怪物の複製
地下へ進むほど、空気は重くなっていった。
階段の先には、白い石で作られた長い通路が続いている。壁には魔導灯が等間隔に並び、夜の地下施設とは思えないほど明るかった。床は丁寧に磨かれており、壁にも目立つ汚れはない。表面だけを見れば、街にある清潔な研究所と何ら変わらなかった。
だが、通路の角や床板の継ぎ目には、黒ずんだ染みが残されていた。何度も洗われたのであろう、薬品の匂いも染みついている。それでも完全には消えていない、血の跡だ。
シオンは、それを知っていた。白い部屋。冷たい床。身体から流れ落ちた血。何度拭われても、石の隙間へ入り込んで残った黒い染み。
過去の光景が、目の前の通路へ重なりかける。
「ここ……」
ラズが小さく声を漏らした。
「声を抑えろ」
シオンが短く告げる。その声からは、すでに感情が失われていた。
ラズは口を閉じる。
その直後、通路の奥から、複数の足音が近づいてきた。
シオンはラズの肩を押し、壁の窪みへ隠す。自らもその前に立ち、気配を殺した。
やがて現れたのは、三人の男だった。
一人は、下級神官が着る白い法衣の上へ、実験着のような白衣を羽織っている。白衣の袖や裾には、洗いきれなかった赤黒い染みが残っていた。残る二人は、より装飾の多い法衣を纏っている。身分の高い神官らしい。
三人は侵入者が潜んでいるとも知らず、話しながら廊下を歩いてくる。
「次の移植群はどうなった」
高位の神官の一人が尋ねた。
白衣の男が、手にしていた羊皮紙へ目を落とす。
「三体は、移植直後の拒絶反応によって崩壊しました」
「残りは」
「一体は筋肉の肥大が止まらず、拘束具を破壊しました。現在は鎮静状態にありますが、制御は困難です。処分が決定しています」
「理性は残っているのか」
「ほとんど確認できません」
白衣の男の声には、何の感情もなかった。
「言語への反応は消失しています。痛覚刺激に対する反射的な反応だけは残ってるようです」
「命令は聞くのか」
「単純な誘導なら、短時間だけ可能かと。ただし、攻撃対象の識別までは保証できません」
高位神官は、不満そうに眉を寄せる。
「使えぬ失敗作ばかり増やすな」
「申し訳ありません」
「我々は、異星の神々との戦いに備えねばならん」
神官の声に、焦りと苛立ちが滲む。
「デウス様へ、神の軍勢に対抗できる兵器を献上する。それがこの施設へ課せられた使命だ」
ラズは息を詰めた。
——異星の神々。
以前、中央広場の説教でも、この星の外に敵がいると語られていた。
だが、神殿が何と戦おうとしているのか。なぜ、人間を兵器へ作り変える必要があるのか。その全容は分からない。
「しかし、元となる残滓の質に限界があります」
白衣の神官が、恐る恐る口を開いた。
「まだ劣化を抑えられないのか」
「採取直後であれば、ある程度の活性を保っています。ですが、保存すれば急速に質が低下します」
羊皮紙をめくる。
「シオンから回収した血液や組織片も、ケイオスの力を行使した場所に残る赤黒い力の残滓も、いずれも劣化が早く——」
シオンという名が出た瞬間、彼を取り巻く空気が変わった。
ラズは、すぐ隣にいるはずのシオンが、急に遠い存在になったように感じた。思わず背筋が凍りつく。
冷たい圧力が、狭い通路を満たす。
黒い服の下。左胸を中心に、赤黒いものが薄く滲み始めた。それは人間の魔力ではない。シオン自身にも正体の分からない、ケイオスの力だ。
『貴様の欠片だそうだ』
シオンの胸の奥で、ケイオスが愉快そうに囁く。
『血も、肉も、零した力も。随分と丁重に使われているではないか』
シオンの指が、ゆっくりと拳を作る。
『貴様でも人の役に立てることがあったのだな。喜ばしいことではないか』
嘲笑が響く。
シオンは答えずに、壁の窪みから一歩踏み出す。足音へ気づき、白衣の神官が顔を上げた。
「誰だ——」
言葉は、最後まで続かなかった。
シオンの身体がラズの視界から消える。次の瞬間、白衣の男の胸へ、黒い拳が触れた。
轟音と共に、人間の身体が内側から爆ぜた。白衣も、骨も、内臓も。一瞬のうちに形を失い、赤い飛沫と肉片となって通路の壁へ叩きつけられる。
鉄と薬品の臭いに、生温かい血の臭いが加わった。
ラズの身体が強張る。
シオンが魔物を殺す姿なら、何度も見てきた。人を殺したことがあるとも、本人の口から聞いている。
だが、人間がその拳で殺される瞬間を見るのは、初めてだった。
悲鳴すら上がらない。人間だったものが、あまりにも簡単に壊れた。これでは戦闘とすら呼べない。
「侵入者だ!」
残った神官たちが慌てて距離を取る。一人が懐から、神殿の紋章を刻んだ小さな器具を取り出した。
「警報を——」
起動するより早く、シオンが床を蹴った。
磨かれた石床が脚力に耐えきれず、大きく抉れ、砕けた石片が宙へ舞う。
「待て、あれは——」
もう一人の神官がシオンの顔を見て、表情を凍りつかせた。
「シオン……!」
その名を知っている。だが、それだけで過去の実験に直接関わっていたとは断定できない。施設内で成功例兼危険対象として、シオンの名と容姿が共有されていた可能性もある。
シオンにとっては、そんなことはどうでも良かった。
この場所で、自分の血肉と力を使い、人間を兵器へ変えている。それだけで十分だった。
警報器を持つ神官が、短い詠唱を始める。
最初の一音が形になるより早く、シオンの手がその顔を掴んだ。
そのまま床へ叩きつけると、鈍い破砕音が響く。頭部が石床との間で潰れ、血と白い欠片が放射状に飛び散った。床そのものも大きく陥没する。
残る一人が踵を返した。
「聖騎士を呼べ!」
逃げ出そうとした神官の首へ、シオンの手が伸びる。
喉を直接掴み、壁へ押しつけた。背中が石壁へ叩きつけられ、神官の口から息が漏れる。
「お前たちは、ここで何をしている」
低い声だった。怒鳴ってはいない。それでも神官の顔から血の気が引いた。
「し、知らない……私は、命令されて——」
「何をしていると聞いた」
指へ力が加わる。神官の首から、ミシミシと骨が軋む音がした。
「がっ……!」
喉を圧迫され、声が潰れる。シオンは僅かに指の力を緩めた。
「答えろ」
「け、ケイオスの……適合兵だ」
神官は咳き込みながら、必死に言葉を続ける。
「ケイオスの力へ適合できる兵士を作っている!」
ラズの胸が冷える。
シオンの目が、ゆっくりと細められた。
「俺の何を使った」
「血液だ……それと、組織の一部」
「いつ採った」
「貴様がケイオスの適合実験を受けた時にだ! 神殿の地下実験施設で採取されたものが、各研究所へ分配された!」
シオンの指が僅かに動く。
「他には」
「貴様が力を使った場所から、残留物を回収している」
「残留物?」
「赤黒い力の痕跡だ。地面や魔物の死骸に残る、僅かな残滓を集めている!」
神官は途切れそうになる呼吸を繋ぎながら答える。
「それを魔核へ定着させ、人間や魔物へ移植する。完全な力ではないが、成功すれば、貴様に近い身体能力を持つ兵士が作れる!」
シオンの目つきが鋭くなっていく。
「貴様に埋め込んだ石は取り出せない。だから、漏れ出した力を薄め、魔核へ混ぜることで量産することになった」
神官の声が震える。
「誰の命令だ」
「デウス様だ!」
神官は縋るように叫んだ。
「これは星を守るためだ! 異星の神々が侵攻すれば、人間の兵では戦えない! デウス様は我々を守ろうとして——」
シオンの表情から、すべてが消えた。
「そうか」
短い返事の後、首を締めていた手が離れる。
神官は壁を背にし、床へ崩れかけた。
——助かった。一瞬だけ、そう思ったのかもしれない。
シオンの右腕が動いた。黒い手袋に覆われた手が、横薙ぎに神官の首を通り過ぎる。
遅れて、神官の首に細い赤い線が喉へ走った。神官の頭部が肩から滑り落ち、床へ転がる。残された身体から、壊れた噴水のように血が噴き出し、白い壁を赤く染めた。
シオンは振り抜いた腕を下ろす。手刀の形を作った指先から、大量の血が滴っていた。
ラズは、壁の窪みに収まったまま震えて動けなかった。
足元には、神官だったものが広がっている。
飛び散った肉片。赤く濡れた法衣。転がった頭部。焦点の合わない目が、何もない場所を見つめている。
シオンは死体を見下ろさなかった。
自分が何をしたのか、確かめる必要さえないようだった。
「行くぞ」
ラズの喉が震える。
「……うん」
返事はした。だが、すぐには足が動かなかった。
シオンが先へ進む。
ラズも遅れて、その後を追う。
床には、神官の頭部と、原形を失った肉片が散らばっている。踏まないようにしようとするほど、どこへ足を置けばよいのか分からなくなる。
右へ。次に左へ。無意識に歩幅を広げ、不自然に蛇行しながら通路を進む。
それでも、靴の裏が薄く広がった血を踏み、粘ついた音がした。
ラズの顔から、さらに血の気が引く。
シオンは振り返らなかった。
だが、ラズの足音が乱れていることも、彼女が死体を避けて歩いていることも、その呼吸が浅くなっていることも、すべて気づいていた。
気づいた上で、何も言わない。慰める言葉など、シオンには持てなかった。
自分は人を殺す怪物だと、何度も伝えてきた。今、ラズはそれを言葉ではなく、現実として目にした。ただそれだけだった。
二人は血に濡れた通路を進んでいく。
地下のさらに奥から、人とも魔物とも判別できない、低い呻き声が聞こえ始めていた。




