同じ末路
施設の奥には、いくつもの扉が並んでいた。
培養室。移植室。観察室。廃棄室。白い扉の脇へ、淡々と用途だけが記されている。
ラズは、その文字を目で追っただけで吐き気を覚えた。
人間や魔物を扱う場所ではなく、物品を加工し、保管し、不要になれば捨てる工房のような呼び方だった。
シオンは足を止めない。
血に濡れた通路を抜け、最も近くにあった培養室の扉を開けた。
◇
室内には、大量の魔核が保管されていた。壁際へ並べられた硝子容器。天井近くまで積み上げられた金属製の保管棚。大小も色も様々な魔核が、淡く濁った液体の中へ沈められている。
赤。青。緑。鈍い紫。
だが、そのうちのいくつかには、赤黒い筋のようなものが絡みついている。血管のようにも、生きた蔓のようにも見える細い筋が、魔核の表面を這い、内部まで侵食していた。
液体の中で、魔核が不規則に脈打っている。
ラズが確かめようと、一歩近づく。
「触るな」
シオンの低い声が飛んだ。
ラズは伸ばしかけていた手を止める。
「危ないの?」
「ああ」
シオンは容器の中を見つめていた。
魔核へ植えつけられた赤黒いものから、微弱ながら自分の内側と同じ気配を感じる。完全なケイオスの力ではない。薄められ、別の力と混ぜられ、無理やり魔核へ定着させられた、歪な残滓なのだろう。
「……これも、シオンと同じ力なの?」
ラズが慎重に尋ねる。
シオンは答えなかった。
「行くぞ」
それだけ告げ、培養室を出る。
ラズはもう一度だけ、赤黒い筋に覆われた魔核を見た。
容器の中で、何かを求めるように、魔核の脈動が繰り返されていた。
◇
次に入った移植室には、人間がいた。
——いや。かつて、人間だった者たちがいた。
ラズは扉を開けたまま、立ち尽くした。
異様に膨れ上がった右腕を持つ男。背中の皮膚を突き破り、魔物の角に似た突起を生やした女。全身の皮膚が硬く変質し、鱗のようなものに覆われた子ども。肉と骨の境目さえ分からないほど身体が崩れ、床へ溶け出すように横たわる老人。
彼らは拘束されていた。ある者は、液体で満たされた水槽の中へ浮かべられている。ある者は、手足を鉄の枷で壁へ固定されている。別の者は、身体を何本もの帯で拘束台へ縛りつけられていた。
室内には、人間のものとは思えない呼吸音が重なっている。荒い息。喉の奥で鳴る唸り。意味を持たない呻き声。
あまりの凄惨な光景に、ラズは口元を押さえた。
「ひどい……」
シオンは何も答えなかった。
紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳が、拘束された実験体たちを順番に見ていく。その目つきは普段よりも鋭く、冷たい。だが、その冷たさの奥で、何かが燃え始めていた。
シオンの左胸へ埋め込まれた石が、強く脈打つ。
目の前にいる実験体たちから、微弱な赤黒い気配が漂っている。
血と組織片。ケイオスの力を行使した場所から回収された残滓。それらを魔核へ混ぜ、人間や魔物へ移植した。彼らはその結果だ。
先ほどの神官が語った通りだった。
シオンから奪ったものによって、ここにいる者たちは壊された。
「ア……ゥ……」
拘束台の上にいた男が、僅かに首を動かした。焦点の合わない目が、シオンへ向けられる。
「ア、アァ……」
言葉にはなっていない声。それでも、何かへ反応している。
別の実験体が、鉄の枷を軋ませた。
「い……だ……」
掠れた音が、喉から漏れる。
「い、たい……」
ラズの肩が震えた。
完全に自我を失っているわけではない。少なくとも、痛みは残っている。
そう思った瞬間、ラズの身体が前へ動いた。
「せめて治癒術を——」
ラズは実験体へ近づこうとする。
その時、拘束台を固定していた金具が弾け飛んだ。
異様に膨れ上がった腕を持つ男が、獣のような叫びを上げる。
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ッ!」
理性のある声ではなかった。
拘束帯を引き千切り、正面にいたラズへ飛びかかる。
ラズが反応するより早く、黒い外套が、視界を遮った。
シオンが二人の間へ割り込む。
シオンの上半身ほどはあろうかという実験体の巨大な拳が振り下ろされたが、シオンはそれを右手だけで受け止める。
轟音が鳴った。
衝撃が床へ伝わり、石床が放射状に砕ける。シオンの両脚が、足首近くまで床へめり込んだ。
実験体の力は、人間の域を遥かに超えていた。普通の兵士であれば、受け止めるどころか、身体ごと叩き潰されていただろう。
だが、その力は、シオンには届かない。
実験体はケイオスそのものを宿しているわけではない。血と残滓を薄め、無理やり植えつけられた身体。彼らは、シオンを再現しようとして作られた、不完全な劣化模造品にすぎなかった。
シオンは巨大化した腕を掴む。そのまま、逆方向へ捻り上げた。
実験体の骨が砕ける。膨張した筋肉が裂け、皮膚の隙間から血が噴き出した。
「があああああっ!」
実験体が悲鳴を上げる。意味のある言葉は失っていても、痛覚だけは残されている。それが却って残酷に見えた。
「待って!」
縋るようにラズが叫んだ。
「まだ助けられるかもしれない!」
シオンは実験体を押さえつけたまま、ラズを見た。その眼差しは、完全に冷え切っている。
「助ける方法があるなら、今ここで言え」
ラズは口を開く。だが、言葉が出なかった。
治癒術。結界。魔力の制御。どれも目の前の者を元へ戻す方法にはならない。
治癒術は傷を塞ぎ、身体の回復を促すものだ。すでに異形へ作り変えられた肉体を、元の人間へ戻せるわけではない。精神まで壊れているのなら、なおさらだった。
どこまでが元の身体で、どこからが植えつけられた力なのか。それさえ分からない。
ケイオスの残滓だけを取り除く方法も。取り除いた後に、この者たちが生きられるのかも分からない。
そもそも、助ける方法が存在するという保証すらなかった。
ラズが答えられずにいる間も、実験体は暴れ続けている。
砕かれた腕を振り回し、シオンへ噛みつこうと口を開く。
痛みに反応しているのか、シオンの中にあるケイオスへ引き寄せられているのか。それとも目の前の相手を敵だと理解しているのか。
何も分からない。自我が残っているのかさえ、判別できなかった。
「こいつらに救いなどない」
シオンが吐き捨てる。
「そんなこと——」
「こいつらは、ケイオスの力を埋め込まれた」
掴んだ腕へ、さらに力を込め、引きちぎる。
ブチッという嫌な音と共に、実験体の異様なほどに太い腕はあっさりと床の上へ転がった。
シオンは実験体を見ながら、言葉を紡ぐ。だが、その言葉は自分自身へ向けられているようにも聞こえた。
「行き着く先は、死だけだ」
ケイオスの力を宿した者の末路。実験体たちの末路。そして、シオン自身が望む終着点。
デウスを殺し、最後に自分も死ぬ。
それ以外の救いを、シオンは認めていなかった。
まだ息がある実験体の頭部へ、黒い手が伸びる。
「シオン……」
ラズは目を逸らせなかった。
次の瞬間、シオンの指が頭部へ食い込み、そのまま一気に握り潰した。鈍い破裂音と共に、血と骨片が周囲へ散る。力を失った身体が、床へ崩れ落ちた。
それを合図にしたかのように、部屋の奥から、幾つもの金属音が響き始めた。
拘束具が軋む。鉄の枷が壁から外れる。水槽の硝子に亀裂が走った次の瞬間、内部から叩き割られる。大量の液体が床へ溢れた。その中から、人の形を辛うじて残した実験体が這い出してくる。
他の拘束台でも、壁際でも、呻き声が次々に重なっていく。
「アァ……」
「イ、タイ……」
「コロ……」
「アアアアア……!」
言葉なのか、ただの音なのか。それすらも判別できない声が室内を満たす。
実験体たちは、一斉にシオンへ顔を向けた。
焦点の合わない目。変形した顔。もはや目と呼べるものすら失った者までいる。
それでも全員が、シオンのいる方角を認識していた。まるで、彼の中に宿る本物のケイオスへ引き寄せられるかのように。
かつて人間だった者たち。デウスの命令を受けた神官たちによって壊され、ケイオスの残滓を植えつけられ、兵器にも、人間にもなれなかった失敗作。
シオンは拳を握った。全身が熱い。怒りが、身体の内側で激しく燃えている。
自分と同じように、実験によって壊された者たち。その身体を弄び、使えなければ処分しようとしていた神官たち。すべてを命じたデウス。そして、実験体たちの姿へ、自分の行き着く先を重ねてしまったことへの嫌悪。それらが怒りを燃え上がらせる薪となっている。
『そうだ。その怒りだ』
左胸の奥で、ケイオスが笑う。
赤黒い力が、シオンの左胸から腕へ這い始めた。服の下で、皮膚の上をひび割れのような赤黒い光が走る。
『もっと憎め』
実験体たちが迫る。
『もっと壊せ』
「黙れ」
『貴様は憎むほど強くなる』
声を拒絶しても、力は止まらない。シオンの怒りへ呼応し、赤黒い気配が次々に溢れ出す。
実験体の一体が飛びかかった。
シオンは正面から踏み込む。拳が胸を貫いた。
肋骨も、硬質化した皮膚も、内側に埋め込まれた魔核も、それと重なるように動いていた心臓も。すべてを纏めて破壊する。
腕を引き抜くと、実験体の身体が崩れ落ちた。
別の個体が背後から襲う。
振り返りざまに腕を振る。首が胴体から離れ、壁へ叩きつけられた。
角を生やした女が、鋭い突起を向けて突進する。
シオンは角を掴んだ。根元から引き抜き、そのまま、胸部へ突き立てる。
身体が一度大きく痙攣し、動かなくなる。
腕だけが長く変形した実験体が、天井近くから襲いかかる。
シオンの蹴りが頭部へ直撃した。頭が胴体から消え、首から上を失った身体だけが、遅れて床へ落ちた。
戦いにすらならなかった。
実験体たちは人間を超える力を持っている。普通の人間であれば、逃げることさえできずに殺されていただろう。
だが、正式なケイオスの器であり、怒りと憎しみによって増幅され続けたシオンの力は、その実験体たちを遥かに上回っていた。
胸を貫く。首を折る。腹部を打ち抜く。頭部を踏み潰す。
シオンは次々に、彼らの命を終わらせていく。
ラズは、その背後に立ち尽くしていた。
止めなければならない。そう思う。だが、何と言えばよいのか分からなかった。
——殺さないで。そうは言えない。彼らは正気を失い、痛みと衝動に突き動かされている。ここで放置すれば、さらに苦しみ続ける。施設の外へ出れば、無関係な人間を襲うかもしれない。
——殺してあげて。そう言えるはずもなかった。彼らは、かつて人間だった。名前があり、家族がいて、友人がいた。誰かに名前を呼ばれ、誰かと笑っていたはずの人々だ。その命を終わらせることを、救いだと簡単に決めることなどできない。
ラズは涙を浮かべ、両手を強く握りしめた。
「こんなの……」
目の前で、シオンがかつて人間だった者たちを葬っていく。
最初のうちは、一撃だった。動きを止めるために、苦しませないために、確実に命を絶つためだけの威力だった。
だが、次第に拳へ込められる力が増していく。
シオンの隣に、リゼが立っていた。
血に濡れた姿で、光のない目を、シオンへ向けている。
『あなたが殺したんだよ』
シオンの動きが、一瞬だけ止まった。
「黙れ」
『あの人たちも、あなたが殺すの?』
実験体が迫る。シオンはその顔を殴り潰した。身体が背後の壁へめり込み、石材が大きく崩れる。
『同じだね。あなたも、あの人たちも』
シオンは歯を食いしばった。
『壊されて、人間じゃなくなった』
「黙れ」
『でも、あなたは殺す側なんだ』
次の実験体が、腕を振り上げる。シオンはその懐へ入り込み、拳を腹へ叩き込む。
本来なら、一撃で命を絶つだけでよかった。だが、力の加減ができない。
拳を受けた身体は腹部から爆ぜ、上半身と下半身に分かれて吹き飛んだ。血飛沫が辺りを赤く染め上げる。
「黙れ!」
シオンの怒声が室内を震わせた。
ラズには、リゼの姿も見えなければ声も聞こえない。
それでも、シオンが何かに責め立てられていることは分かった。
動きが荒くなっている。必要以上に強く、必要以上に激しい力で実験体を壊している。
最初は、彼らの命を終わらせるためだった。止めなければ、さらに苦しみ、誰かを襲うかもしれないから。
だが今は、実験体を止めるために殺しているのか、自分自身への憎悪をぶつけるために壊しているのか。その境目が、少しずつ失われているようだった。
『早くデウスを殺して、あなたも死んで』
シオンの拳が、実験体の頭部へ振り下ろされる。
身体だけでなく、床も、その下の石材まで粉砕した。巨大な亀裂が部屋中に走る。
『なんで、まだ生きているの?』
「黙れ!」
赤黒い力がさらに膨れ上がる。
シオンの力を異物として拒むように、魔導灯が激しく明滅した。壁へ細い亀裂が走り、保管されていた器具が床へ落ちる。
まだ立っている実験体だけではない。すでに動かなくなった身体まで、溢れ出す圧力に押され、床の上を転がった。
ラズは、もう見ていられなかった。
このままでは、実験体をすべて殺しても、シオンは止まらない。目の前の者たちだけではなく、この部屋も、施設も、自分自身さえも、怒りのままに壊してしまう。
「シオン!」
ラズは駆け出した。血で濡れた床に足を取られそうになりながら、それでも足を止めない。
ちょうど、シオンが残る実験体へ拳を振り上げているところだった。
ラズはその腕へ手を伸ばした。
「シオン、もう——」
指先が、血に濡れた黒い袖へ触れる。
——その瞬間、音が消えた。
光が裏返った。足元も、天井も、自分の身体の輪郭さえ失われる。
世界が、反転した。




