幕間─それぞれの戦い方①
翌朝。
森には、まだ薄い霧が残っていた。夜露に濡れた葉が朝の光を弾き、風が吹くたび、枝先から細かな雫が落ちる。
昨夜、二人が休んだ場所には、燃え尽きた焚き火の灰と、踏み固められた土だけが残されていた。
ラズは火の跡の傍に座り、自分の右肩へ左手を添えていた。昨日、魔物に弾き飛ばされた際に痛めた場所だ。
夜の間に魔力はある程度戻っている。眠る前と、目覚めた後。二度に分けて治癒術を使ったことで、腕は動かせるようになっていた。
ただし、大きく回そうとすると、まだ肩の奥に鈍い痛みが走る。
「動くか」
声をかけられ、ラズは顔を上げた。
少し離れた木の傍に、シオンが立っている。
いつもの黒い衣服の上へ毛皮付きの外套を羽織り、長い銀白の髪を低い位置で束ねていた。昨日、魔物の血に濡れていた黒い革手袋も、すでに綺麗になっている。
「うん。まだ少し痛いけど」
ラズは腕をゆっくりと上げてみせた。
肩の高さまでは問題なく動く。それより上へ持ち上げた途端、表情が僅かに歪んだ。
シオンはその反応を見逃さなかった。
「なら、今日はやめるか」
「何を?」
「昨日の話だ」
ラズは一瞬考え、それから表情を明るくした。
「戦い方を教えてくれるの?」
「声が大きい」
「本当に教えてくれるんだ」
「嫌ならやめる」
「ううん。やる」
即答だった。
シオンは露骨に顔を顰める。
「先に言っておく」
そう告げて、森の奥へ歩き始めた。
ラズも立ち上がり、その後を追う。
「俺は、お前に戦い方を教えられない」
ラズは首を傾げた。
「昨日は教えるって言ったよ」
「生き残り方を教えると言っただけだ」
「同じじゃないの?」
「全く違う」
シオンは振り返らない。
「俺の戦い方を、お前は使えない」
それは、冷たい拒絶ではなかった。
シオンとラズの間にある、埋めようのない違いを確認するような声だった。
「どうして?」
「実際に見れば分かる」
◇
二人は沢沿いを北へ進んだ。昨日とは違う道だった。
人の気配はなく、獣が何度も通ったことで踏み固められたらしい細い跡だけが、木々の間へ続いている。
しばらく歩いたところで、シオンが足を止めた。
「いる」
ラズも周囲を見回す。
「どこに?」
「前だ」
目を凝らしても、見えるのは木と草ばかりだった。
だが、少し待つと、茂みの奥から低い唸り声が聞こえた。
何かが動き、太い枝が折れる。木々を押し退けるようにして現れたのは、四足の大型の魔物だった。
熊に似た体躯。全身を覆う、濃い灰色の毛。背中には岩のような甲殻が盛り上がり、前脚の先には、人間の腕ほどもある爪が伸びている。
魔物は二人を見つけると、大きく口を開いて咆哮した。
空気が震える。
ラズは反射的に両腕を上げ、魔法陣を作ろうとした。
その動きを遮るように、シオンが言う。
「そこで見ていろ」
次の瞬間、シオンの姿が消えた。
少なくとも、ラズの目にはそう見えた。
地面を蹴った場所だけが大きく陥没し、土と枯れ葉が遅れて舞い上がる。
魔物がシオンの姿を捉えるよりも早く、その拳が腹部へ突き刺さった。
重い衝撃音が響く。
魔物の巨体が地面から浮いた。腹部が大きく陥没し、背中を覆っていた甲殻が内側から砕ける。
身体は何本もの木を巻き込みながら吹き飛び、地面へ叩きつけられた。
森全体が揺れたような錯覚を覚える。
魔物は一度だけ大きく痙攣し、そのまま動かなくなった。
戦いと呼べる時間は、ほんの一瞬だった。
シオンは死骸へ近づき、慣れた手つきで魔核を抜き取ると、魔物の死骸に背を向けた。
「これだ」
ラズは倒れた魔物を見たまま、しばらく返事ができなかった。
「……何が?」
「俺の戦い方だ」
シオンは自分の拳を見る。
「見つけて、近づいて、殴る」
何でもないことのように、淡々と続ける。
「それだけだ」
魔物の身体は、すでに一撃でほとんど原形を失っている。
そこに技術と呼べるものがあったのか、ラズには分からなかった。
構えもない。相手の攻撃を誘うことも、防ぐこともない。圧倒的な力と速度を押しつけ、相手が何かをする前に叩き潰す。それだけだ。
あまりにも単純だった。そして、それ故にシオン以外の誰にも真似できない。
「一回で倒れなかったら?」
「死ぬまで殴る」
「逃げたら?」
「追う」
「速い相手でも?」
「追いつく」
「追いつけなかったら?」
「もっと速く走る」
あまりにも単純すぎる答え故に、何も知らない人間が聞けば冗談だと思うかもしれない。しかし、シオンは決して冗談を言っているわけではなかった。本気で走った彼から逃げ切れる魔物などまずいない。
「囲まれたら?」
「全部殺す」
「攻撃を避けられたら?」
「もっと速く拳を振る」
「すごく硬い魔物だったら?」
「殺せるまで威力を上げる」
ラズは口を噤んだ。
これでは、教わりようがない。シオンも最初から、それを分かっていたのだ。
「この身体になった直後から、魔物を殺すことはできた」
シオンは倒れた魔物へ視線を向ける。
「力の使い方を覚える必要もなかった。拳を振れば死んだ」
実験を受ける前のシオンが、戦うことのできる人間だったのかは分からない。そもそも、戦いなど必要としない暮らしをしていたのかもしれない。
だが、ケイオスを宿した後の彼にとって、普通の魔物は最初から対等な敵ではなかった。
「それから、何年も同じことを繰り返した」
シオンは静かに続ける。
「飢えれば探す。見つければ殺す。そして喰う」
魔物の肉しか受けつけない身体。デウスへ復讐するために歩き続けるには、身体を維持しなければならない。そのためには、魔物を殺し続けるしかなかった。
そこに勝敗を競う余地などない。狩りと呼ぶには荒々しく、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的だった。
「拳は使っているが、これは格闘術ではない」
シオンがラズを見る。
「俺には、人間の戦い方は教えられない」
人間の戦い方。その言い方は、自分を人間の側へ含めていないようにも聞こえた。
だが、普通の人間がシオンと同じ方法で戦えないことは事実だった。
「剣の使い方も知らない。体術を習ったこともない。魔法も使えない」
一つだけ引っかかることがあったラズは、口を挟む。
「魔法は、本当に使えないの?」
「ああ」
「でも、昨日も、わたしの魔力がほとんど残ってないって分かったよね」
「魔力を感じることと、使うことは別だ」
シオンは徐に片手を空に掲げた。掌の上に、赤黒いものが滲み出す。
霧にも炎にも似ていない。輪郭の定まらない力の塊が、歪に膨らんでいく。その力の塊を拒むように周囲の空気が震えた。ただそこに存在しているだけで、辺りを押し潰すような異様な圧迫感がある。ラズが普段使っている魔力とは、明らかに異なるものだった。
「外へ出すことはできる」
赤黒い力が僅かに膨張する。
「だが、それだけだ」
次の瞬間、力は形を保てず、黒い粒子となって弾けた。周囲へ散り、空気の中へ溶ける。
「術式へ流し込むことができない」
「術式が分からないから?」
「違う」
シオンは掌を閉じた。
「分かったところで使えない。俺には、魔法を成立させる素養がない」
人間の魔法は、自身の魔力を術式へ通し、決められた形へ変えることで発動する。炎なら炎、水なら水、治癒なら治癒の術式へと魔力を流し込むことでその効果を得る。
人によって魔力には異なる性質があり、扱いやすい術も違う。
だが、それ以前に。そもそも魔力を術式へ流し、魔法として形にできるかどうかにも、生まれつきの素養が必要だった。
シオンの内側には、途方もない力がある。しかし、その大半はシオンが生まれ持ったものではない。ケイオスを宿したことで与えられた力だ。
どれほど膨大であっても、シオンという器には、それを魔法へ変える性質がなかった。
「じゃあ、ケイオスは魔法を使えるの?」
ラズが尋ねる。
シオンの眉間に皺が寄った。
「知らん」
「でも、今のはケイオスの力なんでしょう?」
「そうだとしても、俺が知る必要はない」
ケイオス自身が何をできるのか。シオンは、本当に確かめようとしていないらしい。
膂力だけで、大抵の魔物は一撃で倒せる。シオンにとっては、それだけで十分だった。ケイオスが魔法を使えるかなどどうでもいい。
ラズも、それ以上は尋ねなかった。
◇
「それで、終わり?」
沢へ戻る途中、ラズが尋ねた。
「何がだ」
「シオンの戦い方を見せてくれただけ」
「それで十分だろう」
「参考にならないってことは分かった」
「最初からそう言っている」
「でも、昨日は生き残り方を教えるって言ったよ」
シオンは足を止めた。深く息を吐き、ラズを振り返る。
「お前は、昨日と同じことが起きたら助けると言ったな」
ラズは、ほとんど考えることなく答えた。
「うん、助ける」
「……迷いがないな」
「昨日も言ったよ」
ラズは自分の胸へ手を添える。
「助けるって決めたのは、わたしだから」
「その結果、死にかけた」
「だから、今日は教えてくれるんでしょう?」
シオンはラズを見た。
自分が何者なのかも分からない少女。なぜ魔法を使えるのかも知らない。
それでも昨日は、見知らぬ人間を守るために魔物の前へ立った。止めたところで、次も同じことをする。
シオンには、それが分かってしまっていた。
「……構えろ」
ラズの顔が明るくなる。
「やっぱり教えてくれるの?」
「騒ぐな」
ラズは嬉しそうに両腕を前へ出した。右肩にはまだ痛みがあるため、左腕を中心に魔法を使える姿勢を取る。
「何をすればいい?」
「昨日使った魔法を、順番に見せろ」
「全部?」
「今使えるものだけでいい」
ラズは少し考え、左手の先へ意識を向けた。
淡い光の線が空中へ走り、円形の魔法陣を作る。中央へ炎が集まり、小さな火球となった。
「あの木に撃て」
ラズが火球を放つ。炎は離れた木の幹へ当たり、表面を黒く焦がした。
ラズは少し得意気にシオンを見る。
「どう?」
「遅い」
即答だった。
「当たったよ」
「木は避けない」
「それはそうだけど」
ラズは拗ねたように頬を膨らませた。
シオンは火球が通った場所へ目を向ける。
「撃つ前に、魔力が集まりすぎている」
「集めないと撃てないよ」
「集めるなとは言っていない」
言葉を探すように、僅かな間が空く。
シオンは魔法を使えない。術式の組み方も知らない。
分かるのは、ラズの周囲で魔力がどのように動いているかだけだった。
「お前が撃つ前、手の前で魔力が長く固まっていた」
「魔法陣を作ってたから」
「それが遅い。お前は魔力量が多い。そのせいで、余計な力まで集めている」
「どうすれば速くなるの?」
「知らん」
「……教えてくれるんじゃなかったの?」
「だから、魔法そのものは教えられないと言っている」
シオンは苛立ったように眉を寄せる。
「ただ、敵から見れば、撃たれる前に分かる。俺が分かったようにな」
「魔物も魔力を感じるの?」
「種類による」
「昨日の狼みたいな魔物は?」
「感じていたはずだ」
ラズは昨日の戦いを思い返した。
炎を放つ前、魔物はすでに身体を低くし、避ける準備をしていたような気がする。
「じゃあ、どうしたらいい?」
「もう一度撃て」
「さっきと同じように?」
「今度は違う場所へだ」
シオンは、離れた場所に生える二本の木を指した。
「右へ撃つように見せて、左へ撃て」
「そんなこと、できるかな」
「できなければ覚えろ」
ラズは不満そうな顔をしながら、再び魔法陣を作った。身体を右側の木へ向ける。火球が生まれる直前、左へ向けようと手を動かした。
だが、炎は不安定に揺れ、その場で消えてしまう。
「消えちゃった」
「魔力が散った」
「見れば分かるよ」
「違う」
シオンはラズの手元を見ていた。
「手を動かした瞬間、術式へ入る前の力が外へ逃げた」
「そんなことまで分かるの?」
「流れが乱れたのは分かる」
「どうすればいいかは?」
「分からん」
「また?」
「俺は魔法を学んだことがない」
シオン自身も、どう説明すればよいのか分からないのだろう。彼は、魔力の流れを、目や感覚で捉えているだけだ。魔法学として理解しているわけではない。
「もう一度やれ」
ラズは右肩へ負担をかけないよう、左手の前へ魔法陣を作る。
「今度は手を動かすな」
「じゃあ、どうやって向きを変えるの?」
「目で追うな」
「何を?」
「本当に撃つ場所だ」
シオンは左側の木を指した。
「最初から、あそこへ力を流せ」
「でも、右へ撃つふりをするんでしょう?」
「身体と視線だけを右へ向けろ」
「魔法は左?」
「ああ」
「難しいよ」
「昨日の魔物を相手にするよりは簡単だ」
ラズは一度深呼吸をした。
身体を右へ向ける。視線も、右の木へ。だが、魔法陣へ集めた魔力は、意識して左へ流す。
火球が生まれた。今度は消えない。
炎は身体の向きとは異なる方向へ飛び、左側の木へ命中した。
「あっ」
ラズの顔が明るくなる。
「できた」
「遅い」
「また?」
「もし俺が相手なら、今の間に十回は殺せる」
「シオンを基準にされても困るよ」
「魔物も待ってはくれない」
それでも、先ほどよりは良かったらしい。シオンはやり直せとは言わず、次へ進んだ。
「昨日、結界を張りながら攻撃したと言っていたな」
「うん」
「やってみろ」
ラズは自分を覆うように、半透明の結界を作った。その内側から、火球の術式を展開する。
二つの魔法陣が重なり、淡い光が不安定に揺れる。
「もういい」
「まだ撃ってないよ」
「今ので分かった」
シオンは結界の周囲を見る。
「両方へ同じだけ魔力を流している」
「そうしないと、どっちかが消えちゃうよ」
「だから昨日は、両方とも中途半端になった」
ラズは言葉に詰まった。
シオンは実際の戦闘を見ていない。それでも、その指摘は昨日の状況を正確に言い当てている。
「敵を倒す必要があるなら、攻撃へ流せ」
シオンが言う。
「時間を稼ぐだけなら、結界へ集中しろ」
「両方しないと守れない時は?」
「一人で両方やろうとするな」
「でも、昨日はわたししかいなかった」
「なら、攻撃するな」
シオンは迷わず答えた。
「結界だけに集中して、守る相手を逃がせ」
「倒さなくていいの?」
シオンはラズを見る。
「お前は、何のために戦うんだ」
ラズは少し考えた。
「人を助けるため」
「なら、魔物を殺すことが目的ではない」
シオンの口から出た言葉に、ラズは僅かに目を見開いた。
「守る相手を逃がせたなら、それでいい」
「でも、シオンなら、魔物を殺すでしょう?」
「俺とお前は違う」
シオンの声が僅かに低く、冷たさを帯びる。
「——俺は、殺すことしかできない」
その言葉が落ちた瞬間、森の空気が、僅かに重くなった気がした。




