幕間─わたしが選んだこと②
次の瞬間、先頭の魔物の身体が、視界から消えた。
——違う。何本もの木を薙ぎ倒しながら、凄まじい速度で横に吹き飛んだのだ。
二体目の顎へ、下から黒い拳が振り上げられる。頭部が砕け、身体だけが地面へ崩れ落ちた。
最後の一体が、甲高い声を上げて逃げようとする。黒い影が一瞬で追いつく。背中へ踏み下ろされた足が、魔物の背骨を折った。
乾いた破砕音が森へ響く。魔物はその場へ倒れ、二度と動かなかった。
ラズの前に、銀白の長い髪を低い位置で結った青年が立っている。全身を黒い衣服で覆い、両手には血に濡れた革手袋を嵌めていた。
右の紫と左の赤。二色の瞳が、倒れた魔物ではなく、ラズへ向けられている。
「シオン……」
「何をしている」
その低い声は、怒りを帯びているようにも聞こえた。
ラズは答えられなかった。
シオンがゆっくりと近づいてくる。
「待っていろと言ったはずだ」
「……声が、聞こえたから」
「だから何だ」
「襲われている人がいた」
「お前には関係ない」
「でも——」
「その結果が、これか」
シオンの視線が、ラズの右腕へ向く。
肩を痛めた腕は、身体の脇へ力なく下がったままだ。
「腕は」
「少し痛いだけ」
シオンは無言で右腕を取った。手首から肘、肩へと、確かめるように触れる。
「痛っ」
「折れてはいない」
それを確認すると手を離す。
「肩を傷めている。魔力もほとんど使い切ったな」
シオンはラズの顔を睨んだ。その表情には、強い怒りが滲んでいる。
「俺が戻らなければ、死んでいた」
「……うん」
「死にたいのか」
「違う」
「なら、なぜ勝手に動いた」
「助けたかったから」
「なぜだ」
鋭い問いだった。
ラズは口を開きかけ、閉じる。先ほど、自分でも同じことを考えた。
「分からない」
シオンの目が冷たくなる。
「またそれか」
「でも、本当に分からないの」
ラズは左手を、自分の胸へ添えた。
「わたしには記憶がない。どうして魔法が使えるのかも分からない。どうしてリゼに似ているのかも」
「……その名を出すな」
「シオンは、顔だけじゃなくて、話し方や仕草も似ているって言った」
シオンの眉間に、深い皺が刻まれる。
「だったら、今の気持ちも、わたしのものじゃないのかもしれない」
「何?」
「誰かが苦しんでいるのを、放っておけないと思ったこと」
ラズは一度、目を伏せた。
「それも、リゼに似ているからなのかなって」
シオンは答えない。否定も、肯定もしなかった。
「わたしが自分で思ったことじゃないのかもしれない」
声は小さかった。それでも、すぐに顔を上げる。
「でも——」
ラズはシオンを真っ直ぐに見つめた。
「悲鳴を聞いて、行くと決めたのはわたしだよ」
シオンの瞳が僅かに揺れる。
「待っていることもできた。聞こえないふりもできた。シオンが戻るまで、何もしないこともできた」
「それが正解だった」
「でも、わたしは行った」
「愚かな選択だ」
「そうかもしれない」
ラズは素直に認めた。
「怖かった。何をすればいいのかも分からなかった。シオンの言った通り、魔法が使えても、わたしは戦えなかった」
右腕を僅かに動かしかけ、肩の痛みに顔を歪める。
「それでも、助けようって決めたことまで、誰かのものにはしたくない」
自分が何者なのかは分からない。どこで生まれ、何をしてきたのかも知らない。誰かに似ていると言われても、その誰かの記憶を持っているわけではない。
それでも。今、この瞬間に何を選ぶのかは、自分で決められるはずだ。
「助けたいと思った理由が、誰かから来たものだったとしても」
ラズは、真っ直ぐに言った。
「助けることを選んだのは、わたしだよ」
シオンは長く沈黙していた。怒りの滲んでいた表情が、理解できないものを見るような眼差しへと変わった。
やがて、遠くから足音が聞こえた。
ラズが振り返る。
先ほど逃げた女性と少女が、恐る恐る木々の間から戻ってきた。すぐ近くの茂みへ身を隠し、様子を窺っていたらしい。女性の手には、武器と呼ぶには頼りない木の棒が握られている。
倒れた魔物と、その傍に立つシオンを見て、二人は足を止めた。
「倒したの……?」
「この人が」
ラズがシオンを見る。
「俺は、魔物を殺しただけだ」
シオンは興味を失ったように背を向ける。
「行くぞ」
「待って」
ラズは女性たちへ近づこうとした。だが、一歩踏み出した瞬間、膝から力が抜ける。倒れる寸前、シオンが服の襟を掴んだ。
「わっ」
まるで軽い荷物でも持ち上げるように、ラズの身体を支える。
「魔力を使い切るな」
「……ごめん」
「俺に謝るな」
シオンはラズを立たせた。
女性が、何度も深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
少女も母親の服を握りながら、小さな声で言った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ラズは疲れの滲む顔でへにゃりと笑う。
「怪我はない?」
「うん」
少女が頷く。
「良かった」
女性が倒れた男へ目を向けた。表情が強張る。
「あなた……」
シオンは男の傍へ歩み寄り、僅かに屈んだ。首元へ指を当てる。
「まだ生きている」
女性が息を呑んだ。
「本当ですか?」
「脈は弱い。失血している。このままでは死ぬ」
ラズが男の傍へ行こうとする。その前へ、シオンが腕を出した。
「お前はもう魔法を使うな」
「でも、治さないと」
「今使えば、お前が倒れる」
「少しくらいなら」
「駄目だ」
予想以上に強い口調で止められ、ラズは目を瞬かせる。
シオンは倒れている男を見下ろした。
腹部の傷口へ、近くに落ちていた清潔そうな布を強く押し当てる。さらに、荷車に荷を固定するのに使われていたらしい紐を外し、布がずれないよう男の胴体へ巻きつけた。
「応急処置だ。長くは持たない」
女性へ顔を向ける。
「近くに村はあるのか」
「街道を南へ進んだ先に……わたしたちの村があります」
「どれくらいだ」
「歩いて、一刻ほどです」
シオンは男の身体を片腕で持ち上げた。軽々と肩へ担ぐ。
「街道まで案内しろ」
女性は驚いたようにシオンを見る。
「運んでくださるのですか?」
「街道までだ」
それ以上は説明しなかった。
だが、街道へ出た後もシオンは男を下ろさず、村の入口までそのまま運び続けた。
◇
女性たちと別れる頃には、日が傾き始めていた。
シオンとラズは再び街道を外れ、森の中を進んでいる。
道中で僅かに魔力が戻ったため、ラズは右肩へごく弱い治癒術を施していた。完全に治すほどの力はない。腫れと痛みを少し和らげただけだった。
シオンは先ほどから、一度も口を開いていない。
「……まだ怒ってる?」
「怒っていない」
「怒ってる声だけど」
「黙れ」
「やっぱり怒ってる」
シオンが足を止める。
ラズもその背後で立ち止まった。
「次に、同じことが起きたらどうする」
「同じこと?」
「誰かが魔物に襲われている。俺はいない」
ラズは少しだけ考えた。
「助ける」
「……やはりか」
シオンは目を伏せ、深く息を吐いた。
「なら、せめて死なない方法を覚えろ」
「え?」
「今日のお前は、酷すぎる」
シオンは淡々と指摘する。
「敵の数も位置も確かめず、正面から飛び出したんじゃないのか」
ラズは黙る。
「守る相手を背後へ置いたまま、敵に囲まれた。結界を維持しながら攻撃しようとして、どちらも中途半端になった」
実際の戦いを見ていなかったはずなのに、まるでその場にいたように言い当てられる。
ラズには、返す言葉がなかった。
「一体へ意識を向け、残りを見失った」
「……うん」
「魔力の残量も考えていない。逃げ道も作らず、最後には敵の前へ立っていることしかできなくなった」
「……そんなに駄目だった?」
「駄目という言葉では足りない」
「でも、少しは守れたよ」
「俺が戻らなければ、守ろうとした相手と一緒に死んでいた」
正論だった。
ラズは肩を落とす。
「分かりました」
「何がだ」
「わたしは、戦えない」
「今はな」
ラズが顔を上げた。
その言い方には、先があるように聞こえた。
「今は?」
シオンは再び歩き始める。
ラズとは目を合わせない。
「明日から教える」
「何を?」
「生き残り方だ」
ラズは慌てて、その後を追った。
「シオンが?」
「他に誰がいる」
「でも、さっきまで戦うなって言ってたのに」
「お前が、二度と誰も助けないと言うなら、教える必要はない」
「それは約束できないかも」
「なら、覚えろ」
「魔法の使い方を?」
「違う」
シオンは振り返らないまま言った。
「敵の数と位置を見る方法。戦わずに逃げる方法。守る相手を逃がすための場所の選び方。魔力を使い切らない配分」
一つ挙げるごとに、ラズの顔が少し明るくなる。
ラズは微笑みながら頷いた。
「分かった。頑張る」
「笑うな」
「どうして?」
「遊びではない」
「うん。でも、シオンが教えてくれると思わなかったから」
「同じ失敗を見せられる方が不快なだけだ」
「それでも、教えてくれるんでしょう?」
「……黙って歩け」
シオンは歩調を速めた。
ラズもその後を追う。だが、右肩を痛めているため、いつものようには歩けない。足を踏み出すたび、振動が肩へ響く。
少しずつ、二人の距離が開いていった。やがて、シオンの歩みが僅かに遅くなる。
ラズは、その背中を見つめた。
自分が何者なのかは、まだ分からない。今日生まれた感情が、どこから来たものなのかも知らない。
それでも、悲鳴を聞いて駆け出したのは自分だった。恐怖を感じながら、誰かの前へ立ったのも自分だった。
その選択が正しかったのかは分からない。少なくとも、やり方は間違っていたらしい。
ならば、次はもっとうまくやる。助けたいと思った時、ただ一緒に死ぬのではなく、本当に助けられるように。
「シオン」
「何だ」
「明日からじゃなくて、今日からでもいいよ」
「腕を治してからにしろ」
「少しなら動くよ」
「動かすな」
「でも——」
「まず、命令を聞くことから覚えろ」
ラズは少し考えた。
「それは難しいかも」
シオンの眉間へ、深い皺が刻まれる。
「……教えると言ったことを、もう後悔している」
二人は森の奥へ進んでいく。
互いの間には、まだ簡単には触れられないほどの距離があった。
それでも翌日から、その距離を保ったまま、シオンはラズへ生き残るための術を教え始めることになる。
折れないラズへの妥協なのか、同じ無謀を繰り返されることが耐えられないだけなのか。それとも、ラズに死んでほしくないと、すでに思い始めているのか。
シオン自身も、その答えを知ろうとはしなかった。




