029.残された日記の謎
ギルドの執務室に、淡い紙の擦れる音と、タイプライターの乾いた打鍵音が響いていた。
レイは木製の机に身を乗り出し、淡々と報告書の仕上げに取り掛かっていた。
山中での調査、アミールの遺品の発見、墓石の設置、そして、全体の推論。
そのどれもが形式に則った簡潔な文章へと整えられていく。
内容に誤りはなく、依頼主が読んでも納得する出来のはずだ。
だが、レイは手を止めた。
視線は、横に置かれた日記へと移っていた。
数枚にわたるその記録の中に、どうしても気になる点がひとつだけあった。
「この日付、飛んでたんだよな」
レイは指先で、持ち帰って保管していた日記の上部をなぞるように辿る。
以前山小屋で見たときには欠番があって、一冊分が抜けていた。
期間にすると、半年ほどであろうか。
ページが破られたわけではなく、記録が欠けていたのだ。
「たまたま無くなったのか、それとも……」
デニスの日記は、あくまで私用のものだ。
だが、彼の性格を思えば、たまたまその巻だけを自然に紛失したとは考えにくい。
日記の内容から滲み出ていたのは、彼の律儀な人柄だった。
そうした人間が、個人的に大事なものを、雑に保管することはあり得るのだろうか。
「誰かが持ち去った」
その可能性は十分にある。
デニスの日記は貴重な魔法種の記録であり、そこに価値を見出して持ち去る可能性はなくもない。
ただし、そうなると、何故その巻だけ持ち去られたのかという疑問は残る。
例えばその巻に秘匿情報が含まれていて、それを消し去るために持ち帰ったとしたら、全てを持ち帰ったほうがどう考えても都合が良い。
誰かに貸していて、そのまま返却されなかった可能性も脳裏をかすめたが、人付き合いの苦手だったデニスが、私的な個人記録である日記を手放すなんてことは狂気の沙汰だろう。
レイは椅子にもたれて静かに息を吐き、タイプライターの打鍵を止める。
「アミールさんが持ち帰った」
明確な根拠がなかったので、墓石の前では口にしなかった仮説だ。
だが、辻褄は合うと考えている。
たまたまアミールは山小屋で日記を発見し、その日記には彼の琴線に触れる事柄が記されていて、デニスの墓を彼女の奥さんの隣に作ろうと考えた。
そして、事件に巻き込まれた。
静かに立ち上がったレイの足元で、木製の床が軋む。
アナログ電話を手に取ると、ダイヤルを回した。
静かな呼び出し音が響いたあと、電話口の向こうからマーサの落ち着いた声が返ってきた。
「はい、スクリーニャです」
「レイです。お世話になっております」
受話器を肩で挟んだまま、レイは机上にある報告書、そして開いていた日記に視線を落とす。
「調査の件で、少しお時間をいただけませんか。報告書の完成前に、どうしても確認しておきたいことがありまして。可能であれば、そちらのご自宅へ伺いたいのですが」
数秒の沈黙。
マーサは、慎重に言葉を選ぶようにして応じた。
「……ええ。今なら家にいます。いらしてください。何か……不安なことでも?」
「いえ。ご心配なく。ただ、まだ未確定の話なので、書類にはできなくて。それでは、すぐに伺います」
◇ ◇ ◇
午前の陽射しが差すスクリーニャ家の玄関先には、彩りの花が静かに揺れていた。
インターホンのベルを聞きつけて現れたマーサは、少し驚いたような表情を浮かべていたが、レイを見るとすぐに扉を開けてくれた。
「本当に早いのね。どうぞ。お入りなさい」
「失礼します」
通されたリビングは、整った空気が漂っていた。
レイは鞄を膝に置いたまま、背筋を正して口を開く。
「アミールさんの山の件、調査は概ね終了しました。ですが、日記の記録を改めて整理する中で、どうしても引っ掛かることがひとつだけありまして」
「そうですか。それで、引っ掛かること?」
マーサが穏やかに首を傾げると、レイは鞄から日記を取り出して、テーブルの上に置いた。
「これはデニスさんの日記です。山小屋で発見した三冊のうち、連番であったはずの記録のうち、一巻分、およそ半年ほどの記録が、すっぽりと抜けていたんです」
「デニスさん?ああ、以前に電話で言ってた、あの山小屋の騎士の方よね?それがうちの旦那と関係があったの?」
「それは報告書をお渡しする際に、改めて説明させてください」
マーサは小さく目を見開いたあと、やがて少し困ったように目を伏せた。
レイはその様子を気にせず話を続ける。
「日記の内容は非常に丁寧で、一日も欠かさず記されていたことから、筆者の律儀な人柄が読み取れます。その人物が、大事な記録の一部だけを雑に扱うとは考えにくい」
「……そういう人でしたら、確かにそうかもしれないですね」
「もしかすると、その巻だけ、アミールさんが持ち帰っていた可能性はないでしょうか?」
マーサはしばらく何かを思い出すように、目線を宙に彷徨わせた。
「……そういえば、あの人、いなくなる前は書斎に籠っていたわ。夜中にタイプライターの音が響くこともあったかしら。でも、それは彼の趣味みたいなものだったし、珍しいことでもなかったんだけれど」
そう言って、彼女は彼の最後の光景を思い返していた。
「それで、書斎に残っていないかどうか確認したいということね。分かったわ。私も、何が残されているのかをちゃんと知っておきたい」
「ご理解ありがとうございます。助かります」
彼女が立ち上がると、レイも立ち上がり、一緒に書斎へと向かった。
◇ ◇ ◇
開かれた書斎の扉の先には、小さな窓から柔らかな陽が差し込んでいた。
部屋は几帳面に整っていた。
机の上には、古びたタイプライター。そして、その脇に積まれた紙の束。
「アミールがいなくなってからも、殆ど机の周辺はそのままよ。あの人、勝手に掃除されることを嫌がる人だったから」
「そうですか。少しだけ失礼します」
マーサに許可を取ると、レイは机の上に手を伸ばす。
紙の束をそのままパラパラと捲っていくと、埋もれていたものがあった。
見間違いではない。
これは、騎士の日記だった。
「やっぱりアミールさんが」
レイは小さく呟くと、日記の中身に目を通した。
時間を掛けることは迷惑なので、飛ばしながら文字を追いかけていく。
そこには、変わらないデニスらしい律儀な文体で、彼の日常が描かれていた。
そして、栞が挟んでいる箇所を見つける。
「……なるほど、そういうことだったのか」
「何か分かったのかしら?」
マーサはそう問いかけるが、レイは集中していてその声に気が付かなかった。
続いて、積まれていた紙束を手に取る。
そして、書かれていた文字を確認すると、マーサに手渡した。
隣にいるマーサは息を呑みながら、その表紙の文字に目を留める。
「……あの人は、こんなことを書いていたのね」
表紙には、タイプライターで打たれた文字が記されていた。
『山を守る元騎士の物語』
レイはその表紙の文字を、しばし見つめた。
ページをめくる手が、自然と静かになる。
淡々と綴られたのは、寡黙な騎士と、彼に命を救われた少年の記憶だった。
孤児の少年が山へと逃げ込み、強化種に襲われ、命を救われる。
その少年が、騎士の人柄や静かな暮らしぶりに惹かれながらも、やがて里に戻るまでの、淡く、切実な時間の記録。
「これは、アミールさん自身の体験をもとにして書かれたものですね。欠番だった日記の記述とも一致します」
レイがそう呟くと、マーサはこくりと頷いた。
「昔、一度だけ聞いたことがあったわ。小さな頃、何もかもが嫌になって、孤児院を飛び出して山に逃げたって。でも、もう笑い話みたいに話していたから。まさか、こんな風に形に残そうとしていたなんて」
彼女は静かにページを抱きしめると、小さく笑って、そして、そっと涙を流した。
「本当に、あの人らしいわ。言葉が足りなくて、不器用で。でも、誰よりも真っ直ぐで、優しい人だった」
レイは、彼女のその涙を黙って受け止めた。
ここに残されていたのは、ただの記録ではない。
生きた証であり、言葉にならなかった想いのかけらだった。
まだ報告書にはまとめられていない、記された言葉のひとつひとつが、かつてあったその時間を、そっと照らしていた。




