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五十三歳、女子高生を軍師にする。  作者: さんしんどい


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第1話「算が足りない」(始計篇):幕間 放課後の兵法、管理人より

会社で働いたことがな――、まで言った。


 電車の窓に映る自分の顔を見ながら、私はそこばかり思い出していた。


 あの人は気づかなかったと思う。気づいていたら、あんなふうに三十分も話してくれなかったはずだ。


 気づかれなかったから、よかった。


 そう思ったあとで、少し嫌な気持ちになった。よかった、と思う理由が、あまりよくない。


 『歴史と現場の会』に通い始めて、半年になる。参加条件は書いていなかった。ただ、来ている人はみんな社会人で、私は最初の日に職業を聞かれる前に、紺のジャケットを買っていた。


 調査関係です。いろいろ調べます。


 嘘ではない。孫子なら一年以上調べている。


 でも、そういう意味で聞かれていないことくらいは、分かる。


◆


 家に着いたのは九時半だった。


 リビングでは母がノートパソコンを開いていた。夕飯の皿を片づけたテーブルの上に、資料が何枚か広げてある。


「おかえり。勉強会、どうだった」


「桶狭間だった」


「そう。お風呂わいてるよ」


 母は画面から目を離さなかった。


 母が会社で何をしているのか、私はよく知らない。経理ではない。営業でもないらしい。「企画っていうか、調整っていうか」と前に言っていた。調整って何を、と聞いたら、「いろいろ」と言われた。


 いろいろ調べます、と私が言ったのと、たぶん同じくらいの答えだ。


 今日の人は、「議事録とか、ヒアリングの整理とか」と言った。それがAIに取られた、と。


 母のパソコンの画面にも、似たような表が見える。あれも、そのうち誰かに、何かに取られるんだろうか。


 聞いてみようかと思ってやめた。母は月末になると口数が減る。


 ちなみに母は、私の行っている勉強会が社会人向けだということを知らない。歴史の勉強会、としか言っていないから。


 嘘はついていない。言っていないだけだ。


 ……それは、さっきと同じ言い訳だった。


◆


 コメントが来ていたのは、十一時過ぎだった。


 『放課後の兵法』には、ときどきコメントがつく。たいていは「長い」か、「三国志のこの武将の話もしてほしい」か、知らない言語の広告だ。


 今夜のは一行だけだった。


『実際の仕事で使うなら、どう考えればいいでしょうか。』


 始計篇の記事の下だった。


 仕事。


 頭に浮かんだのは、今日の302号室の、ため息の大きな人だった。


 でも、それはないと思う。ああいうことを考えている社会人はたぶん何万人もいるし、私のブログを読んでいる人は、たぶん何十人もいない。


 画面を見ながら、私は少し困った。


 答えられない。


 私は会社を知らない。母が何をしているかも知らない。仕事で使うなら、と聞かれても、使ったことがない。


 だから最初に、そう書くことにした。


『最初にお断りしておくと、私は会社で働いた経験がありません』


 書いてから、消そうかと思った。管理人が何者か分からないままの方が、言葉に重みが出る気がする。孫子だって、兵は詭道なり、と言っている。


 でも、今日はもう十分に詭道だった。


 残した。


◆


 そこから先が、長くなった。


 始計篇の続きなら、いくらでも書ける。算を積め。五事を比べろ。七計で並べろ。


 書きながら、ふと手が止まった。


 この人がもし、本当に何かを抱えている人だったら。始計篇だけを読んで、「比べるものを全部そろえてから動こう」と思ってしまったら。


 それは私だ、と思った。


 私は記事を一本書くのに、三週間かかる。参考文献を全部読んで、異説を全部確かめて、図を三回作り直す。その間に、書きたかったことの半分くらいは熱が冷める。


 孫子は、そこもちゃんと書いている。始計篇の次、作戦篇。準備にも戦にもお金と時間がかかる。勝っても、長引けば損をする。


 すみません、ここから完全に私の趣味なんですけど、と打ってから、拙速の読み方を四段落書いた。


 読み返して、三段落消した。


 また二段落足した。


 結局、四段落に戻った。


 送信ボタンを押したのは、一時半だった。


 「長く戦い続けないこと」を勧める返信を、三時間かけて書いたことには、送ったあとで気づいた。


◆


 翌朝、一時間目の前に進路調査票が配られた。


『第一志望の分野(学部・学科系統)』


 欄は、思っていたより小さかった。


「リョーコ、何て書く?」


 隣の席のミサキが、自分の紙をひらひらさせた。ミサキの欄には、もう「看護」と書いてある。中学のときから決めているらしい。


「まだ」


「歴史でしょ。文学部」


「たぶん」


「孫子ってさ」


 ミサキは鉛筆を回した。


「就職に役立つの?」


 悪気のない顔だった。ミサキは、私が三十分孫子の話をしても「長い」と言うだけで、最後まで聞いてくれる数少ない人だ。


「……戦う前に、条件を比べるのには」


「何と何を?」


 答えられなかった。


 昨夜、知らない誰かに、まさに同じことを聞かれた気がした。


 ミサキは「ふうん」と言って、自分の紙を鞄にしまった。


 私は空欄を見ていた。


 鉛筆で、小さく書いてみた。


『調査関係』


 少し眺めて、消しゴムで消した。


 消したあとが、うっすら残った。

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