婚約者が毒牙に引っかかった
……そう思っていた時期が、私にもありました。
予想を裏切り、キアラは一向に落ち着かなかった。
それどころか、今度は伯爵家の使用人たちに擦り寄り始めたのである。
「ねえ、あたしだってお父様の娘なのよ? お姉様と同じように扱ってくれてもいいじゃない」
「申し訳ございません。私どもはロカ女伯爵様にお仕えしておりますので」
「でも、お父様は伯爵家の仕事をしているんでしょう? だったら、あたしの言うことも聞くべきじゃない?」
最初は別宅の侍女たちに。
次いで庭師や下働きの者たちに。
ついには本宅の使用人にまで、あれこれ命じようとしたらしい。
もっとも、我が家の使用人たちは長年ロカ家に仕えてきた者が多い。
いきなり現れた婚外子の言うことを、素直に聞く者などほとんどいなかった。
だが、キアラは諦めなかった。
父に頼んで買ってもらった菓子や小物を配り、親しげに話しかけ、時には涙ながらに自分の不遇を訴えたそうだ。
「お姉様はあたしのことが嫌いなの。だから本宅にも入れてくれないのよ」
「そんなことはございません。女伯爵様は旦那様とのお約束に従っておられるだけです」
「でも、あたしだって家族なのに!」
……困ったものだ。
しかも、一部の若い使用人がキアラに同情し、別宅への私的な出入りを始めたことが発覚して、これには父が激怒した。
「いいか。キアラは私の娘だが、ロカ伯爵家の人間ではない。お前たちは女伯爵ナタリエに仕える使用人だ。今後、職務を疎かにしてキアラの私用を優先するようなら、降格や賃金の引き下げ、場合によっては解雇もあり得ると思いなさい」
普段は温厚な父が、使用人たちを集めて厳しく言い渡したのである。
もちろん、私も父の判断を支持した。
キアラを個人的に気遣うことまで禁じるつもりはない。だが、伯爵家の職務や命令系統を乱されては困る。
その結果、キアラに擦り寄られていた使用人たちも、すっかり距離を置くようになった。
これで少しは懲りただろう。
……などと考えた私が甘かった。
キアラは次なる標的を見つけてしまったのだ。
よりにもよって、私の婚約者を。
ダミアノは侯爵家の五男だった。
我がロカ伯爵家は代々女系で爵位を継承することが多く、当主の配偶者には実務能力と家門への忠誠が求められる。
その点、侯爵家の五男であるダミアノは家督を継ぐ予定もなく、私の婿として適任だと考えられていた。
私たちの婚約は、亡き母ミカエラが存命中に取り決めたものだ。
両家の事業提携も絡んでおり、単なる男女の婚約以上の意味があった。
だからこそ、私はダミアノとの関係を大切にしていたのだが。
「ナタリエ。君には悪いけれど、僕はキアラを愛してしまったんだ」
ある日、呼び出された私は、開口一番そう告げられた。
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出た。そのまま彼の焦茶の瞳を見つめると、やけにキラキラと輝く眼差しとぶつかった。
「キアラは純粋で、可憐で、心優しい女性なんだ。君のように家のことばかり考えている女性とは違う」
「は?」
イラッときて、私は不快さをストレートに顔に出した。こういうとき無表情を作ると無神経な相手には伝わらないからだ。
私の表情を見て怖じ気づいた彼に、私は言った。
「……それで?」
「だから、婚約を解消してほしい」
私はしばらくダミアノの顔を見つめた。
「確認しますけれど、あなたはキアラと男女の関係になったのですか?」
「なっ、何を言うんだ! そんなはしたないことを!」
「では、なっていないのですね?」
「……それは」
沈黙が雄弁な答えだった。
「わかりました。では、正式に侯爵家へ抗議いたします。キアラにも適切な処分を下します」
「待ってくれ! キアラを責めないでほしい! 彼女は何も悪くないんだ!」
「ええ。まずあなたの責任を問うつもりです」
私はにっこり微笑んだ。
「キアラについてはお父様にも報告いたしますわ。あの子はまだ未成年ですから」
ダミアノは何か言いかけたが、私はそのまま席を立った。
ところが、侯爵家から届いた返答は、私の予想を大きく裏切るものだった。
『同じ伯爵家の令嬢であるなら、姉から妹へ婚約相手を変更しても問題はあるまい』
……はい?
私は手紙を三度読み返した。
同じ伯爵家の令嬢?
誰が?
キアラが?
……ああ。なるほど、そういうことか。
ダミアノは、キアラがロカ伯爵家の次女だと思い込んでいたのだ。
そして侯爵夫妻も、息子の説明をそのまま信じているらしい。
私はすぐさま返書を認めた。
キアラは亡き女伯爵ミカエラの娘ではなく、婿養子ミゲルが結婚前に平民女性との間にもうけた庶子で、扱いは婚外子であること。
ロカ伯爵家の血統には一切属さず、家名も爵位も継承できないこと。
現在は父ミゲル個人の責任において保護されている平民であること。
これらを丁寧に説明したうえで、改めて婚約破棄の意思を伝えた。
すると数日後、侯爵夫妻が揃って我が家を訪ねてきた。
「ロカ女伯爵殿! このたびは愚息が大変な失礼を!」
「まさか、あの娘が伯爵家とは無関係の平民だったとは……!」
侯爵夫妻は顔面蒼白だった。
それはそうだろう。
伯爵家へ婿入りする予定の息子が、その家の当主の婚約者でありながら、当主の父親の婚外子に手を出したのである。
しかも、その婚外子は伯爵家の血を一滴も引いていない。
婚約者を妹に変更するなど、最初から成立するはずのない話だった。
侯爵家は私にもロカ伯爵家にも大変な無礼を働いたのだ。
「申し訳ございませんが、婚約破棄の意思は変わりません」
私はきっぱり告げた。
「ダミアノ様は、婿入りする予定の家の事情すら理解しておられなかったのです。しかも、私との婚約中に異母妹と肉体関係を持たれた。今後、安心して伯爵家を任せられるとは思えません」
「ごもっともです。しかし、どうか今一度ご再考を……」
母の存命時には爵位の関係で、へりくだるのは私のほうだったが、すっかり関係が逆転している。
侯爵夫妻は必死だった。
というのも、両家の婚約には共同事業や投資契約などが複雑に絡んでいたからだ。
婚約を破棄するだけなら簡単だが、それに伴う事業上の損失は双方にとって無視できない。
ここからは伯爵家の当主としての交渉のしどころだ。
婚約破棄を解消まで譲歩して、事業提携の継続や損失補填について交渉することになった。
もちろん、ダミアノ本人との結婚は論外である。
これ以上、あの男を我が家に関わらせるつもりはなかった。




