第1話「算が足りない」(始計篇):幕間 放課後の兵法、管理人より
会社で働いたことがな――、まで言った。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私はそこばかり思い出していた。
あの人は気づかなかったと思う。気づいていたら、あんなふうに三十分も話してくれなかったはずだ。
気づかれなかったから、よかった。
そう思ったあとで、少し嫌な気持ちになった。よかった、と思う理由が、あまりよくない。
『歴史と現場の会』に通い始めて、半年になる。参加条件は書いていなかった。ただ、来ている人はみんな社会人で、私は最初の日に職業を聞かれる前に、紺のジャケットを買っていた。
調査関係です。いろいろ調べます。
嘘ではない。孫子なら一年以上調べている。
でも、そういう意味で聞かれていないことくらいは、分かる。
◆
家に着いたのは九時半だった。
リビングでは母がノートパソコンを開いていた。夕飯の皿を片づけたテーブルの上に、資料が何枚か広げてある。
「おかえり。勉強会、どうだった」
「桶狭間だった」
「そう。お風呂わいてるよ」
母は画面から目を離さなかった。
母が会社で何をしているのか、私はよく知らない。経理ではない。営業でもないらしい。「企画っていうか、調整っていうか」と前に言っていた。調整って何を、と聞いたら、「いろいろ」と言われた。
いろいろ調べます、と私が言ったのと、たぶん同じくらいの答えだ。
今日の人は、「議事録とか、ヒアリングの整理とか」と言った。それがAIに取られた、と。
母のパソコンの画面にも、似たような表が見える。あれも、そのうち誰かに、何かに取られるんだろうか。
聞いてみようかと思ってやめた。母は月末になると口数が減る。
ちなみに母は、私の行っている勉強会が社会人向けだということを知らない。歴史の勉強会、としか言っていないから。
嘘はついていない。言っていないだけだ。
……それは、さっきと同じ言い訳だった。
◆
コメントが来ていたのは、十一時過ぎだった。
『放課後の兵法』には、ときどきコメントがつく。たいていは「長い」か、「三国志のこの武将の話もしてほしい」か、知らない言語の広告だ。
今夜のは一行だけだった。
『実際の仕事で使うなら、どう考えればいいでしょうか。』
始計篇の記事の下だった。
仕事。
頭に浮かんだのは、今日の302号室の、ため息の大きな人だった。
でも、それはないと思う。ああいうことを考えている社会人はたぶん何万人もいるし、私のブログを読んでいる人は、たぶん何十人もいない。
画面を見ながら、私は少し困った。
答えられない。
私は会社を知らない。母が何をしているかも知らない。仕事で使うなら、と聞かれても、使ったことがない。
だから最初に、そう書くことにした。
『最初にお断りしておくと、私は会社で働いた経験がありません』
書いてから、消そうかと思った。管理人が何者か分からないままの方が、言葉に重みが出る気がする。孫子だって、兵は詭道なり、と言っている。
でも、今日はもう十分に詭道だった。
残した。
◆
そこから先が、長くなった。
始計篇の続きなら、いくらでも書ける。算を積め。五事を比べろ。七計で並べろ。
書きながら、ふと手が止まった。
この人がもし、本当に何かを抱えている人だったら。始計篇だけを読んで、「比べるものを全部そろえてから動こう」と思ってしまったら。
それは私だ、と思った。
私は記事を一本書くのに、三週間かかる。参考文献を全部読んで、異説を全部確かめて、図を三回作り直す。その間に、書きたかったことの半分くらいは熱が冷める。
孫子は、そこもちゃんと書いている。始計篇の次、作戦篇。準備にも戦にもお金と時間がかかる。勝っても、長引けば損をする。
すみません、ここから完全に私の趣味なんですけど、と打ってから、拙速の読み方を四段落書いた。
読み返して、三段落消した。
また二段落足した。
結局、四段落に戻った。
送信ボタンを押したのは、一時半だった。
「長く戦い続けないこと」を勧める返信を、三時間かけて書いたことには、送ったあとで気づいた。
◆
翌朝、一時間目の前に進路調査票が配られた。
『第一志望の分野(学部・学科系統)』
欄は、思っていたより小さかった。
「リョーコ、何て書く?」
隣の席のミサキが、自分の紙をひらひらさせた。ミサキの欄には、もう「看護」と書いてある。中学のときから決めているらしい。
「まだ」
「歴史でしょ。文学部」
「たぶん」
「孫子ってさ」
ミサキは鉛筆を回した。
「就職に役立つの?」
悪気のない顔だった。ミサキは、私が三十分孫子の話をしても「長い」と言うだけで、最後まで聞いてくれる数少ない人だ。
「……戦う前に、条件を比べるのには」
「何と何を?」
答えられなかった。
昨夜、知らない誰かに、まさに同じことを聞かれた気がした。
ミサキは「ふうん」と言って、自分の紙を鞄にしまった。
私は空欄を見ていた。
鉛筆で、小さく書いてみた。
『調査関係』
少し眺めて、消しゴムで消した。
消したあとが、うっすら残った。




