第2話「長い戦いは、誰も得をしない」(作戦篇)
第2話「長い戦いは、誰も得をしない」(作戦篇)
返信は、長かった。
通知を開いた瞬間、画面の下まで文字が詰まっているのが見えた。指で送っても、まだ続く。
ベッドの上で、最初の数行だけ読んだ。
『コメントありがとうございます。管理人です。
最初にお断りしておくと、私は会社で働いた経験がありません。なので、実際の仕事でどうすればいいかの「正解」は分かりません。
そのうえで、孫子ならこう考えるかもしれない、ということなら書けます。
すみません、少し長くなります。』
少しではなかった。
時計を見る。六時四十分。
続きは夜に読むことにして、俺はスマホを置いた。
正解は分かりません。
その一文だけが、妙に頭に残った。
◆
「竜門、これ頼む」
朝の打ち合わせのあと、桐谷課長が一枚の紙を俺の机に置いた。
社名がずらりと並んでいる。
「休眠顧客のリストだ。過去三年、取引も問い合わせもない先。上から順に再提案をかけてくれ」
「全部ですか」
「全部とは言ってない。上から順に、だ」
桐谷課長は一番上の行を指で叩いた。
『大須賀製作所』
覚えている。
三年前、俺が担当した。生産管理まわりのシステム更新で、最終提案まで行って、落とした。
「ここは一度いいところまで行ってるだろ。話が早いはずだ」
「……はい」
「来週の定例で進み具合を聞く」
それだけ言って、桐谷課長は去っていった。
話が早いはず。そうだといい、と俺は思った。
三年前のことを、俺はあまり思い出したくなかった。
◆
その日の午前中、俺は資料室にこもった。
大須賀製作所の過去資料を全部出す。提案書。見積書。議事録。社内の稟議メモ。当時やり取りしたメールの印刷。
段ボール一箱分あった。
三年前の俺は、ずいぶん真面目に紙を残していたらしい。
一枚ずつめくる。ここで価格の話をした。ここで先方の部長が渋い顔をした。ここで競合の名前が出た。
読みながら、当時の会議室の空気が少しずつ戻ってくる。
失注の理由は、社内報告にこう書いてあった。
『価格面で競合に及ばず(当社見積が約15%高)』
書いたのは俺だ。
だったら今回は、価格を見直した提案を持っていけばいい。そのためには、当時の見積の内訳から全部洗い直して、今の価格体系と突き合わせて――
気づいたら昼を過ぎていた。
席へ戻ると、隣の島で若手の早川が画面を見ていた。
「あ、竜門さん。休眠顧客リスト、僕も半分もらいました」
「そうか」
「もう三社分、提案資料できました」
「……三社?」
早川が画面をこちらへ向ける。
過去の取引履歴、業界動向、想定される課題、提案の骨子。表紙までついた資料が三つ並んでいた。
「業務支援システムに過去データ読ませたら、たたき台を出してくれるんで。あとは数字だけ確認して」
「午前中で?」
「一社二十分くらいですかね」
俺は手元の段ボールを見た。
一社。半日。まだ一枚も書いていない。
「すごいな」
「いや、システムがすごいんですよ」
早川は悪気なく笑って、四社目に取りかかった。
俺も自分の机に戻った。画面を開く。白紙の提案書。
三年前の資料を全部読み込んで、価格を洗い直して、完璧なものを作る。それが俺のやり方だった。
時間はかかるが、そのぶん穴がない。そう思ってきた。
だが、この調子だと大須賀一社に一週間かかる。そのあいだに早川は二十社回る。
来週の定例で、桐谷課長に何と言う。
『丁寧にやっています』
十月の面談で、それを言うのか。
手が止まった。止まったまま、午後が過ぎた。
定時前、早川が伸びをしながら言った。
「今日、八社分作って、三社に電話しました。一社は来月会ってくれるそうです」
「そうか。よかったな」
本心から言った。
言いながら、自分の机を見た。
段ボールは、まだ半分残っていた。
◆
駅を出たところで、スマホが鳴った。
母だった。
「昨日、電話したんだけど」
「ああ、ごめん。かけ直すの忘れてた」
「いいのよ、用事はないの。ただ、元気かと思って」
母は昔から、用事のない電話をかけてくる。用事があるときは、逆にかけてこない。
「元気だよ」
「仕事は?」
「まあまあ」
「まあまあね」
母は少し笑った。
「何してるの、今」
「昔のお客さんの資料を、全部読み直してるところ」
「全部?」
「全部」
「あんたは昔から、支度ばっかりして出かけるのが遅い子だったからね。遠足の前の晩に、リュックを三回詰め直して」
「そんな話、今しなくても」
「三回目に詰めたら、お弁当が入らなくなったのよ」
「覚えてないよ」
「覚えてなくていいの。お母さんが覚えてるから」
母は九時には寝る。電話は八時半に終わった。
切ったあとで、さっきの話を思い出した。
覚えていない。本当に覚えていない。
ただ、リュックの中身を三回入れ替えている子どもの姿は、なぜか簡単に思い浮かんだ。
◆
風呂から上がって、ようやく返信の続きを読んだ。
『ご質問の「実際の仕事」が、どういう場面なのか分からないので、ここからは一般論です。
前の記事では、戦う前に条件を比べる話を書きました。ただ、比べたり、準備したりしているあいだにも、時間やお金はかかります。
そこを考えるとき、私が思い出すのが二篇目の「作戦篇」です。
作戦というと、今の言葉では「戦い方の計画」のような意味ですが、この篇でまず書かれているのは、お金の話です。
戦車千台、輜重車千台、兵十万、千里の先まで食糧を運ぶ。国の内外で使う費用、外交の費用、武具の修繕。一日に千金を費やして、ようやく十万の軍が動かせる――と、ほとんど家計簿みたいなことが書いてあります。
そのうえで、こう続きます。
「其の戦いを用うるや勝つも、久しければ則ち兵を鈍らせ鋭を挫く」
勝っていても、長引けば兵は疲れ、鋭さはなくなる。城を攻めれば力が尽き、長く軍を外に置けば国の財政が足りなくなる。
そして、
「夫れ兵久しくして国の利する者は、未だ之れ有らざるなり」
戦いが長引いて、国が得をしたことは、これまで一度もない。
すみません、ここから完全に私の趣味なんですけど。』
まだあるのか。画面を送る。
『この篇には「拙速」という言葉が出てきます。「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり」。
よく「拙速を尊ぶ」と言われて、「雑でもいいから早くやれ」という意味で使われるんですが、私はそれは少し違うと思っています。
孫子は「下手でも速い方が偉い」と言っているのではなくて、「多少不格好でも速く終わらせた戦いは聞くけれど、上手に長引かせて成功した戦いは見たことがない」と言っているんです。比べているのは、出来の良さではなくて、長さです。』
このあと、拙速の読み方についての諸説が四段落続いていた。俺は申し訳ないが飛ばした。
『もう一つだけ。作戦篇で私が好きな一文があります。
「用兵の害を尽く知らざる者は、則ち用兵の利を尽く知ること能わざるなり」
戦いの損を全部分かっていない者には、戦いの得も本当には分からない、という意味です。
私はこれを読むたびに、うまくいかなかった理由をちゃんと知らない人は、うまくいく方法も本当には分からないんだろうな、と思います(ここは完全に私の読み方です)。
なので、ご質問への答えになるか分かりませんが。
もし今、何かに取り組んでいるのなら、「良い作戦を完璧に作ること」より、「長く戦い続けないこと」を考えてみてはどうでしょうか。
会社のことは分からないので、見当違いだったらすみません。』
読み終えて、しばらく天井を見た。
長く戦い続けない。
大須賀の提案書を一週間かけて作るのは、長い戦いだろうか。だろうな、と思った。
では、どうする。準備を減らせ、ということか。早川みたいに、二十分で資料を作って持っていけと。
それはそれで、腹の底で何かが引っかかった。
三年前、俺は大須賀で負けている。準備を減らして、同じ負け方をしたら目も当てられない。
だが――
もう一度、画面の上の一文を見た。
『比べているのは、出来の良さではなくて、長さです。』
長さ。
俺は今日一日、何をしていた。三年前の紙を読んでいた。
三年前の、俺が書いた紙を。
リュックを三回詰め直して、弁当が入らなくなった子どもの話を、なぜかもう一度思い出した。
◆
翌朝、俺は段ボールを資料室へ戻した。
代わりに、業務支援システムの画面を開いた。
慣れない。早川が横で使っているのを見てはいたが、自分で指示を打ち込むのは初めてに近い。
共有フォルダに残っていた大須賀の資料を選び、入力欄に、
『大須賀製作所 提案』
と打ってみた。
出てきたのは、三年前の提案書を今の製品名に置き換えたような資料だった。表紙まである。価格のページには、ご丁寧に「前回比15%値下げ案」と書いてある。
昨日、俺が一週間かけて作ろうとしていたものだった。
十秒で出た。
「……」
画面を閉じかけて、やめた。
隣を見る。早川はイヤホンをして、何かの資料を直している。
声をかけるのは、少し勇気が要った。仕事を教えた側だった時間の方が、長い相手だ。
「早川」
「はい?」
早川がイヤホンを外す。
「これ、どう頼めばいいんだ」
「え?」
「業務支援システム。提案書を作れって打ったら、本当に提案書が出てきた」
「そりゃ出ますよ」
早川は笑いかけて、俺の顔を見て、やめた。
「何を出したいんですか」
「提案書じゃない。三年前に何があったかと、今、誰に聞けばいいか」
「ああ」
早川は椅子を寄せてきた。
「それなら、ひとつずつ聞いた方がいいです。まとめて頼むと、いい感じの資料にしようとするんで。議事録の要約、とか、担当者の一覧、とか。欲しいものを分けて頼むと、そのとおり出してくれます」
「分けるのか」
「はい。あと、根拠になった記録も出せって書くと、どの資料から拾ったか付けてくれます」
「なるほど」
メモを取った。早川が不思議そうにこちらを見た。
「竜門さんにメモしてもらうの、初めてかもしれません」
「うるさい」
「すみません」
早川は笑って、自分の席に戻った。
聞いてみれば、三十秒だった。
昨日なら聞かなかっただろう。聞けば、自分が使えないと言うようなものだと思っていた。
実際、使えなかったのだから、同じことだ。
何を頼む。提案書を作れ、ではない。それはまだ早い。
俺が知りたいのは、三年前に何があって、今、誰に何を聞けばいいかだ。
打ち込む。
『大須賀製作所との過去の議事録を要約してください』
『失注時の理由を、記録にある範囲で整理してください』
『先方の当時の担当者と役職を一覧にしてください』
それぞれの最後に、『根拠にした記録も示してください』と付け足した。
数分で出た。
議事録の要約は、俺の記憶とだいたい合っていた。
失注理由の整理は、
『価格面で競合に及ばず(見積差約15%)。社内報告書より』
当然だ。俺がそう書いたのだから。
担当者一覧には六人の名前が並んでいた。購買課長、生産管理課長、総務部長、情報システム担当……。
段ボール一箱分が、画面一枚になった。
あっけないと思った。同時に、少し楽になったのも本当だった。
これで十分かどうかは分からない。でも、昨日一日かけて分からなかったものが、十分で目の前に並んでいる。
俺は提案書のファイルを閉じた。
受話器を取った。
◆
最初の電話は、失敗だった。
一覧の一番上、当時の購買課長はすでに退職していた。代わりに出たのは、今の購買担当だという若い男性だった。
「どういったご用件でしょうか」
聞かれた途端、急に焦った。何も用意せずに電話してきたと思われたくなかった。
画面の『見積差約15%』が目に入った。
「三年前に一度ご提案した件で、改めてお話をと思いまして。当時は価格面でご期待に沿えなかったと承知しておりますが、価格の条件も含めて、もう一度ご相談できればと――」
「ああ、すみません」
相手は丁寧に遮った。
「今、システムの入れ替えは予定がないので」
「価格のほうも、ご相談に応じられますので」
「いえ、そういうことではなくて。予定がないので。すみません」
切れた。
受話器を置いて、しばらく画面を見ていた。
隣で早川が、聞こえなかったふりをしてくれているのが分かった。
価格のほうも、ご相談に応じられますので。
自分の言葉を思い返す。
聞くつもりでかけた電話だった。なのに、最初の一言から値段の話をしていた。
相手は「そういうことではなくて」と言った。
予定がない。価格が高いから買わないのではなく、そもそも買う予定がない。
では、三年前は。三年前も、本当に価格だったのか。
俺は自分の書いた報告書の一文を、初めて疑った。
ゆうべ読んだ一文が浮かんだ。
用兵の害を尽く知らざる者は――。
三年前、負けた理由を、俺はちゃんと知ろうとしただろうか。
当時、先方は最後にこう言った。
『今回は見送らせてください。費用の面も含めて、社内で合意が取れませんでした』
費用の面「も」含めて。
俺はそれを、価格だと書いた。分かりやすかったからだ。上に説明しやすかったからだ。
それ以外の何かを、俺は確認しなかった。
三階。302か303。
あの夜と同じだった。
◆
一覧をもう一度見た。
代表番号にかけ直し、今度は受付で、当時の担当者がまだいるかを確かめた。
六人のうち、まだ在籍しているのは二人。生産管理課の課長。それから、当時は係長だった総務の担当者が、今は総務課長になっていた。
三年前、提案の場にいたが、ほとんど発言しなかった人だ。議事録の要約にも、名前は一度しか出てこない。
だが、俺は覚えていた。
最終提案のとき、価格の説明をしているあいだ、その人だけがずっと運用マニュアルのページを開いていた。
なぜ覚えているのか、自分でも分からない。ただ、あの人には何かあった気がした。
俺は電話をかけた。
今度は、提案の話から入らなかった。
「三年前にご提案を担当した竜門です。突然すみません。今日は新しい提案ではなくて、当時のことで教えていただきたいことがありまして」
「……はい」
「お話しできる範囲で結構なんですが、あのとき見送りになった理由を、もう一度伺えないでしょうか。私は価格だと報告したんですが、どうも、それだけじゃなかった気がしていまして」
電話の向こうが、少し黙った。
俺は何か言い足しかけて、やめた。
「竜門さん、でしたね。あのとき運用マニュアルのことを聞かれた」
「え」
「最後の打ち合わせのあと、廊下で。『これ、どなたが管理される予定ですか』って」
覚えていなかった。言ったのか、俺は。
「正直に言うと」
総務課長の声が、少し低くなった。
「値段じゃなかったんです。入れたあと、誰が面倒を見るのかが決まらなかった」
「運用の担当、ですか」
「ええ。うちは情報システムの専任が一人しかいなくて。その一人も、当時もう辞めることが決まっていたんです。新しいシステムを入れても、回す人がいない。でも、それは社外の方に言える話じゃなかったので」
「それで、費用の面も含めて、と」
「そう言うしかなかったんですよ。……今も、実は同じでしてね。専任はまだいないんです。現場はずっと困ってるんですけど」
「今は、どなたが対応されているんですか」
「何かあるたびに、生産管理の分かる者を呼んでいます。その人にも、本来の仕事があるんですけどね」
俺はメモを取っていた。
三年前の資料のどこにも、書いていなかったことだった。
「よろしければ一度、現場の責任者の方も交えて、お話を伺えませんか。提案は持っていきません。困っていることを聞かせていただきたいので」
「……生産管理の課長に声をかけてみます。来週でよければ」
「ありがとうございます」
受話器を置いた。
商談が決まったわけではない。何も売れていない。
それでも、次に誰へ何を聞けばいいかは、はっきりしていた。
画面には、朝に出させた失注理由の整理がまだ開いていた。
『価格面で競合に及ばず(見積差約15%)。根拠:社内報告書』
システムは間違っていない。記録にはそう書いてあり、システムはそれを正確に拾った。
間違っていたのは、記録の方だ。そして記録を書いたのは、俺だ。
価格に差があった。それは確かだ。だが、それだけで失注の理由を説明したつもりになっていた。
三年前の俺が書かなかった事情までは、この記録の要約から出てくるはずがなかった。
逆に言えば。
書かれていないことを聞きに行くのは、今のところ、俺の仕事らしい。
担当者一覧をもう一度見る。総務課長の名前の横に、自分で小さく書き足した。
『運用マニュアルを見ていた人』
どうして三年前、これを報告書に書かなかったのだろう。
書くほどのことではないと思ったのだ。数字にならない、ただの印象。上に出す報告書に、そんなものは書かないと思っていた。
だが、今日いちばん役に立ったのは、その、ただの印象だった。
過去の失注報告に、今日聞いた話を追記した。総務課長の名前と、今日の日付も付けた。
その下に、現場の人に確かめることを書く。
『誰が、何に、どれだけ手を取られているか』
朝に出した値下げ案は、閉じたままだった。
昨日なら、まだ大須賀の段ボールをめくっていた時間だ。
俺は休眠顧客リストの、二社目を開いた。
◆
夕方、総務課長から折り返しがあり、来週の面談日時が決まった。生産管理の課長も同席するという。
予定表に書き込んでから、桐谷課長に報告した。
「大須賀は、来週、現場責任者を交えた面談が入りました。提案はまだです」
「提案はまだ?」
「三年前の失注理由が、記録と違っていました。価格じゃなくて、導入後の運用体制です。そこを確かめないまま提案を作っても、同じ負け方をすると思いまして」
桐谷課長は少し俺の顔を見た。
「記録を書いたのは」
「俺です」
「……そうか」
それだけだった。責めもしなかったし、褒めもしなかった。
「来週の定例で、面談の結果を聞く」
「はい」
席へ戻ると、早川が椅子ごとこちらを向いた。
「竜門さん、大須賀、取れそうですか」
「分からん。でも、何を聞けばいいかは分かった」
「へえ」
早川は少し考えてから言った。
「僕、さっき二社に電話して、両方断られました。資料、ちゃんと作ったんですけどね」
「資料のせいじゃないかもしれないぞ」
「え?」
「三年動いてない客には、動いてない理由がある。俺も今日、一回目は外した」
早川はしばらく自分の画面を見ていた。
「……理由、どこに書いてあるんですかね」
「書いてないんだよ、たぶん」
言いながら、自分で少し驚いた。
昨日の俺なら、こんなことは言えなかった。
◆
夜、ブログを開いた。
昨日の返信の下に、返事を書く。社名や人の名前を出さないように、何度か書き直した。結局こうなった。
『返信ありがとうございました。作戦篇の話、読みました。
実は今、三年前に失注した顧客への再提案を任されています。最初は過去資料を全部読み直して、完璧な提案書を作ろうとしていました。一社に一週間かかる計算でした。
お返事を読んで、全部そろえる前に、最低限だけ整理して先方に連絡してみました。
一回目は失敗しました。三年前の失注理由を価格だと思い込んで、値段の話から入ったら、相手にされませんでした。
二回目は、当時ほとんど話さなかった人に、本当の理由を聞きました。価格ではなく、導入後に運用する人がいないことでした。私が読み直していた記録には、書いてありませんでした。
少なくとも、値段を直すためだけに一週間使わずに済みました。
成功はしていません。何も売れていません。
でも、何を聞けばいいかは分かりました。来週、現場の方と会います。』
送信して、スマホを伏せた。
昨日ほど恥ずかしくはなかった。
五分ほどして、通知が鳴った。早い。
『「放課後の兵法」管理人から、あなたのコメントに返信がありました』
『すごいです。
すみません、最初に正直に書きます。私の書いた孫子の話が、本当に会社で試されるとは思っていませんでした。
それに、うまくいった話ではなくて、思っていたのと違った話が返ってきたのが、すごく面白いです(大変なことを面白いと言ってすみません)。
それと、一つ訂正させてください。
私は前の返信で、「完璧に作るより、長く戦い続けないこと」と書きました。書いたときは、正直、「準備を減らす」くらいの意味で考えていました。
でも、あなたは準備を減らしただけではないですよね。三年前の資料を全部読む代わりに、相手に聞きに行った。準備の場所を変えた、のだと思います。』
準備の場所を変えた。
俺はその一文を、しばらく眺めていた。
そうか。俺は昨日、段ボールの中で戦っていた。相手のいないところで、長々と。
返事を打った。
『戦いを短くするって、準備を雑にすることじゃないんだな』
送信。今度は、すぐに返ってきた。
『たぶん。私も今、そう思いました』
俺は少し笑った。
会社で働いたことのない誰かと、営業の現場しか知らない五十三の男が、二千年以上前の本を挟んで、同じところに着いた。
どちらか一人では、たぶん着かなかった。
十月の面談で何を言うかは、まだ分からない。
ただ、来週、大須賀の現場で何を聞くかは決まっていた。
スマホを置く前に、もう一度だけ、画面を見た。
ブログの書き方は、あいかわらず丁寧で、長くて、どこか楽しそうだった。
『大変なことを面白いと言ってすみません』
どこかで聞いたような謝り方だ、と思った。
思っただけで、その夜はそのまま眠った。
孫子ノート|第2話 作戦篇
■ 今回の言葉
原文:故兵聞拙速、未睹巧之久也。夫兵久而国利者、未之有也。
書き下し:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり。夫れ兵久しくして国の利する者は、未だ之れ有らざるなり。
意味:戦いでは、多少つたなくても素早く終えたという話は聞くが、巧みに長引かせてうまくいったという例は見たことがない。戦いが長引いて国が得をしたことなど、これまで一度もない。
原文:故不尽知用兵之害者、則不能尽知用兵之利也。
書き下し:故に用兵の害を尽く知らざる者は、則ち用兵の利を尽く知ること能わざるなり。
意味:戦うことの損をすべて知らない者は、戦うことの得もすべて知ることはできない。
■ この篇の核
戦いには莫大な費用がかかる。勝っていても、長引けばそれだけで損をする。孫子は、戦いの「長さ」そのものをコストとして見ている。
作戦篇は、戦車の台数、兵の数、食糧の輸送、一日に千金という費用の話から始まります。孫子にとって戦争は、まず「お金と時間がどれだけ減っていくか」の問題でした。
■ よくある誤解
- **「拙速を尊ぶ」=雑でもいいから急げ。** 原文が比べているのは「つたないが短い戦い」と「巧みだが長い戦い」です。出来の良し悪しではなく、長さを問題にしています。「雑にやれ」とは書いていません。なお、「拙速」の読み方には昔から複数の説があり、解釈が分かれる箇所です。
- **準備は少ないほどよい。** 始計篇では、戦う前に比べて算えよ、と言っていました。作戦篇はそれを否定していません。準備も含めて、戦いが長引くことのコストを見よ、という話です。
■ 物語ではこう使った
竜門は、段ボール一箱の資料を一週間かけて読み直そうとしていました。準備としては丁寧ですが、その間に時間は確実に減っていきます。早川が八社分の資料を作り三社に電話した一日、竜門は一社の三年前の紙を半分読んでいました。
竜門がしたのは、準備をやめることではなく、準備の場所を変えることでした。紙の中ではなく、相手に聞く。これはリョーコがブログで言葉にした、本作での応用です。孫子の原文にこの言い方はありません。
「害を知らない者は利も分からない」を「失敗の理由を知らない者は成功の方法も分からない」と読んだのは、リョーコ自身が断っているとおり彼女の読み方です。原文は、戦争そのものの損得の話です。
■ あなたが試すなら
1. 今、「準備ができたら始めよう」と思って止まっていることはありますか。その準備に、あとどれくらい時間をかけるつもりですか。
2. その準備は、相手(お客さん、家族、上司など)がいないところで進めていませんか。相手に一度聞けば済むことはありませんか。
3. 最近うまくいかなかったことについて、「分かりやすい理由」で片づけていないでしょうか。




