幕間─わたしが選んだこと①
アルミナへ向かう街道を外れ、シオンとラズは深い森の中を歩いていた。
正規の街道を使えば、アルミナまでさほど時間はかからない。先を急ぐシオンとしても、できることなら整備された道を進みたかった。
だが、アルミナは神殿と深い関わりを持つ研究都市だ。周辺の街道を神殿兵が巡回している可能性は高い。その中に、シオンの顔を知る者がいないとも限らなかった。
長い銀白の髪。右が紫、左が赤という特徴的な瞳。全身を覆う黒い衣服。人混みの中でなくとも、シオンの姿は遠目から目立つ。
結局、二人は人目を避けるため、獣道とすら呼べない森の中を進むことになった。
先を歩くシオンは、枝を避けることもなく進んでいく。
顔の前へ張り出した枝は手で払い、邪魔なものはそのまま折る。足元に岩が転がっていようと、歩調を変えることさえない。毛皮付きの黒い外套の背中が、薄暗い木々の間へ溶け込んでいた。
ラズは、その少し後ろを歩いている。
「シオン」
「何だ」
ラズの声には、僅かに息切れが混じっていた。
「少しだけ、ゆっくり歩いて」
「なぜだ」
「さっきから何度も枝に引っかかってるの」
「避けろ」
「避けてるよ。一本避けても、すぐ次が来るの」
「なら屈め」
ラズは前を行くシオンの背中を見上げた。
「シオンの方が背が高いのに、どうして引っかからないの?」
「折っているからだ」
言われて足元を見る。シオンが通った後には、折れた枝がいくつも散らばっていた。
ラズは呆れた目でシオンを見つめる。
「もっと自然を大事にしようよ」
「知るか」
相変わらず素っ気ない返事だった。
それでも、シオンの歩調は僅かに緩んだ。
ラズはそのことを指摘せず、少しだけ近くなった背中を追った。
◇
昼を過ぎた頃。二人は森の中を流れる、小さな沢へ辿り着いた。
シオンは水辺の手前で足を止め、森の奥へ視線を向ける。
風に揺れる葉。細い水音。鳥の鳴き声。その中に混じる何かを捉えたように、目を細めた。
「ここにいろ」
「また?」
「近くに魔物がいる」
ラズも耳を澄ませた。だが、沢を流れる水と、木々のざわめきしか聞こえない。
「どこ?」
「北だ」
「何も見えないけど」
「見える距離まで近づくな」
シオンは外套の留め具を直し、一人で木々の間へ進もうとする。
「わたしも行く」
「来るな」
「魔法なら使えるよ」
「使えることと、戦えることは違う」
シオンの声は冷たかった。
「この前も、魔物を燃やせたよ」
「偶然、避けなかった相手に当たっただけだ」
「ちゃんと狙ったよ」
「動きの鈍い一体へ向けてな」
「でも——」
「ここで待て」
反論を断ち切るように、シオンは告げた。
「俺が戻るまで動くな」
ラズは不満そうに眉を下げる。
「どれくらい?」
「すぐだ」
「本当に?」
「魔物一体に時間をかける理由がない」
それだけ言い残し、シオンは森の奥へ消えた。
黒い外套が木々の向こうへ見えなくなっても、ラズはしばらく同じ場所を見つめていた。
「……子ども扱いしてる」
むくれたように、小さく呟く。
もっとも、戦いに関しては子どもと大差ないのかもしれない。
ラズは魔法を使える。炎を生み出し、水を操り、風を起こす。傷を塞ぎ、簡単な結界を作ることもできた。
だが、なぜ使えるのかは分からない。誰かに教わった記憶もないのに、身体だけが手順を知っている。シオンに指摘されるまでもなく、奇妙なことだった。
ラズは沢の傍にある平たい岩へ腰を下ろした。
シオンが戻るまで待つ。そう決めた直後だった。
——森の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
ラズは顔を上げる。
声が聞こえたのは、シオンが向かった北ではない。街道のある、東の方角だった。
「誰か!」
今度は、はっきりと聞こえた。
女性の声。続いて、幼い子どもの泣き声が響く。
ラズは立ち上がった。
シオンからは、動くなと言われている。魔物のいる森を、一人で声の方へ向かうべきではない。ここで待ち、戻ってきたシオンへ事情を話す。それが最も安全で、正しい判断なのだろう。
「助けて!」
もう一度、悲鳴が上がった。先ほどよりも切迫している。
直後、獣の唸り声が森を震わせた。
ラズはシオンの消えた方角を見る。
まだ戻ってくる気配はない。唸り声に続き、何かが地面へ倒れる重い音が響く。
考えるより先に、ラズは東へ向かって走り出していた。
◇
枝を掻き分け、悲鳴の聞こえた方角へ進む。ほどなくして、湿った土の匂いに血の臭いが混じり始めた。
木々の間に、小さな荷車が横倒しになっている。片方の車輪は砕け、積まれていた袋や木箱が地面へ散乱していた。
その傍に、一人の女性と幼い少女がいる。女性は娘と思しき少女を背後へ庇いながら、折れた木の棒を両手で構えていた。
二人の正面には、狼に似た魔物が三体。普通の狼よりも遥かに大きい。背中から骨の突起が伸び、耳元まで裂けた口から黒い涎を垂らしている。
そのうち一体の口元には、赤い血が付着していた。
少し離れた場所には、一人の男が倒れている。荷車を引いていた者だろう。腹部を大きく裂かれ、血溜まりの中で動かなくなっていた。
「お母さん……」
少女が泣いている。
「大丈夫」
女性はそう答えたが、その声も、木の棒を握る手も震えていた。
狼の魔物が地面を蹴る。
「危ない!」
ラズは両手を前へ突き出した。指先から広がった光が、空中に魔法陣を描く。
次の瞬間、女性と少女の前へ淡い光の膜が現れた。
飛びかかった魔物が光の膜へ激突する。鈍い音とともに弾かれ、地面を転がった。だが、すぐに起き上がる。
残る二体も、今度はラズを敵として認識したらしい。低く唸りながら、揃って顔を向ける。
「こっちへ来て!」
ラズは女性たちへ叫んだ。
二人は戸惑いながらも、ラズの方へ走る。
「あなたは……?」
「話は後で!」
ラズは二人を背後へ庇い、三体の魔物と向き合った。
魔物たちは不用意に飛びかからず、距離を取りながら広がっていく。
正面に二体。残る一体が、ラズたちの側面へ回ろうとしている。
ラズは呼吸を整えようとした。
炎の魔法なら使える。一体ずつ狙えば、倒せるかもしれない。だが、相手は止まってくれない。
複数の敵を同時に相手にした経験などなかった。シオンといる時は、ラズが魔法を放つ頃には、魔物はすでに倒されている。
一体が横へ走る。正面に残った二体が、ほぼ同時に迫ってきた。
「えっと……」
どれを狙えばよいのか。正面へ炎を放てば、横へ回った一体が女性たちを襲う。結界を張り続ければ、攻撃へ移れない。
迷った一瞬の間にも、魔物との距離は縮まっていた。
ラズは咄嗟に地面へ左手を当てる。魔力を流し込むと、足元から魔法陣が広がった。地面を破り、幾本もの蔓が伸びる。蔓は正面の二体へ絡みついた。
一体は前脚を取られ、勢いのまま地面へ倒れる。だが、もう一体は身体を捻ると、絡みついた蔓を牙で噛み切った。
その間に、側面へ回っていた魔物が少女へ飛びかかる。
「駄目!」
ラズはすぐに結界を展開した。少女の前に現れた光の膜へ、魔物が激突する。大きな音が響き、結界の表面に細い亀裂が走った。
「逃げて!」
ラズが叫ぶ。
女性は娘の手を引き、森の奥へ走ろうとする。
しかし、蔓を噛み切った魔物が二人の進路へ回り込んだ。
ラズはそちらへ手を向け、炎を放つ。赤い火球が魔物の肩へ命中した。
毛が燃え、魔物が甲高い悲鳴を上げる。だが、倒れない。怒りに満ちた目でラズを睨み、そのまま一直線に駆けてきた。
速い。次の魔法が間に合わない。
ラズは咄嗟に両腕を顔の前へ上げる。淡い光の壁が目の前に現れた直後、魔物が激突した。
「……っ!」
強い衝撃を受け、ラズの身体が地面を転がる。
右肩が張り出した木の根へ打ちつけられた。息が止まり、視界が白く明滅する。
「お姉ちゃん!」
少女の声が聞こえた。
ラズは起き上がろうとしたが、右腕に力が入らない。
防御魔法によって牙や爪は防げた。だが、衝撃までは消しきれなかった。
痛む肩を庇いながら顔を上げる。
三体の魔物が、ラズを囲んでいた。
怖い。足が震えた。
シオンの言う通りだった。魔法が使えることと、戦えることは違う。何をすればよいのか分からない。どの敵から倒すべきなのか、どこを見ればよいのか、どの程度の魔力を残せばよいのか。何一つ分かっていなかった。
それでも、背後には逃げきれていない二人がいる。ラズが倒れれば、次に襲われるのは彼女たちだ。
「逃げて……」
ラズは立ち上がった。右腕は力なく垂れ下がっている。
まだ動く左手だけを、魔物へ向けた。指先に魔法陣が現れる。
だが、その形は不安定に揺らいでいた。残っている魔力は多くない。
「わたしが止めるから」
「でも……!」
「早く!」
女性は迷った。それでも、娘の手を引いて森の奥へ走り始める。
一体の魔物が、二人を追おうとする。ラズは残る力で、その進路へ結界を張った。光の膜が魔物の行く手を塞ぐと、二人を追おうとした魔物は今度はラズに狙いを変えた。
魔物が何度も体当たりするたび、亀裂が増えていく。
ラズは歯を食いしばり、結界に魔力を注いで亀裂を修復しながら火球を放つ。
身体が重い。魔力を使いすぎている。視界の端が、少しずつ暗くなっていく。
なぜ、自分はこんなことをしているのだろう。名前も知らない人間だ。ここで二人が死んでも、ラズには何の関係もない。シオンなら、そう言うかもしれない。
動くなと言われた。待っていればよかった。それなのに、悲鳴を聞いた時、放っておくことができなかった。
なぜなのかは分からない。自分が何者なのかも。自分の中に生まれた感情が、本当に自分のものなのかさえ分からない。
シオンは、自分はリゼに似ていると言った。顔だけではない。声も、仕草も。
ならば、今、誰かを助けたいと思っているこの気持ちも、リゼという少女の名残なのだろうか。自分のものではないのだろうか。
窮地だというのに、そんな悲観的な考えが、ラズの頭の中をぐるぐると駆け回る。
光の膜が砕けた。無数の破片が宙へ散る。
三体の魔物が、一斉に地面を蹴った。
ラズは、動かせる左手を正面へ伸ばす。だが、魔法陣は現れない。魔力を完全に使い切っていた。
魔物の牙が、ラズの眼前へと迫った。




