幕間─それぞれの戦い方②
次に、シオンはラズが張った結界の前まで歩み寄った。
半透明の光へ指先で触れる。それだけで、接触した部分からピシッという乾いた音が鳴った。結界の表面へ細い亀裂が走る。
「あっ」
ラズが慌てて魔力を送り込む。亀裂は一度塞がったものの、その分、結界全体の光が薄くなった。
「魔力を全体へ均等に流しすぎだ」
シオンが言う。
「均等じゃないと、結界にならないんじゃないの?」
「形を保つだけの力は必要だ。だが、すべてを同じ強さにする必要はない」
シオンは再び結界に指先を当てる。今度は先ほどよりも僅かに力を加えた。亀裂が大きく広がる。
「敵が攻撃してくる場所へ、魔力を集めろ」
「そんなこと、攻撃される前に分かる?」
「敵を見ろ」
「三体もいたら、全部は見られないよ」
「だから、全部を同時に相手にするな」
シオンは結界から手を離した。
「敵の正面へ立つな。守る相手を逃がす方向を先に決めろ。その時間を作るためだけに防げ」
「攻撃は?」
「余裕がある時だけだ」
「でも、結界を張ってるだけじゃ、ずっと攻撃されるよ」
「永遠に耐える必要はない」
シオンの視線が鋭くなる。
「逃げるための数秒を作れればいい」
ラズは結界を消し、自身の両手を見る。
「倒さなくても、いいんだ」
「お前の目的が人を助けることならな」
「シオンは違うの?」
「俺には逃がす相手がいない」
その言葉に、ラズは黙った。
シオンはすぐに話を切り替える。
「次だ」
◇
次に命じられたのは、魔法を使うことではなかった。
シオンは森の中央にラズを立たせる。
「目を閉じろ」
「どうして?」
「いいから閉じろ」
ラズは言われた通り瞼を下ろした。
視界が暗くなる。それまで気にしていなかった音が、急に鮮明に感じられた。
「何か聞こえるか」
「……風の音」
「他は」
「沢の水。鳥の声」
「他に」
ラズは耳を澄ませる。
「葉が揺れてる」
「それは風だ」
「じゃあ、何も分からない」
「右」
言われて、意識を右へ向ける。
風、枝葉、遠くの水音。聞こえるのはそれくらいだ。特に変わった音は聞こえない。
「……何も聞こえないよ」
「小さな足音がある」
ラズは目を開けた。
右側の茂みを見る。だが、何もいない。
しばらく待つと、小型の獣が草の間から姿を現した。灰色の毛を持つ、小さな四足の獣だった。
二人の姿へ気づくと、すぐに森の奥へ逃げていく。
「全然分からなかった」
「今はそれでいい」
「シオンは、いつ気づいたの?」
「ここへ来る前からだ」
「それは真似できないよ」
「する必要はない」
シオンは獣が通った地面を指す。湿った土に、小さな足跡が残っていた。
「音が聞こえなくても、跡は見える」
次に、低い位置へ張り出した枝を示した。葉の一部だけが裏返り、付着していた露が落ちている。
「何かが通った後だ」
「そんなところまで、普段から見てるの?」
「意識して見てはいない」
「じゃあ、どうして分かるの?」
「違和感がある」
それもまた、長年の狩りで身についた感覚だった。
魔物を食べるために、何年も森を歩いてきた。獣の臭いを辿り、足跡を見つけ、血の跡を追う。
シオンには、それを技術として順序立てて説明することはできない。それでも、積み重ねた経験は確かに残っていた。
「昨日、お前は魔物に囲まれた」
「うん」
「最初に見た時、三体いることは分かっていたか」
「それは分かってた」
「それぞれの位置は覚えていたか」
「……多分」
「覚えていない顔だな」
図星だった。
「正面の二体へ気を取られて、横へ回った一体を見失った」
「どうして分かるの?」
「傷の付き方だ」
シオンはラズの右肩を見る。
「正面から来ると分かっていれば、あの向きには飛ばされない」
ラズは昨日、側面から飛びかかってきた魔物を思い出した。
「全部の敵を同時に見るのは、お前には難しい」
「じゃあ、どうするの?」
「自分が見なくていい場所を作れ」
「どうやって?」
「木や岩を背にする」
「逃げられなくならない?」
「背後をすべて塞ぐな。逃げる方向だけは残せ」
シオンは一本の太い木へ背を向け、立つ位置を示した。
「ここに立てば、少なくとも真後ろからは来ない」
「木を壊す魔物だったら?」
「その時は動け」
「……難しい」
「昨日死にかけたことよりは簡単だ」
反論できなかった。
「それと、守る相手を真後ろへ置くな」
「どうして?」
「お前が押し戻されれば、巻き込む」
昨日、ラズは女性と少女を真後ろへ庇ったまま、魔物に囲まれていた。自分が倒れれば、そのまま二人へ敵が届く位置だった。
「斜め後ろへ置け」
シオンは地面へ簡単な位置関係を描くように指を動かす。
「先に逃がす方向を決めて、その道を空けておけ」
「シオン、戦い方は教えられないって言ったのに、結構詳しいね」
「憶測だ」
「憶測?」
「俺なら、そんなことを考える必要がない」
敵が背後へ回ろうと、何体に囲まれようと、シオンにとっては関係がない。
攻撃を受けても、容易には傷つかない。包囲が完成する前に、敵をすべて殺すこともできる。逃げる必要すらない。
「だが、お前なら、恐らくそうした方が死ににくい」
シオンは、自分とは異なる存在としてラズを見ていた。
自身のやり方を押しつけるのではない。何年も見てきた魔物の習性と、昨日のラズの傷から、彼女でも使えそうな方法を推測している。
それが正しいのか、シオン自身にも確信はない。ただ、何も教えないよりはましだと判断したのだろう。
◇
訓練が一段落する頃には、太陽が森の真上まで昇っていた。
ラズは倒木へ腰掛け、息を整えている。
実際に魔物と戦ったわけではない。それでも魔法を何度も使い、走り、立ち位置を変え続けたことで、身体には疲労が溜まっていた。
「疲れた……」
「昨日よりは魔力を残している」
シオンは近くの木へ背を預けている。
「分かるの?」
「ああ」
「どれくらい残ってる?」
「三分の一ほどだ」
ラズは、自分の内側へ意識を向けてみた。言われてみれば、まだ魔法を使える程度の余力は残っている気がする。
「昨日は?」
「ほとんど空だった」
「じゃあ、昨日も、もう少しくらい使えたのかな」
「倒れるまで使うつもりか」
「治癒術も必要だったから」
「だから、その分を残せと言っている」
シオンは腕を組んだ。
「お前は、自分が使える魔力の量を把握していない」
「どうしたら分かるの?」
「自分で覚えろ」
「どうやって?」
「あと何回、何を使えるのか数えろ」
ラズは指を折り、先ほど使った魔法を思い返した。
火球。もう一度火球。結界。小さな風の魔法。移動を妨げるために使った土の魔法。
「毎回数えるの?」
「最初はな」
「忘れそう」
「忘れれば死ぬ」
「厳しい」
「死ぬよりはましだ」
シオンの口調は冷たい。だが、言っていることは一貫していた。
誰かを助けるなとは、もう言わない。ラズがやめないと分かったからだ。
その代わり、助けようとした相手と一緒に死ぬことだけは、認めようとしなかった。
「シオンは、自分の力がどれくらい残ってるか分かるの?」
ラズが尋ねる。
「分からん」
「分からないの?」
「俺の力は、お前が使っている魔力とは違う」
「さっきの赤黒いもの?」
「ああ」
シオンは左胸へ一瞬だけ視線を落とした。
「あれが何なのか、俺にも正確には分からない」
「魔力じゃないの?」
「少なくとも、普通の魔力と同じようには扱えない」
シオンの内側にある力は、術式へ流し込むことができない。使えば使うほど減っていくという、通常の魔力と同じ感覚もない。底が存在するのかさえ、分からない。
ただ、力を引き出せば、その分だけ器である身体へ負担がかかる。分かってるのは、それくらいだった。
「だから、お前は自分の魔力を、自分で覚えろ」
「分かった」
「……返事だけは立派だな」
「ちゃんと覚えるよ」
「昨日も、待っていろと言われて動いただろう」
「あれとは別の話」
「同じだ」
「違うよ」
「違わない」
ラズは少し頬を膨らませた。
◇
少し休んだ後、ラズは倒木へ座ったまま、シオンを見上げた。
「シオン」
「何だ」
「昨日、わたしを助けに来てくれたでしょう」
「魔物を殺しただけだ」
「それは、助けてくれたんじゃないの?」
シオンの視線が僅かに下がる。何かを思い出している時の顔だった。
「違う」
「でも、わたしが襲われていたから来た」
「お前が勝手に持ち場を離れたから探した」
「探してくれたんだ」
「話を変えるな」
シオンは苛立ったように眉を寄せる。
「見つけた時に、魔物がいた。それを殺しただけだ」
「わたしは、シオンが来たから助かった」
「結果がそうなっただけだ」
「それを、守ったって言うんじゃないの?」
「言わない」
あまりにも頑なな否定だった。
ラズは、シオンの拳を見る。
昨日、三体の魔物を瞬く間に殺した拳。今日も、大型の魔物を一撃で屠った。初めて出会った時も。
シオンの圧倒的な力は、怖いとは思う。しかし、その拳がなければ、ラズはすでに死んでいたかもしれない。
「わたしには、守れる力に見えるよ」
その言葉を聞いたシオンの表情が突如として消えた。先ほどまで浮かんでいた苛立ちも、呆れもなくなる。
ラズは、自分がシオンの触れられたくないものへ触れたことに気づいた。それでも、言葉を取り消さなかった。
「最初に会った時も、昨日も。シオンは、その力でわたしを助けた」
「違う」
凄みのある低い声だった。
「この力は、守るためのものではない」
シオンは自分の右手を見る。
黒い革手袋に覆われた拳。今は血などついていない。だが、シオンの目には、常に血に濡れて見えているのかもしれない。
「——殺すためだけの力だ」
ラズは黙って、その言葉を聞いた。
「俺は、この力で、守りたかった人間を殺した」
父。母。リゼ。
詳しい経緯は、まだ聞いていない。それでも、その三人をシオン自身が殺したことはラズも知っている。
「この拳は、殺す相手を選ばない」
シオンはゆっくりと拳を握る。
「大切な人間も、憎い相手も。同じように壊す」
その言葉は、ただ過去を語っているのではなかった。
シオンの中では、今も同じことが繰り返されているのだろう。
拳を見るたび、力を使うたび、魔物の身体が砕けるたびに、かつて自分が壊した者たちの姿が重なる。
「惨劇の後、人間の食事を受けつけなくなった」
シオンは淡々と続ける。
「生きるためには、魔物を殺して喰うしかなかった」
何年も。ただ、それを繰り返してきた。
「今は、憎い相手を殺すために、この拳を使っている」
デウスを殺すまで、復讐を終えるまで。シオンは自分が死ぬことを許していない。
「守るために使ったことなど、一度もない」
「でも——」
「お前を襲った魔物を殺したのも同じだ」
ラズが何か言いかけたが、それを遮るようにシオンは言葉を続ける。
「敵だったから殺した。邪魔だったから殺した。それだけだ」
シオンは、本気でそう思っている。
少なくとも今の彼にとって、誰かを助けたという結果と、敵を殺したという行為は結びついていない。
守ったと認めれば、自分にも誰かを守れる力があると、認めることになる。そして同時に、守る力があったのなら、なぜ大切な者たちを守れなかったのか。なぜ、自ら殺したのか。その問いを、さらに強く自分へ突きつけることになる。
「だから、俺の戦い方は教えない」
シオンは拳を下ろす。
「教えられないだけではない」
左右で色の異なる瞳が、ラズへ向けられる。
「覚えてほしくない」
ラズは目を瞬かせた。
「どうして?」
「こんなものは、戦いではない」
シオンは、先ほど倒した魔物がいる方角へ目を向けた。
「力で押し潰して、動かなくなるまで壊すだけだ」
「それでも、シオンはその力で生きてきた」
「生きたかったわけではない」
静かな声だった。
ラズは、何も言えなくなる。
「死ねなかったから、続けただけだ」
生きるために魔物を喰らう。だが、生きたいわけではない。デウスを殺すまでは死ねないから、身体を動かすために喰らい続けている。
矛盾した生存の中で、シオンは何年も魔物を殺してきた。
「お前は違う」
唐突に言われ、ラズは顔を上げた。
「え?」
「お前が誰かを助けたいと言うなら、俺と同じものになる必要はない」
シオン自身、口にしてから僅かに顔をしかめた。
「寧ろ、なってはいけない」
ラズが誰かを助けたいという気持ちを、全面的に認めたわけではない。
ただ、ラズがそう選ぶことを、止められないと理解したのだ。
「だから、俺から教えられるのは、死ににくくする方法だけだ」
「戦い方じゃなくて?」
「俺が話したことが正しい保証もない」
シオンは魔法を使えない。人間の戦術を学んだこともない。自分とは異なる身体を持つラズが、どう戦うのが正しいのかも知らない。
それでも、何年も魔物を見てきた。
どのように獲物へ回り込むのか。弱った者を、どのように狙うのか。魔力へ反応する種類がいること。追う時と逃げる時、どこへ向かうのか。その知識だけは経験としてある。
「昨日より長く生きられるかもしれない。その程度の知恵だ」
「それで十分だよ」
ラズは答えた。
シオンは納得していないように眉を寄せる。
「十分なわけがない」
「でも、昨日のわたしよりは上手くできる」
「一日でできると思うな」
「じゃあ、明日も教えて」
シオンの眉間に、さらに皺が寄る。
「今日だけだ」
「昨日は、明日から教えるって言ったよ」
「言ったことを後悔している」
「じゃあ、後悔したまま教えて」
「なぜそうなる」
ラズは少し笑った。
シオンはその表情を見て、さらに不機嫌そうに顔を逸らした。
◇
二人は、再びアルミナを目指して歩き始めた。
シオンが前を歩き、ラズが少し後ろをついていく。昨日までと同じ並びだった。
それでも、ラズの目に映る森は、昨日までとは僅かに違っていた。
木の根。折れた枝。踏み荒らされた草。鳥の声が不自然に途切れた場所。
今までは気に留めなかったものが、何かの存在を示す痕跡に見え始めている。
「右」
前を歩くシオンが、突然呟いた。
ラズは反射的に右を見る。木々の間で、小さな影が動いた。
魔物ではない。灰色の獣が二人を見つめ、すぐに逃げていく。
「今の、分かった」
「見えてからでは遅い」
「でも、昨日よりは早かった」
「昨日なら、気づいてもいなかっただろうな」
「じゃあ、少し進歩した」
「一度で調子に乗るな」
シオンの歩調は変わらない。
だが、少し進んだ後、低い声が続いた。
「魔力を感じた時だけ、周囲を見るな」
「え?」
「獣は魔力を持たないものが多い」
ラズは、その背中を見つめた。
「それ、次の教え?」
「違う」
「でも、教えてくれた」
「……黙って歩け」
ラズは小さく笑い、その後を追った。
シオンの力は、本人が言うように、殺すためのものなのかもしれない。
大切な者も、憎い相手も、区別なく壊してしまった拳。
その事実を、ラズが簡単な言葉で否定することはできない。
それでも、昨日、自分が生きて帰れたことも事実だった。
シオンが魔物を殺した結果にすぎないと否定しても、ラズにとっては、確かに助けられたのだ。
今はまだ、それをシオンへ認めさせることはできない。認めさせる必要があるのかも分からない。
ただ、ラズは忘れないことにした。シオンがどれほど自分の力を呪っていても、その力によって救われた命が、少なくとも一つはここにあることを。
二人は森の奥へ向かって、歩き続けた。
シオンはラズへ、戦い方を教えることはできなかった。代わりに、何年も魔物を殺し続ける中で覚えた、名もない知識を少しずつ言葉へ変えた。
誰かを守るためではない。ラズが勝手に危険へ飛び込み、勝手に死ぬことを防ぐため。
少なくともシオンは、そう思うことにしていた。
次回からアルミナ編になります!
感想や評価、ブクマ、リアクションなどいただけますと励みになります。引き続きよろしくお願いいたします!




