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五十三歳、女子高生を軍師にする。  作者: さんしんどい


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第1話「算が足りない」(始計篇)

第1話「算が足りない」(始計篇)


その日の定時後、俺は会議室を間違えた。


 五十三にもなって迷子になるとは思わなかったし、その間違いに、あとで礼を言いたくなるとも思わなかった。


◆


「竜門、十月の面談、分かってるよな」


 桐谷課長にそう言われたのは、退勤の支度をしていた午後六時過ぎだった。


 四月の終わり。上期が始まって、まだ三週間しか経っていない。


 桐谷課長は俺より八つ下で、他部署から異動してきて二年になる。世間話より数字と結論を好む人だった。


 今日もそのとおり、世間話はなかった。


「分かってます」


 分かっていなかった。


 正確に言えば、面談があることは分かっている。上期の評価面談。十月の頭だ。


 分からないのは、そこで何を言えばいいのかだった。


「半年あるからな」


 桐谷課長はそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。


 机の上のモニターには、今朝届いた通知がまだ残っていた。


『本日の顧客ヒアリング内容は、業務支援システムが自動整理しました。ご確認ください。』


 俺はマウスを動かした。


 画面には、午前中の打ち合わせ内容がきれいに整理されている。


 議題。顧客側の課題。確認事項。次回までの宿題。


 誤字もない。抜けも、ぱっと見たところない。


 俺なら三十分はかかった。


 システムは、会議終了から四分後にこれを出していた。


「……速いな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 半年前まで、こういう仕事は俺がやっていた。


 顧客へのヒアリング内容を整理する。議事録の下書きを作る。過去の提案書を探して、次の資料のたたき台を作る。


 二十年以上、営業の現場で積み上げてきた仕事だった。


 胸を張って専門技能と言えるものではない。誰かに表彰されたこともない。


 それでも、俺が会社の中で居場所を保ってきた仕事だった。


 それが今では、録音データを読み込ませれば数分で終わる。


『ご確認ください』


 システムは、それしか言っていない。


 なのに俺には、その文字が、


『あとは確認だけしていれば結構です』


 と言っているように見えた。


「竜門さん」


 隣の島から声をかけられた。


 二十代の若手社員が、モニターをこちらへ向けている。


「すみません。この提案なんですけど、最初にコスト削減を出した方がいいですよね?」


 得意先の名前を見た。


「ああ、そこなら逆だ」


「逆ですか?」


「最初に運用の話をした方がいい。あそこの部長、金額の話から入ると嫌がるんだよ。去年もそうだったろ」


「あ……」


 若手が過去の商談記録を開く。


「本当だ。最初、予算で押して失敗してますね」


「現場がどう楽になるかを先に見せて、そのあと数字だな」


「ありがとうございます。直します」


「いや。念のため担当にも確認してくれ。俺の記憶も古いかもしれないから」


「はい」


 若手はすぐ画面へ戻った。


 俺も自分のモニターへ向き直った。


 こんなものは能力とは言わない。長く会社にいれば、それくらい覚えている。


 若い社員なら、過去の記録を検索すれば済む話だ。その検索だって、そのうちAIがやるだろう。


 十月の面談では、社員一人ひとりが、


『今後、自分はどんな仕事で価値を出すのか』


 を自分の言葉で示さなければならない。


 管理職ではない。専門家でもない。同期には、とっくに部長になった奴もいる。


 そのうえ、これまで自分の居場所を守ってきた細々した実務まで、機械の方が速くなった。


 さて。


 俺には何が残っている。


 考えてみた。


 何も浮かばなかった。


◆


 だから、その夜。


 俺はスマホの趣味・学び系マッチングアプリで見つけた、


『働く人の本音を語る会』


 に参加することにしていた。


 要するに、仕事に疲れた社会人同士で話をする集まりらしい。参加費千円。


 愚痴を聞いてもらうために千円というのは安くない。だが、会社の人間に愚痴るよりは安い気がした。


 会場は駅前の貸し会議室ビルだった。


 問題は、前日に会場変更の連絡が来ていたことだ。


 電車の中で半分眠りながら、一度だけ見た。


 三階。302か303。


 そこまでは覚えていた。十分だと思っていた。


 十分ではなかった。


 三階の受付では、一人の女性が三つの集まりを同時に捌いていた。


「経理の勉強会はこちらですか」


「お手洗いってどちらです?」


「すみません、今日初めてなんですが」


「少々お待ちください」


 受付の女性が、スマホと名簿と案内図を忙しく往復させる。


「ええと、歴史の会の方は302、本音の会の方は……すみません、少々お待ちください」


 俺の耳に、「302」という数字だけが残った。


 昨日見た数字も、そんな数字だった気がする。


 後ろには人が並んでいる。もう一度聞くのも気が引けた。


 俺は廊下を進み、302号室の前まで行った。


 ドアには紙が貼ってあった。


 一応見た。


 一応、である。眼鏡をかけ直して読むほどではないと思った。


 そして、そのまま入った。


 それが最初の間違いだった。


部屋には十数人が、椅子を丸く並べて座っていた。


 俺が入ると二、三人がこちらを見たが、遅れてきた参加者だと思ったのだろう。すぐ前へ視線を戻した。


 前方では、六十代くらいの小柄な男性がホワイトボードの横に立っている。


「――ですから、情報をたくさん持っている側が、必ず勝つわけではない。持っている情報から何を比較して、どう判断するか。そこが面白いところなんです」


 なるほど、と俺は思った。


 本音を語る会、意外と知的だな。司会がうまい。


 空いていた椅子に腰を下ろした。


 隣の女性が、小さく会釈した。


「こんばんは」


「あ、どうも」


 若い。とは思った。


 紺色のジャケットに白いブラウス。服装だけなら会社員に見える。ただし、ジャケットは少しだけ着られている感じがした。


 膝の上には大学ノートが開かれていて、そこだけ妙に異様だった。


 びっしりと文字が書いてある。


『曹操』『袁紹』『官渡』『兵站』『用間』


 丸と矢印で結ばれ、余白には細かい字で、何かの引用らしいものまで書いてあった。


 仕事のノートではなさそうだ。ずいぶん変わった人も来るんだな、と思った。


「お仕事、お疲れのようですね」


 彼女が言った。妙に丁寧な敬語だった。


「分かります?」


「ちょっと」


 彼女は笑った。


「座ったとき、すごいため息だったので」


「それは失礼」


「いえ。ここ、そういう話をするところ……」


 そこで彼女が一瞬止まった。


「……ですよね?」


「そうですよね」


 俺は安心した。


 彼女の顔に一瞬浮かんだ迷いを、俺は見逃した。


 今思えば、見逃してはいけないところだった。


「いやもう、散々ですよ」


 俺は話し始めた。


「会社の仕事、半分くらいAIに取られましてね。二十年かけてやってきたことが、今じゃボタン一つです」


「半分」


 彼女の目が少し大きくなった。


「具体的には、どういうことをしていたんですか?」


「議事録とか、ヒアリングの整理とか。提案資料のたたき台を作ったり」


「提案資料」


 彼女はノートの端に書き込んだ。


 なぜメモを取る。本音を語る会というのは、そういうものなのか。


「それって、その資料を作ること自体が仕事なんですか?」


「え?」


「すみません。会社で働いたことがな――」


 ぴたり、と止まった。


「……ない人には、分かりにくいですよね」


 変な言い方だった。


 だが、俺は自分の話をしたかった。


「まあ、資料だけじゃないですけどね。でも、そういう仕事をずっとやってきたんですよ。それが急にいらなくなると、じゃあ俺は何をすればいいんだって話で」


「なるほど……」


「十月には面談まであるんです。これから自分が何で会社に貢献するか言えって。五十三ですよ、俺。今さら何を言えっていうんですか」


「五十三」


「同期なんか、もう部長ですよ。隣の若い奴の方がAIも使える。俺よりよっぽど会社には必要かもしれない」


 そこまで言って、自分でも嫌になった。知らない人を捕まえて何を言っているんだ。


「すみませんね。こんな話」


「いえ」


 彼女は首を振った。それから、ノートへ目を落とした。


 妙に真剣な顔だった。


「面白いです」


「……面白い?」


「あっ」


 彼女が慌てた。


「大変なのが面白いって意味じゃなくて」


「でしょうね」


「会社って、そういうふうに仕事が変わるんだなって。すみません。私、その……こういう話、あまり聞く機会がないので」


「そうなんですか」


「はい」


 俺は聞いた。


「お仕事は何を?」


「え」


 止まった。今度は、はっきり止まった。


「私は、その」


 彼女の視線が泳ぐ。


「……調査関係です」


「調査?」


「いろいろ調べます」


 それ以上聞いてはいけない気がした。


「大変ですね」


「はい。大変です」


 なぜか彼女は、少し申し訳なさそうに頷いた。


◆


 ひとしきり話して、俺はようやく口を閉じた。


 彼女はしばらく何も言わなかった。ノートの端に、


『AI=敵?』

『仕事=作業?』

『残っているもの?』


 と書いている。


「お話を聞いていて、一つ思ったんですけど」


「はい」


「AIに負けたっていうより……」


 彼女はそこで眉を寄せた。


「まだ、勝ち負けを決めるための材料を、集めてないんじゃないですか」


「材料?」


「はい」


 彼女は急に背筋を伸ばした。今まで少し頼りなかった話し方が、そこだけ変わった。


「何と何を比べて、自分が負けたと思ったんですか?」


「何と何って……俺とAIでしょう」


「でも、さっきのお話だと、比べているのは議事録を作る速さとか、資料を作る速さですよね」


「まあ」


「それが仕事の全部なんですか?」


 言葉に詰まった。


「全部じゃないでしょうけど」


「じゃあ、まだ全部は比べてないですよね」


 彼女は自分で言ってから、少し考え込んだ。


 そして、


「あ」


 と言った。何か見つけた顔だった。


「『孫子』です」


「はい?」


「今の話、『孫子』に似ています」


 彼女の声が少し弾んだ。膝の上のノートをめくる。そして、何かを探すでもなく言った。


「『夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。多算は勝ち、少算は勝たず。而るを況んや無算に於いてをや』」


 俺は黙った。彼女も黙った。


「……何語です?」


「すみません」


 彼女の顔が赤くなった。


「そのまま言っちゃいました」


「そのまま?」


「覚えてるので」


 さらっと言った。


「全部?」


「始計篇なら」


「始計篇」


「『孫子』の最初です」


 彼女はノートにさらさらと字を書いた。


『多算勝 少算不勝』


「簡単に言うと、戦う前に条件をちゃんと比べて、勝てる根拠を多く積み上げた側が勝つ、という考え方です」


「数をいっぱい数えればいい?」


「あ、違います」


 即答だった。そこだけ異様に速い。


「項目を百個書けば勝てるって意味じゃないです。そもそも、比べるものがちゃんと決まってるんです。道、天、地、将、法っていう五つがあって、さらに七つの――」


 彼女はそこで止まった。俺を見た。


「……すみません。ここから完全に私の趣味なので、長くなります」


「好きなんですね」


「はい」


 今度の返事も速かった。


「かなり」


 それまで大人びた振る舞いをしていたのに、その一瞬だけ、妙に年相応に見えた。


 彼女は咳払いした。


「とにかく、戦う前に、自分と相手の条件をちゃんと見ろ、という話です」


「自分と相手」


「はい。なのにさっきのお話だと、AIにできることはたくさん出てきたのに」


 彼女はノートを指で叩いた。


「あなたにできることは、一つも出てこなかったので」


 俺は黙った。


「それ、本当に一つもないんですか」


 答えられなかった。


 彼女は少し困ったような顔をした。


「……私、会社のことは分からないので、見当違いかもしれませんけど」


 そう言ったあと、またノートを見た。


「でも、孫子だったら、たぶん今の状態で『負けた』とは言わないと思います」


「どうして?」


「まだ算えてないからです」


 算える。数える。


 俺はその言葉を、頭の中で転がした。


 そこで前方から声がした。


「では、次に桶狭間へ行きましょう」


 ホワイトボードに、『桶狭間の戦い』と大きく書かれる。


「織田信長は――」


 俺は顔を上げた。


 信長。桶狭間。


 隣の人は孫子を暗唱している。膝の上には曹操と袁紹。


 何かがおかしい。ものすごくおかしい。


 前方の男性がこちらを見た。


「あ、今日は初参加の方もいらっしゃいますね」


 俺と目が合った。


「ちょうどいい。簡単に自己紹介をお願いしましょうか。お名前と、好きな時代を」


「はい?」


「好きな時代です」


 部屋の十数人がこちらを見る。


 俺はゆっくり壁を見た。さっき一応確認した紙が貼ってある。


『第47回 歴史と現場の会』


 その下に小さく、


『本日のテーマ 戦力差をどう見るか――桶狭間・官渡・孫子』


 と書いてあった。


 本音。どこにも書いていない。


「あの」


 俺は立ち上がった。


「……好きな時代の前に、一ついいでしょうか」


「はい」


「俺、部屋を間違えました」


 一拍置いて。


 誰かが吹き出した。


穴があったら入りたい、という言葉がある。


 あれは比喩ではない。本当に穴が欲しくなる。


「あの、すみません」


 俺は隣の女性に小声で言った。


「俺、完全に勘違いしてたみたいで」


「あ……はい」


 彼女は申し訳なさそうに目を逸らした。


「途中から、そうかなとは思ってました」


 途中から思っていたのか。じゃあ言ってくれ。


 喉まで出かかったが、もちろん言える立場ではない。悪いのは全面的に俺だ。


「じゃあ、三十分くらい俺の愚痴を」


「聞いてました」


「歴史の集まりで」


「はい」


「知らないおっさんの仕事の愚痴を」


「はい」


 死にたい。


「すみませんでした」


「でも」


 彼女が言った。


「面白かったです」


「またそれ?」


「あ、違います、大変なのがじゃなくて」


 慌てて両手を振る。


「私、歴史の本だと『組織』とか『判断』とか、たくさん読むんです。でも、本当の会社で人がどう迷うのかって、知らないので」


 少し間があった。


「だから、聞けてよかったです」


 その言葉だけは、慰めには聞こえなかった。本当にそう思っているようだった。


「さっきの話」


 彼女が続ける。


「もしよかったら、ちゃんと数えてみてください」


「何を?」


「自分に残ってるものです」


「あるかな」


「それは」


 彼女は少し笑った。


「私には分かりません。あなたの仕事、知らないので」


 意外な答えだった。正解を言われると思っていた。


「だから、数えるんじゃないですか」


 俺は返事ができなかった。


「では、初参加の方――」


 司会の声が飛んできた。俺は慌てて頭を下げた。


「本当にすみません。失礼します」


「あ」


 部屋を出ようとしたところで、背後から呼び止められた。


「『孫子』です」


 振り返った。


「え?」


「さっきの言葉。『孫子の兵法』の始計篇です」


 彼女は少しだけ得意そうだった。


「検索するなら、『多算勝、少算不勝』で出ると思います」


 俺は頷いた。


「どうも」


 そして逃げた。


◆


 エレベーターに乗り、一階のボタンを押した。扉が閉まる。一人になった。


 壁の鏡に、疲れた五十三歳の男が映っていた。


「……何やってんだ、俺」


 三十分。知らない歴史の集まりで。知らない若い女性に。


 会社で自分の価値がないかもしれないという話をした。


 しかも最後には、好きな時代を聞かれた。


 一階に着くまでの十数秒が、やけに長かった。


 ビルを出てからスマホを見る。アプリの通知が残っている。


『会場変更のお知らせ 本日の「働く人の本音を語る会」は303号室です』


 302ではない。303。


 たった一つ隣だった。


 俺は画面を閉じた。


 そのまま帰ろうとして、もう一度開いた。さっきの通知を見る。


 そして、ふと思った。


 俺はまた、見たいものしか見ていなかった。


 三階。302か303。そこまでは覚えていた。


 確認しなかった。


 会社でも、同じことをしているのかもしれない。


 AIは速い。若手は使いこなせる。同期は部長。


 だから俺は負けている。


 そこまでで、話を終わらせていた。


 では、俺には何がある。


 考えてみた。やはり、すぐには何も浮かばなかった。


 ただ今度は、『何もない』と決める前に、少しくらい調べてもいい気がした。


◆


 部屋の明かりをつけると、朝出たときのままのマグカップが流しにあった。


 一人で暮らすようになって、もう長い。散らかってはいないが、片づいているとも言いがたい部屋だ。


 スマホに不在着信が一件残っていた。


 母からだった。夕方の六時過ぎ。ちょうど桐谷課長に面談の話をされていた頃だ。


 時計を見る。十時を回っている。


 田舎の母は九時には寝る。かけ直すのは明日にしよう。


 そう決めて、風呂に入り、布団に入った。


 眠れなかった。


 原因は二つある。


 一つは、歴史好き十数人の前で、『俺、部屋を間違えました』と宣言したこと。思い出すたびに布団へ潜りたくなる。


 もう一つは、あの言葉だった。


 多算勝。少算不勝。


 俺はスマホを取った。


 検索欄へ、『多算勝 少算不勝』と入れる。


 すぐに出た。


『孫子 始計篇』


 画面には、あの人が口にしたものとほとんど同じ文章が載っていた。


 あれを、何も見ないで言ったのか。


「何者だよ……」


 思わず呟いた。


 さらにいくつかページを読む。


 『孫子』。二千年以上前の中国の兵法書。戦う前に条件を比較し、勝算を考える。


 どうやら、単純に数字をたくさん集めればいいという話ではないらしい。そこは彼女が妙に強く否定していた。比べるものが決まっている、とも言っていた。


 検索結果を下へ送る。


 一件、小さな個人ブログが混じっていた。


『放課後の兵法』


「なんだこれ」


 タイトルが軽い。開いてみる。


 記事一覧には、


『曹操はなぜ官渡で勝てたのか』

『戦わずして勝つって、結局どういうこと?』

『「彼を知り己を知れば」は便利だけど、万能の呪文ではない』

『始計篇を本気で読む① まず何を比べるのか』


 と並んでいる。


 一つ開いた。


 長い。驚くほど長い。


 しかも途中から、『ここからは完全に私の趣味です』と書いてあるのに、そこからさらに長い。


 図まである。注釈もある。参考にした本まで並んでいる。


「好きなんだな……」


 呆れるより先に笑ってしまった。


 文章自体は読みやすかった。難しい言葉には説明がついている。


 戦の話なのに、『これ、文化祭の出し物を決めるときにも同じでは?』などと、急に身近な例が挟まる。


 文化祭。ずいぶん若い人が書いているのかもしれない。


 俺は記事を最後まで読んだ。そして、困った。


 孫子が何を言っているかは、少し分かった。


 でも、俺の仕事で、何を数えればいい。


 AIの速さか。自分の経験か。顧客の数か。売上か。


 そもそも、何をもって勝ちとする。


 ブログの下にコメント欄があった。しばらく眺めた。


 知らない人のブログだ。質問する義理はない。向こうにも答える義理はない。


 それでも、指が動いた。


『初めまして』


 打つ。消す。


『仕事でも使えますか』


 打つ。偉そうな気がして消す。


 もう一度打つ。考える。


 結局、一行だけ残った。


『実際の仕事で使うなら、どう考えればいいでしょうか。』


 送信。


「ああ……」


 押した瞬間、恥ずかしくなった。スマホを伏せる。


 五十三歳。会社では係長補佐。夜中に知らない人の歴史ブログへ、仕事の相談を書き込む。


 我ながら、どこへ向かっているんだと思う。


 五分後。スマホを表に返した。返信はなかった。


「当たり前か」


 また伏せる。


 十分後。もう一度見た。まだなかった。


 何も解決していない。仕事は減ったままだ。十月の面談もなくならない。自分に何が残っているのかも、まだ一つも分からない。


 それでも。


 昨日までの俺なら、『どうせ何もない』で終わっていた。


 今夜は一つだけ、違っていた。


 分からないから、聞いてみた。


 たったそれだけだった。


◆


 翌朝。


 目覚ましが鳴るより少し早く、俺は目を覚ました。


 枕元のスマホを取る。


 通知が一件あった。


『「放課後の兵法」管理人から、あなたのコメントに返信がありました』


 俺はベッドの上で身体を起こした。


 母への折り返しのことは、すっかり頭から抜けていた。

孫子ノート|第1話 始計篇


■ 今回の言葉


原文:夫未戦而廟算勝者、得算多也。未戦而廟算不勝者、得算少也。多算勝、少算不勝、而況於無算乎。


書き下し:夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。多算は勝ち、少算は勝たず。而るを況んや無算に於いてをや。


意味:戦う前の作戦会議で「勝てる」と見通せるのは、勝てる根拠を多く得ているからだ。「勝てない」と出るのは、根拠が少ないからだ。根拠が多ければ勝ち、少なければ勝てない。まして根拠がまったくなければ、なおさらだ。


■ この篇の核


戦う前に、自分と相手の条件を比べ、勝てる根拠(算)を積み上げる。勝負は、始まる前の「比べ方」でほとんど決まっている。


孫子は、比べる物差しまで示している。「五事」と呼ばれる五つの観点です。


- 道(目的や方針に、皆が納得しているか)

- 天(時期やタイミング)

- 地(置かれた環境や条件)

- 将(率いる人の力量)

- 法(ルールや仕組み、組織の運営)


これをさらに七つの問い(どちらの主君に道があるか、どちらの将が有能か……)に分けて、自分と相手を並べて比べます。


■ よくある誤解


- 「計」=策略、はかりごと。 始計篇の「計」は、主に「比較し、見積もること」です。孫子の一篇目は、騙し方ではなく、比べ方から始まります。

- 「算」=項目の数。 リョーコが即座に否定したとおり、百個並べれば勝てるという意味ではありません。比べる観点が正しく、根拠が確かであることが大事です。

- 「兵は詭道なり」だけで孫子を語る。 同じ始計篇に「兵は詭道なり(戦いは欺き合いだ)」という有名な言葉があります。しかし篇の大半は、冷静な比較についての話です。


■ 物語ではこう使った


竜門は「AIに負けた」と思い込んでいました。でも、比べていたのは議事録を作る速さだけです。「道・天・地・将・法」のような、仕事全体を比べる観点を持たないまま、勝ち負けを決めていました。これが、リョーコの言う「まだ算えてない」状態です。


なお、「会議室の番号を確認しなかった」ことと「会社でも確認していないのでは」をつなげたのは竜門自身の連想で、孫子の原文にはありません。


■ あなたが試すなら


1. 最近「自分は負けている」「かなわない」と感じた相手や状況を、一つ思い浮かべてください。そのとき、何と何を比べていましたか。

2. その比較に、道・天・地・将・法のうち、抜けていた観点はありますか。

3. まだ確かめていないのに「たぶんこうだ」と決めていることは、ありませんか。

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