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030.報告

 スクリーニャ家を後にしたレイは、坂道をゆっくりと下っていった。

 午後の陽射しは柔らかく、家々の壁に当たって、穏やかな反射光を撒き散らしている。

 どこか遠くで、鐘が正午を告げた。

 気づけば、腹の底が静かに空腹を訴えていた。


 歩き慣れた通りを抜けて、市場通りへと足を向ける。

 そこは香ばしい焼き魚やパンの香りが交錯する、活気に満ちた空間だった。

 屋台の一角で、焼きたてのパンに魚のすり身と野菜が挟まったサンドイッチを手に入れると、レイはそれを紙袋に収めて港の方へ歩き出した。


 港の突堤は、人影もまばらで静かだった。

 風が海面を撫で、波打ち際がかすかに泡立つ。


 レイは突堤の縁に腰を下ろし、紙袋の包みをほどく。

 一口頬張ると、やわらかな塩気とハーブの香りがふわりと広がった。

 手元の紙袋を膝に置いたまま、レイは遠くの水平線を見つめる。


 言葉にしなかった想いは、消えるのか。それとも、残るのか。


 アミールは語らなかった。

 誰にも、英雄ぶることもなく、ただ自分の内にある感謝と憧れを、そっと文章に変えていった。

 そして、墓を作ろうとした。

 それは、誰かの生を記録するためではなく、自分の中にあった記憶を整理する意味もあったかもしれない。


 パンをもう一口かじりながら、レイは瞼を伏せた。

 海の匂い、パンの温もり、通り過ぎる鳥の影。

 それらが静かに、身体の奥に沈んでいく。

 アミールは「記す」という方法で、かつての恩人に返礼しようとした。

 言葉にならなかった時間、誰かの存在を、それでも忘れたくなかった。

 レイは、その静かな願いが、とても真っ直ぐに思えた。


「いい人だったんだろうな」


 独り言のように呟きながら、レイはパンの最後の一口を噛み締めた。

 空になった紙袋を畳み、風に飛ばされぬように胸ポケットへとしまい込んだ。

 まだ、報告書は完成していない。

 けれど、ようやく一つ、心の整理がついた気がした。


 ◇ ◇ ◇


 ギルドの扉を押し開けて、執務室へと向かう。

 人の気配が消えた執務室は、午下がりの陽に照らされて、静謐な光に包まれていた。

 レイは机に腰を下ろし、ひとつ息を吐いてから、タイプライターのカバーを外した。

 午前中に打ちかけた報告書の原稿は、そのままの位置に置かれていた。

 端を整えて手に取り、さらりと目を通す。

 文体は事務的で、構成に破綻はない。

 しかし、タイプライターに新たに紙を差し込み、レイは再び打鍵を始めた。

 機械的なリズムが、執務室の壁に反響する。

 アミールが辿った足跡、記された想い、静かに受け継がれた記録。

 一文ずつ、過不足のない言葉を選び、港の余韻を引きずりながら、改めて情報を整理して書き加えていく。

 それらは、ただの記録として扱われるのではなく、きちんと生の意味を持って報告されるべきだと思った。


 依頼人の夫アミール・スクリーニャ氏は、強化種との遭遇により死亡した可能性が高い。

 遺体は未発見だが、遺留品と状況証拠からの総合的判断による。

 アミール氏は、かつての恩人であった、当時の騎士であったデニス・ナシメント氏の遺品を見つけ、彼を弔うことを目的として入山していた。

 そして、彼の妻の墓地である海の見える丘に新たな墓を建設中、偶然強化種と遭遇して襲われたと推察される。

 本報告書は、調査の経緯と推論を記録し、依頼人へのこの提出をもって完了とする。


 最後の一行を打ち終えると、レイは指を止めた。

 レバーを引いて紙を送り出すと、レイはそれを丁寧に綴じ、背表紙に日付を記す。

 インクの匂いが残る紙面に目を落とし、ひとつ頷いた。


 ◇ ◇ ◇


 スクリーニャ家の門扉を押し開けたとき、レイは先日、この家を訪れた時のことを思い出していた。

 初めて訪れたあの日は、答えを求める緊張感が、家全体を包んでいた。

 だが今は、花壇の花が同じように揺れていても、迎える空気にはどこか柔らかさがある。

 どこか、迎え入れる準備ができているような、そんな穏やかな気配だ。

 軽くチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。

 現れたマーサは、柔らかな表情を浮かべていた。


「おかえりなさい、というのも変ね。ふふふ、いらっしゃい」

「ただいま戻りました」


 レイは控えめに微笑み、軽く頭を下げる。


「報告書が完成しました。ご主人の遺品も、お返しに参りました」


 マーサは一瞬まばたきをしてから、小さく頷いた。


「ええ、ありがとう。中へどうぞ。落ち着いて、お話を聞かせてください」


 通されたのは先日と同じリビングだった。

 静かに整えられた空間に、昼下がりの陽射しが柔らかな斜線を描いている。

 レイは椅子に腰を下ろし、鞄から書類の綴じられた封筒と、包まれた遺品を丁寧に取り出した。


「これが、調査の報告書です。簡潔にまとめてありますが、必要でしたら、口頭でも説明いたします」


 マーサは頷き、手を伸ばして封筒に触れたが、すぐには開かず、静かにレイの言葉を待った。


「山中でご主人の痕跡が見つかった場所は、海の見える丘の近くでした。そこで、新しい墓を建てようとしていた形跡があります。整地された地面、積まれた石材、そして彫りかけの碑文。どれも、ご主人が一人で作業されていた痕跡でした」


 マーサは瞳を伏せ、小さく息を吐いた。

 その表情に割って入らぬよう、レイは慎重に言葉を続ける。


「その周囲には、戦闘の痕跡がありました。魔物の足跡、それと、ご主人のものと思われる血痕。そして、遺品が落ちていました」


 傍らの包みを解くと、傷ついた登山用バッグと、中にあった財布、小型のナイフが現れた。

 革の色は褪せ、刃には錆びついて刃こぼれが見られるが、マナカが清掃していたこともあって、以前の汚れは随分と落ちていた。


「このナイフは、強化種と戦う際に使用されたものと思われます。バッグの中に財布があり、保険証が入っていました」


 レイは、財布の中身を広げずに、ただ慎重な手つきでマーサの手元に差し出した。

 彼女は一瞬視線を落とし、それから両手で包むようにそれらを受け取った。

 涙ではない、しかしどこか遠い記憶をなぞるような眼差しで、崩れたバッグを見つめる。


「……最後まで戦ったのね。もう歳だったのに、若者ぶっちゃって」


 かすかな声でつぶやいたマーサに、レイは軽く頷いた。


「報告書にも記しましたが、彼はかつての恩人だった騎士、デニス・ナシメントを弔うために、彼の妻の墓があった場所に、彼の墓を作ろうとしていたんだと思います」


 レイがそう言うと、マーサはやっとの思いで笑みのようなものを浮かべた。

 けれど、その表情はどこまでも静かで、登山用バッグにそっと手を添えたまま、しばらく黙っていた。

 そして、ひとつ呼吸を整えるように息を吐くと、低く穏やかな声で言った。


「……デニスさんの日記、読まれたんでしょう?」


 レイはゆっくりと頷いた。


「ええ。アミールさんが持ち帰ったもの以外にも。年月は経っていましたが、内容は興味深く、とても貴重なものでした」

「そう。あの人ね、教師だった頃から本と紙を手放さない人だったんです。小難しい文章も、文献も、よく読み込んでいて。書くのも得意だったのよ?だから、あの日記を見つけたときも、描かれていることに飲み込まれていったんでしょうね」


 マーサはそう言って、軽く目を伏せた。


「若い頃の彼って、少し浮世離れしてたんです。口数は少ないけど、いつも何かを考えていて……でも、誰かのためとなると真っすぐで、意固地なほど。きっと、騎士さんに助けられた時から、自分の中で何かが変わったんでしょうね」


 レイは黙って頷く。

 マーサは、ふっと小さく笑った。


「デニスさんという人がどういう方だったのか、私は会ったこともない。でも、アミールの姿を通して、その人の誠実さや、静かな生き方を少し感じる気がするの。あの人、似てましたから」


 それは、夫を語る優しい眼差しを浮かべながら話を続けた。


「なんだか不思議ね。家族でもない誰かのために、山を越えて墓まで作ろうとするなんて。でも、あの人らしいとも思うの。自分の中に残ったものを、最後まで大切にしようとしたんでしょうね」


 レイは、穏やかに応じた。


「はい。それはアミールさんだからこそできたことだと思います。誰に見せるでもなく、けれど、忘れられないようにと」


 マーサはその言葉に、わずかに目を潤ませながら、微笑んだ。


「……ありがとう。ちゃんと、伝わったんですね。あの人の想いが」


 マーサはそう言ってハンカチで一度瞳を拭うと、そっと立ち上がった。


「……少し、見ていただきたいものがありますの」


 レイは頷いて、立ち上がって彼女の後を追った。

 案内されたのは、静かな書斎だった。

 本棚には整然と並べられた文献や教本。

 机の上には、古びたインク壺と万年筆が置かれている。

 窓辺には白いカーテンがかかり、外の光を柔らかく受け止めていた。

 先日訪れた際に、彼が失踪してからは手入れを殆どしていないとのことだったが、机の周辺は片付けられているようだった。

 その一角、書きかけの原稿用紙が数枚重ねられていた。

 その上には、小さなメモが一枚添えられている。

 マーサはそれを手に取り、レイに差し出した。


「アミールが山へ向かう前に、残していったものです。見つけたのは、あなたがここにいらした後だけれど。この部屋を掃除することは、どこかアミールと決別してしまうように思えて、私には少し勇気のいることだったから」


 レイはそれを受け取ると、丁寧に中身を確認した。

 そこにあったのは、万年筆で綴られた、まだ書きかけの随筆のような文章だった。


 誰かの死は、やがて誰かの生の一部になる。


 冒頭にそう記された文には、断定ではなく、問いかけに近い静かな思索が綴られていた。

 記憶とは何か。感謝とはどう在るべきか。

 そして、なぜ自分は今、再びこの山に向かうのか。

 そこには断片的にではあるが、その筆致は力強く、どこまでも真摯だった。


「彼は形にすることで、自分の気持ちと向き合おうとしていたのね、きっと」


 マーサは、ふと目を伏せて小さく息を吐いた。

 寂しさと誇らしさが入り混じる、静かな笑顔だった。


「私ね、報告を聞いた今でも、不思議とあの人が『死んだ』って実感が湧かないんです。遺体が見つかってないからじゃなくて……多分、ずっとまだ何かを書き続けてるような気がして」


 レイは、そっと机の上の書きかけの文章に視線を移した。

 言葉にはなりきらなかった記憶。

 けれど、それは確かに、誰かの中に残って、生き続けている。

 レイは頷き、ゆっくりと応えた。


「最初お話をいただときは、正直情報も少なくて不安でしたが、今では本当に依頼を受けて良かったと思っています。アミールさん、そしてデニスさんの記憶が、あの山には確かに残っていた。あのまま埋もれさせてはいけないものだったと、心から感じます」


 マーサはその言葉を受け止めるようにゆっくりと頷き、それから、文章の入った封筒を大切そうに抱きかかえた。

 アミールの死に実感が湧かないと言ってはいるけれど、その姿は、事実をしっかりと受け入れているように映った。


「ありがとうございました。あなたのおかげで、あの人の行き先も、想いも……きちんと見届けられました」


 その言葉が、まるで彼らの遺言のように、部屋に静かに溶けていく。

 もう、何も言葉を重ねる必要はなかった。

 レイは玄関まで送られたあと、軽く一礼して扉を出る。

 数歩、門まで歩いたところで、ふと振り返った。

 窓の向こうには、白いカーテン越しにマーサがいた。

 何も言わず、ただ一度だけ、深く頭を下げた。

 レイもまた、それに応じるように頭を下げ、静かに歩き出す。

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