惨劇の夜
白い光が消える。薬品の臭いも、魔物の血も。神官たちの声も遠ざかる。別の記憶へと変わっていく。
代わりに現れたのは、小さな家だった。木製の壁に、簡素な家具。窓の外には、見知らぬ村の夜景が広がっている。ここは恐らく、シオンが生まれ育った場所だ。そう察した。
帰還する以前の記憶は、濃い霧に覆われていた。何者かによって、思い出せないようにされている。神殿で何をされたのか、どれだけの実験を受けたのか。シオン自身にも、はっきりと分からない状態だった。
覚えているのは、神のために、何か名誉ある役目を果たした。そんな偽りの説明だけ。
そんな状態で村へ帰ったシオンを、村の人々は迎えた。
変わり果てた姿に驚きながらも、無事に帰ってきたことを喜び、神の祝福を受けたのだと信じた。
記憶の端に、桃色の髪を持つ少女が映る。ラズと、驚くほどよく似た顔。同じような声。似通った仕草。
「彼女が、リゼ……」
ラズは、少女を見つめる。
確かに似ていた。だが、同一ではない。笑う時の目の細め方。シオンへ近づく時の歩幅。長く積み重ねた時間から生まれた距離感。ラズの知らないリゼという少女が、そこにいた。
なぜ、自分とこれほど似ているのか。考える暇すら与えられず、場面が変わった。
◇
夜。静かな家、暗い廊下。壁の向こうから、誰かの寝息が聞こえている。
寝台に横たわっていたシオンの瞳が開いた。その両目は、元の青色を失って紫色に変化している。長く伸びた髪は銀白へ変わり、低い位置で結ばれている。毛先に残っていた黒も、ほとんど失われていた。
今のシオンと似た姿。だが、その表情だけは違った。現在のような冷たさも、他人を遠ざける鋭さもない。そこに浮かんでいるのは、恐怖と混乱だった。
シオンの身体が、ゆっくりと起き上がる。だが、本人の意思で動いたのではない。記憶を見ているラズには、それが分かった。
意識は、確かに存在している。しかし、身体の中に閉じ込められている。指一本動かせない。深い水の底へ沈み、遠く離れた場所から、自分の身体を見上げているようだった。
『その力を引き出せ』
頭の中へ、デウスの声が響く。
全身に、赤黒い亀裂が走る。それと同時に身体を襲う激痛と、これから起こる嫌な予感を察知したシオンの意識が叫ぶ。
——止まれ。
——動くな。
——誰にも触るな。
だが、身体は従わない。寝台を離れ、扉を開き、暗い廊下へ出る。一歩、また一歩と、意思とは無関係に、身体が進んでいく。
「やめて……」
ラズは、シオンへ近づこうとする。
だが、これは過去の記憶だ。すでに起こった事実だ。触れることも、止めることもできない。
廊下の向こうで、扉が開いた。一人の人影が姿を現す。
「シオン?」
心配そうな声が、名前を呼ぶ。記憶は赤黒く滲み、顔までは見えない。父なのか、母なのかまでは判別できなかった。
ただ、シオンにとって大切な者だったことだけは分かる。それを裏付けるように、彼の意識が、狂ったように叫んでいた。
——逃げろ。
——近づくな。
——俺を見るな。
その声は届かない。
人影は、何も知らずに近づいてくる。
操られたシオンの腕が持ち上がり、拳が引かれる。
「やめて!」
ラズが叫ぶ。
シオンの拳が前へ動いた。
その瞬間、記憶が赤黒く弾けた。
「もうやめて!」
ラズは両耳を塞いだ。
「もう、これ以上……シオンを苦しめないで……!」
だが、目の前にあるのは過去の記憶だ。ラズが叫んでも、何も変わらない。起きたことを止めることはできない。なかったことにもできないのだ。
◇
場面が飛ぶ。
何が起きたのかは、赤黒い霧に覆われている。床へ広がる血。壁に付着した赤い跡。その中に立つシオン。
彼の意識は残っている。すべてを見ている。自分の身体が何をしたのかを、理解している。
それでも、まだ身体を取り戻せていない。
少女の声が聞こえた。
「シオン……?」
リゼの声だった。
シオンの身体が、ゆっくりと振り返る。
両目は紫のまま。だが、その瞳は、絶望に塗り潰されていた。
「待って……」
ラズは手を伸ばす。
血の中に立つ、銀白の髪の少年。リゼが、その少年へ一歩ずつ近づいていく。
記憶の崩壊が始まっていた。周囲の景色が剥がれ落ち、リゼの声も次第に聞き取れなくなっていく。
何かを言っている。シオンへ呼びかけている。だが、その内容は分からない。
それとは対照的に、水底に沈んだシオンの意識の声だけが、嫌になるほど鮮明に響いていた。
——逃げろ。
——来るな。
——俺に近づくな。
シオンの意識の声に反して、リゼがさらに一歩近づく。
シオンの腕が、意思に反して動き始めた。
「待って!」
ラズは必死に手を伸ばした。リゼの姿へ、シオンへ。だが、どちらにも届かない。
拳が完全に振るわれるよりも先に、記憶そのものが、音を立てて崩れ落ちた。
◇
ラズは再び、血に濡れた世界へ戻っていた。
赤黒い血溜まり。空も壁もない、果ての見えない空間。遠くでは、誰かの叫び声がまだ響いている。
息が荒い。胸が痛い。つい先ほどまで見ていた光景が、頭から離れなかった。
黒い髪。青い瞳。実験台へ拘束された、まだ幼いシオン。胸へ埋め込まれた赤黒い石。変化していく容姿。魔物との戦いを強制され、家族やリゼの名を使って怒りを煽られ、そして最後には、自分の意思とは関係なく、身体を動かされていた。
「シオン……」
ラズは小さく呟いた。
今見たものが、本当にシオンの記憶なのか、まだ確信はない。けれど、一つだけは分かった。
——シオンは、自分の意思でリゼたちを殺したのではない。
少なくとも、あの夜。彼の意識は確かに抵抗していた。止まれ、逃げろ、近づくな。そう叫び続けていた。
ラズが唇を噛んだ、その時。
『見たか』
背後から声がした。愉しそうに、人の苦痛を眺めて笑うような、歪んだ声だ。
ラズは勢いよく振り返った。
そこに、黒い影が立っていた。人の形をしている。だが、人ではない。輪郭は絶えず揺らぎ、赤黒い光を内側へ抱えている。顔らしきものは見えない。それでも、笑っている。そう感じた。
ラズは一歩下がった。身体の奥が、危険だと告げている。
「あなたは……」
『貴様は、俺を知っているはずだ』
声が、耳ではなく頭の中へ直接響く。
その瞬間、ラズは理解した。
——これがケイオス。シオンの中にいる、正体の分からない何か。
黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。
『此奴は、まだ憎める』
ラズは息を呑んだ。
『まだ怒れる』
赤黒い光が、影の内側で脈打つ。
『デウスを憎み、己を憎み、死者の声を勝手に作り、自分自身を、死へ追い立てる』
笑い声が響く。
『実に滑稽で、実に良い器だ』
ラズは拳を握った。
「シオンを利用してるの?」
『利用?』
ケイオスは、心底可笑しそうに笑った。
「シオンの怒りも、憎しみも、罪悪感も、自分を責める気持ちも。全部、利用してるんでしょう?」
ラズは震えた声で問いかけた。
『随分と面白い言い方をする』
ケイオスの輪郭が、大きく揺らぐ。
そして、ゆっくりと、噛みしめるように言った。
『俺はただ、熟すのを待っているだけだ』
「熟す……?」
『怒り、憎悪、飢え、破壊』
ケイオスが言葉を紡ぐたびに、赤黒い光が強くなる。
『此奴は、それらを重ねるほど俺に近づく』
ラズの背筋が冷える。
『デウスを殺す頃には、きっと良い器になっているぞ』
ケイオスが笑った。
ラズは無意識に、さらに一歩下がる。
『貴様は、此奴の隣にいるのだったな』
ラズを追うように影が迫る。
『なら、隣で見ていろ』
「……何を?」
『何もできずに、シオンという人間が俺に侵され、削られ、最後には消えていく様を、だ』
「そんなこと、させない」
ラズは震えながらも言った。
ケイオスは再び嗤う。
『貴様に何ができる?』
黒い影が、目の前まで迫る。
『何やら面白そうな力は持っているようが、たかが知れている。自分の正体も分からない。そのちっぽけな存在で、何ができるというんだ?』
ラズは答えられなかった。
自分に何ができるのかは、分からない。シオンより強いわけでもない。ケイオスを引き剥がす方法も知らない。デウスへ辿り着く方法さえ、まだ分からない。
——それでも。
「……分からない」
ラズは小さく言った。
『そうだろう』
「でも——」
顔を上げる。
「何もしないで、見てるつもりはない」
一瞬、ケイオスの笑い声が止まった。
次の瞬間、精神世界そのものが、大きく揺れた。
血溜まりは渦を巻き始める。頭上に存在しなかったはずの暗闇が崩れ落ちてくる。
ラズの身体が、何かに引きずられた。
「……っ!」
視界が反転する。
ケイオスの笑い声が遠ざかっていく。
『ならば、せいぜい足掻け』
最後に、それだけが聞こえた。




