血の底の記憶
次の瞬間、ラズは血の中に立っていた。見覚えのない場所だった。
自分は、アルミナの地下施設に居たはずだ。ケイオスの残滓を植えつけられ、異形へ変えられた実験体たち。それを次々に殺していくシオン。怒りと幻聴に呑まれ、止まれなくなっていく彼を見ていられず、ラズは縋るようにその腕へ触れた。
その瞬間、世界が反転した。そして、気づけばここにいた。
床も壁もない。天井も空もない。ただ、浅い血溜まりがどこまでも続いている。だが、波紋は広がらない。ラズが動いても、足音すらしなかった。
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
幼い声。大人の声。男の声。女の声。
何人もの悲鳴が重なり、言葉になる前に血の霧へ呑み込まれていく。
ラズは、自分の両手を見た。
血はついていない。傷一つない、いつもと変わらない手だった。
それなのに、胸が苦しい。誰かの痛みと絶望が、この空間を満たす空気そのものになっているようだった。
「ここは……?」
呟いた声だけが、ひどく近く聞こえる。
地下施設でシオンへ触れた。それ以外に、この場所へ来た理由は思い当たらない。
血に覆われた、何もない空間。絶えず響く叫び声。胸を押し潰す、深い苦痛。
ラズの中に、一つの考えが浮かんだ。
「シオンの……心の中?」
断定できる根拠はない。それでも、そうとしか思えなかった。
ここがシオンの心を形にした場所なのだとすれば、彼はずっと、この血と悲鳴の中に立ち続けてきたことになる。到底穏やかな精神状態とは呼べないだろう。そのことに、ズキリと胸が痛んだ。
それと同時に、自分自身への疑問が膨らむ。
「わたし……こんなことまでできるの?」
人の心へ入る魔法など、使った記憶はない。そもそも、そのような術が存在するのかさえ知らない。
だが、考えている余裕はなかった。
足元に、何かが落ちている。
赤黒い光を帯びた、小さな破片。宝石のようにも見える。あるいは、砕けた何かが固まり、形を持ったものにも見えた。
ラズは、その場へ屈む。
破片の中で、何かが動いている。白い光や、黒い影、人の姿らしきものが揺らいでいる。
直感が告げていた。触れてはいけない。これ以上、踏み込んではならないと。
それでも、目を逸らすことができなかった。
シオンが何に苦しんでいるのか。なぜ、あれほど自分自身を憎んでいるのか。知りたいと思った。
震える指先を伸ばす。
破片へ触れた瞬間、赤黒い光が指先から腕へ流れ込んだ。
「……っ!」
視界が歪む。
血の地面が崩れ、白い光へ塗り潰されていく。
◇
次に目を開いた時、ラズは白い部屋に立っていた。
冷たく磨かれた石の床。壁一面に刻まれた複雑な術式。天井から吊り下げられた、白い魔導灯。そして、部屋の中央に置かれた実験台。そこに、一人の少年が拘束されていた。
年齢は、十四歳ほどだろうか。上半身には何も身につけておらず、白い光の帯が細い身体を実験台へ縛りつけている。
両手、両足、胸元。首。少年がどれほど身体を捩っても、拘束は僅かにも緩まなかった。
ラズは最初、それが誰なのか分からなかった。
艶のある黒い髪。少し長く伸びた髪は、低い位置で一つに束ねられている。
瞳は、澄んだ青色だった。その色は、夜空にも、深い海にも、ラズの髪に留められた青い星にも似ている。しかし、その瞳は恐怖に見開かれ、涙で濡れていた。
ラズが知らない少年のはずだ。しかし、その輪郭に、声を出そうと息を吸う癖に、どこか見覚えがあった。
「やめろ!」
少年が叫んだ。
「離せ! ここから出せ!」
その声を聞いた瞬間、ラズの胸が大きく鳴った。
その声色は、今より幼く、少しだけ高い。だが、聞き間違えるはずがない。
「シオン……?」
実験台へ拘束されている少年は、シオンだ。
ケイオスを宿す前。銀白の髪も、紫と赤の瞳も持たなかった頃のシオン。まだ、普通の人間だった頃の姿だった。
実験台の周囲には、白い法衣や白衣を纏った神官たちが立っている。
誰も少年の叫びに耳を傾けていない。身体の状態を確かめ、術式を調整し、記録板へ数字を書き込んでいる。人間を見ている目ではなかった。
そして、彼らの奥に、一人だけ明らかに異質な男がいた。
白く長い髪。彫刻を思わせる、整いすぎた顔。光を宿さない黒い瞳。背中には、輝く光輪と純白の大翼が広がっている。
ラズはアルミナの神殿広場に立っていた神像を思い出した。姿は、あの像とよく似ている。だが、像のような慈愛に満ちた表情は感じられない。
この男がデウスなのだと、誰に教えられずとも分かった。
白衣の神官の一人が、赤黒い石を運んでくる。素手では石に触れられないのか、厚い白布で包まれていた。
布の上からでも分かるほど、石は生き物の心臓のように脈打っている。鼓動するたび、赤黒い光が室内へ漏れた。
宝石にも似た石だが、その輝きは美しくなかった。光というより、濁った血や、形を持った悪意に近い。
ラズは本能的に一歩下がった。
あれが、ケイオスを封じた石。現在も、シオンの左胸へ埋め込まれているもの。
石が運ばれてくるほど、シオンの抵抗が激しくなった。
「何をするつもりだ!」
身を拘束する白い光の帯を軋ませ、シオンは必死に身体を捩る。
「答えろ!」
神官たちは答えない。
記録を取る者が、淡々と告げる。
「心拍数、上昇」
「被検体との共鳴を確認」
「術式を固定しろ」
「やめろ!」
石を持った神官が、実験台へ近づく。
「来るな!」
シオンの叫びは届かない。
赤黒い石が、左胸へ押し当てられた。
石は皮膚の上で一度、強く脈打った。次の瞬間、柔らかな泥へ沈むように、シオンの胸の中へ入り始める。
皮膚を裂いているわけではない。それでも、身体の内側を押し広げ、心臓へ食い込みながら沈んでいくように見えた。
ラズは息を呑む。
石が完全に沈んだ瞬間、シオンの身体が、大きく跳ねた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!?」
耳を劈く絶叫が、白い部屋へ響く。
シオンの全身に赤黒い亀裂が走った。左胸から伸びた模様が、首へ。腕へ。腹部へ。血管を辿るように広がっていく。それと同時に、細い身体に急速に筋肉が浮かび上がり始めた。白い光の帯が身体にくい込んでいる。
さらには、シオンの黒い髪から、少しずつ色が抜け始めた。最初は、根元に近い一房。次に、その周囲。黒は灰色へ変わり、やがて冷たい銀白へ染まっていく。すべてが一度に白くなったわけではない。毛先には、元の黒が残っていた。それでも、少年の姿は急速に、現在のシオンへ近づいていく。
それは神々しい変化ではなかった。
異物を拒絶する身体が、内側から壊されている。耐えきれない苦痛に、命の色そのものを奪われていく。そうとしか見えなかった。
「やめて……」
身体を震わせながら漏れ出たラズの声は、記憶の中にいる誰にも届かない。
シオンの青い瞳にも、変化が現れた。痛みに見開かれた両目へ、赤黒い光が滲む。澄んだ青が濁り、色が混ざり合い、やがて両目とも深い紫へ変わった。
現在の右目と同じ色。だが、今の左目にある血のような赤は、まだ存在していない。
石が沈んだ左胸の奥から、シオンのものではない声が響いた。
『待ち望んでいたぞ』
ラズは、その声に背筋を凍らせる。
その記憶は途切れ、別の記憶へと変化した。
◇
次に現れたのは、巨大な檻だった。
石造りの闘技場。高い壁。その上に設けられた観察席から、神官たちが内部を見下ろしている。
檻の中には、少年の頃のシオンがいた。
先ほどよりも少しだけ時間が経っている。黒かった髪の大部分は、すでに銀白へ変わっていた。後ろで結われた髪の先にだけ、元の黒が残っている。両目は闇を溶かしたような紫色。白い衣服は汚れ、身体には何度も拘束された痕が残っていた。
檻の反対側に、巨大な魔物が放たれる。
シオンの何倍もの体躯。太い四肢。牙の並んだ口。シオンが普通の少年であれば、一撃で殺されるだろう。
魔物が低く唸る。
シオンの肩が震えた。恐怖で、身体が動かない。
左胸の石は僅かに脈打っている。だが、現在のシオンが見せるような圧倒的な力は感じられなかった。
観察席から、神官の無機質な声が響く。
「恐怖状態では、出力の増幅は僅かなようです」
「やはり、恐怖そのものは出力増加のための材料にはならないか」
魔物が地面を蹴った。巨大な前脚が、シオンの肩へ叩きつけられる。
衝撃のあまり、身体が地面を転がった。衣服は裂けている。だが、その下の皮膚に傷はついていない。
シオンは呻きながら立ち上がろうとする。
魔物と対峙するその姿は、今とはまるで違う。このシオンは魔物と戦おうとはしていなかった。魔物から距離を取り、出口を探し、ただ生き延びようとしている。立ち向かうこともなければ、ましてや捕食しようとすることもない。普通の少年そのものの反応だった。
「戦闘行動へ移行しません」
「刺激を変更しろ」
神官たちに混ざって観察席にいたデウスが、冷たく告げる。その言葉に応じるように、シオンの頭の中へ、声が流れ込んだ。
父の声。母の声。そして、リゼの声。実際の本人たちが話しているわけではない。記憶から形だけを抜き取り、デウスの術式で再現した偽物の声だった。
さらには、畳み掛けるように神官たちもシオンに声を投げかける。
——逃げれば、お前の家族を連れてくる。
——この魔物の前へ、お前の大切な者を差し出す。
——お前が戦わなければ、代わりにリゼが死ぬ。
「やめろ……」
シオンの声が震える。
「リゼに触るな」
魔物が再び迫る。
シオンは恐怖に震えながら、歯を食いしばった。
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、誰も助けに来ないのか。なぜ、神を名乗る者が、これを平然と見ていられるのか。
恐怖を押し退けるように、別の感情が膨れ上がっていく。
怒り。憎しみ。自分を閉じ込めた神官たちへの敵意。すべてを命じたデウスへの憎悪。
その瞬間、胸に埋め込まれた赤黒い石が激しく脈打った。
左胸から亀裂のような模様が広がる。紫の両目へ、赤い光が強く灯る。髪の先に残っていた黒が、さらに薄くなった。シオンの拳を、赤黒い力が覆う。
魔物が爪を振り上げる。それよりも早く、シオンが踏み込んだ。
拳が、魔物の腹部へ突き刺さる。
凄まじい破裂音と共に、魔物の巨体が内側から爆ぜた。肉も、骨も、臓器も、何一つ原形を保てないまま、闘技場の壁へ飛び散る。
シオンは、自分が何をしたのか理解できないように、血に濡れた拳を見つめていた。
観察席から、神官たちの声が聞こえる。
「怒りと憎悪への反応が顕著です」
「敵意が一定値を超えた時、出力が急激に増大」
「破壊衝動への転化も確認しました」
ラズは理解した。
怒り、憎しみ、壊したいという衝動。シオンの力は、それらを糧として増幅する、破壊のための力なのだと。
記憶が激しく流れ始める。
何度も、何度も、シオンは魔物の前へ放り込まれる。逃げようとする。家族の名を出される。リゼを脅しに使われる。怒りを煽られる。神官へ憎悪を向けるよう仕向けられる。
そのたびに、赤黒い力が強くなった。そのたびに、髪に残っていた黒が失われていく。そのたびに、紫の瞳の奥へ禍々しい光が増えていく。
ラズは、現在のシオンが、少しずつ作り上げられていく過程を見せつけられていた。
やがて、デウスの声が響く。
「怒りと憎悪が鍵か」
静かで、何の迷いもない声だった。
「ならば、私は——」
その先を聞く前に、記憶が歪んだ。




