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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
26/79

惨劇の夜

 白い光が消える。薬品の臭いも、魔物の血も。神官たちの声も遠ざかる。別の記憶へと変わっていく。

 代わりに現れたのは、小さな家だった。木製の壁に、簡素な家具。窓の外には、見知らぬ村の夜景が広がっている。ここは恐らく、シオンが生まれ育った場所だ。そう察した。


 帰還する以前の記憶は、濃い霧に覆われていた。何者かによって、思い出せないようにされている。神殿で何をされたのか、どれだけの実験を受けたのか。シオン自身にも、はっきりと分からない状態だった。

 覚えているのは、神のために、何か名誉ある役目を果たした。そんな偽りの説明だけ。


 そんな状態で村へ帰ったシオンを、村の人々は迎えた。

 変わり果てた姿に驚きながらも、無事に帰ってきたことを喜び、神の祝福を受けたのだと信じた。

 記憶の端に、桃色の髪を持つ少女が映る。ラズと、驚くほどよく似た顔。同じような声。似通った仕草。


「彼女が、リゼ……」


 ラズは、少女を見つめる。

 確かに似ていた。だが、同一ではない。笑う時の目の細め方。シオンへ近づく時の歩幅。長く積み重ねた時間から生まれた距離感。ラズの知らないリゼという少女が、そこにいた。

 なぜ、自分とこれほど似ているのか。考える暇すら与えられず、場面が変わった。



 夜。静かな家、暗い廊下。壁の向こうから、誰かの寝息が聞こえている。

 寝台に横たわっていたシオンの瞳が開いた。その両目は、元の青色を失って紫色に変化している。長く伸びた髪は銀白へ変わり、低い位置で結ばれている。毛先に残っていた黒も、ほとんど失われていた。

 今のシオンと似た姿。だが、その表情だけは違った。現在のような冷たさも、他人を遠ざける鋭さもない。そこに浮かんでいるのは、恐怖と混乱だった。


 シオンの身体が、ゆっくりと起き上がる。だが、本人の意思で動いたのではない。記憶を見ているラズには、それが分かった。

 意識は、確かに存在している。しかし、身体の中に閉じ込められている。指一本動かせない。深い水の底へ沈み、遠く離れた場所から、自分の身体を見上げているようだった。


『その力を引き出せ』


 頭の中へ、デウスの声が響く。


 全身に、赤黒い亀裂が走る。それと同時に身体を襲う激痛と、これから起こる嫌な予感を察知したシオンの意識が叫ぶ。

 ——止まれ。

 ——動くな。

 ——誰にも触るな。


 だが、身体は従わない。寝台を離れ、扉を開き、暗い廊下へ出る。一歩、また一歩と、意思とは無関係に、身体が進んでいく。


「やめて……」


 ラズは、シオンへ近づこうとする。

 だが、これは過去の記憶だ。すでに起こった事実だ。触れることも、止めることもできない。


 廊下の向こうで、扉が開いた。一人の人影が姿を現す。


「シオン?」


 心配そうな声が、名前を呼ぶ。記憶は赤黒く滲み、顔までは見えない。父なのか、母なのかまでは判別できなかった。

 ただ、シオンにとって大切な者だったことだけは分かる。それを裏付けるように、彼の意識が、狂ったように叫んでいた。

 ——逃げろ。

 ——近づくな。

 ——俺を見るな。


 その声は届かない。


 人影は、何も知らずに近づいてくる。

 操られたシオンの腕が持ち上がり、拳が引かれる。


「やめて!」


 ラズが叫ぶ。


 シオンの拳が前へ動いた。

 その瞬間、記憶が赤黒く弾けた。


「もうやめて!」


 ラズは両耳を塞いだ。


「もう、これ以上……シオンを苦しめないで……!」


 だが、目の前にあるのは過去の記憶だ。ラズが叫んでも、何も変わらない。起きたことを止めることはできない。なかったことにもできないのだ。



 場面が飛ぶ。

 何が起きたのかは、赤黒い霧に覆われている。床へ広がる血。壁に付着した赤い跡。その中に立つシオン。

 彼の意識は残っている。すべてを見ている。自分の身体が何をしたのかを、理解している。

 それでも、まだ身体を取り戻せていない。


 少女の声が聞こえた。


「シオン……?」


 リゼの声だった。


 シオンの身体が、ゆっくりと振り返る。

 両目は紫のまま。だが、その瞳は、絶望に塗り潰されていた。


「待って……」


 ラズは手を伸ばす。


 血の中に立つ、銀白の髪の少年。リゼが、その少年へ一歩ずつ近づいていく。


 記憶の崩壊が始まっていた。周囲の景色が剥がれ落ち、リゼの声も次第に聞き取れなくなっていく。

 何かを言っている。シオンへ呼びかけている。だが、その内容は分からない。

 それとは対照的に、水底に沈んだシオンの意識の声だけが、嫌になるほど鮮明に響いていた。

 ——逃げろ。

 ——来るな。

 ——俺に近づくな。


 シオンの意識の声に反して、リゼがさらに一歩近づく。

 シオンの腕が、意思に反して動き始めた。


「待って!」


 ラズは必死に手を伸ばした。リゼの姿へ、シオンへ。だが、どちらにも届かない。


 拳が完全に振るわれるよりも先に、記憶そのものが、音を立てて崩れ落ちた。



 ラズは再び、血に濡れた世界へ戻っていた。

 赤黒い血溜まり。空も壁もない、果ての見えない空間。遠くでは、誰かの叫び声がまだ響いている。


 息が荒い。胸が痛い。つい先ほどまで見ていた光景が、頭から離れなかった。

 黒い髪。青い瞳。実験台へ拘束された、まだ幼いシオン。胸へ埋め込まれた赤黒い石。変化していく容姿。魔物との戦いを強制され、家族やリゼの名を使って怒りを煽られ、そして最後には、自分の意思とは関係なく、身体を動かされていた。


「シオン……」


 ラズは小さく呟いた。


 今見たものが、本当にシオンの記憶なのか、まだ確信はない。けれど、一つだけは分かった。

 ——シオンは、自分の意思でリゼたちを殺したのではない。

 少なくとも、あの夜。彼の意識は確かに抵抗していた。止まれ、逃げろ、近づくな。そう叫び続けていた。


 ラズが唇を噛んだ、その時。


『見たか』


 背後から声がした。愉しそうに、人の苦痛を眺めて笑うような、歪んだ声だ。


 ラズは勢いよく振り返った。

 そこに、黒い影が立っていた。人の形をしている。だが、人ではない。輪郭は絶えず揺らぎ、赤黒い光を内側へ抱えている。顔らしきものは見えない。それでも、笑っている。そう感じた。


 ラズは一歩下がった。身体の奥が、危険だと告げている。


「あなたは……」


『貴様は、俺を知っているはずだ』


 声が、耳ではなく頭の中へ直接響く。

 その瞬間、ラズは理解した。

 ——これがケイオス。シオンの中にいる、正体の分からない何か。


 黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。


『此奴は、まだ憎める』


 ラズは息を呑んだ。


『まだ怒れる』


 赤黒い光が、影の内側で脈打つ。


『デウスを憎み、己を憎み、死者の声を勝手に作り、自分自身を、死へ追い立てる』


 笑い声が響く。


『実に滑稽で、実に良い器だ』


 ラズは拳を握った。


「シオンを利用してるの?」


『利用?』


 ケイオスは、心底可笑しそうに笑った。


「シオンの怒りも、憎しみも、罪悪感も、自分を責める気持ちも。全部、利用してるんでしょう?」


 ラズは震えた声で問いかけた。


『随分と面白い言い方をする』


 ケイオスの輪郭が、大きく揺らぐ。

 そして、ゆっくりと、噛みしめるように言った。


『俺はただ、熟すのを待っているだけだ』


「熟す……?」


『怒り、憎悪、飢え、破壊』


 ケイオスが言葉を紡ぐたびに、赤黒い光が強くなる。


『此奴は、それらを重ねるほど俺に近づく』


 ラズの背筋が冷える。


『デウスを殺す頃には、きっと良い器になっているぞ』


 ケイオスが笑った。

 ラズは無意識に、さらに一歩下がる。


『貴様は、此奴の隣にいるのだったな』


 ラズを追うように影が迫る。


『なら、隣で見ていろ』


「……何を?」


『何もできずに、シオンという人間が俺に侵され、削られ、最後には消えていく様を、だ』


「そんなこと、させない」


 ラズは震えながらも言った。

 ケイオスは再び嗤う。


『貴様に何ができる?』


 黒い影が、目の前まで迫る。


『何やら面白そうな力は持っているようが、たかが知れている。自分の正体も分からない。そのちっぽけな存在で、何ができるというんだ?』


 ラズは答えられなかった。

 自分に何ができるのかは、分からない。シオンより強いわけでもない。ケイオスを引き剥がす方法も知らない。デウスへ辿り着く方法さえ、まだ分からない。

 ——それでも。


「……分からない」


 ラズは小さく言った。


『そうだろう』


「でも——」


 顔を上げる。


「何もしないで、見てるつもりはない」


 一瞬、ケイオスの笑い声が止まった。


 次の瞬間、精神世界そのものが、大きく揺れた。

 血溜まりは渦を巻き始める。頭上に存在しなかったはずの暗闇が崩れ落ちてくる。

 ラズの身体が、何かに引きずられた。


「……っ!」


 視界が反転する。

 ケイオスの笑い声が遠ざかっていく。


『ならば、せいぜい足掻け』


 最後に、それだけが聞こえた。

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