忘れられなかったもの
その日の夜。
シオンとラズは情報を集めるため、町外れにある酒場へ入った。
一階が酒場、二階が宿になっている古い建物だった。黒ずんだ木の扉を開くと、酒と油、それに肉の焼ける匂いが混ざり合って鼻を刺す。
店内は、多くの客で賑わっていた。
荷運びを終えた旅商人。武器を壁へ立てかけ、酒を酌み交わす傭兵。仕事帰りらしい職人たち。
その中には、濃紺の外套を纏った者も何人かいた。外套の隙間から覗く白い法衣を見る限り、神殿に所属する下級神官だろう。所属を隠して酒を飲みに来たらしい。
シオンは店内を一瞥すると、最も暗い壁際の席を選んだ。背後を壁に預け、出入口と店内の両方を見渡せる位置へ座る。
ラズも向かい側へ腰を下ろした。
程なくして、店員が食事を運んでくる。
ラズの前には、豆と肉を煮込んだ料理と果実の絞り汁。シオンの前には、水だけが置かれた。
湯気を立てる煮込みを見て、ラズが匙を取る。
「食べないの?」
「何度聞くつもりだ」
「もしかしたら、今日は食べられるかもしれないから」
「食べられないと言っている」
「やっぱり?」
「ああ」
ラズは残念そうに匙を口へ運んだ。
「美味しいのに」
「そうか」
シオンは料理へ目を向けることなく、店内の会話へ耳を澄ませていた。
特定の情報があると分かって来たわけではない。神殿やデウスに関係する話があれば拾う。今後向かうべき場所へ繋がる噂があれば覚えておく。それだけだった。
近くの卓では、商人たちが魔核の値上がりについて話している。少し離れた場所では、酒に酔った傭兵が、結界の外で遭遇した大型の魔物を倒したという真偽不明の武勇伝を語っていた。
どちらも、デウスや神殿とは関係のない、取るに足らない話だ。
だが、酒場の奥。濃紺の外套を着た二人の神官らしき男が、声を潜めて話している。
シオンはそちらへ意識を向けた。
「……今度は、アルミナへ回されるらしい」
一人が酒杯を傾けながら言った。
「アルミナ?」
向かいの男が眉を寄せる。
「魔導具の研究都市だろう」
「表向きはな」
シオンの視線が、僅かに動いた。
男たちは酒に酔っているのか、周囲への注意が甘い。それでも、聞かれては困る話であることは理解しているらしく、互いに顔を寄せていた。
「また地下か?」
「声が大きい」
最初の男が、慌てて周囲を見回す。
シオンと一瞬だけ目が合ったが、暗い壁際に座っている旅人へ興味を持つことはなかった。
さらに声を落とす。
「南区画の地下施設だ。最近、あそこへ運び込まれる魔核が増えているらしい」
「新しい魔導具でも作っているんじゃないのか」
「それだけなら、わざわざ神殿兵を使って、夜中に運び込む必要はないだろう」
「では、何の研究だ?」
「知らん」
男は酒を一口飲んだ。
「知ろうとした者が、次の日から姿を見せなくなったという話だ」
短い沈黙が落ちる。
向かいの男が、冗談にしようとするように乾いた笑いを漏らした。
「ただの噂だろう」
「なら、なぜ神殿から直接研究員が送られている」
「魔導具師なら、不自然ではない」
「魔導具師だけじゃない」
男がさらに身を乗り出す。
「治癒術に長けた神官と、封印術を扱う神官も送られている」
「治癒術と封印術?」
「ああ」
魔導具の開発だけなら、どちらも必須とは言い難い。特に治癒術の使い手が複数送られるとなれば、単なる道具の研究とは考えにくかった。
「それに、人を運んでいるのを見た者もいる」
「人?」
「荷車に乗せられ、布を被せられていたそうだ。病人を運ぶ様子ではなかったらしい」
「まさか、実験に使うつもりだとでも——」
「声が大きいと言っているだろう」
男は強く制止した。
二人は揃って周囲を見回し、会話を切り上げるように酒杯へ口をつけた。
シオンは何も言わず、その様子を見ていた。
アルミナ。神殿直属の地下施設。運び込まれる魔核。治癒術師と封印術師。布で隠され、夜間に運ばれる人間。
確証はない。酔った下級神官たちが話していた、出所も定かではない噂にすぎない。
それでも、無視することはできなかった。
神殿、地下、実験。その言葉が、閉じ込めていた記憶へ触れる。
白く冷たい部屋。身体を押さえつける拘束の術。胸の奥へ押し込まれていく、赤黒い石。気が狂うほどの痛み。それが自分の声だと理解できなくなるほど、何度も響いた絶叫。
シオンは無意識に左胸を押さえた。
服の下で、埋め込まれた赤黒い石が脈打つ。
『懐かしいか』
「黙れ」
小さく吐き捨て、浮かび上がった記憶を無理やり押し戻す。
「シオン?」
ラズの声に、シオンは顔を上げた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「怖い顔をしてた」
「いつもだろう」
「いつもより怖かった」
シオンは答えず、卓上の水へ僅かに口をつけた。
味はしない。冷たさと気持ちの悪い異物感だけが、喉を通り過ぎていく。
「食べ終わったら、上の部屋へ行け」
「シオンは?」
「少し出る」
「どこに?」
「お前には関係ない」
「わたしも行く」
「来るな」
即座に拒まれ、ラズが眉を下げる。
「どうして?」
「二人で歩き回れば、余計に人目を引く」
「一人ならいいの?」
「少なくとも、お前を連れて歩くよりはましだ」
「すぐに戻る?」
「さあな」
「またそれ?」
シオンは、まだグラスの中に大半が残っている水の代金を卓上へ置き、立ち上がった。
ラズは何か言いたそうにしていた。だが、先日の夜に追ってくるなと言われたことを思い出したのか、今回は席を立たなかった。
シオンはそれを確認すると、一人で酒場を出た。
◇
町は、すでに夜へ沈んでいた。昼間は大勢の客で賑わっていた市場も、今は静まり返っている。ほとんどの屋台は片づけられ、閉じた店の扉には板が渡されていた。
代わりに、昼間は品物として並べられていたものと同じ魔導具が、街路を照らしている。
青白い灯り。柔らかな黄色の灯り。それらの金具の端には、神殿の認可を示す小さな印が刻まれていた。
シオンは、人通りの少ない道を選んで歩く。向かったのは、昼間ラズと歩いた市場だった。
何のために戻るのか。自分でも、考えないようにしていた。
市場へ辿り着く。天幕は畳まれ、屋台には布が掛けられている。商人たちは、すでにほとんど帰った後だった。
その中で、一つだけ灯りの残っている屋台がある。
昼間、ラズが立ち寄っていた硝子細工や装飾品を並べていた店だ。屋台の老女が、売れ残った品を一つずつ木箱へ片づけている。
シオンは数歩離れた場所で足を止めた。
金色の細い装飾がついた青い星は、まだ屋台の端へ置かれていた。魔導灯の光を受け、深い青色に輝いている。
シオンに気づいた老女が顔を上げた。
「あら」
シオンの姿を見て、昼間ラズの後ろに立っていた男だと気づいたらしい。
「忘れ物かい?」
「それを寄越せ」
シオンは、青い星を指した。
老女は一度髪飾りを見て、それからシオンへ目を戻す。
「昼間のお嬢さんが見ていたものだね」
「値段は」
「あの時、一緒に聞いていなかったのかい?」
「早くしろ」
老女は呆れたように笑い、値段を告げた。シオンは硬貨を取り出し、屋台の上へ置く。
金額を確認した老女が、青い星を手に取った。
「包むかい?」
「ああ」
「贈り物なら、少し綺麗な布にしようか」
「何でもいい」
「そうかい」
老女は楽しそうに目を細める。
「お嬢さん、随分と気に入っていたものねえ」
シオンの眉間へ皺が寄る。
「余計なことを言うな」
「でも、あれだけ名残惜しそうに何度も振り返っていたんだ。贈ってやれば喜ぶよ」
「俺が渡すとは言っていない」
「じゃあ、自分でつけるのかい?」
シオンは無言で老女を睨んだ。
「冗談だよ」
老女は笑いながら、青い星を柔らかな布で包む。
それを受け取ったシオンは、すぐに外套の内側へしまった。
何の力もない。魔導具ですらない。夜道を照らすことも、傷を癒やすことも、身を守ることもできない。デウスの手がかりにもならない。
旅に必要なものではなかった。買う理由など、どこにもない。
——それでも。
髪飾りを屋台へ戻した時のラズの表情を、シオンは覚えていた。
笑ってはいた。見るだけでも楽しかったと言っていた。だが、屋台を離れた後も、何度も青い星を振り返っていた。そのことが、なぜか脳裏に刻み込まれて消えなかった。




