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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
25/79

血の底の記憶

 次の瞬間、ラズは血の中に立っていた。見覚えのない場所だった。

 自分は、アルミナの地下施設に居たはずだ。ケイオスの残滓を植えつけられ、異形へ変えられた実験体たち。それを次々に殺していくシオン。怒りと幻聴に呑まれ、止まれなくなっていく彼を見ていられず、ラズは縋るようにその腕へ触れた。

 その瞬間、世界が反転した。そして、気づけばここにいた。


 床も壁もない。天井も空もない。ただ、浅い血溜まりがどこまでも続いている。だが、波紋は広がらない。ラズが動いても、足音すらしなかった。


 遠くで誰かの叫び声が聞こえる。

 幼い声。大人の声。男の声。女の声。

 何人もの悲鳴が重なり、言葉になる前に血の霧へ呑み込まれていく。


 ラズは、自分の両手を見た。

 血はついていない。傷一つない、いつもと変わらない手だった。

 それなのに、胸が苦しい。誰かの痛みと絶望が、この空間を満たす空気そのものになっているようだった。


「ここは……?」


 呟いた声だけが、ひどく近く聞こえる。


 地下施設でシオンへ触れた。それ以外に、この場所へ来た理由は思い当たらない。

 血に覆われた、何もない空間。絶えず響く叫び声。胸を押し潰す、深い苦痛。

 ラズの中に、一つの考えが浮かんだ。


「シオンの……心の中?」


 断定できる根拠はない。それでも、そうとしか思えなかった。

 ここがシオンの心を形にした場所なのだとすれば、彼はずっと、この血と悲鳴の中に立ち続けてきたことになる。到底穏やかな精神状態とは呼べないだろう。そのことに、ズキリと胸が痛んだ。

 それと同時に、自分自身への疑問が膨らむ。


「わたし……こんなことまでできるの?」


 人の心へ入る魔法など、使った記憶はない。そもそも、そのような術が存在するのかさえ知らない。

 だが、考えている余裕はなかった。


 足元に、何かが落ちている。

 赤黒い光を帯びた、小さな破片。宝石のようにも見える。あるいは、砕けた何かが固まり、形を持ったものにも見えた。


 ラズは、その場へ屈む。

 破片の中で、何かが動いている。白い光や、黒い影、人の姿らしきものが揺らいでいる。


 直感が告げていた。触れてはいけない。これ以上、踏み込んではならないと。

 それでも、目を逸らすことができなかった。

 シオンが何に苦しんでいるのか。なぜ、あれほど自分自身を憎んでいるのか。知りたいと思った。


 震える指先を伸ばす。

 破片へ触れた瞬間、赤黒い光が指先から腕へ流れ込んだ。


「……っ!」


 視界が歪む。

 血の地面が崩れ、白い光へ塗り潰されていく。



 次に目を開いた時、ラズは白い部屋に立っていた。

 冷たく磨かれた石の床。壁一面に刻まれた複雑な術式。天井から吊り下げられた、白い魔導灯。そして、部屋の中央に置かれた実験台。そこに、一人の少年が拘束されていた。

 年齢は、十四歳ほどだろうか。上半身には何も身につけておらず、白い光の帯が細い身体を実験台へ縛りつけている。

 両手、両足、胸元。首。少年がどれほど身体を捩っても、拘束は僅かにも緩まなかった。


 ラズは最初、それが誰なのか分からなかった。

 艶のある黒い髪。少し長く伸びた髪は、低い位置で一つに束ねられている。

 瞳は、澄んだ青色だった。その色は、夜空にも、深い海にも、ラズの髪に留められた青い星にも似ている。しかし、その瞳は恐怖に見開かれ、涙で濡れていた。

 ラズが知らない少年のはずだ。しかし、その輪郭に、声を出そうと息を吸う癖に、どこか見覚えがあった。


「やめろ!」


 少年が叫んだ。


「離せ! ここから出せ!」


 その声を聞いた瞬間、ラズの胸が大きく鳴った。

 その声色は、今より幼く、少しだけ高い。だが、聞き間違えるはずがない。


「シオン……?」


 実験台へ拘束されている少年は、シオンだ。

 ケイオスを宿す前。銀白の髪も、紫と赤の瞳も持たなかった頃のシオン。まだ、普通の人間だった頃の姿だった。


 実験台の周囲には、白い法衣や白衣を纏った神官たちが立っている。

 誰も少年の叫びに耳を傾けていない。身体の状態を確かめ、術式を調整し、記録板へ数字を書き込んでいる。人間を見ている目ではなかった。

 そして、彼らの奥に、一人だけ明らかに異質な男がいた。

 白く長い髪。彫刻を思わせる、整いすぎた顔。光を宿さない黒い瞳。背中には、輝く光輪と純白の大翼が広がっている。

 ラズはアルミナの神殿広場に立っていた神像を思い出した。姿は、あの像とよく似ている。だが、像のような慈愛に満ちた表情は感じられない。

 この男がデウスなのだと、誰に教えられずとも分かった。


 白衣の神官の一人が、赤黒い石を運んでくる。素手では石に触れられないのか、厚い白布で包まれていた。

 布の上からでも分かるほど、石は生き物の心臓のように脈打っている。鼓動するたび、赤黒い光が室内へ漏れた。

 宝石にも似た石だが、その輝きは美しくなかった。光というより、濁った血や、形を持った悪意に近い。


 ラズは本能的に一歩下がった。

 あれが、ケイオスを封じた石。現在も、シオンの左胸へ埋め込まれているもの。


 石が運ばれてくるほど、シオンの抵抗が激しくなった。


「何をするつもりだ!」


 身を拘束する白い光の帯を軋ませ、シオンは必死に身体を捩る。


「答えろ!」


 神官たちは答えない。

 記録を取る者が、淡々と告げる。


「心拍数、上昇」


「被検体との共鳴を確認」


「術式を固定しろ」


「やめろ!」


 石を持った神官が、実験台へ近づく。


「来るな!」


 シオンの叫びは届かない。


 赤黒い石が、左胸へ押し当てられた。

 石は皮膚の上で一度、強く脈打った。次の瞬間、柔らかな泥へ沈むように、シオンの胸の中へ入り始める。

 皮膚を裂いているわけではない。それでも、身体の内側を押し広げ、心臓へ食い込みながら沈んでいくように見えた。


 ラズは息を呑む。


 石が完全に沈んだ瞬間、シオンの身体が、大きく跳ねた。


「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!?」


 耳を劈く絶叫が、白い部屋へ響く。


 シオンの全身に赤黒い亀裂が走った。左胸から伸びた模様が、首へ。腕へ。腹部へ。血管を辿るように広がっていく。それと同時に、細い身体に急速に筋肉が浮かび上がり始めた。白い光の帯が身体にくい込んでいる。

 さらには、シオンの黒い髪から、少しずつ色が抜け始めた。最初は、根元に近い一房。次に、その周囲。黒は灰色へ変わり、やがて冷たい銀白へ染まっていく。すべてが一度に白くなったわけではない。毛先には、元の黒が残っていた。それでも、少年の姿は急速に、現在のシオンへ近づいていく。

 それは神々しい変化ではなかった。

 異物を拒絶する身体が、内側から壊されている。耐えきれない苦痛に、命の色そのものを奪われていく。そうとしか見えなかった。


「やめて……」


 身体を震わせながら漏れ出たラズの声は、記憶の中にいる誰にも届かない。


 シオンの青い瞳にも、変化が現れた。痛みに見開かれた両目へ、赤黒い光が滲む。澄んだ青が濁り、色が混ざり合い、やがて両目とも深い紫へ変わった。

 現在の右目と同じ色。だが、今の左目にある血のような赤は、まだ存在していない。

 石が沈んだ左胸の奥から、シオンのものではない声が響いた。


『待ち望んでいたぞ』


 ラズは、その声に背筋を凍らせる。

 その記憶は途切れ、別の記憶へと変化した。



 次に現れたのは、巨大な檻だった。

 石造りの闘技場。高い壁。その上に設けられた観察席から、神官たちが内部を見下ろしている。


 檻の中には、少年の頃のシオンがいた。

 先ほどよりも少しだけ時間が経っている。黒かった髪の大部分は、すでに銀白へ変わっていた。後ろで結われた髪の先にだけ、元の黒が残っている。両目は闇を溶かしたような紫色。白い衣服は汚れ、身体には何度も拘束された痕が残っていた。


 檻の反対側に、巨大な魔物が放たれる。

 シオンの何倍もの体躯。太い四肢。牙の並んだ口。シオンが普通の少年であれば、一撃で殺されるだろう。


 魔物が低く唸る。

 シオンの肩が震えた。恐怖で、身体が動かない。

 左胸の石は僅かに脈打っている。だが、現在のシオンが見せるような圧倒的な力は感じられなかった。


 観察席から、神官の無機質な声が響く。


「恐怖状態では、出力の増幅は僅かなようです」


「やはり、恐怖そのものは出力増加のための材料にはならないか」


 魔物が地面を蹴った。巨大な前脚が、シオンの肩へ叩きつけられる。

 衝撃のあまり、身体が地面を転がった。衣服は裂けている。だが、その下の皮膚に傷はついていない。


 シオンは呻きながら立ち上がろうとする。

 魔物と対峙するその姿は、今とはまるで違う。このシオンは魔物と戦おうとはしていなかった。魔物から距離を取り、出口を探し、ただ生き延びようとしている。立ち向かうこともなければ、ましてや捕食しようとすることもない。普通の少年そのものの反応だった。


「戦闘行動へ移行しません」


「刺激を変更しろ」


 神官たちに混ざって観察席にいたデウスが、冷たく告げる。その言葉に応じるように、シオンの頭の中へ、声が流れ込んだ。

 父の声。母の声。そして、リゼの声。実際の本人たちが話しているわけではない。記憶から形だけを抜き取り、デウスの術式で再現した偽物の声だった。


 さらには、畳み掛けるように神官たちもシオンに声を投げかける。

 ——逃げれば、お前の家族を連れてくる。

 ——この魔物の前へ、お前の大切な者を差し出す。

 ——お前が戦わなければ、代わりにリゼが死ぬ。


「やめろ……」


 シオンの声が震える。


「リゼに触るな」


 魔物が再び迫る。


 シオンは恐怖に震えながら、歯を食いしばった。

 なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、誰も助けに来ないのか。なぜ、神を名乗る者が、これを平然と見ていられるのか。

 恐怖を押し退けるように、別の感情が膨れ上がっていく。

 怒り。憎しみ。自分を閉じ込めた神官たちへの敵意。すべてを命じたデウスへの憎悪。


 その瞬間、胸に埋め込まれた赤黒い石が激しく脈打った。

 左胸から亀裂のような模様が広がる。紫の両目へ、赤い光が強く灯る。髪の先に残っていた黒が、さらに薄くなった。シオンの拳を、赤黒い力が覆う。


 魔物が爪を振り上げる。それよりも早く、シオンが踏み込んだ。

 拳が、魔物の腹部へ突き刺さる。

 凄まじい破裂音と共に、魔物の巨体が内側から爆ぜた。肉も、骨も、臓器も、何一つ原形を保てないまま、闘技場の壁へ飛び散る。


 シオンは、自分が何をしたのか理解できないように、血に濡れた拳を見つめていた。


 観察席から、神官たちの声が聞こえる。


「怒りと憎悪への反応が顕著です」


「敵意が一定値を超えた時、出力が急激に増大」


「破壊衝動への転化も確認しました」


 ラズは理解した。

 怒り、憎しみ、壊したいという衝動。シオンの力は、それらを糧として増幅する、破壊のための力なのだと。


 記憶が激しく流れ始める。

 何度も、何度も、シオンは魔物の前へ放り込まれる。逃げようとする。家族の名を出される。リゼを脅しに使われる。怒りを煽られる。神官へ憎悪を向けるよう仕向けられる。

 そのたびに、赤黒い力が強くなった。そのたびに、髪に残っていた黒が失われていく。そのたびに、紫の瞳の奥へ禍々しい光が増えていく。

 ラズは、現在のシオンが、少しずつ作り上げられていく過程を見せつけられていた。


 やがて、デウスの声が響く。


「怒りと憎悪が鍵か」


 静かで、何の迷いもない声だった。


「ならば、私は——」


 その先を聞く前に、記憶が歪んだ。

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