌てて記録板の入った荷物を抱え込んだ。
「捨てちゃ駄目」
シオンの力ならば、捨てようと思えばラズから記録板を無理やり取り上げ、破壊できただろう。しかし、シオンはそれをしなかった。
代わりに深く息を吐き、そのまま部屋を出た。
◇
地下通路には、既に聖騎士たちが集まり始めていた。
「いたぞ!」
「シオンだ!」
「拘束しろ!」
「生け捕りにせよ!」
白い鎧を纏った聖騎士たちが、一斉に剣を抜く。その後方では、魔法が使える神官が魔法陣を展開し、魔法を使えない神官は魔導具を構えている。
多勢に無勢。八方塞がり。しかし、シオンは歩みを止めなかった。
「ラズ」
「何?」
「下がっていろ」
次の瞬間、聖騎士の一人が踏み込んだ。剣が振り下ろされる。しかし、シオンはそれを避けもしなかった。刃が肩へ当たり、ガキンという甲高い金属音が響く。どう考えても人の皮膚を斬った時に鳴る音ではない。
次の瞬間、シオンの傍には、折れた剣の切っ先が地面に突き刺さっていた。攻撃を受けたシオンの肩ではなく、剣の方が折れたのだ。
「な——」
驚く暇すら与えられず、シオンの拳が、騎士の鎧ごと胸部を打ち抜いた。身体が後方へ大きく吹き飛ぶ。
別の神官が魔法を放つ。炎が通路を満たした。だが、その中から、シオンが何事もなかったように歩いてくる。
「ひっ……」
一人、また一人。シオンは、道を塞ぐ者を倒していく。
全く攻撃が通用しないシオンの姿を見て、恐怖のあまり逃げ出す者もいた。シオンは逃げた者は追わず、立ち向かってくる者や進路を塞ぐ者に拳を振るった。
ラズは、その光景からできるだけ目を逸らさなかった。
怖い。血を見るのも、人間が壊れるところを見るのも。決して慣れたくはない。それでも、見なければならないと思った。
シオンが何をしているのか。何を背負っているのか。何を考えているのか。そして、今もなお、何を選び続けているのか。それを知らないまま、ただ「隣にいる」と言うのは違う。ラズはそう思った。
◇
二人が地上へ出た時、研究棟の一部から、炎が上がっていた。地下で起きた破壊が魔導具や研究設備へ波及したのだろう。窓から煙が噴き出し、白い壁を赤い炎が舐めている。
周囲では、街の人々が騒ぎ始めていた。
「火事だ!」
「研究棟が燃えているぞ!」
「神殿兵を呼べ!」
「魔物でも入り込んだのか?」
「デウス様!」
誰かが祈る。
「どうか、お守りください!」
「嗚呼、デウス様!」
「神よ!」
人々は、何も知らないまま、まだ神の名を呼んでいる。
シオンは、その声を聞きながら、燃える研究棟を見つめていた。怒り、悲しみ、憎しみ。そのどれか一つでは表せないほどもっと深く、長く積もった何かが、その横顔に沈んでいる。
ラズは、何も言わなかった。
まだ追っ手の気配がある。遠くから、複数の足音が近づいてくる。
シオンが炎へ背を向けた。
「行くぞ」
ラズは、髪に留めた青い星へ一度だけ触れた。
「うん」
二人は走り出す。
混乱に包まれ、神の名を呼ぶ声と、燃え上がる研究棟を背に、魔導具研究都市アルミナを後にした。
第一章と比べると短めでしたが、これにて第二章のアルミナ編が終了となります。
一話だけ幕間を挟んだ後、次の話に移る予定です。ここから物語がどんどん進んでいきますので、お付き合いいただけますと幸いです。
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