第3話「勝つより、戦わない」(謀攻篇)
第3話「勝つより、戦わない」(謀攻篇)
大須賀製作所の受付で、俺はカバンを開いた。
提案書はない。先週、そう約束した。
入っているのは、三年前の議事録を整理したものと、今日聞くことを書いたメモだけだった。
現行業務。運用体制。例外処理。今後の要員。
別に、初めて見る項目ではない。二十年以上、システムの営業をしてきた。客が何をしているのかも分からずに、製品だけ持っていくような仕事をしてきたつもりはない。
それでも三年前、俺は失敗した。
業務を聞かなかったわけではない。運用の話も出ていた。俺自身、廊下で「これ、どなたが管理される予定ですか」と聞いたらしい。
なのに最後には、『価格面で競合に及ばず』と書いた。
十五%。数字にすると、ずいぶん説明しやすかった。
今日、気をつけなければならないのは、業務を聞くことではない。聞いたあと、何を残すかだった。
五月の半ば。十月の面談まで、あと五か月を切っている。
「竜門さん、お待たせしました」
受付から声がかかった。俺はカバンを閉じた。
◆
会議室には、電話で話した総務課長と、生産管理課長が待っていた。
「先週申し上げたとおり、今日は提案書を持ってきていません」
生産管理課長が俺のカバンを見た。
「本当に手ぶらなんですね」
「営業が客先へ来て、売る紙を持ってない。俺も落ち着きません」
総務課長が笑った。
「三年前は、ずいぶん厚かったですよ」
「やめてください。覚えてます」
俺はメモを開いた。
「今日は、今の仕事がどう回っているかを教えてください」
生産管理課長が頷く。
「今の仕組み自体は、もうかなり長いですよ。途中で何度も手を入れてます」
「どんな変更が多かったですか」
二人が顔を見合わせた。
「帳票を増やしたり」
「取引先ごとの処理を足したり」
「工場側の管理項目も増やしましたね。昔の入力画面を残したまま、新しいのを足したところもあります」
珍しい話ではない。十年、十五年使えば、その間の事情が積もる。組織が変わり、取引先が増え、担当者が替わり、制度が変わる。そのたびに必要なものを足す。
一つ一つには理由がある。そして気がつくと、全体を説明できる人間が減っている。
「何かあるたびに呼ばれる方がいると伺いました。少しお話を聞けますか」
生産管理課長が電話をかけた。数分後、作業服の男性が入ってきた。
椅子を勧めたが、「すぐ戻るので」と立ったままだった。
「今のシステムで何かあると、よく呼ばれるそうですね」
「まあ、そうですね。数字が合わないとか、処理が止まったとか。月末に変なのが出たり」
「普通じゃないときは、どうされるんです」
「前にもあったか思い出したり、昔どこを直したか見たりですね」
「記録はあります?」
「あるのもあります」
「ないものは?」
「まあ……覚えてますから」
「何年くらい、この仕組みを見てるんですか」
「十五年くらいです」
生産管理課長が横から言った。
「途中の改修も、だいたいこの人が知ってるんです。休みの日に電話することもあって」
「迷惑じゃないですか」
男性が笑った。
「止まるよりはいいですよ」
胸ポケットのスマートフォンが鳴った。男性は画面を見て、軽く頭を下げて出ていった。
扉が閉まった。
生産管理課長がため息をついた。
「本当は、ああいうのをなくしたいんですよ。新しく全部入れ替えたら、なくなりますか」
俺は少し考えた。
「システムを全部入れ替えるだけなら、なくならないと思います。今の仕事を全部そのまま新しいシステムに持っていったら」
俺は、さっき閉まった扉を見た。
「新しいシステムの中に、同じ十五年を作り直すだけです」
生産管理課長の表情が変わった。
「じゃあ、どうしろと」
「刷新するなら、業務も一緒に見直すべきです。今の仕組みには、長く使ってきた事情が入っています。御社独自だからこそ残す価値があるものもある。逆に、そのときの担当者の都合で増えただけのものもあるかもしれない」
「標準に合わせろ、という話ですか」
「合わせられるところは、です」
「現場は嫌がりますよ。今までできたことができなくなる、って話も出る」
「出ると思います」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「簡単だとは思ってません」
生産管理課長は腕を組んだ。怒ったわけではなさそうだった。ただ、簡単には頷けない顔だった。
その方が普通だ。自分たちが十五年やってきた仕事を、外から来た営業に整理しましょうと言われて、喜ぶ人間ばかりなら苦労はない。
「一つ聞いていいですか。標準に寄せた結果、うちにとって使いにくくなったら?」
「その標準化は失敗です」
「御社の製品に合わせるために、うちが我慢するのは?」
「それも違います」
「じゃあ、どこまで合わせるんです?」
いい質問だった。
「そこを、一緒に決める必要があります。標準に寄せる価値と、御社のやり方を残す価値を、一つずつ比べる」
「時間がかかりそうですね」
「最初は。その代わり、十五年後にまた同じことをやらなくて済む可能性が上がります」
総務課長が、そこで初めて口を開いた。
「運用担当の話はどうなります?」
「御社側の担当は必要です」
そこは濁さない。
「システムの問い合わせの一次対応や、障害の切り分けは、保守契約の範囲でこちらが持てる部分があります。ただ、業務として何をどうするかを決める人までは、こちらでは引き受けられません」
「三年前」
総務課長が言った。
「そこまで整理できていませんでしたね」
「俺もです」
三年前の俺なら、そこを言えただろうか。たぶん、言わなかった。
◆
面談の終わり近く、生産管理課長が机の脇から一冊の資料を出した。
「実は、こういうのも来てまして」
他社の製品紹介だった。知らない名前ではない。
画面、機能一覧、導入事例、クラウド対応、サポート。よくできた資料だった。
「入れ替えの予定が決まったわけではないんですよね」
「そこまでは全然。会社としては、予定はないです。でも、こういうのを入れたら一気に変わるのかなと思って」
矛盾していない。会社として更新を決めてはいない。だが、現場に関心はある。
「御社の製品と比べたら、どっちがいいです?」
営業としては、ありがたい質問だった。ここから自社の話に持っていける。それが仕事でもある。
「今は、まだ分かりません」
生産管理課長が目を丸くした。
「営業さんが言います?」
「言いたくないです」
総務課長が笑った。
「でも、何を残して何を変えるかが決まってないので。機能の数だけなら、今でも比べられます。でも、それで御社に合うかは決まりません」
パンフレットは、閉じられたまま机の上に残った。
◆
会社に戻って、桐谷課長へ報告した。
「大須賀、全面刷新まで含めて検討する価値があります。今の仕組みが、長年の個別対応で複雑になっています。改修の経緯を、詳しい人が一人で抱えてる」
「よくある話だな。じゃあ全部替えるか」
「システムだけ全部替えたら駄目です」
「当たり前だ」
即答だった。
「業務からやり直したいです。現行を洗って、標準に寄せるところと、独自で残すところを分ける。役割も整理する。移行、教育、保守まで」
桐谷課長が椅子にもたれた。
「それなりの仕事になるな」
数字が頭に浮かんだ。大型更新。導入支援。保守。十月の面談で説明するなら、小さい案件よりずっと分かりやすい。
その気持ちは、確かにあった。
「先方にも、業務側の担当を立ててもらう必要があります」
「三年前、それができなかったんだろ。出せないなら?」
「全面刷新は勧めません」
桐谷課長が少しだけ目を細めた。
「大きい案件を?」
「業務側の責任者がいない状態で始めたら、こちらが何でも決めることになります。導入してから揉めます」
「それはまずいな。技術も入れろ。保守も早めに話を聞け」
それから、隣の島へ声をかけた。
「早川。大須賀の過去の改修履歴、整理できるか」
早川が顔を上げた。
「何を出します?」
前なら、俺が聞かれていた。
「いつ、何を変えたか。理由が記録にあるか。あと、同じような機能を後から足してるところ」
「根拠付きで?」
「頼む」
桐谷課長が俺を見た。
「大きく売れるから全面刷新、にはするなよ」
「しません」
「逆に、小さく売れば客のため、にもするな」
「はい」
「必要なものを出せ」
簡単に言う。そこが一番難しい。
◆
その夜、ブログへ書いた。会社名も製品名も伏せた。
長年使った仕組みに、個別対応が積み重なっていること。その経緯を知る一人の人へ、例外対応が集まっていること。刷新するなら、仕事のやり方まで見直す必要があると考えていること。そして、自分の会社にとっては、大きな売上になる可能性があること。
翌朝、返信が来ていた。
『今回は謀攻篇のことを考えました。
謀攻篇は、こう始まります。
「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」
相手の国を傷つけずにまるごと手に入れるのが一番よくて、壊して勝つのはその次だ、という意味です。このあとに有名な「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり」が来ます。戦って全部勝つことが、最善とは限らない。
すみません、ここから完全に私の趣味なんですけど。
謀攻篇には、戦い方の順位表のようなものがあります。
「上兵は謀を伐ち、其の次は交を伐ち、其の次は兵を伐ち、其の下は城を攻む」
私はこれを、階段の図にして覚えています。
上 謀を伐つ(相手が計画を立てている段階で、手を打つ)
交を伐つ(相手の同盟や関係のところで、手を打つ)
兵を伐つ(軍隊同士がぶつかる)
下 城を攻む(守りを固めた城を、力ずくで落とす)
下に行くほど決着が遅くなって、自分も相手も傷が大きくなります。
孫子は城攻めについて、「已むを得ざるが為なり」、ほかに手がないときにだけやるもの、とまで書いています。攻城兵器を作るのに三か月、土の山を築くのにさらに三か月。それでも落ちなくて、将軍がしびれを切らして兵を城壁に這い上がらせ、三分の一を死なせても城は落ちない。これが城攻めの災いだ、と。
ただ、会社の仕事にどう置き換えるのかは、やっぱり私には分かりません。
競合製品に勝つことが、今回の「勝ち」なんでしょうか。』
電車の中で、階段の図をしばらく見ていた。
城を攻む。
三年前の最終提案を思い出した。
あのとき、大須賀の手元にはもう、競合の見積がそろっていた。比較表もできていた。俺がしたのは、本社に掛け合って値引きの幅を探り、15%の差をどこまで縮められるかを詰めることだった。
相手が守りを固めた城の前で、何度も登ろうとしていた。
勝っていたとしても、値引きで削った分は、どこかで誰かが払うことになっていた。負けた今は、三年分の空白が残っている。
では、今回は。
大須賀は、入れ替えるとも決めていない。比較表もまだない。何をしたいのかを、現場が考え始めたところだ。
階段のいちばん上の段にいるのかもしれない。
返事を書いた。
『契約を取らないと、うちの会社としては勝ちとは言えない』
送る。少し考えて、もう一つ。
『ただ、契約を取っても、五年後にまた「この人しか分からない」になっていたら、今回の仕事としては失敗だと思う』
返事は少ししてから来た。
『両方そろわないといけないんですね』
正しい。でも、少し違う気もした。
『たぶん、「そろえる方法」を考えるのが仕事なんだと思う』
送った。
その文章を見て、自分で少し笑った。五十三にもなって、知らないブログの管理人と、営業とは何かを話している。
だが、悪くはなかった。
◆
翌日、早川が改修履歴をまとめてくれた。
「竜門さん、これ」
変更年月。変更内容。理由。根拠資料。
理由の欄には、ところどころ『記録なし』が並んでいた。
「多いな」
「はい。あと、似たような入力処理が三つあります。たぶん部署別です。ただ、理由までは資料から分かりません」
「たぶん、は消しといてくれ」
「あ、はい」
「分からないでいい」
早川が修正する。
俺は業務支援システムに、改修履歴と議事録を指定した。
『現在までに追加・変更された機能を一覧にしてください』
『変更理由が記録にあるものと、確認できないものを分けてください』
『類似する処理があれば候補として示してください。ただし、統合可能とは判断しないでください』
数分後、一覧が出た。
十五年分の履歴を、一晩で理解した気にはなれない。だが、どこを人に聞かなければならないかは見える。
「これ、全部なくすんですか」
早川が横から聞いた。
「何でだ」
「標準化するんですよね」
「残すものもある」
「どうやって決めるんです?」
「客に聞く」
「また?」
「まただ」
早川が少し笑った。
「結局そこなんですね」
「そうらしい」
◆
数日後、技術担当と一緒に、もう一度大須賀を訪ねた。
持っていったのは、一枚の紙だった。左に『現在』、右に『確認したい方向』とある。
「今日は、全面刷新を含めた検討の進め方をご相談したいと思っています」
「また売らない」
生産管理課長が言った。
「売りたいですよ」
思わず言うと、総務課長が笑った。
「ただ、売るものを間違えると、また三年休眠しますので」
「それは困りますね」
「俺も困ります」
俺は紙を指した。
「まず、今の業務を整理します。通常の仕事と、例外の仕事。誰が判断しているか。システムで処理できるものと、人が判断しなければならないもの。そのうえで、標準機能へ寄せられるところは寄せたい」
生産管理課長の顔が少し固くなった。
「今の操作を全部そのまま残した方が早いんじゃないですか」
技術担当が口を開きかけた。俺は少し手を上げた。ここは俺が答える。
「早いと思います。導入までは」
生産管理課長が黙った。
「今の仕事をそのまま再現すれば、説明もしやすい。現場も最初は楽です。でも、十五年後にまた、この人しか分からない、になる可能性も高い」
「十五年後のために、今の現場へ負担をかけろと?」
少し強い言い方だった。もっともだ。
「そこまでは言いません。残す理由があるものと、変える理由があるものを分けたいんです」
「誰が決めるんですか」
「御社です」
生産管理課長の眉が動いた。
「俺たちは、標準的なやり方と、それぞれの選択で何が起きるかを出します。システムとして実現できるか。保守できるか。どのくらい費用と工数がかかるか。そこはこちらが責任を持つ」
技術担当が頷いた。
「そのうえで、この業務は残す、と決めるのは御社です」
総務課長が言った。
「そのための担当が、こちらにも要る」
「はい」
三年前と同じ問いだった。誰がやる。誰が決める。
総務課長が生産管理課長を見た。
「一人は無理ですね」
「俺も無理ですよ」
「生産管理だけでなく、購買も要りますか。総務も?」
「影響する業務があるなら」
「結局、何人も要るじゃないですか」
「最初は。ただ、その人たち全員が十五年覚えていなくても回るようにするための仕事です」
生産管理課長は紙を見た。すぐには頷かなかった。
「一つ条件があります」
「何です?」
「現場の今のやり方を、最初から悪いものとして扱わないでください」
予想していなかった言葉だった。
「昔からやってるから、だけじゃないものもあるんです。客から言われて仕方なく残してるものもある。工場の都合もある」
国を全うするを上と為す。
ゆうべの階段の図が、頭をよぎった。壊して入れ替えるのではなく、全うしたまま変える。言うのは簡単だ。
「そこを教えてください。理由があるなら、残す前提で考えます」
「標準から外れても?」
「外れる理由とコストを、分かったうえでなら」
技術担当が言った。
「保守できる範囲も確認します」
生産管理課長はしばらく俺たちを見ていた。
「分かりました。なら、一度やりましょう。ただし、全面刷新ありきにはしないでください」
「しません」
「今の方がいいものまで、きれいにしないでください」
「約束します」
言ってから、少し考えた。
「いや。残すべきものは残す前提で検討します。何を残すかは、一緒に確認させてください」
生産管理課長が少し笑った。
「その言い方なら」
話が終わりかけたところで、総務課長が例のパンフレットを机へ置いた。
「これとも比較したいです。御社の方が高かったら?」
三年前なら、この質問に身体が反応した。
「価格も比較してください。機能も。ただ、導入後まで比べてほしいです。移行。教育。個別で残した業務の保守。問い合わせの体制。担当が替わったときの引き継ぎ」
「そこまで含めて競う? 負けることもありますよ」
「あります」
「そのときは?」
「負けます」
二人が俺を見た。
「でも、御社に合わないものを、機能表の丸の数で押し込むよりはいい」
言ってから、少し格好をつけすぎたと思った。だから続けた。
「もちろん、負けたら桐谷課長には怒られると思います」
総務課長が吹き出した。
「そこは現実的なんですね」
「営業なので」
◆
業務整理に入るメンバーを、大須賀側で検討してもらうことになった。
受付まで、生産管理課長が見送りに出てくれた。
自動ドアの手前で、入れ違いに男性が一人入ってきた。四十代くらい。ジャンパーの胸に、見覚えのあるロゴがある。
今の仕組みを入れた会社のものだった。
「お、来たか」
奥の廊下から、作業服の男性が手を上げた。
「月末のやつ、直したの持ってきました」
「助かる。こないだのは参ったよ」
「あれは、うちの手順書が悪かったです」
二人は並んで廊下を歩いていった。
作業服の男性が、声を出して笑っていた。俺と話したときには、一度も聞かなかった笑い方だった。
生産管理課長が、少し気まずそうに言った。
「今の会社さんも、来月、話をしに来るそうです。業務のことも含めて相談したいって」
「そうですか」
「向こうから言ってきたんです」
外へ出た。五月の日差しが、駐車場のアスファルトに照り返していた。
「早いですね」
技術担当が言った。
「ああ」
謀を伐つ。
相手が計画を立てている段階で、手を打つ。
それを考えていたのは、俺たちだけではなかった。
しかも向こうは、十五年前から、その廊下を歩いている。
孫子ノート|第3話 謀攻篇
■ 今回の言葉
原文:凡用兵之法、全国為上、破国次之。
書き下し:凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。
意味:戦いの原則として、相手の国を傷つけずにそのまま手に入れるのが最上で、打ち破って手に入れるのはそれに劣る。
原文:故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。攻城之法、為不得已。
書き下し:故に上兵は謀を伐ち、其の次は交を伐ち、其の次は兵を伐ち、其の下は城を攻む。城を攻むるの法は、已むを得ざるが為なり。
意味:最上の戦い方は、相手の計画の段階でそれを封じること。次は相手の同盟関係を断つこと。その次は軍と軍で戦うこと。最も下策は城を攻めること。城攻めは、ほかに方法がないときにやむをえず行うものだ。
■ この篇の核
最善は、相手も自分も壊さず「全き」まま目的を達すること。決着が早い段階であるほど上策で、守りを固めた相手に力で挑む城攻めは最下策。
謀攻篇の有名な「百戦百勝は善の善なる者に非ず」も、この流れの中にあります。百回戦って百回勝っても、そのたびに傷を負うなら最善ではない、ということです。
■ よくある誤解
- **「戦わずして勝つ」=争いを避ける、逃げる。** 孫子が言っているのは、戦いが始まる前の段階で決着をつけ、損害なく目的を達することです。競争から降りることではありません。物語でも、竜門は競合との比較から逃げていません。
- **「彼を知り己を知れば百戦百勝」。** 同じ謀攻篇の言葉ですが、原文は「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」。危うくない、であって、必ず勝つ、ではありません。
■ 物語ではこう使った
竜門は、三年前の最終提案を「城攻め」だったと捉え直しました。比較表と見積がそろったあとで、値引きで差を詰めようとした。勝っても負けても消耗する戦い方です。
今回、大須賀はまだ入れ替えを決めておらず、何をしたいかを考えている段階です。そこから関わることを、竜門は階段のいちばん上の段(謀)と考えました。また、生産管理課長の「現場のやり方を悪いものとして扱わないで」という条件を、相手を壊さずに変える「全」として受け止めました。
ただし、これは本作での応用です。孫子の「謀を伐つ」は、敵の計画をくじくという軍事の話で、顧客と一緒に計画を考えることではありません。顧客は敵ではないので、竜門の読み替えは「早い段階で関わるほど、誰も傷つかない」という部分だけを借りたものです。
そして最後に、竜門は気づきます。早い段階で関わろうとしているのは、自分たちだけではなかった。孫子の言葉は、相手も同じ本を読んでいる可能性までは教えてくれません。
■ あなたが試すなら
1. 今あなたが向き合っている競争や交渉は、階段のどの段にいますか。相手の考えがもう固まった「城」になってから、動いていませんか。
2. 何かを変えようとするとき、相手(同僚、家族、取引先)の今のやり方を、最初から悪いものとして扱っていませんか。
3. 「勝つ」と言ったとき、何をもって勝ちとしていますか。勝ったあとに残る傷も、勘定に入っていますか。




