第7話「休憩ではありません」
閉店まで、あと二十分。
入口の札を、無常ちゃんが裏返した。
《営業中》
から。
《まもなく閉店》
へ。
「昨日までとは違いますが、今のお客様にはこちらの方が通じます。今はね」
札の角を揃える。
窓際では、安寧ちゃんが毛布に半分埋まっていた。
「もう終わってもいいにゃ」
「営業が?」
「今日ぜんぶにゃ」
空無ちゃんが毛布の端を直す。
「終われるところから終わればいいわ」
涅槃ちゃんは時計を見た。
「最後のお客さんが帰ったあとも、残るものはあるけどね」
ぱむちゃんの首に、新しい札が掛かった。
《閉店作業》
「ぱむ!」
◇
最初の仕事は、椅子だった。
ぱむちゃんは脚へ抱きついた。
持ち上がらない。
もう少し力を入れる。
椅子は動かず、ぱむちゃんの足だけ床から離れた。
「昨日は持てなかったにゃ。今日は違うかと思ったにゃ」
「結果は今日のものとして残しましょう」
無常ちゃんが椅子を片手で上げる。
ぱむちゃんごと。
テーブルの上に、椅子。
その隣に、ぱむちゃん。
「一つ多いわね」
空無ちゃんが抱き下ろした。
次はモップ。
柄を立てようとして、反対側へ倒れる。
毛布の中へ入った。
「増えたにゃ」
安寧ちゃんがモップを抱える。
ぱむちゃんが柄を引く。
安寧ちゃんも毛布ごと滑った。
床に一本、きれいな筋ができる。
「進んだところだけは掃除できています」
「採用にゃ?」
「今日だけです」
「今日が毎日来れば毎日にゃ」
ぱむちゃんは振り返った。
きれいな筋。
毛布。
安寧ちゃん。
モップ。
もう一度引こうとする。
「そこまででいいにゃ」
安寧ちゃんが柄を抱えたまま目を閉じた。
◇
最後の客は、窓際に一人残った。
灰色のコート。
紙カップを両手で包み、急いではいなかった。
ぱむちゃんは離れた席に座らされた。
「休んでいていいのよ」
空無ちゃんが言う。
ぱむちゃんは座る。
三秒。
立つ。
「休憩が下手にゃ」
別の椅子へ移される。
座る。
二秒。
立つ。
「もっと下手になったにゃ」
灰色の客が笑った。
「働きたいの?」
「ぱむ!」
「私より元気だ」
紙カップを傾ける。
もう空だった。
客は立った。
椅子を戻す。
コートを着る。
「ごちそうさま」
空無ちゃんが頭を下げる。
「気をつけて帰ってね」
扉が開いた。
冷たい夜気が一本、床を走った。
扉が閉じる。
無常ちゃんが入口の札を裏返した。
《閉店》
「今は、これが正しいです」
照明が一段落ちた。
店の音が減る。
ぱむちゃんは、まだ立っていた。
◇
片づけが始まった。
客席からカップが消える。
椅子が上がる。
トレーが重なる。
ぱむちゃんは、そのどれにも入れなかった。
空無ちゃんにカウンターへ置かれる。
降りる。
安寧ちゃんの隣へ置かれる。
降りる。
最後には入口の横へ座らされた。
「何もしないのも、今は仕事よ」
空無ちゃんが言った。
ぱむちゃんは首を傾げた。
その時。
床を這う夜気が、何かを揺らした。
灰色。
最後の客が使っていた椅子の下。
長いスカーフの端だった。
ぱむちゃんは立った。
椅子の脚へ巻きついている。
端を引かない。
床へ腹をつけ、脚の反対側へ回る。
一周。
もう一周。
スカーフがほどけた。
「忘れ物ね」
空無ちゃんがカウンター下の箱を開ける。
手袋。
傘。
名前のない鍵。
「ここへ置いておけば、戻ってきた時に渡せるわ」
ぱむちゃんはスカーフを抱えた。
箱は近い。
入口も近い。
ガラスの向こうには、灰色のコートがまだ見えた。
角まで、十数メートル。
ぱむちゃんは箱へ行かなかった。
「今日、返しますか」
無常ちゃん。
「ぱむ!」
「明日になれば相手の予定も、必要な物も変わるかもしれません。今返せるなら、それも今の選択です」
涅槃ちゃんが入口を見る。
「ただ、店はもう閉じたよ」
扉の表示は。
《施錠》
だった。
◇
ぱむちゃんは扉へ走った。
押す。
開かない。
昨日、消防車を返した時は開いていた。
今日は閉じている。
取っ手は頭より高い。
ぱむちゃんはスカーフを床へ置いた。
扉の下へ両腕を差し込む。
動かない。
体当たり。
ガラスが震えただけだった。
もう一度。
「閉店したにゃ」
安寧ちゃんが後ろから来た。
ぱむちゃんは振り返らない。
「開ければいいにゃ」
尻尾が、鍵の下のセンサーを横切った。
表示が変わる。
《従業員操作》
無常ちゃんが鍵を開けた。
「閉店を決めたことと、誰も出入りしないことは同じではありません」
扉が開く。
ぱむちゃんはスカーフを拾った。
外へ出た。
◇
灰色のコートは、角の手前で止まっていた。
鞄を開けている。
「ない」
ぱむちゃんは走った。
スカーフの端がほどける。
地面へ落ちる。
踏まない。
止まる。
後ろへ戻る。
端を拾い、腹へ巻きつける。
一周。
余った端を腕で押さえる。
灰色の塊になって、また走った。
「ぱむ!」
客が振り返る。
「あ」
ぱむちゃんの身体から、スカーフがほどけていく。
客の足元へ灰色が伸びた。
「それ、私の」
しゃがむ。
スカーフを拾う。
その場で首へ巻いた。
「ありがとう。寒いところだった」
「ぱむ!」
客が笑う。
「休憩中じゃなかったんだ」
ぱむちゃんは首を横へ振った。
店を指した。
自分の《閉店作業》を指した。
それから、もう一度店を指した。
「まだ仕事?」
「ぱむ!」
客は手を振って角を曲がった。
◇
店へ戻ると、扉は開いたままだった。
誰もぱむちゃんを迎えには出ていなかった。
安寧ちゃんは毛布へ戻っている。
空無ちゃんはカップを片づけている。
無常ちゃんは閉店札の位置を直している。
涅槃ちゃんは、消えた客のいた窓際を見ていた。
ぱむちゃんが入る。
無常ちゃんが扉を閉める。
《閉店》
札はそのままだった。
仕事だけが、一つ増えていた。
点検表。
《椅子上げ 不適》
《モップ 今日だけ》
《休憩 不成立》
その下。
《閉店後返却 一件》
空無ちゃんが、忘れ物箱の蓋を閉めた。
「箱に入れるのも正しいわ」
無常ちゃんが続ける。
「今日返したのも、今は正しかったと思います」
涅槃ちゃんが言った。
「終わったあとに残ったものを、終わったことにしなかったんだね」
ぱむちゃんは入口の前へ座った。
安寧ちゃんが毛布の端を少しだけ差し出す。
「今度こそ休むにゃ?」
ぱむちゃんは毛布を見た。
点検表を見た。
入口を見た。
「ぱむ」
毛布の端だけ、膝に掛けた。
照明がもう一つ消える。
それでも。
ぱむちゃんの《作業中》は、まだ裏返らなかった。




