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五十三歳、女子高生を軍師にする。  作者: さんしんどい


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第2話「長い戦いは、誰も得をしない」(作戦篇)

 第2話「長い戦いは、誰も得をしない」(作戦篇)


 返信は、長かった。


 通知を開いた瞬間、画面の下まで文字が詰まっているのが見えた。指で送っても、まだ続く。


 ベッドの上で、最初の数行だけ読んだ。


『コメントありがとうございます。管理人です。

 最初にお断りしておくと、私は会社で働いた経験がありません。なので、実際の仕事でどうすればいいかの「正解」は分かりません。

 そのうえで、孫子ならこう考えるかもしれない、ということなら書けます。

 すみません、少し長くなります。』


 少しではなかった。


 時計を見る。六時四十分。


 続きは夜に読むことにして、俺はスマホを置いた。


 正解は分かりません。


 その一文だけが、妙に頭に残った。


◆


「竜門、これ頼む」


 朝の打ち合わせのあと、桐谷課長が一枚の紙を俺の机に置いた。


 社名がずらりと並んでいる。


「休眠顧客のリストだ。過去三年、取引も問い合わせもない先。上から順に再提案をかけてくれ」


「全部ですか」


「全部とは言ってない。上から順に、だ」


 桐谷課長は一番上の行を指で叩いた。


『大須賀製作所』


 覚えている。


 三年前、俺が担当した。生産管理まわりのシステム更新で、最終提案まで行って、落とした。


「ここは一度いいところまで行ってるだろ。話が早いはずだ」


「……はい」


「来週の定例で進み具合を聞く」


 それだけ言って、桐谷課長は去っていった。


 話が早いはず。そうだといい、と俺は思った。


 三年前のことを、俺はあまり思い出したくなかった。


◆


 その日の午前中、俺は資料室にこもった。


 大須賀製作所の過去資料を全部出す。提案書。見積書。議事録。社内の稟議メモ。当時やり取りしたメールの印刷。


 段ボール一箱分あった。


 三年前の俺は、ずいぶん真面目に紙を残していたらしい。


 一枚ずつめくる。ここで価格の話をした。ここで先方の部長が渋い顔をした。ここで競合の名前が出た。


 読みながら、当時の会議室の空気が少しずつ戻ってくる。


 失注の理由は、社内報告にこう書いてあった。


『価格面で競合に及ばず(当社見積が約15%高)』


 書いたのは俺だ。


 だったら今回は、価格を見直した提案を持っていけばいい。そのためには、当時の見積の内訳から全部洗い直して、今の価格体系と突き合わせて――


 気づいたら昼を過ぎていた。


 席へ戻ると、隣の島で若手の早川が画面を見ていた。


「あ、竜門さん。休眠顧客リスト、僕も半分もらいました」


「そうか」


「もう三社分、提案資料できました」


「……三社?」


 早川が画面をこちらへ向ける。


 過去の取引履歴、業界動向、想定される課題、提案の骨子。表紙までついた資料が三つ並んでいた。


「業務支援システムに過去データ読ませたら、たたき台を出してくれるんで。あとは数字だけ確認して」


「午前中で?」


「一社二十分くらいですかね」


 俺は手元の段ボールを見た。


 一社。半日。まだ一枚も書いていない。


「すごいな」


「いや、システムがすごいんですよ」


 早川は悪気なく笑って、四社目に取りかかった。


 俺も自分の机に戻った。画面を開く。白紙の提案書。


 三年前の資料を全部読み込んで、価格を洗い直して、完璧なものを作る。それが俺のやり方だった。


 時間はかかるが、そのぶん穴がない。そう思ってきた。


 だが、この調子だと大須賀一社に一週間かかる。そのあいだに早川は二十社回る。


 来週の定例で、桐谷課長に何と言う。


『丁寧にやっています』


 十月の面談で、それを言うのか。


 手が止まった。止まったまま、午後が過ぎた。


 定時前、早川が伸びをしながら言った。


「今日、八社分作って、三社に電話しました。一社は来月会ってくれるそうです」


「そうか。よかったな」


 本心から言った。


 言いながら、自分の机を見た。


 段ボールは、まだ半分残っていた。


◆


 駅を出たところで、スマホが鳴った。


 母だった。


「昨日、電話したんだけど」


「ああ、ごめん。かけ直すの忘れてた」


「いいのよ、用事はないの。ただ、元気かと思って」


 母は昔から、用事のない電話をかけてくる。用事があるときは、逆にかけてこない。


「元気だよ」


「仕事は?」


「まあまあ」


「まあまあね」


 母は少し笑った。


「何してるの、今」


「昔のお客さんの資料を、全部読み直してるところ」


「全部?」


「全部」


「あんたは昔から、支度ばっかりして出かけるのが遅い子だったからね。遠足の前の晩に、リュックを三回詰め直して」


「そんな話、今しなくても」


「三回目に詰めたら、お弁当が入らなくなったのよ」


「覚えてないよ」


「覚えてなくていいの。お母さんが覚えてるから」


 母は九時には寝る。電話は八時半に終わった。


 切ったあとで、さっきの話を思い出した。


 覚えていない。本当に覚えていない。


 ただ、リュックの中身を三回入れ替えている子どもの姿は、なぜか簡単に思い浮かんだ。


◆


 風呂から上がって、ようやく返信の続きを読んだ。


『ご質問の「実際の仕事」が、どういう場面なのか分からないので、ここからは一般論です。


 前の記事では、戦う前に条件を比べる話を書きました。ただ、比べたり、準備したりしているあいだにも、時間やお金はかかります。


 そこを考えるとき、私が思い出すのが二篇目の「作戦篇」です。


 作戦というと、今の言葉では「戦い方の計画」のような意味ですが、この篇でまず書かれているのは、お金の話です。


 戦車千台、輜重車千台、兵十万、千里の先まで食糧を運ぶ。国の内外で使う費用、外交の費用、武具の修繕。一日に千金を費やして、ようやく十万の軍が動かせる――と、ほとんど家計簿みたいなことが書いてあります。


 そのうえで、こう続きます。


「其の戦いを用うるや勝つも、久しければ則ち兵を鈍らせ鋭を挫く」


 勝っていても、長引けば兵は疲れ、鋭さはなくなる。城を攻めれば力が尽き、長く軍を外に置けば国の財政が足りなくなる。


 そして、


「夫れ兵久しくして国の利する者は、未だ之れ有らざるなり」


 戦いが長引いて、国が得をしたことは、これまで一度もない。


 すみません、ここから完全に私の趣味なんですけど。』


 まだあるのか。画面を送る。


『この篇には「拙速」という言葉が出てきます。「兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり」。


 よく「拙速を尊ぶ」と言われて、「雑でもいいから早くやれ」という意味で使われるんですが、私はそれは少し違うと思っています。


 孫子は「下手でも速い方が偉い」と言っているのではなくて、「多少不格好でも速く終わらせた戦いは聞くけれど、上手に長引かせて成功した戦いは見たことがない」と言っているんです。比べているのは、出来の良さではなくて、長さです。』


 このあと、拙速の読み方についての諸説が四段落続いていた。俺は申し訳ないが飛ばした。


『もう一つだけ。作戦篇で私が好きな一文があります。


「用兵の害を尽く知らざる者は、則ち用兵の利を尽く知ること能わざるなり」


 戦いの損を全部分かっていない者には、戦いの得も本当には分からない、という意味です。


 私はこれを読むたびに、うまくいかなかった理由をちゃんと知らない人は、うまくいく方法も本当には分からないんだろうな、と思います(ここは完全に私の読み方です)。


 なので、ご質問への答えになるか分かりませんが。


 もし今、何かに取り組んでいるのなら、「良い作戦を完璧に作ること」より、「長く戦い続けないこと」を考えてみてはどうでしょうか。


 会社のことは分からないので、見当違いだったらすみません。』


 読み終えて、しばらく天井を見た。


 長く戦い続けない。


 大須賀の提案書を一週間かけて作るのは、長い戦いだろうか。だろうな、と思った。


 では、どうする。準備を減らせ、ということか。早川みたいに、二十分で資料を作って持っていけと。


 それはそれで、腹の底で何かが引っかかった。


 三年前、俺は大須賀で負けている。準備を減らして、同じ負け方をしたら目も当てられない。


 だが――


 もう一度、画面の上の一文を見た。


『比べているのは、出来の良さではなくて、長さです。』


 長さ。


 俺は今日一日、何をしていた。三年前の紙を読んでいた。


 三年前の、俺が書いた紙を。


 リュックを三回詰め直して、弁当が入らなくなった子どもの話を、なぜかもう一度思い出した。


◆


 翌朝、俺は段ボールを資料室へ戻した。


 代わりに、業務支援システムの画面を開いた。


 慣れない。早川が横で使っているのを見てはいたが、自分で指示を打ち込むのは初めてに近い。


 共有フォルダに残っていた大須賀の資料を選び、入力欄に、


『大須賀製作所 提案』


 と打ってみた。


 出てきたのは、三年前の提案書を今の製品名に置き換えたような資料だった。表紙まである。価格のページには、ご丁寧に「前回比15%値下げ案」と書いてある。


 昨日、俺が一週間かけて作ろうとしていたものだった。


 十秒で出た。


「……」


 画面を閉じかけて、やめた。


 隣を見る。早川はイヤホンをして、何かの資料を直している。


 声をかけるのは、少し勇気が要った。仕事を教えた側だった時間の方が、長い相手だ。


「早川」


「はい?」


 早川がイヤホンを外す。


「これ、どう頼めばいいんだ」


「え?」


「業務支援システム。提案書を作れって打ったら、本当に提案書が出てきた」


「そりゃ出ますよ」


 早川は笑いかけて、俺の顔を見て、やめた。


「何を出したいんですか」


「提案書じゃない。三年前に何があったかと、今、誰に聞けばいいか」


「ああ」


 早川は椅子を寄せてきた。


「それなら、ひとつずつ聞いた方がいいです。まとめて頼むと、いい感じの資料にしようとするんで。議事録の要約、とか、担当者の一覧、とか。欲しいものを分けて頼むと、そのとおり出してくれます」


「分けるのか」


「はい。あと、根拠になった記録も出せって書くと、どの資料から拾ったか付けてくれます」


「なるほど」


 メモを取った。早川が不思議そうにこちらを見た。


「竜門さんにメモしてもらうの、初めてかもしれません」


「うるさい」


「すみません」


 早川は笑って、自分の席に戻った。


 聞いてみれば、三十秒だった。


 昨日なら聞かなかっただろう。聞けば、自分が使えないと言うようなものだと思っていた。


 実際、使えなかったのだから、同じことだ。


 何を頼む。提案書を作れ、ではない。それはまだ早い。


 俺が知りたいのは、三年前に何があって、今、誰に何を聞けばいいかだ。


 打ち込む。


『大須賀製作所との過去の議事録を要約してください』


『失注時の理由を、記録にある範囲で整理してください』


『先方の当時の担当者と役職を一覧にしてください』


 それぞれの最後に、『根拠にした記録も示してください』と付け足した。


 数分で出た。


 議事録の要約は、俺の記憶とだいたい合っていた。


 失注理由の整理は、


『価格面で競合に及ばず(見積差約15%)。社内報告書より』


 当然だ。俺がそう書いたのだから。


 担当者一覧には六人の名前が並んでいた。購買課長、生産管理課長、総務部長、情報システム担当……。


 段ボール一箱分が、画面一枚になった。


 あっけないと思った。同時に、少し楽になったのも本当だった。


 これで十分かどうかは分からない。でも、昨日一日かけて分からなかったものが、十分で目の前に並んでいる。


 俺は提案書のファイルを閉じた。


 受話器を取った。


◆


 最初の電話は、失敗だった。


 一覧の一番上、当時の購買課長はすでに退職していた。代わりに出たのは、今の購買担当だという若い男性だった。


「どういったご用件でしょうか」


 聞かれた途端、急に焦った。何も用意せずに電話してきたと思われたくなかった。


 画面の『見積差約15%』が目に入った。


「三年前に一度ご提案した件で、改めてお話をと思いまして。当時は価格面でご期待に沿えなかったと承知しておりますが、価格の条件も含めて、もう一度ご相談できればと――」


「ああ、すみません」


 相手は丁寧に遮った。


「今、システムの入れ替えは予定がないので」


「価格のほうも、ご相談に応じられますので」


「いえ、そういうことではなくて。予定がないので。すみません」


 切れた。


 受話器を置いて、しばらく画面を見ていた。


 隣で早川が、聞こえなかったふりをしてくれているのが分かった。


 価格のほうも、ご相談に応じられますので。


 自分の言葉を思い返す。


 聞くつもりでかけた電話だった。なのに、最初の一言から値段の話をしていた。


 相手は「そういうことではなくて」と言った。


 予定がない。価格が高いから買わないのではなく、そもそも買う予定がない。


 では、三年前は。三年前も、本当に価格だったのか。


 俺は自分の書いた報告書の一文を、初めて疑った。


 ゆうべ読んだ一文が浮かんだ。


 用兵の害を尽く知らざる者は――。


 三年前、負けた理由を、俺はちゃんと知ろうとしただろうか。


 当時、先方は最後にこう言った。


『今回は見送らせてください。費用の面も含めて、社内で合意が取れませんでした』


 費用の面「も」含めて。


 俺はそれを、価格だと書いた。分かりやすかったからだ。上に説明しやすかったからだ。


 それ以外の何かを、俺は確認しなかった。


 三階。302か303。


 あの夜と同じだった。


◆


 一覧をもう一度見た。


 代表番号にかけ直し、今度は受付で、当時の担当者がまだいるかを確かめた。


 六人のうち、まだ在籍しているのは二人。生産管理課の課長。それから、当時は係長だった総務の担当者が、今は総務課長になっていた。


 三年前、提案の場にいたが、ほとんど発言しなかった人だ。議事録の要約にも、名前は一度しか出てこない。


 だが、俺は覚えていた。


 最終提案のとき、価格の説明をしているあいだ、その人だけがずっと運用マニュアルのページを開いていた。


 なぜ覚えているのか、自分でも分からない。ただ、あの人には何かあった気がした。


 俺は電話をかけた。


 今度は、提案の話から入らなかった。


「三年前にご提案を担当した竜門です。突然すみません。今日は新しい提案ではなくて、当時のことで教えていただきたいことがありまして」


「……はい」


「お話しできる範囲で結構なんですが、あのとき見送りになった理由を、もう一度伺えないでしょうか。私は価格だと報告したんですが、どうも、それだけじゃなかった気がしていまして」


 電話の向こうが、少し黙った。


 俺は何か言い足しかけて、やめた。


「竜門さん、でしたね。あのとき運用マニュアルのことを聞かれた」


「え」


「最後の打ち合わせのあと、廊下で。『これ、どなたが管理される予定ですか』って」


 覚えていなかった。言ったのか、俺は。


「正直に言うと」


 総務課長の声が、少し低くなった。


「値段じゃなかったんです。入れたあと、誰が面倒を見るのかが決まらなかった」


「運用の担当、ですか」


「ええ。うちは情報システムの専任が一人しかいなくて。その一人も、当時もう辞めることが決まっていたんです。新しいシステムを入れても、回す人がいない。でも、それは社外の方に言える話じゃなかったので」


「それで、費用の面も含めて、と」


「そう言うしかなかったんですよ。……今も、実は同じでしてね。専任はまだいないんです。現場はずっと困ってるんですけど」


「今は、どなたが対応されているんですか」


「何かあるたびに、生産管理の分かる者を呼んでいます。その人にも、本来の仕事があるんですけどね」


 俺はメモを取っていた。


 三年前の資料のどこにも、書いていなかったことだった。


「よろしければ一度、現場の責任者の方も交えて、お話を伺えませんか。提案は持っていきません。困っていることを聞かせていただきたいので」


「……生産管理の課長に声をかけてみます。来週でよければ」


「ありがとうございます」


 受話器を置いた。


 商談が決まったわけではない。何も売れていない。


 それでも、次に誰へ何を聞けばいいかは、はっきりしていた。


 画面には、朝に出させた失注理由の整理がまだ開いていた。


『価格面で競合に及ばず(見積差約15%)。根拠:社内報告書』


 システムは間違っていない。記録にはそう書いてあり、システムはそれを正確に拾った。


 間違っていたのは、記録の方だ。そして記録を書いたのは、俺だ。


 価格に差があった。それは確かだ。だが、それだけで失注の理由を説明したつもりになっていた。


 三年前の俺が書かなかった事情までは、この記録の要約から出てくるはずがなかった。


 逆に言えば。


 書かれていないことを聞きに行くのは、今のところ、俺の仕事らしい。


 担当者一覧をもう一度見る。総務課長の名前の横に、自分で小さく書き足した。


『運用マニュアルを見ていた人』


 どうして三年前、これを報告書に書かなかったのだろう。


 書くほどのことではないと思ったのだ。数字にならない、ただの印象。上に出す報告書に、そんなものは書かないと思っていた。


 だが、今日いちばん役に立ったのは、その、ただの印象だった。


 過去の失注報告に、今日聞いた話を追記した。総務課長の名前と、今日の日付も付けた。


 その下に、現場の人に確かめることを書く。


『誰が、何に、どれだけ手を取られているか』


 朝に出した値下げ案は、閉じたままだった。


 昨日なら、まだ大須賀の段ボールをめくっていた時間だ。


 俺は休眠顧客リストの、二社目を開いた。


◆


 夕方、総務課長から折り返しがあり、来週の面談日時が決まった。生産管理の課長も同席するという。


 予定表に書き込んでから、桐谷課長に報告した。


「大須賀は、来週、現場責任者を交えた面談が入りました。提案はまだです」


「提案はまだ?」


「三年前の失注理由が、記録と違っていました。価格じゃなくて、導入後の運用体制です。そこを確かめないまま提案を作っても、同じ負け方をすると思いまして」


 桐谷課長は少し俺の顔を見た。


「記録を書いたのは」


「俺です」


「……そうか」


 それだけだった。責めもしなかったし、褒めもしなかった。


「来週の定例で、面談の結果を聞く」


「はい」


 席へ戻ると、早川が椅子ごとこちらを向いた。


「竜門さん、大須賀、取れそうですか」


「分からん。でも、何を聞けばいいかは分かった」


「へえ」


 早川は少し考えてから言った。


「僕、さっき二社に電話して、両方断られました。資料、ちゃんと作ったんですけどね」


「資料のせいじゃないかもしれないぞ」


「え?」


「三年動いてない客には、動いてない理由がある。俺も今日、一回目は外した」


 早川はしばらく自分の画面を見ていた。


「……理由、どこに書いてあるんですかね」


「書いてないんだよ、たぶん」


 言いながら、自分で少し驚いた。


 昨日の俺なら、こんなことは言えなかった。


◆


 夜、ブログを開いた。


 昨日の返信の下に、返事を書く。社名や人の名前を出さないように、何度か書き直した。結局こうなった。


『返信ありがとうございました。作戦篇の話、読みました。

 実は今、三年前に失注した顧客への再提案を任されています。最初は過去資料を全部読み直して、完璧な提案書を作ろうとしていました。一社に一週間かかる計算でした。

 お返事を読んで、全部そろえる前に、最低限だけ整理して先方に連絡してみました。

 一回目は失敗しました。三年前の失注理由を価格だと思い込んで、値段の話から入ったら、相手にされませんでした。

 二回目は、当時ほとんど話さなかった人に、本当の理由を聞きました。価格ではなく、導入後に運用する人がいないことでした。私が読み直していた記録には、書いてありませんでした。

 少なくとも、値段を直すためだけに一週間使わずに済みました。

 成功はしていません。何も売れていません。

 でも、何を聞けばいいかは分かりました。来週、現場の方と会います。』


 送信して、スマホを伏せた。


 昨日ほど恥ずかしくはなかった。


 五分ほどして、通知が鳴った。早い。


『「放課後の兵法」管理人から、あなたのコメントに返信がありました』


『すごいです。

 すみません、最初に正直に書きます。私の書いた孫子の話が、本当に会社で試されるとは思っていませんでした。

 それに、うまくいった話ではなくて、思っていたのと違った話が返ってきたのが、すごく面白いです(大変なことを面白いと言ってすみません)。


 それと、一つ訂正させてください。

 私は前の返信で、「完璧に作るより、長く戦い続けないこと」と書きました。書いたときは、正直、「準備を減らす」くらいの意味で考えていました。

 でも、あなたは準備を減らしただけではないですよね。三年前の資料を全部読む代わりに、相手に聞きに行った。準備の場所を変えた、のだと思います。』


 準備の場所を変えた。


 俺はその一文を、しばらく眺めていた。


 そうか。俺は昨日、段ボールの中で戦っていた。相手のいないところで、長々と。


 返事を打った。


『戦いを短くするって、準備を雑にすることじゃないんだな』


 送信。今度は、すぐに返ってきた。


『たぶん。私も今、そう思いました』


 俺は少し笑った。


 会社で働いたことのない誰かと、営業の現場しか知らない五十三の男が、二千年以上前の本を挟んで、同じところに着いた。


 どちらか一人では、たぶん着かなかった。


 十月の面談で何を言うかは、まだ分からない。


 ただ、来週、大須賀の現場で何を聞くかは決まっていた。


 スマホを置く前に、もう一度だけ、画面を見た。


 ブログの書き方は、あいかわらず丁寧で、長くて、どこか楽しそうだった。


『大変なことを面白いと言ってすみません』


 どこかで聞いたような謝り方だ、と思った。


 思っただけで、その夜はそのまま眠った。

孫子ノート|第2話 作戦篇


■ 今回の言葉


原文:故兵聞拙速、未睹巧之久也。夫兵久而国利者、未之有也。


書き下し:故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ざるなり。夫れ兵久しくして国の利する者は、未だ之れ有らざるなり。


意味:戦いでは、多少つたなくても素早く終えたという話は聞くが、巧みに長引かせてうまくいったという例は見たことがない。戦いが長引いて国が得をしたことなど、これまで一度もない。


原文:故不尽知用兵之害者、則不能尽知用兵之利也。


書き下し:故に用兵の害を尽く知らざる者は、則ち用兵の利を尽く知ること能わざるなり。


意味:戦うことの損をすべて知らない者は、戦うことの得もすべて知ることはできない。


■ この篇の核


戦いには莫大な費用がかかる。勝っていても、長引けばそれだけで損をする。孫子は、戦いの「長さ」そのものをコストとして見ている。


作戦篇は、戦車の台数、兵の数、食糧の輸送、一日に千金という費用の話から始まります。孫子にとって戦争は、まず「お金と時間がどれだけ減っていくか」の問題でした。


■ よくある誤解


- **「拙速を尊ぶ」=雑でもいいから急げ。** 原文が比べているのは「つたないが短い戦い」と「巧みだが長い戦い」です。出来の良し悪しではなく、長さを問題にしています。「雑にやれ」とは書いていません。なお、「拙速」の読み方には昔から複数の説があり、解釈が分かれる箇所です。

- **準備は少ないほどよい。** 始計篇では、戦う前に比べて算えよ、と言っていました。作戦篇はそれを否定していません。準備も含めて、戦いが長引くことのコストを見よ、という話です。


■ 物語ではこう使った


竜門は、段ボール一箱の資料を一週間かけて読み直そうとしていました。準備としては丁寧ですが、その間に時間は確実に減っていきます。早川が八社分の資料を作り三社に電話した一日、竜門は一社の三年前の紙を半分読んでいました。


竜門がしたのは、準備をやめることではなく、準備の場所を変えることでした。紙の中ではなく、相手に聞く。これはリョーコがブログで言葉にした、本作での応用です。孫子の原文にこの言い方はありません。


「害を知らない者は利も分からない」を「失敗の理由を知らない者は成功の方法も分からない」と読んだのは、リョーコ自身が断っているとおり彼女の読み方です。原文は、戦争そのものの損得の話です。


■ あなたが試すなら


1. 今、「準備ができたら始めよう」と思って止まっていることはありますか。その準備に、あとどれくらい時間をかけるつもりですか。

2. その準備は、相手(お客さん、家族、上司など)がいないところで進めていませんか。相手に一度聞けば済むことはありませんか。

3. 最近うまくいかなかったことについて、「分かりやすい理由」で片づけていないでしょうか。

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