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運命婚 白馬の王子様はヤクザ?  作者: トモサン


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6/16

運命婚 白馬の王子様はヤクザ? 6



 …稲葉五郎と会う…


 私は、思った…


 あの稲葉五郎は、顔は怖いが、私に優しい…


 だから、同じヤクザでも、外見は、サラリーマンっぽく、物腰が柔らかい、高雄の父親と会うよりも、ハードルが低いというか…


 正直、会うのに、心理的抵抗が少ない…


 だったら、早速、稲葉五郎に連絡を取るか?


 私は、思った…


 しかし、そうは思っても、やはり、躊躇(ためら)われるというか…


 いや、


 そもそも、私は、稲葉五郎の連絡先を、知らない…


 あの大場と行った、街中華の店の近くに、稲葉一家と看板を掲げた、ビルのテナントがあった…


 たぶん、アレが、稲葉五郎の稲葉一家に違いない…


 いや、


 そうに、決まっている(笑)…


 現に、稲葉五郎は、私が大場と話しているときに、あの街中華に現れた…


 そして、あの街中華の女将さんと軽妙なやりとりを繰り広げた…


 それを、考えれば、当然、あの稲葉一家と看板を掲げたビルのテナントが、稲葉五郎の事務所に違いない…


 だから、ネットで、電話番号を調べれば、あの稲葉五郎の事務所の電話番号がわかるかもしれない…


 稲葉五郎と連絡が取れるかもしれない…


 そして、稲葉五郎から、高雄に連絡が取れるかもしれない…


 私は、考えた。


 が、


 しかし、


 しかし、だ…


 仮に、ネットで、稲葉一家の事務所の電話番号がわかったとしても、直接、私が、電話をかけるのは、ハードルが高い…


 まさか、一介の女子大生に過ぎない私が、ヤクザの事務所に電話をかけるわけには、いかない…


 また、そもそも、私が電話をかけても、事務所の人間が、稲葉五郎に電話を取り次いでくれるとは、思えない…


 それが、当たり前…


 当たり前だ…


 だが、


 だったら、どうする?


 誰が、稲葉五郎と連絡がつくか?


 考える。


 稲葉五郎の連絡先を知っているのは、大場…


 あの大場だ…


 真っ先に脳裏に思い浮かんだのが、大場だった…


 しかしながら、今、大場は、その稲葉五郎と、政治家である、自分の父親が、親密な関係であることを暴露されて、困っているというか、ずばり、窮地に追い込まれている…


 そんな境遇のなか、大場に、稲葉五郎の連絡先を聞くことは、躊躇(ためら)われる。


 ずばり、できない…


 いくら、高雄に連絡を取るためとはいえ、できない…


 ずばり、心理的抵抗がある…


 だったら、どうする?


 どうすればいい?


 私は、思った。


 

 翌日、私は、大学を休んで、あの稲葉五郎の事務所である、稲葉一家のある、場所に向かった…


 前回、稲葉五郎の事務所近く前まで、来たときは、大場にクルマに乗せられてきた…


 だから、正確には、場所がわからなかったが、今回は、自宅で、パソコンで、そして、今現在は、スマホで、場所を確認して、やって来た…


 私は、徒歩…


 クルマも持ってない…


 いや、そもそも、クルマの免許すら、持ってない…


 だから、自分一人で、歩いてやって来るしか、なかった…


 だから、とりあえず、一人で、ここまで、やって来た…


 電車を乗り換えて、やって来た…


 だが、それまでだった…


 私は、電車を乗り継いで、ここまで、やって来たが、この後、どうすれば、良いか、わからなかった…


 稲葉一家と、書かれた看板を見上げながら、私は、どうして、いいか、わからなかった…


 まさか、ヤクザの事務所に、乗り込んでゆくわけには、いかなかった…


 私、竹下クミは、160㎝の身長の、ずんぐりむっくりしたカラダで、どうして、いいか、わからず、稲葉一家と書かれた看板を掲げるビルのテナントを見上げながら、腕を組んで、考え込んだ…


 …一体、どうする?…


 …これから、どうする?…


 悩めば、悩むほど、わからなかった…


 答えが出なかった…


 ここに立っていれば、稲葉五郎が現れるのでは?


 一瞬、そんな淡い期待を、した…


 が、これは、淡い期待…


 妄想に過ぎなかった(涙)…


 30分、路上に立っていたが、当たり前だが、稲葉五郎は、現れなかった…


 これは、ドラマや映画ではない…


 そうそう都合よく、稲葉五郎が、私の目の前に現れるわけがない…


 ならば、以前、私を、杉崎実業まで、クルマで送ってくれたときに、運転していた、若い衆や、そのときに、助手席に乗っていた若い衆は、いないかと、思ったが、当然、二人とも、私の目の前に現れるはずは、なかった…


 いや、二人どころではない…


 そもそも、この通りは、人通りが少なかった…


 私は、一人で、ビルのテナントを背にして、路上の隅で立っていた…


 さすがに、歩道とはいえ、道のど真ん中に立つ勇気はなかった…


 私、竹下クミは、ヤクザの事務所前で、腕を組んで、考え込んでいた…


 すると、どう見ても、ヤクザっぽい男たちが、何事かと、私を見ていた。


 当たり前だが、ここは、稲葉一家のある、事務所…


 そのすぐ近くで、女子大生の私が腕を組んで、考え込んでいれば、嫌でも、目立つ…


 そういうことだ(苦笑)…


 「…お嬢ちゃん…一体、ここに、何の用?…」


 とか、


 「…ここは、お嬢ちゃんのような人間が、来るところじゃないよ…」


 とか、言う声が、聞こえてきそうだった…


 事実、目にしたヤクザっぽい男たちは、そんな態度で、私を見ていた…


 私は、ブルッた…


 正直、怖くなった…


 当たり前だ…


 何度も言うが、私、竹下クミは、ヤクザやヤンキーが大の苦手…


 いわゆる、オラオラ系というか、暴力系は、大の苦手…


 いや、


 苦手どころか、ただただ怖い…


 そんな私が、こともあろうに、ヤクザの事務所の近くに立っている…


 そのヤクザの中のヤクザ…稲葉五郎を待っている…


 その現実が、我ながら、信じられなかった…


 そう考えると、自分でも、唖然とした…


 自分自身の行動に、唖然とした…


 …なにをバカなことをやってるんだ!…


 即座に、そんな声が聞こえた…


 自分の心の声がした…


 …帰ろう…


 とっさに思った…


 大場には、悪いが、高雄のことは、自分で、どうこうできる問題ではない…


 いや、


 高雄のことは、いずれ、大場から電話があるに違いない…


 そしたら、高雄に連絡がつかないことを告げ、まずは、高雄の連絡先を、教えてくれ、と、大場に、言えばいい…


 いや、


 その前に、自分から、大場に連絡をするか?


 それが、礼儀だ…


 大場は、私に期待しているに違いない…


 ならば、一刻も早く、大場に連絡をして、あらためて、高雄の連絡先を聞けばいい…


 そうしよう…


 私は、思った…


 それから、稲葉一家と書かれた看板のあるビルのテナントの近くから、歩き出した…


 本当は、もっといたかった…


 いや、


 いるのは、怖いというか、嫌だが、大場との約束がある…


 もっといれば、もしかしたら、稲葉五郎が現れるかもしれない…


 あと30分、あのまま、いれば、稲葉五郎が、現れるかもしれない…


 そうも、思った…


 淡い期待とわかっていても、その期待を、心の中から、拭うことはできなかった…


 そう思いながら、後ろ髪をひかれる思いで、歩き出した…


 そして、ふと気付いた…


 あの街中華の女将さんの存在を、だ…


 もしかしたら、あの女将さんだったら、なにか知っているかもしれない…


 ふいに、思った…


 あの街中華の女将さんは、大場とも、稲葉五郎とも、仲がいい…


 昵懇(じっこん)の間柄だ…


 一度会っただけだが、それはわかった…


 それに、なにより、気さくで、話しやすい…


 …あの女将さんに、相談に乗ってもらおう…


 私は、思った…


 あの女将さんに、大場から、相談があったことを伝え、稲葉五郎に連絡を取ってもらおう…


 私は、そう思った…


 そして、そう考えると、自然と、足が、あの店に向かった…


 一度だけ、大場に連れられて、行ったきりだったが、店の場所は、なんとなくわかる…


 覚えている…


 っていうか、誰にでもわかるくらい、単純と言うか、わかりやすい場所にあった…


 だから、覚えている…


 私は、記憶を頼りに、あの女将さんの店を目指して、歩き出した…



 ほどなく、店は見つかった…


 なにより、あの稲葉一家の事務所と目と鼻の先…


 覚えていない方が、不思議だ…


 私は、店の前で、立ち止まり、一瞬、悩んだ…


 なぜなら、この店に入り、あの女将さんに会って、大場のことを話し、稲葉五郎に連絡を取ってくれませんか? と、頼めば、後に引けなくなる…


 この平凡な竹下クミが、なんだか、わからないが、次期総理総裁候補の呼び声も高い、大場小太郎代議士と、ヤクザ界のスター、稲葉五郎の仲裁というか、スキャンダル隠しに一役買うと言うか、ありえない展開になっている…


 それが、怖いと言うか…


 正直、これ以上、関わりたくない…


 首を突っ込みたくない…


 そんな気持ちが、湧き出てきた…


 当たり前のことだった…


 率直に言って、怖いし、身分不相応…


 ありえないことに、関わっている…


 それが、偽らざる本音だった…


 …なんで、こんなことになったんだろう?…


 ふいに、思った…


 私は、ただ就職活動をして、会社に就職したかっただけ…


 ただ就活に苦戦し、なんとか、内定をもらえた、ただ一つの会社が、あの杉崎実業だった…


 私を採用してくれた、唯一の会社だった…


 なんで、他社は、全滅だったのだろう?


 ふと、考えた。


 すると、コンビニのバイト仲間の年下男子の当麻が、


 「…竹下さん…見るからに頼りないから…」


 と、私が、就活が苦戦した理由を喝破(かっぱ)したことを、思い出した…


 「…どういうこと?…」


 と、私が、当麻に詰め寄ると、


 「…ほら、会社の採用基準って、ずばり、使えるか、否か、じゃないですか?…」


 と、当麻が笑いながら、説明した…


 「…だったら、どうして、私が使えないって、わかるんだ?…」


 「…だから、竹下さん、頼りないからですよ…」


 「…頼りない?…」


 「…就活って、ずばり、見た目じゃないですか? どんな仕事をするのか、わからないから、とりあえず、使えそうに見える人間を採用する…実際、使えるか、どうかは、わからないけど、使えそうに、見えない人間より、使えそうに、見える人間を採用するのが、基本でしょ? 竹下さん、見るからに頼りないから、面接で、使えない人間に見られるからですよ…」


 当麻が、説明した。


 「…使えない人間…」


 私は、グーの音も出なかった…


 二歳年下の当麻の説明に、反論できなかった…


 頼りないと言えば、実に頼りない…


 それは、否定できない…


 自分自身、生まれてこのかた、真っ当に生きているつもりだし、これまで他人様に迷惑をかけて生きてきたわけでもない…


 勉強だって、そこそこ出来たし、大学は、中堅校…


 それなりに、世間に知られている大学だ…

 

 ルックスも、そう…


 決して、周囲の人間が、振り返って見るほどの美人ではないが、そこそこの美人…


 クラスで、3番目クラスの美人だ…


 つまり、極めて、平凡…


 別段、他人様に劣っているわけでもなければ、優れているわけでもない…


 そんな私に、


 …頼りない…


 と、一言、言われて、会社の面接は、全滅…


 …全滅だ!…


 …世の中、何かが間違っている…


 ふいに、私の怒りが、そこに向かった…


 たった数回の面接で、なにがわかる?

 

 この竹下クミのなにが、わかると言うんだ?


 どうして、私が使えないと、わかるんだ?


 いつのまにか、怒りが、そこに向かった…


 ずばり、就活に向かった…


 はっきり、言って、気分が悪くなった…


 なんで、私が使えないって、わかるんだ?


 私は、いつのまにか、拳を固く握りしめて、怒りで、ブルブルと震えていた…


 いつのまにか、就活が全滅したことに、怒りが、集中した…


 稲葉五郎も、大場も関係なかった…


 高雄も関係なかった…


 就活が全滅したことに、怒りが集中した…


 …許せん!…


 …私の実力を見せてやる!…


 なぜか、いきなり、話が、そこに行った…


 …私の実力を見せてやる!…


 私は、ブルブルと怒りで、拳を全力で、握り締め、自分自身に誓った…


 同時にハタと気付いた…


 …実力を見せるって、一体なにを見せれば、いいんだ?…


 …英語が喋れれば、いいのか?…


 …中国語が喋れれば、いいのか?…


 …わからん…


 …さっぱり、わからん…


 私が、頭をひねって、悩んでいると、いきなり、目の前の店の扉がガラッと開いた…


 すぐに、


 「…あら…アンタ?…」


 という声が、目の前でした。


 その声で、目の前の人物を見た。


 女優の渡辺えりに似た、あの街中華の女将さんが、立っていた…



 「…あら…アンタ…」


 女優の渡辺えりに似た、街中華の女将さんが、繰り返した…


 私は、


 「…お久しぶりです…」


 と、ペコリと頭を下げた…


 「…たしか…アンタは、五郎とあっちゃんといた…」


 「…ハイ…その通りです…覚えていてくれて、ありがとうございます…」


 私は、ニコニコと愛想笑いを浮かべながら、言った…


 まさに、君子豹変す、だ…


 それまで、自分が、なぜ、就活が杉崎実業以外全滅したかで、怒りに震えていたが、あっという間に、それがなくなった(笑)…


 きれい、さっぱり、消えた(笑)…


 「…商売柄だよ…」


 女将さんが、ぶっきらぼうに言う。


 「…商売柄?…」


 「…そうだよ…この商売をやってみれば、誰でも、わかるけど、お客さんの顔をすぐに覚える…特にアンタは、あっちゃんと、五郎といっしょだったからね…印象は強いよ…」


 私は、女将さんの言うことが、よくわかった…


 私も、コンビニで、バイトしているから、お客さんの顔は、覚えている…


 どこで、どんな仕事をしているか、わからないが、お客さんの顔は、客商売をしていれば、すぐに覚えるものだ…


 無論、一度会っただけのお客さんは、普通は、覚えていない…


 どんな店も、大半はリピーターのお客さんに支えてもらっているから、そのお客さんが、何度も、同じ店にやって来るから、覚えるものだ…


 いわゆる、馴染みになる…


 どこで、どんな仕事をしているか、知らないけれども、いつも顔を見せることで、そのお客さんを知る…


 そういうことだ(笑)…


 ただし、たった一度きりでも、覚えているお客さんは、いる…


 それは、ずばり印象に残る人物…


 ちょっと見たことのない、美男美女だったり、有名芸能人だったりすれば、印象に残る…


 この女将さんも、私が、大場と、稲葉五郎といっしょにいたことで、私を覚えていたに違いない…


 さもなくば、覚えていない…


 なにしろ、私は、平凡…


 平凡な人物だからだ…


 道を歩けば、誰もが振り返るほどの美人でもなく、頭もいいわけではない…


 どこにでもいる、普通の女だからだ…


 私は思った…


 そう考えていると、女将さんが、


 「…さあ、中に入りな…」


 と、私に声をかけた…


 それから、


 「…今日は、なにか、アタシに相談したいことでも、あって来たんじゃないの…」


 と、続けた。


 私は、驚いて、つい女将さんの顔を見た…


 失礼ながら、女将さんの顔を、ぶしつけにジロジロ見た…


 そして、聞いた…


 「…どうして、わかったんですか?…」


 「…あっちゃんの父親と、五郎の関係が、世間に取り沙汰されてるだろ…その最中だ…アンタの相談はそれだろ?…」


 女将さんが、不安そうに、顔をしかめて、言った…


 たしかに、女将さんの言う通り…


 だから、驚いた…


 が、冷静に考えれば、誰でもわかることに違いない…


 一度きりだが、私は、大場と稲葉五郎といっしょにやってきた…


 そして、今、女将さんが言ったように、大場の父親の大場小太郎代議士と、ヤクザ者である、稲葉五郎の関係が世間で取り沙汰されてる…


 だから、普通に考えれば、私がそれで、相談に来たと、考えるのは、普通…


 普通かもしれない…


 「…稲葉さんは…」


 私は、つい聞いてしまった…


 「…五郎なら、今は事務所にいないよ…」


 「…いない?…」


 「…本人も、雲隠れしている…」


 「…雲隠れ?…」


 「…あの騒動で、マスコミの餌食になることは、火を見るよりも明らかだからさ…だから、事務所には、今はいないよ…」


 女将さんが、説明する。


 たしかに、そう言われれば、わかる気がする…


 いわゆるマスコミが、ヤクザ事務所である、稲葉一家に突撃取材をすることは、ありえないが、周辺に、取材をすることは、普通だ…


 ありえる…


 だから、どこかに雲隠れして、事務所に寄り付かないと、言われれば、納得する…


 そして、気付いた…


 さきほど、稲葉一家の入るビルのテナント付近が、人通りが、極端に少なかったわけに、だ…


 私は、ヤクザ事務所があるから、一般のひとが、敬遠して、あの通りに、近付かないのでは? と、考えたが、違った…


 ヤクザ事務所があるから、近付かないと、考えるのは、誰もがわかるが、現実問題として、その場所を通らなければ、ならない場合も多い…


 まして、稲葉一家と看板が掲げられたビルのテナントは、大通りに面している…


 だから、普通に考えれば、あの通りを避けることはできない…


 が、さっき行ったときは、人通りがほとんどなかった…


 アレは今考えれば、稲葉五郎と大場小太郎代議士の関係が、世間に明るみになり、本来あの事務所に、出入りするヤクザ者も、近付かなくなったのではないか?


 普通ならば、事務所に出入りするヤクザ者も、今現在、稲葉五郎が事務所にいないことを知っているから、事務所に近付かない…


それゆえに、余計に、人通りが少ないのかもしれない…


私は、そう思った…


「…難儀だよ…」


女将さんが、呟いた…


「…難儀ですか?…」


「…そうだよ…昔は、ヤクザが、選挙応援をしても、普通だった…って、いうか、どこにでもある光景だった…それが、今じゃ…」


そう言って、女将さんが、嘆息する。


正直、傍から見ても、女将さんは、心底参ってる様子だった…


私は、驚いた…


まさか、今度の騒動で、この街中華の女将さんまでも、こんなに、落ち込んでいるとは、思わなかったからだ…


やはり、それは、あの稲葉五郎が原因なのだろうか?


私は、考える。


私は、一瞬、躊躇したが、


「…あの…女将さんが、落ち込んでるのは、稲葉さんが、マスコミを賑わせてるからですか?…」


と、訊いた。


女将さんは、即座に、


「…五郎の件だけじゃないよ…あっちゃんのお父さんの大場さんとも、昔から、顔馴染みだからね…二人のことが、心配なのさ…」


そう答えた…


それから、


「…ハァーッ…」


と、大きく、ため息をついた…


私は、思わず、


「…女将さん…大丈夫ですか?…」


と、声をかけた…


女将さんと知り合って、まもないが、そう声をかけずには、いられないほど、目の前の女将さんは、落ち込んでいた…


誰もがそうだが、渡辺えりが、目の前で、落ち込んでいれば、驚く…


そういうことだ(笑)…


私の言葉に、


「…お嬢ちゃん…ありがと…」


と、女将さんは、声をかけた。


それから、


「…その辺に、座りな…なにか、飲むかい?…」


と、私に聞いた。


私は、ざっと店内を見た。


気のせいか、前回、初めてやって来たときよりも、お客さんの数が、少ない気がする…


いや、


気のせいではない…


明らかに少なかった…


私の視線に気付いたのだろう…


「…見ての通り…お客さんは、まばら…いつもは、こんなんじゃないんだけど…」


と、苦笑いを浮かべた。


「…まあ、いつもは、五郎の組の若い衆も来てるから、その分、少なくは、なったね…」


「…稲葉さんの若い衆?…」


思わず、口に出した。


そんなヤクザ者が、来て、店に影響はないんだろうか?


私は、思った。


その思いが、表情に出たのだろう…


「…意外かい? …でも、五郎のとこの若い衆も、この店じゃ、おとなしいもんだよ…」


「…おとなしい?…」


「…そうさ…ヤクザでもなんでも、どこでも見境なく、騒ぎ立てりゃ、誰も相手にしないよ…同じ街で、生きてるんだ…誰も相手にしなけりゃ、生きてゆけない…干上がっちまうよ…」


女将さんが、言う。


たしかに、女将さんの言うことは、わかる気がする…


ヤクザでもなんでも、例えば、私のバイトするコンビニも出入り禁止だとする…


そうすれば、大げさに言えば、いきてゆけない…


寝たきりの病人でもない限り、今の時代、コンビニに行ったことのない人間はいない…


今やコンビニは、電車や水道と同じように、社会のインフラ…


なくては、ならない存在だ…


それが、利用できないとなると、ずばり、生活が困る…


生きてゆけないほどではないが、生活がとんでもなく不便になる…


そういうことだ…


「…やれやれ、ホント、しんどい世の中だよ…」


女将さんは、そう言って、店の奥に消えた…


そして、戻って来たときは、手に、グラスと、コーラの瓶を持っていた…


「…さあ、飲みな…」


女将さんが言う。


私は、


「…頂きます…」


と、言って、近くの席に座り、女将さんに出されたコーラを飲んだ…


「…おいしい…」


思わず、呟いた…


たしかに、家で飲むコーラよりも、はるかにおいしい…


どうしてだろうか?


「…だろ…」


女将さんが、私の言葉に嬉しそうに、答えた…


「…どうして、こんなに、おいしいんですか?…」


「…理由は簡単…業務用の冷蔵庫に入れてるからさ…」


「…業務用の冷蔵庫?…」


「…そうさ…家の冷蔵庫よりも、冷える…だから、おいしい…おまけに、グラスも冷やしている…おいしくないはずはないさ…」


女将さんが、嬉しそうに説明する。


誰でも、そうだが、自分の出したものを、褒められるのは、嬉しいものだ…


「…アンタも、なにか、悩みを抱えて、やってきたんだろ?…」


女将さんが、私に語りかける。


「…いや、なにかじゃないか? 五郎のことか?…」


そう言って、女将さんは、豪快に笑った…


私は、その笑いを見て、なんだか、救われた気分になった…


女将さんと会うのは、今日が二度目だが、なんだか、ホッとするというか、安心する。


なにより、女将さん自身、今さっきまで、悩んでいた様子だったのに、私のために明るく振る舞ってくれたのが、嬉しかったというか…


とにかく、そんな気持ちだった…


「…五郎も可哀そうな男だよ…」


目の前の席に座った、女将さんが、ポツリと呟いた。


「…可哀そう? …どうして、可哀そうなんですか?…」


「…アイツは、人が良すぎるのさ…」


「…それは、どういう…」


「…今の山田会の跡目争い…五郎は、人に推されて、立候補というか…」


女将さんが説明する。


「…昔から、そうだが、妙に情に厚いというか…アンタのこともそうさ…」


「…私のこと?…」


「…アンタが、亡くなった山田会の前会長の探していた娘さんだと知った五郎は、アンタを大事にしただろ?…」


「…」


「…アイツは昔から生き方が不器用で、人に利用されやすい…現に…」


そこまで、言って、女将さんは、言葉を止めた…


私に話す話題ではないと、思ったのかもしれない…


が、


少しすると、


「…現に、今も利用されてる…」


と、言葉を継いだ…


「…利用ですか?…」


私は、訊いてはいけないことかもしれないが、つい訊いてしまった…


「…五郎の対抗馬…高雄さんと、五郎は、昔から仲がいい…それが、高雄さんを、毛嫌いしている勢力に担がれて…」


女将さんが、意外な内情を告げた。


「…本当は、高雄さんと争うのが、なにより、五郎自身が、嫌なはずさ…それを…」


憤懣(ふんまん)やる方のない口調だった…


それから、一転して、


「…まあ…それが、五郎のいいところでもあるんだけど…」


と、明るく笑った…


「…アイツは、見かけは、ゴツイだろ…たが、性格は、真逆…いい男さ…見た目と中身が違う好例さ…」


女将さんが、笑った…


私は、その女将さんの笑いを見ながら、一体誰が、稲葉五郎を利用しようとしているのだろう? と、考えた…


山田会という暴力団は知らないが、一枚岩でないことは、わかる…


暴力団も会社も学校も同じ…


要するに、人が集まれば、派閥が生まれる…


そういうことだ…


これは、いい悪いということではない…


一番誰にもわかりやすい例は、学校だろう…


毎朝、登校すれば、クラスで、仲の良い者同士が、集まる。


クラスで、例えば、4,5人のグループがいくつも集まる。


これは、男も女も同じ…


ごく一部のどのグループにも属さない人間を除いて、大抵は、どこかのグループに属する。


そして、それこそが、派閥…


派閥だ!


私は、考える。


だが、気になることは、ある。


一体、誰が、稲葉五郎を利用しようとしているのだろう?


私は、思った。


そして、それをストレートに、口にした…


「…一体、誰が、稲葉さんを利用しようとしているんですか?…」


私の、ど直球の質問に、女将さんが、目を丸くした。


まさか、直球で、来るとは、思わなかったのだろう…


女将さんは、私のど直球の質問に、しばし、悩んだ…


私に言っても、いいものか、どうか、悩んだ…


が、


しばらくすると、覚悟を決めたように、


「…高雄さんの息子さ…」


と、口にした…



 「…高雄さんの息子?…」


 私は、思わず、オウム返しに呟いた…


 高雄さんの息子と言えば、当然、高雄悠(ゆう)のはず…


 まさか、仮に高雄に兄弟がいて、別の兄弟を、女将さんが、指摘しているとは、思えない…


 「…それって、悠(ゆう)さんのことですか?…」


 「…その通り…」


 あっけなく、女将さんが、返答する。


 そして、私は、思い出した。


 以前、稲葉五郎が、高雄悠(ゆう)について、私に、


 「…悠(ゆう)は、見かけとは、違う…」


 と、言いにくそうに言った…


 アレは、ずばり、高雄悠(ゆう)が、自分を利用しようとしていることに、稲葉五郎が気付いているからに違いない…


 だからこそ、私に、高雄に注意しろ!


 安易に、気を許すな! と、言いたかったに違いない…


 だが、そこまで、考えると、ふと、気付いた…


 高雄悠(ゆう)にとって、稲葉五郎は、敵方…


 なぜなら、悠の父親である、高雄組の父親は、稲葉五郎のライバル…


 山田会の次期会長を巡るライバルだからだ…


 それが一体、父のライバルである、稲葉五郎を利用しようとしているというのは、どういうことだろう?


 疑問が残る…


 「…でも、稲葉さんと、高雄さんのお父様は、山田会の次期会長の座を巡って、争ってるんじゃ…それが、高雄さんが、稲葉さんを利用しようとしているっていうのは、一体…」


 私は、女将さんに聞いた…


 「…それさ…」


 女将さんは、したり顔で、言う。


 「…普通は、誰もがそう思うだろ…悠(ゆう)にとって、五郎は敵方の人間だ…それを利用するっていうのは、どういうこと? って、思うのが、当たり前だ…」


 「…」


 「…だが、そうじゃない…そもそも、五郎に、山田会の次期会長の座を巡る争いに、参加させたというか、巻き込まれるように、仕向けたのが、悠(ゆう)なのさ…」


 「…仕向けた?…」


 「…要するに、悠(ゆう)は、父親と対立しているのさ…」


 「…お父さんと、対立?…」


 「…そうさ…悠(ゆう)は、高雄さんの息子だから、当然、山田会の主要メンバーの幹部クラスの親分たちと、顔馴染みさ…それが、実の父親を差し置いて、父以外が、山田会を率いた方が、組織が伸びると、あっちこっちで、触れ回ってたらしい…」


 「…」


 「…すると、どうなると思う?…」


 突然、女将さんが、私に質問した。


 私は、しばし、考えたが、


 「…わかりません…」


 と、白旗を揚げた。


 「…高雄さんを嫌ってる親分たちが、別の人間を山田会の次期会長に推そうと動き出したのさ…それで、担がれたのが、人のいい五郎さ…」


 「…稲葉さん?…」


 「…そう…本当は、悠(ゆう)は、ヤクザでもなんでもないから、山田会の次期会長の座を巡るゴタゴタに、口を出す権利はないし、そんな発言をしても、他の親分たちも相手にしないだろう…でも、高雄さんは、山田会の主力メンバーで、圧倒的に力を持っている…にもかかわらず、その息子が、あちこちで、父には、山田会を率いる器量がないと、触れ回れば、どうなると思う?…」


 「…それは…」


 「…お嬢ちゃんにも、わかると思うけど、いかに、山田会で、父親が、力を持っていようと、その息子が、親父には、そんな器量はないと、至る所で、言い触らせば、誰もが、疑心暗鬼になる…本当に、高雄さんで、いいのかな? と、考え出す…」


 「…」


 「…すると、どうだ? 自分の息子に、そんな陰口を叩かれる人間に、山田会を任せられるのか? という人間が、必ず出てくる…当たり前さ…」


 「…」


 「…つまりは、悠(ゆう)は、最初から、内心、自分の父親に反感を抱いている人間たちに、火を点けたのさ…」


 「…火を点けた?…」


 「…誰もが、あんな奴、大っ嫌いだと思っていても、一人じゃ言えない…でも、同じような人間が、集まれば、声にも出せる…そういうことさ…」


 「…」


 「…悠(ゆう)は、昔でいえば、アジテーターっていうのかな…」


 「…アジテーター?…」


 「…いわゆる、人々を扇動するっていうか、他人の心に火を点けるのが、うまい…自分が、子供の頃から見知った親分衆に、ウチの親父じゃ、山田会を任せる器量はありませんよと、あっちこっちで、触れ回れば、親分衆の中でも、ああ、悠(ゆう)の言う通りだなと、同調する親分たちも出てくる…つまり、そういうことさ…」


 女将さんが、説明する。


 たしかに、そう説明されれば、女将さんの言うことは、わかる…


 でも、一体、どうして、高雄悠(ゆう)は、そんなことをするのだろう?


 どうして、自分の父親に不利な真似をするのだろう?


 私は、考える。


 そして、その疑問を口にした…


 「…一体、高雄悠(ゆう)さんは、どうして、自分の父親の不利になることを、するんでしょうか?…」


 「…それは、私にもわからない…」


 女将さんが、答える。


 「…一説には、悠(ゆう)が、高雄さんの実の息子じゃないんじゃないかって、話もある…」


 「…実の息子じゃない? どういう意味ですか?…」


 「…言葉通り…血が繋がってない…そんな噂もある…」


 「…」


 「…でも、それは、ガセだと思う?…」


 「…どうして、ガセなんですか?…」


 「…見てくれさ…あの二人は、顔こそ違うけど、雰囲気が似ている…悠(ゆう)は、いわゆるヤクザと真逆の雰囲気を持つ優男(やさおとこ)だけど、高雄さんの若い頃も同じ…誰が見ても、ヤクザには見えなかった…」


 「…」


 「…むしろ、問題は、悠(ゆう)の母親じゃないかと、アタシは、思う…」


 「…お母さま?…」


 「…高雄さんは、若い頃、やっぱり、今の悠(ゆう)と同じで、女にモテまくった…それこそ、あっちの女…こっちの女と、入れ食い状態だった…そんなだから、悠(ゆう)の母親も捨てられて、その母親も失踪…頼る人間がいなくなり、天涯孤独になった悠(ゆう)は、高雄さんに引き取られた…だから、高雄さんを恨んでいても、おかしくはない…」


 私は、女将さんの言葉で、以前、高雄が、私に、自分は、今の家庭とは、別の家庭で生まれて、今の家庭に引き取られたと言ったことを思い出した…


 「…誰でも、そうだけど、子供の頃の体験は大きい…下手をすりゃ、一生その体験に縛られる…」


 「…縛られる?…」


 「…そうさ…悠(ゆう)は、母親が、高雄さんに、捨てられたことを、生涯、恨むだろう…すると、どうだ? 今度は、自分の結婚が、障害になる…」


 「…どうして、障害になるんですか?…」


 「…悠(ゆう)が、優男(やさおとこ)のイケメンだからさ…」


 「…イケメンだから?…」


 「…そうさ…イケメンだから、女にモテモテ…知らず知らずの間に、あっちの女、こっちの女と、モテまくる…」


 「…でも、それが一体?…」


 「…父親と同じさ…」


 「…お父さんと?…」


 「…高雄さんも、若い頃は、俳優のように、イケメンだった…だから、女にモテまくった…女は穿いて捨てるほど、言い寄って来る…しかも、高雄さんは、ヤクザには見えないから、普通の女も多かった…」


 「…」


 「…そして、悠(ゆう)は、いつしか、自分も父親と同じになるんじゃないかと、気付いた…あっちの女、こっちの女と、付き合って、まるで、クルマかなにかを乗り換えるように、付き合う女を変える…それで、子供ができれば、どうだ? 自分と、同じ境遇の子供ができるんじゃないかって…それで、いつしか、女遊びも控えて、マジメになった…」


 「…マジメに?…」


 「…普通に結婚して、浮気もなにもしない、穏やかな家庭を作る…それが、悠(ゆう)の夢になった…」


 「…夢?…」


 「…だから、噂だけど、悠(ゆう)が、高雄さんの会社の資金を使って、なにか、やろうとしている…それも、すべて、自分を守るためというか…」


 「…守るためって?…」


 「…悠(ゆう)はヤクザにはならない…だけど、著名なヤクザを父親に持てば、まともな会社に就職なんてできるわけない…だから、杉崎なんとかいう会社を買収して、その会社を、自分のものにしようとした…」


 「…」


 「…すべては、自分の夢のため…穏やかで、平凡な自分の家庭というか、生活をするためさ…」


 女将さんが、言う。


 そして、私は、女将さんの説明で、高雄悠(ゆう)という男が、わかって来た…


 図書館や花屋が似合う、おとなしめのイケメンだが、いかに中身が、違うか…


 そして、その原点というか、その思考の元になったのが、実の母親が父親に捨てられたからだと、わかった…


 すると、ふと気付いた…


 女将さんは、今、どうして、高雄悠(ゆう)が、父親に不利なことをするのか、わからないと言いながら、その理由をしっかり説明している…


 むしろ、そこまで、わかっていて、どうして、高雄が、父親に不利になることをするのか、わからないと言った、女将さんの方が、私には、わからなかった…


 意味不明だった…


 だから、訊いた…


 「…女将さん、最初、高雄さんが、父親に不利な行動をするのが、わからないと言ってましたけど、高雄さんが、母親が、父親に捨てられたからと、はっきり言ってるじゃないですか?…」


 私の言葉に、女将さんは、一瞬、驚いたが、すぐに、その言葉を否定した…


 「…お嬢ちゃん…それは、違うよ…」


 「…違う…なにが、違うんですか?…」


 「…悠(ゆう)の行動から、そう見えるだけさ…」


 「…見えるだけ?…」


 「…普通に考えれば、実の母親が、父親に捨てられたから、その父親に反発して、父親に不利な行動を取る…誰もが、そう思う…」


 「…違うんですか?…」


 「…だから、それがわからない…」


 「…わからない? …どうして、わからないんですか?…」


 私の質問に、女将さんは、考え込みながら、ゆっくりと、説明した…


 「…例えば、お嬢ちゃんが、なにか話すだろ?…」


 「…ハイ…」


 「…でも、それを心の底から、思ってるのか、どうか、わからない…」


 「…どういう意味ですか?…」


 「…わかりやすい例だと、男でも女でも、自分はモテないと、口にする人間は多いだろ? …でも、例えば、どうして、自分はモテないのかと、お嬢ちゃんが訊かれて、オマエは、ブザイクだからとは、言えないだろ?…」


 「…」


 「…だから、そんなことないよとか、周りに、アンタの良さがわからないヤツばかりだからとか、思ってもいないお世辞を言う…つまり、心の中で、思っていることと、口に出したセリフが違う…」


 「…」


 「…もっと、言えば、例えば、お嬢ちゃんが、私の知り合いで、今付き合ってないひとがいれば、今度、アンタに紹介するね、とか、付け加えるとする。ホントは、その場限りの言葉で、実際に、行動することは、ありえないっていうか、ほとんどない…つまり、心の底で、思ったことと、実際に口に出す言葉、さらに、行動と、誰もが繋がっていると思うことが、全然繋がっていない…だから、本当のことは、わからないと言ったんだ…」


 女将さんがゆっくりと、考え考え、途切れ途切れに、説明する。


 たしかに、そう言われば、誰しもわかる…


 身に覚えがある…


 今、女将さんが、言ったように、どう見ても、さえない男女に、どうして、自分はモテないんだろ? と、言われて、まさか、アンタがブザイクだからとは、言えないし…だから、周りにアンタの良さがわかるヤツがいないんだよとか、言うのは、誰もが、身に覚えがある…


 そして、今度、私の知り合いで、今、付き合ってないコがいれば、アンタに紹介するよ、と言うのも、よく言う言葉…


 でも、実際に紹介することは、まずない…


 これも、別に悪気はないが、誰もが身に覚えがある…


 ある意味、ありふれた光景だ…


 だから、たしかに、女将さんが、言うように、自分が心の中で、思っていることと、口にすること…そして、行動は別だということは、わかる…


 それを、高雄を当てはめれば、母親が、父親に捨てられたから、父親を恨んでいると、考えるのは、誰でもわかるが、本当のところは、わからない…


 まして、高雄に尋ねても、本当のことを、言うのか、どうかも、わからない…


 …怪しい…


 本当の本音は、高雄自身にしか、わからない…


 私は、そう思った…


 しかし、どうして、この女将さんは、そんなに、高雄に詳しいのだろう…


 いや、


 高雄だけではない…


 山田会についても、そうだ…


 どうして、そんな内部情報に詳しいのだろう…


 「…女将さん…失礼ですが、どうして、そんなに、山田会の内部事情に詳しいんですか?…」


 私の直球の質問に、


 「…まあ、それは、色々だよ…」


 と、笑って、はぐらかした…


 「…この店は、五郎も、そうだし、五郎の組の若い衆も、しょっちゅう来る…だから、色々な話も聞くし、嫌でも、耳にする…」


 そう言って、笑った…


 「…客商売っていうのは、そういうものさ…ほら、昔から、言うだろ…床屋は情報の宝庫って?…」


 「…床屋は、情報の宝庫? …どういう意味ですか?…」


 「…床屋に限らず、美容院でも、主人は、お客さん相手に、話をするだろ? …そういったときに、色々世間話をする…その街に、大きな工場があれば、最近、あの工場は、リストラが激しいとか、下手をすりゃ、リストラどころか、工場閉鎖の噂があるとか、そんな話さ…だから、嫌でも、その街の情報に詳しくなる…そういうことさ…」


 女将さんが、説明する。


 女将さんの話はわかる…


 だが、本当にそれだけだろうか?


 疑心暗鬼になる…


 疑えば、切りがないと、思いながらも、女将さんの言葉を信じきれない…


 しかしながら、これ以上、女将さんに聞いても、無駄だとも思った…


 女将さんが、床屋にかこつけて、山田会の内部事情を、どうして知ったのか、私に説明した以上、なにを聞いても、それで押し通すつもりだろう…


 だから、なにを言っても無駄だと思った…


 そして、気付いた…


 これこそが、さっき、女将さんが言った言葉…


 心の底で、思った言葉と、口に出した言葉、さらに行動とは、一見、関係があるように見えるけど、その実、なにも関係がない…


 私が、女将さんに、


「…どうして、そんなに山田会の内部事情に詳しいんですか?…」


と、聞いて、女将さんが、床屋を例に、


「…この店は、稲葉五郎や、その組の若い衆が集まって、話をするから…嫌でも、耳に入る…」


と、答えた。


だが、女将さんが、本当のことを言ったか、どうかは、わからない…


つまり、女将さんの、心の中で、考えたことと、口に出した言葉は、違う可能性もある…


また、私自身も同じ…


女将さんの言葉に疑問を抱いても、それ以上、女将さんに聞くことはできない…


「…女将さん…それホントですか?…」


と、冗談でも、笑って、聞くことができない…


それ以上、聞くのは、マズいと、判断したからだ…


なにしろ、相手はヤクザ…


日本有数のヤクザだ…


普通でも、これ以上、聞くのは、マズいと思うところへ、話題が、ヤクザに関する話題…


誰もが、これ以上、聞くことはできない…


そして、これも同じ…


私自身が、心の底で、思っていることを、口に出せない…


つまり、心の底で、思っていることと、口に出す言葉は、違う…


そういうことだ(笑)…


その好例だ(笑)…


私は、内心、考えた…


そして、心の中で、高雄のことを思った…


あの高雄…


高雄悠(ゆう)…


図書館や、花屋が似合う、長身のイケメン…


父親が、日本有数のヤクザであるにもかかわらず、その見た目は、真逆…


虫も殺せない、ひ弱な男にも見える…


だが、内心は、違うのだろう…


はっきりと、自分の父親に逆らってる…


実の父親に敵対している…


一体全体、なにを狙ってる?


そこまで、考えて、ふと、気付いた…


あの大場は、私を含めた、杉崎実業に集められた五人の女が、似ているのは、私に似せたから…


この竹下クミに似せたから、だと、告白した…


これは、一体どういう意味だ?


高雄の目的は、私だと、大場は言った…


とすると、高雄のやりたいことの中に、この竹下クミも組み込まれているということだ…


少なくとも、高雄の野心というか、野望の根底に、この竹下クミが、いるということだ…


存在するということだ…


きっと、私、竹下クミ抜きで、高雄の野望は、成就しないということだ…


そこまで、考えたとき、自然と、


「…承知!…」


と、心の中で、呟いた…


まさか、目の前に、女将さんがいるのに、


「…承知!…」


と、口にするわけにはいかない…


ただ、自分自身に呟いたに過ぎない…


自分自身に高雄の野心というか、野望に注意せよ! と、命じたに過ぎない…


警戒せよ! と、命じたに過ぎない…


私、竹下クミは、いつしか、戦闘モードに、突入した(笑)…



 戦闘モード(笑)に突入したまま、私、竹下クミは、街中華の女将さんの店を後にした…


 正直、考えることが、多すぎた…


 女将さんに、聞いたことで、色々なことが分かって来たが、まだまだ謎がある。


 そして、もしかしたら、その最大の謎と言うか、焦点は、亡くなった古賀会長にあるのでは? と、ふと、思った…


 先日、亡くなった、山田会の古賀会長…


 たしか、ヤクザ界では、秀吉に例えられる立志伝中の人物だそうだ…


 以前、女将さんが、私と、稲葉五郎、そして、大場がいる席で、言ったことを思い出した。


 秀吉は、あの豊臣秀吉だ…


 そして、豊臣秀吉に例えられる以上、亡くなった古賀会長は、生まれは、貧乏だったのでは?


 貧しかったのでは? と、考えた…


 例えば、織田信長や、徳川家康に例えれば、生家というか、生まれは、それなりに、金持ちというか、裕福なのでは? と、考える。


 織田信長も、大名…徳川家康も、小なりといえど、大名だ…


 だから、もし、その亡くなった古賀会長が、織田信長や、徳川家康に例えられれば、古賀会長も、生まれは、裕福だったのでは? と、想像できる…


 だが、古賀会長は、秀吉…豊臣秀吉に例えられてる…


 つまり、身分は低かったが、大成した…偉くなった…


 そういうことだ(笑)…


 そして、もう一つ、豊臣秀吉に例える謎…


 もしかしたら、財宝というと、大げさだが、亡くなった古賀会長は、相当の財産を残していたのでは? と、気付いた…


 豊臣秀吉が、大阪城内に、莫大な金銀等の財宝を、所有していたのは、よく知られている話…


 それを例に挙げれば、古賀会長も、それなりの財産を残しているのでは?


 ふと、思った…


 なにしろ、日本で、二番目に大きな暴力団の会長だ…


 お金持ちに決まっている…


 そして、もしかしたら、その財産を、あの稲葉五郎も、高雄の父親も、狙っている…


 ふと、思った…


 もしかしたら、私が、亡くなった古賀会長の探していた娘だと、信じて、大事にしているのは、私が、古賀会長の、娘や孫で、その私を手に入れることで、その財産を手に入れることができる…


あの稲葉五郎も、高雄の父親も、そう信じて、血眼になって、私を探していた…


 私が、古賀会長の残した莫大な財産を手に入れられる立場だからだ…


 と、そこまで、考えて、自分でも、おかしくなった…


 思わず、プッと、吹き出しそうになった…


 いくらなんでも、荒唐無稽すぎる…


 たしかに、亡くなった山田会の古賀会長は、日本で、二番目に大きな暴力団の会長だったのだから、お金持ちに違いない…


 しかし、それと、私、竹下クミとは、何の関係もない(笑)…


 何度も言うが、私の身内にヤクザ者はいない…


 天地がひっくり返っても、いるはずがない…


 これが、現実…


 現実だ…


 ただ、そうは思いながらも、やはり、古賀会長のことは、謎だった…


 どうして、私が、古賀会長の探していた娘だと思ったのか?


 そもそも、それが、謎だった…


 いや、


 そこまで、考えて、気付いた…


 高雄の父親や、稲葉五郎だけではない…


 高雄…


 あの高雄悠(ゆう)も、また、二人と、同じなのではないか?


 私、竹下クミを、亡くなった、山田会の古賀会長の探していた娘だと知って、あの杉崎実業に合格させたのではないか?


 そう考えると、納得する…


 ずばり、辻褄が合う…


 なぜなら、あの大場は、私が、高雄の本命だと言った…


 その本命の私を隠すために、私によく似た四人の女を集めたと言った…


 そして、なにより、高雄は、決して、私、竹下クミの頼みを断らないと、大場は言った…


 それは、高雄が私を大切に思っているから…


 そして、なぜ、私を大切に思うのかと言えば、自分の父親である、高雄組組長や、稲葉五郎と同じく、私を、亡くなった山田会の古賀会長の探していた娘だと、信じているからではないか?


 そう、考えるのが、自然だ…


 理屈が合う…


 と、そこまで、考えると、今さらながら、大場のことを思った…


 大場は私に電話をかけてきて、高雄に相談して欲しいと言った…


 私が頼めば、高雄は決して、私の頼みは、断らない…


 大場は、当然のことながら、自分の父親であり、次期総理総裁候補の大場小太郎代議士と、稲葉五郎の関係が、世間に暴露されて、困っている…


 下手をすれば、自分の父親が、次期総理総裁候補の座から、転がり落ちるどころか、落選の危機もあるからだ…


 しかし…


 しかし、だ…


 例え、私が、高雄悠(ゆう)にそれを相談したとして、高雄には、大場の父親の苦境を救う手立てがあるのだろうか?


 いかに、高雄が、自分の父親が有力ヤクザとはいえ、高雄自身に力があるとは、思えない…


 だが、大場は、そうは、思っていない…


 と、なると、高雄には、なにか、アイデアというか、それをうまく解決する手段というか、プランがあるのかもしれない…


 私は、思った…


 そんなときだった…


 私が、一人で、道路を歩いていると、反対方向から、歩いて来る、若い男が、ペコリと、私に向かって、頭を下げた…


 最初、その若い男が、私に向かって、頭を下げているとは、気付かなかった…


 だが、偶然というか、たまたまと、いうか、私の近くで、歩いている人間は、私以外いなかった…


 だから、ふと、周りを見回して、やっぱり、私だと気付いた…


 その男が、頭を下げている、相手が、私、竹下クミだと、気付いた…


 …コイツは?…


 私は、ぶしつけに、頭を上げた、若い男の顔をジロジロ見た…


 そして、その顔に、見覚えがないか、どうか、考えた…


 そして、その若い男が、ようやく誰か、気付いた…


 思い出した…


 稲葉五郎の若い衆だった…


 以前、稲葉五郎に、杉崎実業まで、クルマで、乗せて行って、もらったことがある…


 そのときに、クルマを運転する若い衆と、助手席に乗った若い衆がいた…


 そのどちらか、一方だった…


 そして、ようやく、相手の素性に気付いたとき、すでに、相手は、私の横を素通りして、立ち去る寸前だった…


 私は、一瞬、悩んだが、すぐに、その若い衆を追いかけて、


 「…あの…スイマセン…」


 と、声をかけた…


 すると、その若い衆は、まるで、電気かなにかがカラダが走ったように、ピクッとして、


 「…お嬢…ご無沙汰しています…」


 と、まるで、私に対して、土下座せんばかりに、頭を下げた…


 私は、ビックリした…


 驚いた…


 生まれて、このかた、他人様に、そんな真似をされたことは、一度もなかったからだ…


 私は、どうして、いいか、わからなかった…


 が、とりあえず、


 「…あの…そんな真似しないで、下さい…頭を上げて下さい…」


 と、言った。


 すると、相手は、気を許したのか、ゆっくりと、私の顔を見ながら、頭を上げた…


 私もまた、その相手の顔を見ながら、


 「…稲葉さんのところの、若い衆の方ですね…この前、私を、杉崎実業まで、送ってくれた…」


 と、訊いた…


 「…その通りです…お嬢…」


 と、相手は、またも、恐縮して、深く、私に頭を下げた…


 が、恐縮するのは、私の方だった…


 他人様に、こんなにまで、頭を下げられたのは、生まれて、初めての経験だった…


 どうして、いいか、わからなかった…


 しかも、相手は、若い衆とはいえ、ヤクザ…


 れっきとしたヤクザ…


 暴力団だ…


 「…あの…稲葉さんは、今、どこに…」


 私は、言った。


 稲葉五郎に、高雄悠(ゆう)と、連絡をとってもらおうとしたのだ…


 本当ならば、あの街中華の女将さんに、稲葉五郎の連絡先を聞いて、教えてもらおうと、思っていたが、すっかり忘れていた(苦笑)…


 あの街中華の女将さんが、高雄悠(ゆう)について、あまりにも、以外と言うか、予想外の話をするから、圧倒されたというか…


 とにかく、女将さんに、聞きそびれた…


 稲葉五郎で、構わないから、高雄の連絡先を聞きたかった…


 さもなければ、大場の頼みを、引き受けることができない…


 本当は、政治家である、大場の父親と、ヤクザ者である、稲葉五郎の関係を、世間にすっぱ抜かれたのだから、それを当事者である、稲葉五郎に、高雄の連絡先を聞くのは、おかしいと思いながらも、他に手段がなかった…


 なにしろ、高雄の実家である、高雄組に、電話をしても、


 「…坊っちゃんは、いません…」


 と、けんもほろろに、言われたぐらいだ…


 ほかにどうやって、連絡先を教えてもらうのか、わからなかった…


 だから、ここで、この稲葉五郎の若い衆に、会ったのは、僥倖といおうか…


 奇跡といっても、いいぐらいだ…


 干天の慈雨といっていいだろう…


 とにかく、願ってもいない、チャンスだった…


 私の質問に、


 「…それは、お嬢といえども、教えるわけには…」


 眼前の稲葉五郎の若い衆が答える。


 当たり前のことだった…


 稲葉五郎は、大場の父親との関係が、世間に暴露されて、身を隠している…


 それが、たまたま、知り合った私などに、簡単に、隠れ場所を教えるわけがなかった…


 まして、眼前の稲葉五郎の若い衆にとって、当然のことながら、稲葉五郎は、自分の親分…


 子分が、親分の命令に逆らえるわけがなかった…


 「…それは、わかってます…」


 私は言った。


 稲葉五郎の若い衆に、今、五郎がどこにいるか、言えるわけがない…


 だから、それを、私が無理強いするわけには、いかなかった…


 「…実は、私は、今、高雄…高雄悠(ゆう)さんに、連絡を取りたいんです…高雄悠(ゆう)さんを、ご存じですよね? 高雄組組長のご子息です…」


 私は言った…


 私の言葉に、眼前の若い衆は、面食らった様子だった…


 「…ど、どうして、お嬢は、高雄のお坊っちゃんに、会いたいんですか?…」


 呆気に取られた口調で言った…


 無理もない…


 ここで、私の口から、稲葉五郎のライバルである、高雄組組長の息子の名前が出るとは、思ってもいないことだったのだろう…


 まさに、想定外…


 考えもしない、事態だったに違いない…


 私は、


 「…実は、今、稲葉五郎さんと、大場代議士の関係が世間に取り沙汰されているでしょ?…稲葉さんも、それで、どこかに身を隠しているのでしょうけど、私は、大場代議士の娘さんと知り合いで、この件で、高雄…高雄悠(ゆう)さんに、連絡を取ってもらいたいと、頼まれたんです…高雄さんなら、なにか、いいアイデアが出せるんじゃないかって…」


 と、言った…


 私の言葉に、


 「…大場代議士のお嬢さん…」


 と、言った切り、目の前の稲葉五郎の若い衆は、絶句した。


 もちろん、目の前の、若い衆も、大場代議士や、その娘の大場のことは、知っているに違いない…


 しかしながら、まさか、私から、大場父娘の話題が出るとは、予想もつかなかったに違いない…


 目の前の若い衆は、どうしていいか、わからずに、考え込んだ…


 途端に、無口になった…


 そして、オロオロと取り乱した…


 文字通り、どうしていいか、わからない感じだった…


 「…オヤジ…いや、組長と連絡は、取れますが、連絡を取っていいものかどうか…」


 目の前の若い衆が、悩みながら、考え、考え、途切れ、途切れに、口にする…


 どうして、いいか、わからないのだ…


 たしかに、私自身、彼の立場なら、考え込む…


 自分でも、どうしていいか、わからない…


 私は、自分の組の組長が、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、言って、大事にしている娘…


 そのお嬢に、


 「…稲葉さんに、連絡して、高雄さんの息子さんに、連絡を取ってくれ…」


 と、頼まれれば、どうして、いいか、わからない…


 答えが出ない…


 むげには断れないからだ…


 目の前の若い衆も、同じ…


 そういう状態だった…


 そして、しばし、時間が経った…


 私は、ジッと待った…


 ようやく、その若い衆が、口を開いて、出た言葉は、


 「…ここで、考えても、結論は出ません…事務所に来てくれませんか?…」


 という言葉だった…


 「…事務所?…」


 私は、驚いた…


 文字通り、絶句した…


 …わ、私が、ヤクザの事務所に行く?…


 …この竹下クミが、ヤクザの事務所に行く?…


 …ヤクザが、大の苦手な竹下クミが?…


 考えれば、目の回る衝撃だった…


 それほど、驚いた…


 が、当事者である、目の前の若い衆にしてみれば、当然の帰結だった…


 いつまでも、道端で、考え込んでいるわけには、いかない…


 どこか、考える場所が欲しい…


 その考える場所が、ヤクザ事務所…


 なにより、見知っているし、どこか、近くの店に入れば、目立つ…


 それに、今、稲葉五郎と、大場代議士の関係が世間で、白日の下に晒されて、週刊誌の記者や、テレビのレポーターが、近くにいるに決まっている…


 だから、当然、目の前の若い衆自身が、記者やレポーターに目を付けられてる可能性が高い…


 その状況で、私と、店に入ることはできない…


 極力、避けたいと考えるに違いない…


 私は、そう考えた…


 と、そこまで、考えると、目の前の若い衆の誘いに乗ってもいいとも、思った…


 普通なら、若い娘である、私が、ヤクザの事務所に一人で、入るなんて、無謀もいいところ…


 チャレンジャーどころか、ありえない話だ(苦笑)…


 しかし、今、外には、記者やレポーターが、大勢いるに違いない…


 もしかしたら、警察も見張ってる可能性もある…


 だとすれば、安全性が高い…


 ふと、思った…


 まさか、そこそこ美人の私が、ヤクザの事務所に監禁されて、犯されるなんて、ことは、ありえないが、やはり、ここは、用心が肝心…


 稲葉五郎が、いかに、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、私を持ち上げてくれても、相手は、若い男…


 二人きりになれば、どうなるか、わからないからだ…


 いや、


 二人どころか、事務所には、何人、男がいるか、わからない…


 そこまで、考えた…


 もしかしたら、AVそのままに、大勢のヤクザ者に犯されるかも…


 そんな考えも浮かんだ…


 が、


 結論は、虎穴に入らずんば虎子を得ず…


 とにかく、この若い衆の言う通り、稲葉五郎の稲葉一家の事務所に行くことにした…


 危険は、承知で、行くことにした…



 「…わかりました…」


 私は、目の前の若い衆に、言った…


 「…事務所に行きます…」


 私は、続ける。


 私の返答に、目の前の若い衆が、ホッとするのが、見て取れた…


 大きく安堵する姿が、わかった…


 と、同時に、今さらながら、この若い衆が、善人であることがわかった…


 自分の感情を、素直に表している…


 ちょっと癖のある人間や、得体の知れない人間というと、言い過ぎだが、その手の人間は、決して、素直に自分の感情を表に出さない…


 表に出すことで、容易く、自分の感情を他人に読み取られるからだ…


 容易に、自分の感情…なにを考えているか、他人に知られることを、恐れるというか…


 要するに、腹黒い(笑)…


 だが、目の前の若い衆は、違う…


 そして、気付いた…


 あの稲葉五郎もまた、おそらく、善人とまでは、言わないが、腹黒くはないのでは? と、考えた…


 要するに、仲間というか…


 自分が、どんな人間と付き合っているか?…


 あるいは、自分がどんな人間に囲まれているかで、その人の人間性がわかる…


 性格が悪い人間は、皆、性格が悪い人間が、集まっている…


 単純に気が合うからだ(笑)…


 その逆もしかり…


 いわゆる、性格のいい人間は、性格のいい人間同士集まる…


 つまり、付き合う人間を知ることで、その人の人間性がわかる…


 どんな人間か、わかる…


 そして、なにより、この若い衆は、稲葉一家の組員…


 普通に、考えれば、稲葉五郎が、面接をしたに決まっている…


 あるいは、面接までしなくても、自分の近くに置いている以上、稲葉五郎が気に入っているとまでは言わずとも、嫌いではないに違いない…


 誰もが、自分の好かない人間を、近くに置くことは、ありえない…


 まして、稲葉五郎は、稲葉一家の組長…


 当然、自分の組だから、ひとの人選もできるだろう…


 つまり、会社に例えれば、社長だ(笑)…


 だから、人選は自分の思い通りに違いない…


 と、そこまで、考えて、再び、今さらながら、稲葉五郎は、そんなに悪い人間では、ないのではないか? と、考えた…


 とすれば、当然のことながら、周囲にそれほど、悪いヤツはいない…


 つまり、これから訪れる稲葉一家の事務所にも、悪い人間は、いないはずだ…


 そう思いさえすれば、これは、好都合…


 無意識というと、言い過ぎだが、これから、稲葉五郎の稲葉一家の事務所に、行くに当たって、プラスというか…


 とにかく、稲葉五郎をいい人間と、思わないと、怖くて、ヤクザ事務所などに、行けなかった…


 なにしろ、ヤクザの事務所だ…


 稲葉五郎や、目の前の若い衆を、善人と思わなければ、とても、怖くて、中に入れない…


 そういうことだ(笑)…


 「…お嬢…足元に気を付けて下さい…」


 私が、そんなことを、無意識に考えていると、すでに稲葉一家がテナントとして入るビルの中の階段を歩いている私を、先導する若い衆が、心配するように、私に声をかけた…


 「…このビルは、見た目よりも、階段が、急です…だから、足元に気を付けて、下さい…」


 すでに、私の前を歩く、若い衆が、私を振り返って、私に注意を呼び掛ける…


 私は、その若い衆の顔を見上げながら、


 「…大丈夫です…」


 と、返答した矢先に、階段に足をぶつけた…


 「…痛ーい!…」


 思わず、呟いた…


 「…ほら、言わんこっちゃない…」


 若い衆が、呟く。


 …バカ!…


 …ホントは、アンタが、わざわざ私を振り返って、


 「…気を付けて下さい…」


 なんて、言うから、アンタの顔を見上げることになって、うっかり、階段に足をぶつけたんだ…


 ホントは、足をぶつけたのは、アンタのせいだ!


 と、絶叫したいとまでは言わないが、普通に言いたくなったが、さすがに、それはできない…


 なにしろ、私の身を心配して、言ってくれているのだ…


 自分の身を心配してくれているのに、その人間の悪口は言えない…


 当たり前のことだ…


 「…大丈夫ですか? …お嬢…」


 若い衆が、私を振り返って、心配そうに、声をかける。


 私は、全然大丈夫じゃなかったけど、


 「…大丈夫です…たいしたことじゃありません…このぐらいへっちゃらです…」


 と、笑顔で、返した…


 ホントは、泣きたいとまでは、言わないが、


 「…痛―い…痛―い…」


 と、周囲を駆け回りたいぐらい、痛かった…


 事実、自分の家でなら、その通りにして、家の中を走り回っただろう…


 私は、思った…


 しかし、なぜ、階段なのだろう?


 ふと、気付いた。


 当然のことながら、このビルにも、エレベーターはついている…


 それを使用すれば、いいのではないか?


 どうして、使わないのだろう?


 まさか、壊れているわけじゃあるまい?


 私は、その疑問を口にした。


 「…あの…どうして、エレベーターを使わないんですか?…」


 私の質問に、若い衆は、面食らったようだ…


 「…どうしてもって言われても…」


 若い衆は、もごもごと、口ごもる…


 「…実は、これは、組長の命令なんです…」


 「…稲葉さんの…」


 「…ハイ…今、自分と、大場代議士の関係が、世間に、取り沙汰されてる…だから、くれぐれも、目立った真似はするな…エレベーターも、使うな…このビルに入った他のテナントの方に迷惑になると…」


 「…迷惑?…」


 「…いっしょにエレベーターに乗って、嫌な思いでもされたら、困る…だから、誰にも顔を会わさないように、階段を使えって…」


 「…」


 私は、若い衆のあまりにも、予想外の言葉に面食らった…


 まさか、ヤクザが、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…


 「…どうして、稲葉さんは、そんなに、周囲に気を使うんですか?…」


 思わず、口にした。


 いや、


 出てしまった…


 「…オヤジの口癖なんです…」


 「…どんな口癖ですか?…」


 「…ヤクザは、周囲のひとたちと、うまくやらなければ、生きれない…」


 「…」


 私は、唖然とした…


 文字通り、唖然として、ポカンと、口を開いたままになった…


 自分でも、間抜けな顔になったのが、わかった…


 「…笑っちゃいますよね?…」


 私の唖然とした顔が、面白かったのかもしれない…


 わざと、私を和ませるように、言った…


 「…オレも、最初は、冗談かと思いましたよ…だって、ヤクザですよ…それにオヤジは、あの通り、人一倍ゴツイ顔をしている…でも、口に出す言葉は、いつも謙虚というか…あのオヤジが、調子に乗ってるのを、一度も見たことがないです…」


 若い衆が、楽しそうに言う。


 「…こう言っちゃなんですが、変な人ですよ…」


 と、付け加えた…


 が、その言葉とは裏腹に、妙に楽しそうだった…


 この若い衆が、心の底から、稲葉五郎を信頼しているのが、わかった…


 私が、そう考えていると、


 「…つまらないことを言って、スイマセン…」


 と、若い衆が詫びた…


 「…いえ…」


 私が返す。


 「…さあ、歩きましょう…事務所は、もうすぐです…」


 若い衆は言った…


 私は、その若い衆の背中を見ながら、後を追った…


 

 「…ここです…」


 若い衆が、ビルのテナントの一室の前で、立ち止まった…


 …ここが、稲葉一家の事務所…


 …ここが、ヤクザの事務所…


 以外と言うか、外から見る限りは、他のテナントとなにも変わったようには、見えなかった…


 私といっしょにいる若い衆は、自分のポケットから、鍵を取り出して、中に入ろうとした…


 私は、それを見て、もしかして、事務所の中には、誰もいないのかも? と、思った…


 今、テレビや週刊誌で、稲葉五郎と、大場代議士の関係が、取り沙汰されてる…


 だから、できれば、事務所の中には、誰もいないに限る…


 稲葉一家の事務所の周辺に取材の手が及ぶのが、わかっているからだ…


 だから、留守にするに限る…


 よくテレビで、映る山口組総本部のような大きな建物ではない…


 ただのビルの一室…


 ただのテナントに過ぎない…


 だから、そこにいる人間も少数…


 百人も二百人もいるわけはないからだ…


 だから、留守にすることができる…


 百人や二百人もいれば、そこで、寝泊りをする人間もいるに違いない…


 だから、留守=無人にできない…


 と、そこまで、考えたとき、


 「…お嬢…どうぞ…」


 と、いう、若い衆の声が聞こえた…


 目の前の若い衆が、ドアを開いて、私を招いた…


 私は、


 「…失礼します…」


 と、言って、中に入った…


 …やはり、人の気配がしない…


 私が、そう感じていると、


 「…今、ここには、誰もいないんです…」


 と、背中から、声が聞こえてきた…


 声の主は、当然のことながら、あの若い衆だった…


 「…だから、今、オレが当番で、事務所の鍵を預かってるんで…」


 と、そこまで言って、


 「…お嬢…中に入って、椅子にでも、座って、くつろいで下さい…なにか、飲み物でも、出します…」


 と、付け加えた。


 私は、とっさに、


 「…気を使わないで、下さい…」


 と、言いながら、稲葉一家の事務所の中に、足を踏み入れた…


 っていうか、進んだ…


 が、


 そこで、見た光景は、以外というか…


 まったくの普通の会社の一室だった…


 デスクがあり、椅子があり、デスクの上にパソコンが、置かれている…


 誰がどう見ても、普通の会社にしか、見えなかった…


 会社の一室にしか、見えなかった…


 ビルのテナントだから、どっかの会社の営業所か、なにかにしか、見えなかった…


 「…ビックリしたでしょ?…」


 私の背後から、若い衆の声がした…


 「…これが、ヤクザの事務所って、思ったでしょ?…」


 私が振り向くと、楽しそうに、若い衆が続ける。


 私が、なにも、言わないと、相手も困ると思ったので、黙って、コクンと、首を縦に振って、頷いた…


 本当は、この若い衆の言う通りだったが、やはり、ココは、ヤクザの事務所…


 そう、簡単に警戒心を解くわけには、いかなかった…


 用心するというか…


 なにしろ、今、この事務所には、私と、この若い衆の二人だけなのだ…


 しかも、この若い衆も、カラダが大柄…


 180㎝は、優にあるだろう…


 私を襲おうと思えば、容易くできる…


 160㎝の私では、抵抗できないに決まっている…


 「…でしょ? …でしょ?…」


 と、目の前の若い衆は、さっき会った当初から比べると、ウソのように、饒舌に言った…


 もしかしたら、本来は、おしゃべりなのかもしれない…


 ただ、私が、稲葉五郎が、お嬢、お嬢と、大事にしているので、気を使って、気安く、話しかけなかっただけかもしれない…


 私が、そう考えていると、目の前に


 「…ハイ…」


 と、ペットボトルのお茶を出した…


 「…お嬢…これを飲んで下さい…」


 …ペットボトルのお茶?…


 私は、面食らった…


 あまりにも、普通すぎるからだ…


 いや、


 私は、やはり、心のどこかで、普通に、カップや、湯飲み茶わんに入れた、コーヒーやお茶を想像していたのかもしれない…


 ヤクザ事務所にやって来て、ペットボトルのお茶を出されるとは、あまりにも、意外すぎたというか…


 私が、そう考えていると、


 「…オレも、お嬢のような、若い娘さんと、二人きりで、この事務所にいるのは、初めての経験だし…それに…」


 と、言って、言いよどんだ…


 私は、一体、どうしたのだろうと、思って、目の前の若い衆を見た…


 「…それに…」


 と、言って、続けた…


 「…オレは、ヤクザだし、ホントは、カップにインスタントコーヒーかなにかを入れて出そうかとも思ったけど、その中に、睡眠薬かなにを入れて、犯されるとか、お嬢に思われたら、困るし…」


 顔を真っ赤にして、説明する…


 …なるほど、そういうことか?…


 たしかに、カップならば、睡眠薬かなにかを入れることができるかもしれない…


 だが、封を切ってないペットボトルならば、それもできない…


 だから、わざわざ、ペットボトルのお茶を出したのか?


 今さらながら、そのわけがわかった…


 「…お嬢…座って下さい…」


 若い衆が、顔が真っ赤のまま、続ける…


 「…わかりました…」


 私は、言って、近くのデスクの椅子を引いて、それに座った…


 すると、目の前の若い衆が、


 「…実は、これは、オヤジの命令なんです…」


 と、口を開いた…


 「…稲葉さんの?…」


 「…ハイ…オヤジから、外から初めて、この事務所にやって来た人間には、ペットボトルとか、缶入りのコーヒーとかを出せと、いつも言われてるんです…ヤクザの事務所だから、飲み物に変なモノが入ってると、疑われでもしたら、困る…だから、なにも入れられない、市販のモノを出せと…」


 私は、目の前の若い衆の告白に仰天した…


 まさか、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…


 「…オヤジは、用心深いというか…周囲にめちゃくちゃ気を使うんで…」


 若い衆が、顔を真っ赤にして、言う。


 私は、その言葉を聞いて、あの稲葉五郎は、この若い衆に好かれていると、今さらながら、思った…


 この若い衆が、稲葉五郎について、語るときは、実に楽しそうだ…


 心の底から、信頼しているのが、わかった…


 私が、そう考えていると、目の前に、若い衆が、座った…


 そして、言った…


 「…お嬢…さっき、オヤジに連絡を入れました…」


 と…


 私は、仰天した…


 どう反応していいか、わからなかった…



 …オヤジに連絡を入れた?…


 …いつ?…


 …一体、いつ、連絡を取ったのだろう?…


 私は疑問だった…


 この若い衆が、稲葉五郎に連絡を入れてくれるのは、いい…


 ありがたい…


 しかし、一体、いつ、連絡を取ったのだろう?


 それが、謎だった…


 「…一体、いつ、稲葉さんに、連絡を取ったんですか?…」


 私は、訊いた。


 当然だ…


 いつ、連絡を取ったのか、どうしても、わからなかったからだ…


 「…さっき、このペットボトルを奥の冷蔵庫から、持ってきたときに、コレで、LINEで、連絡を入れておきました…」


 若い衆は、ポケットから、スマホを取り出して、見せた…


 私は、どう答えていいか、わからなかった…


 稲葉五郎に、連絡を取ってくれるのは、ありがたいが、LINEとは、思わなかった…


 いや、それを言えば、ヤクザがLINEを、使うとは、思わなかった…


 どうしても、ヤクザというと、失礼ながら、前近代的というか、古いイメージがある…


 それが、この事務所のように、近代的とまではいわないが、ごくありふれた、普通の会社のようなオフィスに、LINE…


 つまり、まったくの普通…


 ごくありふれた、生活というか…


 よく世間にありふれた、ヤクザのイメージと、真逆…


 真逆すぎて、怖いというか…


 平凡過ぎると、私は、思った…


 そして、思いながら、なにげなく、グルグルと部屋の中を見回した…


 すると、そこに、神棚を発見した…


 いや、発見したというと、大げさだが、見つけたというか…


 目の前の若い衆も、私の視線に気付いたらしい…


 「…お嬢…あの神棚が、気になりますか?…」


 と、私に聞いた…


 「…ハイ…」


 「…実は、オレも最初、気になりましたというか、ビックリしました…なんで、ヤクザの事務所に神棚なんだ? って…でも、どこの事務所でも、あるみたいですよ…」


 若い衆が、説明する。


 私は、そういうものかと、思った…


 たしかに、意味はわからないが、別にあって、嫌なものでも、なんでもない…


 変に、女のヌードポスターでも、貼ってあれば、やはり嫌悪するというか…


 軽蔑するというか…


 ヤクザ事務所で、当然、男ばかりの集団だから、若い娘のヌードポスターなのかと、思ってしまう…


 と、ここまで、考えて、ふと、目の前の若い衆の名前をまだ聞いてないことに、気付いた…


 「…あの…失礼ですが、お名前は?…」


 今さらながら、訊いた…


 ホントは、もっと早く、訊くべきだった…


 だが、すっかり忘れていた…


 「…名前? オレは、戸田と言います…」


 「…戸田…さん?…」


 「…戸口とかの戸に、田んぼの田です…」


 戸田と名乗った若い衆が説明する。


 「…あの失礼ですが、戸田さんは…大場さんとは、面識が…」


 と、口にした。


 いや、


 なんとなく、訊いてみたくなった…


 なぜなら、あの稲葉五郎は、今、大場の父である、大場小太郎代議士との関係が取り沙汰されてる…


 だったら、当然、この戸田と名乗った若い衆も、大場代議士と面識はあるに違いない…


 「…そりゃ、ありますが…」


 目の前の戸田の歯切れが悪かった…


 ある意味、当たり前だった…


 その大場代議士と、自分の組の組長である、稲葉五郎との関係が、世間を賑わせてるのだ…


 だが、私が、訊きたいのは、大場代議士のことではなかった…


 その娘のことが、訊きたかったのだ…


 「…だったら、その娘さんは?…」


 「…あっちゃんですか?…」


 「…あっちゃん?…」


 思わず、戸田の言葉を繰り返した…


 「…いえ、大場代議士のお嬢さんは、気さくで、いつも、自分のことを、あっちゃんと呼んでくれと、周囲の人間に話しているので…オレたちも例外じゃなく…」


 …あの大場が?…


 …ひとは、見かけによらない…


 …あの大場が、そこまで、気さくな人間とは、思わなかった…


 …いや、気が強いのは、わかっているが、そこまで、気さくとは、思わなかった…


 …たしかに、あの街中華の女将さんや、稲葉五郎は、あっちゃんと、呼んでいた…


 …しかし、それは、大場を子供の頃から知っているから、呼んでいた…


 …そう思っていた…


 しかし、この戸田という若い衆にも、そう呼ばせているということは…


 以外と言うか…


 有名な代議士の娘とは、思えない…


 私のような一般人からすれば、手の届かない、存在の大場が、そんなに気さくとは?


 私が、驚いていると、


 「…戦略だと思いますよ…」


 と、あっさり、戸田が言った…


 「…戦略って?…」


 「…代議士って、いつも選挙を意識するじゃないですか? だから、どんな人間にも、気さくというか、敵を作らないように、意識というか、配慮するじゃないですか? それだと思いますよ…」


 あっさりと、大場の狙いを喝破した…


 私は、そういうものかと思った…


 そして、それが、おそらく答えだろうとも思った…


 しかしながら、自分と同じくらいの年齢のヤクザの若い衆に、そんなにあっさり、自分の行動の真意を読み取られるのは、甘いと言うか…


 いや、


 甘くないのかもしれない…


 例え、自分の行動の真意を読み取られようと、やらなければ、ならないことがあるというか…


 代議士となると、どうしても、選挙がある…


 選挙に勝たなければ、ならない…


 すると、どうしても、人に好かれなければならない…


 当たり前だ…


 つまり、目の前の戸田という若い衆が、今言ったように、敵を作ることができない…


 だから、たとえ、ひとに好かれないまでも、嫌われることはできない…


 自分の選挙の当落は、有権者が決めるからだ…


 自分の選挙区の人間が、決めるからだ…


 その人間に嫌われるということは、当選できない…


 代議士を続けることができない、となる…


 だから、この戸田が、簡単に、大場の狙いを見透かそうと、自分から、気さくに接して、敵を作らない努力をしているのだろう…


 と、そこまで、考えて、あらためて、大場の立ち位置を考えた…


 いわゆる、代議士の娘という、立ち位置を考えた…


 素顔というか、私たちには、あれほど、強気のキャラクターを見せている、一方、身近な人間には、気さくなキャラクターを演じて見せる…


 大場の性格は、まだあまり接していないので、正確には、わからないが、少なくとも、生きている上で、他人には、窺い知れない苦労をしているのだろうと、思った…


 私なら、とても、耐えられない…


 ふと、そうも、思った…


 そして、尊敬した…


 自分には、とても、真似ができないからだ…


 そんな生活は、耐えられそうにないからだ…


 同時に、大場に同情した…


 そんな生活を続ける大場に、同情した…


 そして、気付いた…


 この戸田という、若い衆…


 稲葉五郎同様、ゴツイ見かけとは、裏腹に、案外使えるんじゃないか、と、気付いた…


 なぜなら、頭の回転が速い…


 今、大場の狙いを簡単に喝破したように、頭の回転が速い…


 頭の回転は、学校の成績とは、別…


 関係がない…


 東大を出ていようと、中卒だろうと、今、この戸田が気付いたことも、気付かない人間は気付かない…


 今、この戸田が喝破したことと、同じ真似が、できない…


 そもそも、そんなことに、関心がないからかもしれない…


 だが、それは、能力…


 勉強とは、違うが、他人の考えを、推し測る、立派な能力だ…


 それができない人間は、その能力に関して、劣っているということだ…


 そして、そこまで、考えて、稲葉五郎は、この戸田の能力を買っているのではないだろうか?


 ふと、思った…


 と、いうか、気付いた…


 考えた…


 あの稲葉五郎は、山田会の次期会長候補…


 あのゴツイ外観とは、裏腹に、頭が切れるに違いない…


 いや、


 頭が切れるに決まっている…


 そもそも、いくらケンカが強くても、頭が悪ければ、ひとの上に立てないからだ…


 稲葉一家を率いることが、できないに決まっている…


 そして、頭が切れる稲葉五郎は、当然、自分の近くに、頭の切れる人間を置くに決まっている…


 自分の手元に置くに決まっている…


 手元に置くことで、その人間の才能を伸ばすことができるからだ…


 あるいは、自分の後継者にすることが、できるからだ…


 私は、そんな思いで、この戸田という若い衆を見た…


 いや、


 見過ぎたのかもしれない…


 「…お嬢、一体、なにをジロジロ、オレの顔を見てるんですか?…」


 と、戸田が、戸惑ったように、訊いた…


 私は、一瞬、躊躇ったが、


 「…戸田さんって、頭がいいんですね…」


 と、言った。


 誰もが、褒められれば、嬉しいと思ったからだ…


 「…オレが、頭がいいん…ですか?…どうして、そんなことを…」


 目の前の戸田は、明らかに当惑した…


 「…いえ、私も大場さんを知ってますが、戸田さんがおっしゃるように、大場さんが、周囲に気安く接するのは、親しみやすいキャラクターを演じる戦略なんて、露ほども考えなかったので…」


 私の言葉に、


 「…」


 と、戸田は、唖然とした。


 言葉もなかった…


 それから、少しして、


 「…オヤジですよ…」


 と、戸田は言った…


 「…稲葉さん?…」


 「…オヤジの言葉の受け売りです…」


 戸田が、告白する。


 が、


 私は、それを信じなかった…


 いや、


 信じないのではない…


 仮に、戸田の言う言葉が、正しいとしても、この戸田が、使えない人間ならば、稲葉五郎が手元に置くはずがない…


 あらためて、そう思った…


 「…戸田さんは、稲葉さんが、好きなんですね?…」


 私は、言った。


 この戸田の稲葉五郎を語る、言葉一つ一つに、稲葉五郎に対する愛情を感じたと言うか…


 私の言葉に、戸田は、照れた様子だった…


 「…そりゃ、好きですよ…」


 戸田が答える。


 「…この稲葉一家で、オヤジを嫌いな人間なんて、誰一人いませんよ…みんな、オヤジを実のオヤジのように、慕ってます…」


 「…」


 「…オレも、そうだけど、オレみたいな年齢で、ヤクザをやってるヤツなんて、誰一人、まともな家庭の人間なんて、いや、しません…」


 「…まともな家庭って?…」


 「…要するに、母子家庭だったり、オヤジやオフクロが、結婚や離婚を繰り返していたり、働かなったり…みんな、まともじゃありません…」


 「…」


 「…だから、疑似家族なんです…」


 「…疑似家族って?…」


 「…ほら、ヤクザは、組長のことを、オヤジって、呼ぶでしょ? 本当の血の繋がった家族でも、なんでもないのに…年上の組員は、アニキと呼ぶし、この間、お嬢を杉崎実業に乗せて行ったでしょ? あの杉崎実業の実質的なオーナーは、高雄組で、組長のことは、オジキと、呼んでます…」


 「…オジキ? …ですか?…」


 「…ハイ…そうです…高雄組長は、ウチのオヤジの兄貴分…つまり、オヤジの兄貴だから、叔父貴です…」


 「…」


 私は、戸田の説明に唖然とした…


 いや、


 あ然ではない、納得した…


 たしかに、そう言われれば、わかる…


 納得する…


 なぜ、自分の所属する組の組長をオヤジと呼び、自分より年上の組員をアニキと、呼ぶのか、納得する…


 そして、高雄の父、高雄組組長を、なぜ、オジキと呼ぶのか、納得する…


 と、ここまで、考えて、気付いた…


 この戸田が、高雄の父親をオジキと呼ぶ以上は、当然、高雄の父と、この戸田は、面識があるに違いない…


 いや、


 あるに、決まっている…


 「…あの…失礼ですが?…」


 「…なんですか? …お嬢?…」


 「…戸田さんは、高雄組組長さんと、面識はあるんですか?…」


 「…そりゃ、ありますよ…」


 あっさりと、肯定した…


 「…だって、以前は、この事務所にも、よく顔を出しに来られましたもの…」


 「…この事務所に…ですか?…」


 「…オヤジは高雄のオジキと、昔から仲がいいんです…二人とも気が合うと言うか…傍から見ていても、仲がいいのは、わかります…」


 私は、その言葉で、以前、高雄の父親と会ったときに、高雄の父が、稲葉五郎を評して、


 「…いい男ですよ…」


 と、言ったのを、思い出した…


 あのときは、単純に、自分と、山田会の次期会長の座を争う人間だから、わざと持ち上げて見せたのかとも、思ったが、違った…


 現実に、高雄の父と、稲葉五郎は、仲が良かった…


 だから、


 「…いい男ですよ…」


 と、言ったのだろう…


 そして、


 「…はばかりながら、この私のライバルと呼ばれる男です…いい男でなければ、なりません…」


 と、高雄の父は、続けたが、それは、高雄の父の強烈な自負心と、あのときは、思ったが、それだけでは、なかったのだろう…


 現実に、稲葉五郎は、山田会有数の組を持つ、優れた経営者というか…


 やり手だと、認めていたのかもしれない…


 私は、あらためて、そう思った…


 だが、そんなに仲の良い二人が、山田会の次期会長の座を争うなんて…


 一体、二人の仲は、今、どうなのだろう?


 ずばり、気になった…


 だから、せっかくだから、戸田に聞いてみることにした(笑)…


 「…そんな仲の良い、二人が、山田会の次期会長の座を争って、この後、二人は…」


 私が、そこまで、言ったら、戸田が、私の発言を遮るように、


 「…うまくいくわけ、ないじゃないですか?…」


 と、大声を出した。


 「…漫画じゃないんです…だって、山田会の次期会長って、日本で、二番目に大きな暴力団ですよ…その座を巡って、争うなんて、シコリを残さないわけは、ないでしょう…」


 戸田が叫んだ…



 …シコリを残さないわけがない?…


 …シコリって?…


 凄い言葉だ…


 だが、確かに、言われてみれば、この戸田の言う通り…


 学校でも、会社でも、どんなに、仲の良い者同士でも、なにかを狙って、争えば、シコリが残る…


 私のような社会経験の乏しい女子大生では、いわゆるポストを狙って、争う例は、まだ見たことは、ないが、男に関しては、見たことがある(笑)…


 要するに、イケメンをゲットすることだ…


 仲のいい女のコ同士が、一人のイケメンを巡って、険悪な関係になり、やがて、口も利かなくなったことも、見たことがある…


 そして、それが、人間だ…


 やはり、一人のイケメンを狙って、争えば、人間関係は、険悪になる…


 負けた女が、その後も、イケメンをゲットした女のコと、仲良くするなんて、ありえない…


 あるとすれば、よほどのお人よしか、少々頭が弱いのではないか?と、疑ってしまう…


 そして、たかだか、イケメンをゲットするのさえ、そうだ…


 イケメンといえども、別に、日本中に知れたアイドルでもなんでもない…


 それを手に入れるか否かですら、人間関係は、険悪になる…


 まして、稲葉五郎と、高雄の父親は、山田会の会長の座を争っている…


 日本で、二番目に大きな暴力団のボスの座を争っている…


 だから、当然、そのシコリは大きいに違いない…


 あるいは、選挙の当選結果ではないが、どちらかが、大敗、あるいは、大勝すれば、話は、違うかもしれない…


 そもそも力が雲泥の差だからだ…


 その場合は、素直に諦めがつく…


 いや、稀には、諦めがつかない人間もいるだろうが、山田会の次期会長の座を巡る争いだ…


 そもそも、大敗して、自分の力がわからない人間が、周囲から、山田会の次期会長の座に推されることなど、ありえないだろう…


 ところが、実力が伯仲した場合は、余計に難しくなる…


 惜しくも、負けたとなると、余計に相手が恨めしくなる…


 だから、余計に人間関係が険悪になる…


 いや、険悪にならずとも、仲良くは、なくなるだろう…


 そして、今、この戸田が言ったように、シコリが残るに決まっている…


 私は、戸田の言葉から、そう考えた…


 そして、あらためて、この戸田が、やはり、優秀であると、思った…


 山田会の会長の座を巡って、争って、それが、終われば、以前のように、打ち解けた関係になる…


 何事もなかったように、なる…


 そんなわけはないと、気付いている…


 そう思った…


 だが、だったら、この戸田は、稲葉五郎が、負ければ、どうなると、思っているのだろう?…


 山田会の次期会長の座を巡って、高雄の父親に負ければ、どうなると思っているのだろう?


 ふと、訊いてみたくなった…


 「…あの…ひとつ、訊いていいですか?…」


 「…なんでしょうか? …お嬢?…」


 「…稲葉さんが、山田会の次期会長の座を巡って、高雄さんの父親に負ければ、どうなるんですか?…」


 私の質問に、目の前の戸田の表情が、変わった…


 文字通り、顔から、血の気が引いた…


 「…それは、わかりません…ただ…」


 「…ただ、なんですか?…」


 「…どっちが勝つにしろ、負けるにしろ、今まで通りというわけには、いかないでしょう…」


 戸田の歯切れが悪かった…


 顔色も悪かったが、歯切れも悪かった…


 お嬢と呼ばれた私が、訊いたから、仕方なく、答えた様子だった…


 と、


 そのときだった…


 いきなり、バタンとして、背後のドアが開いた…


 この部屋にいるのは、私と、戸田だけ…


 いきなりの、乱入者だった…


 私と、戸田は、ビックリして、バタンと音がしたドアを、反射的に見た…


 すると、そこには、大柄な中年男の姿があった…


稲葉五郎の姿があった…


 「…オヤジ…」


 戸田が、絶句する…


 稲葉五郎は、形相が、変わっていた…


 明らかに、怒っていた…


 怒髪天を突くという言葉があるが、それに近い表情だった…


 一変に、その場の空気が変わった…


 それまでの私と、戸田のまったりとした空気が一変した…

 

 稲葉五郎は、無言で、ツカツカと歩いて戸田に近付いた…


 戸田の形相が変わった…


 恐怖で、ビビった表情になった…


稲葉五郎は、いきなり、戸田の服の襟首を掴むと、平手で、思いっきり、戸田をぶん殴った…


 バーンという音がした…


 同時に、文字通り、戸田のカラダが、弾け飛んだ…


 まるで、人形かなにかのように、ぶっ飛んで、倒れた…


 私は、言葉もなく、唖然として、その光景を見守った…


 思わず、ガタガタと、カラダが震えた…


 恐怖のためだ…


 あらためて、ココが、ヤクザ事務所だと、実感した…


 「…戸田…テメエ…なぜ、お嬢を、この事務所に連れてきた?…」


 稲葉五郎が、怒りの表情で、戸田を問い詰めた…


 「…どうして、お嬢を、ヤクザ事務所なんかに、連れてきた?…」


 稲葉五郎が怒鳴った…


 床に倒れた戸田は、恐怖の表情で、稲葉五郎を見上げた…


 その顔からは、血が出ている…


 鼻血が出たのだ…


 「…堅気のお嬢を、どうして、連れてきたぁー?…」


 稲葉五郎が、咆哮する。


 まるで、トラかなにかが、怒鳴る…


 そんな迫力があった…


 私は、恐怖で、固まった…


 そして、今、初めて、稲葉五郎の真の姿を見た気がした…


 大物ヤクザ…稲葉五郎の真の姿を見た気がした…


 あまりの恐怖に、私は、ただただ、ガタガタと、全身を震わせた…


 椅子に座ったままだが、その椅子が、ガタガタと揺れた…


 貧乏ゆすりなどという、レベルではなかった…


 まるで、大きな地震がやって来たレベルだった…


 それほど、ガタガタと揺れた…


 恐怖で、揺れた…


 「…ス…ス…イマセン…」


 床に倒れた、戸田が、稲葉五郎にぶたれた頬を右手で、押さえながら、言った…


 「…実は、今日、偶然…お、お嬢と、この事務所の近くで、会って…は、話をしようということになって…週刊誌の記者とか、周辺にいるから、この事務所なら、目立たねえと…」


 「…ホントか?…」


 稲葉五郎が、鬼の形相で、戸田を、睨み付ける…


 「…テメエ、ウソを言ってんじゃねえだろうな…」


 「…ホ、ホントです…お嬢に聞いて、見て、ください…」


 戸田が、私を見て言った…


 私は、戸田の言う通りなので、


 「…ホ、ホント…です…」


 と、言わなければ、ならなかったが、できなかった…


 恐怖のあまり、ガチガチにカラダが固まっていた…


 まるで、瞬間冷凍したように、カラダが固まって、一分前の平常な姿とは、雲泥の差だった…


 カラダが動かなかったのだ…


 私は、ただ椅子に座ったまま、ガタガタと震えていた…


 そんな私を、稲葉五郎が見た…


 鬼のような形相で、見た…


 当たり前だ…


 今、この瞬間、戸田に激怒していたのだ…


 当然、怒ったままだ…


 ゴツイ顔だが、いつも、私に、


 「…お嬢…お嬢…」


 と語りかける、愛想のよい姿は、見る影もなかった…


 暴力団の幹部という、別の姿が、そこにあった…


 が、


 ブルブルと震える私を見て、稲葉五郎の態度が豹変した…


 文字通り、豹変した…


 まるで、私が、瞬時に、瞬間冷凍のようなガチガチの状態になったのと、同じ早さで、


 「…お嬢…なにが、あろうと、堅気の人間が、こんなヤクザ事務所なんかに、来てはいけません…」


 と、まるで、3歳の幼児に言うように、優しく言った…


 が、


 私は、恐怖で、カラダが、ガチガチに固まったままで、動かなかった…


 だから、


 「…わかりました…」


 ということもできなければ、黙って、首を縦に振って、了承することもできなかった…


 私は、ただただ怖かった…


 恐怖で、どんな言葉も、口から出てこなかった…


 当たり前だが、今さらながら、私は、自分が、暴力に弱いという事実を実感した…


 暴力に弱いという事実を目の当たりにした…


 思えば、そんな、竹下クミが、暴力団の事務所にやって来たこと自体が、ビックリする事態だったのだ…


 あっては、ならない事態だったのだ…


 私は、あらためて、そのことを思った…


 自覚した…


 「…お嬢…お帰り下さい…」


 稲葉五郎が、優しく、私に語りかける。


 「…ここは、お嬢のような方が、来るところではありません…」


 稲葉五郎は、丁寧な口調で、続ける…


 が、


 私は返事ができなかった…


 いまだ、恐怖のために、返事どころか、頷くことさえできなかった…


 が、


 そんな私に、どこまでも、稲葉五郎は優しかった…


 「…お嬢…ゆっくりで、いいんです…ゆっくりと、歩いて、この事務所から、出て行けば、いいんです…」


 と、子供に諭すように、言う…


 「…オレが、お嬢を怯えさせたから、悪いんです…ですが、これが、ヤクザです…ヤクザの日常です…だから、堅気のお嬢は、今後、この事務所に、一切来てはいけません…出入り禁止です…わかりましたか?」


 稲賀五郎が宣言した…


 そして、ようやく、その稲葉五郎の言葉に、わずかに、動き出した私の首が、コクンと、縦に振って、頷いた…


 「…ス…スイマセン…」


 私の背後で、戸田が、再び、謝った…


 「…ほ…本当に、も…申し訳ありませんでした…」


 床から、立ち上がった戸田が、稲葉五郎に深々と頭を下げた…


 「…もう、いい…」


 不機嫌そうに、稲葉五郎が、戸田に返す…


 「…それより、鼻血を拭いて、お嬢をお見送りしろ…なにか、間違いがあったら、困る…」


 …間違い?…


 …間違いって、一体、なんだ?…


 私は、考える。


 しかし、それを口にすることはできなかった…


 つい、今さっき、激怒した稲葉五郎に、それを聞くことはできなかった…


 いかに、優しく、私に接してくれても、それを聞くことはできなかった…


 「…わかりました…」


 代わりに、戸田の声がした…


 事務所に、響き渡った…


 

 それから、私は、戸田といっしょに、事務所を出た…


 正直、お互い、気まずかった…


 戸田に悪気はないが、私を事務所に招いたことで、結果的に、稲葉五郎に、叱責された…


 しかも、その叱責は、暴力を伴うものだった…


 考えてみれば、当たり前だ…


 稲葉五郎は、ヤクザの親分…


 戸田は、その子分だ…


 ヤクザが子分を叱るのに、暴力を伴わないことは、ありえないというか…


 ひどく、当たり前のことだった…


 「…戸田さん…申し訳ありません…」


 私は、戸田と並んで歩きながら、戸田に詫びた…


 「…痛かったでしょ?…」


 私は、大柄な戸田の顔を見上げながら、訊いた…


 「…いえ、たいしたことはありません…むしろ、お嬢のおかげで、ラッキーでした…」


 …私のおかげで、ラッキー?…


 どういう意味だろ?


 私が、不思議に思って、戸田の顔を見た…


 「…私のおかげで、ラッキーって?…」


 「…オヤジが本気で怒れば、あんなものじゃないですよ…」


 「…あんなものじゃない?…」


 「…今日は、お嬢が、見てるから、手加減してくれたんです…」


 「…私が見てるから?…」


 「…いくら、オヤジでも、お嬢が見てる前で、あれ以上は、できませんよ…」


 と、あっさり告白する。


 それから、


 「…いや、違うか? …お嬢がいたから、あんなに怒ったのかな?…」


 と、独り言のように、呟いた…


 …私がいたから、あんなに怒った?…


 …それは、やはり、堅気の私を事務所に招いたから?…


 私は、考える。


 私が、そんなふうに考えていると、


 「…今、オヤジは、ナーバスになってるんです…」


 「…ナーバス…ですか?…」


 「…オヤジが、大場代議士との関係を週刊誌にスクープされたでしょ? アレは、高雄のオジキの仕業じゃないかと疑ってるんです…」


 大場の父親と、稲葉五郎の関係を週刊誌に垂れ込んだのが、高雄の父親?


 一体、どうして?


 「…情報戦ですよ…」


 「…情報戦?…」


 「…山田会の次期会長の座…オヤジとオジキは、その座を巡って争っている…だから、互いに相手の足を引っ張ろうとしている…」


 私は驚いて、戸田の顔を見た…


 「…もちろん、オヤジは、オジキを信頼してますよ…昔から仲が良く、そんなことをする人間じゃないと、思ってる…だから、たぶん、オジキを推す人間が勝手にやったと思ってますが、やはり、内心もしかしたら?…という気持ちもあって…イライラしてたんです」


 戸田が説明する。


 「…それに…」


 言いづらそうに、戸田が言った。


 「…オヤジは、お嬢が心配なんだと思います…」


 「…私が心配?…」


 「…今、お嬢は、高雄のオジキの息子の悠(ゆう)さんと、親しい…そして、うちのオヤジとも親しい…見方によっては、どっちつかずというか…」


 戸田が、意外なことを、口にした…


 


 …この戸田の言い分を聞くと、まるで、私が、山田会の次期会長の座を決めるキーマンのような存在だ…


 …だが、一体、なぜ、そんなに私が、大切なのだろう?…


 …さっぱり、わからない…


 …聞いてみるか?…


 ふと、思った…


 なにより、この戸田は、話してみると、随分話しやすい…


 見かけは、稲葉五郎同様、ゴツイが、案外話しやすい…


 しかも、おしゃべりだ(笑)…


 おしゃべりだから、聞けば、答えてくれるだろう(笑)…


 「…あの…一体、なんで、稲葉さんも、高雄さんも、そんなに、私を大事にしてくれるんですか?…」


 私の直球の質問に、戸田は、明らかに戸惑った…


 どう答えていいか、わからない様子だった…


 「…私、さっぱり、わからないんです…」


 私は、正直に言った…


 私の質問に、戸田は、どう答えていいか、わからない様子だった…


 「…戸田さん…知っていれば、教えてくれませんか?…」


 私の質問に、戸田が、戸惑うのが、わかった…


 「…お嬢が、そう言うのは、わかりますが…」


 口を開いた、戸田の歯切れが悪かった…


 「…オレも見ての通り、下っ端なんで、詳しいことは、わかりません…ただ…」


 「…ただ、なんですか?…」


 「…お嬢もすでに知っているでしょうが、古賀会長が、死ぬ間際まで、お嬢を探していたのは、事実です…」


 「…」


 「…ヤクザっていうのは、現役がすべて、なんです…」


 「…現役?…どういう意味ですか?…」


 「…引退して、ヤクザを辞めたりすれば、一気に影響力がなくなる…それが、この世界の現実です…」


 戸田が、意外なことを口にした…


 「…ほら、会社でもなんでも、そうでしょ? 会社にいるときは、部長とか、取締役とかのお偉いさんでも、会社を辞めれば、ただの人…会社に影響力は、なにもなくなる…」


 「…」


 「…それと、同じです…」


 私は、戸田の言葉に考え込んだ…


 たしかに、そう言われれば、戸田の言うことは、わかる…


 だが、それは、サラリーマンだから…


 ヤクザもサラリーマンと同じなのだろうか?


 私は、その疑問を戸田にぶつけた…


 「…でも、それは、サラリーマンだから…ヤクザもいっしょなんですか?…」


 「…同じです…」


 戸田が即答する…


 「…どんなに大きな組織でも、ヤクザに基本的に世襲はありません…それは、ヤクザが実力社会だからです…器(うつわ)がなければ、上に上がれません…ただ…」


 「…ただ、なんですか?…」


 「…古賀会長の場合は例外というか?…」


 「…例外?…」


 「…古賀会長は、ヤクザ界の秀吉と言われた方で、圧倒的な存在感がありました…いわゆるヤクザ界のカリスマなんです…」


 「…カリスマ?…」


 「…古賀会長が、出向けば、どんな揉め事も一発で、収まる…そう言われたものです…他団体からも一目置かれていて、なにより、尊敬されてました…人望も抜群で、むやみに外に敵を作るようなこともなかったです。でも、いったん、抗争となれば、どこの団体とケンカしても負けない、誰もが憧れる、極道会のカリスマでした…だから、ホントなら、死んだ古賀会長に力はないんですが、古賀会長の置き土産というか…」


 そう言って、戸田は、私を見た…


 「…古賀会長が、死ぬ寸前まで、気にかけていたお嬢を、オヤジも、高雄のオジキも無下にはできないんです…」


 「…」


 「…それに、なにより、古賀会長が、死ぬ寸前まで、お嬢を探していたことは、ヤクザ界では、結構知られていて、見つかったお嬢を無視すれば、ヤクザ界の人間も白い目で見るでしょう…死んだ古賀会長の面子を潰すことにもなりかねません…あれほど、世話になった古賀会長の遺言も守れない人間となるわけです…これは、一般社会でも、変わりませんが、ヤクザは、一般人よりも、面子を気にします…だから、余計に、オヤジも、高雄のオジキも、お嬢を大事にしているんだと、思います…」


 戸田が、理路整然と説明する…


 たしかに、そう説明されれば、わかる…


 納得する…


 だが、本当にそれだけだろうか?


 私は、思った…


 と、同時に、大事なことを忘れていた…


 本当は、高雄悠(ゆう)と、連絡を取るために、あの稲葉五郎に会おうとしていたことを、今さらながら、思い出したのだ…


 …一体、どうしよう?…


 今度は、そのことが、急に不安になった…


 このままでは、大場に頼まれた用事を果たすことができなくなる…


 私が、そのことを、悩んでいると、


 「…どうしました? …お嬢…急に黙り込んで…」


 私は、一瞬悩んだが、


 「…実は…」


 と、言って、大場が私に、高雄悠(ゆう)と、連絡を取って欲しいと言ったことを告げた…


 いや、


 これは、前にも、この戸田と会ったときに、すでに告げたことだ…


 「…あっちゃんが、悠(ゆう)さんに、連絡?…なにか、裏がありそうですね?…」


 「…裏?…」


 思いもかけない言葉だった…


 「…どうして、裏があるんですか?…」


 「…それは…」


 戸田が、言いよどんだ…


 「…教えてください…」


 私は、強い口調で言った…


 すると、戸田が、観念したように、


 「…これは、オレの勘ですが、たぶん、あっちゃんは、悠(ゆう)さんの連絡先を知ってますよ…」


 「…エッ? ウソォ?…」


 思わず、そんな言葉が口を突いて出た…


 いや、気付いたら、言ってしまっていた(苦笑)…


 「…あっちゃんは、政治家の娘です…さっきも言ったように、誰とでも、うまくやることができる…だから、たしか、オレの記憶ですけど、悠(ゆう)さんとは、以前から、面識があると思いますよ…」


 私は、戸田の言葉に、文字通り、絶句した…


 「…」


 と、言葉もなかった…


 「…だったら…だったら、どうして、大場さんは、私に高雄さんに連絡を取ってだなんて…」


 私の質問というか、独り言に、戸田は、考え込んだ…


 それから、しばし、考えてから、


 「…お嬢を動かしたかったんじゃ…」


 と、これも、独り言のように、呟いた…


 「…私を動かしたかった? …どういうことですか?…」


 「…今、あっちゃんの父親の大場代議士と、うちのオヤジ、稲葉一家との関係が、世間を賑わせています…」


 …それは、わかってます…


 と、言いたかったが、黙っていた…


 「…でも、それと、私となんの関係が…」


 「…さっき、情報戦と、オレは、お嬢に言いましたね…」


 「…ハイ…」


 たしかに、この戸田は、情報戦と言った…


 「…あの情報戦と言うのは、イメージ戦略というか…大場代議士と、稲葉一家の関係を世間に暴露して、稲葉一家の面子を潰したわけです…」


 「…どうして、面子を潰したんですか?…」


 「…むずかしい言葉で言うと、守秘義務というか、大場代議士との関係が世間に出るのは、まずいでしょ? オヤジが、大場代議士と親しくても、それが、世間に知られることは、稲葉一家の面子を潰したことになるんです…」


 「…でも、それは、稲葉さんに、関係がないことじゃ…だって、稲葉さんが、暴露したわけじゃないでしょ?…」


 「…お嬢の言うことは、正論ですが、稲葉一家との関係を世間に暴露される、うちのオヤジにも、責任があると、ヤクザは考えます…」


 「…」


 「…オヤジに力があれば、そもそも、そんな真似を相手がするわけがないと、考えるからです…だって、そうでしょ? 相手が、大物ならば、そんな真似をすれば、どうなるか? 考えただけでも、怖いです…」


 「…」


 「…要するに、相手に舐められてるんです…だから、面子を潰されたんです…」


 戸田が、力を込める…


 たしかに、戸田の言うことは、わかる…

 

 相手が怖ければ、そもそも、そんな真似はできない…


 だから、わかっていても、そんな真似をされること自体が、自分が舐められていることになる…


 私は、思った…


 「…でも、それと、私となんの関係が?…」


 私は、またも言った…


 さっきも同じ言葉を口にしたが、稲葉五郎が舐められるのと、私が動き回るのと、一体なんの関係があるというのだろう?…


 「…あっちゃんの狙いは、おそらく山田会です…」


 「…山田会? どういう意味ですか?…」


 「…山田会の跡目争い…それを世間にクローズアップさせようとしているのかも…」


 「…それって、どういう…」


 「…お嬢は、あっちゃんに、悠(ゆう)さんに連絡を取って欲しいと、頼まれました…でも、お嬢は、悠(ゆう)さんと、連絡が取れない…だから、どうすれば、連絡が取れるか、考える…すると、うちのオヤジが出てくる…」


 「…」


 「…お嬢は、連絡を取るために、うちのオヤジと会う…すると、その情報が、山田会の主要メンバーに瞬く間に広がる…稲葉一家が、お嬢を囲い込んだというと、変ですが、古賀会長が大事にしろ!と、命じたお嬢が、ウチのオヤジの手元にあるわけです…」


 「…」


 「…そして、それが、知れれば、今度は、高雄のオジキが、お嬢を囲い込もうとする…それが、あっちゃんの狙いじゃ…」


 「…」


 「…いや、あっちゃんの狙いじゃない…父親の大場代議士の狙いかもしれない…」


 「…大場代議士の?…」


 「…高雄のオジキが、お嬢を囲い込もうとすれば、うちのオヤジも負けじと、お嬢を接待するでしょう…オヤジにその気がなくても、オヤジを山田会の次期会長に推す勢力が、そうしようと、言い出すに決まってます…その結果、どうしても、山田会の次期会長選びが、ヒートアップして、下手をすれば、内部抗争にもなりかねない…そうなれば、いつのまにか、大場代議士のことなんか、世間で、下火になる…そう考えてるんじゃ…」


 戸田が、ポツリポツリと、考えながら、話す…


 私は、戸田の言葉を、驚きを持って、訊いていた…


 まさか、たかが、私を、動かすことが、そんな騒動になるかもしれないと、考えたなんて…


 ありえない…


 ありえない、行動と言うか、考えというか…


 私は文字通り、唖然とした…


 大場が、私に高雄悠(ゆう)に、連絡を取って欲しいと、依頼したことが、実は、こんな騒動を起こすかもしれないなんて…


 考えもしない展開だった…


 しかも、大場がそれを狙っていたとは?


私は、唖然として、戸田を見た…


 戸田は、


 「…もちろん、今、オレがお嬢に言ったのは、オレの妄想というか…推測に過ぎません…でも、あっちゃん…いや、大場代議士は、それが狙いじゃ…」


 と、遠慮がちに言った…


 私は、ただ、


 「…」


 と、黙っていた…


 この戸田の話は、私の想像を遥かに超えていた…


 「…おそらく、あっちゃんの背後には、父親の大場代議士がいると思います…」


 戸田が繰り返す。


 たしかに、戸田の言うことは、わかる…


 もし、この戸田が言うように、私が動くことで、山田会がゴタゴタすれば、それが、週刊誌やテレビ、ネットに載り、世間の注目が、それに集中する…


 すると、いつのまにか、大場代議士と、稲葉一家の関係など、報道されなくなる…


 いつのまにか、世間の記憶から消える…


 そういうことだ…


 いや、


 世間の人々は、覚えているかもしれないが、もはや、誰も話題にしなくなる…


 ネットもテレビも週刊誌も、稲葉一家と大場代議士の関係の後追いをしなくなる…


 それが、もしかしたら、大場…いや、父親の大場代議士の狙い…


 と、ここまで、考えて気付いた…


 もしも、大場代議士が、そんな真似をする人間だと知っていて、どうして、稲葉五郎は、そんな人間と付き合ってきたんだろう?


 謎が残る…


 だから、私は、戸田に聞いた(笑)…


 「…戸田さん…聞いていいですか?…」


 「…なんですか? …お嬢?…」


 「…稲葉さんは、大場さんの父親が、そんな卑怯な真似をするかもしれない人間だとわかっていて、どうして、付き合ってるんですか?…」


 「…そりゃ、仕事だからです…」


 あっさりと、言った…


 「…仕事?…」


 「…会社に入れば、どんな嫌な人間でも、付き合わなきゃならないことって、あるじゃないですか? それと同じです…」


 「…同じ…」


 「…オヤジは、死んだ古賀会長の側近で、古賀会長が、大場代議士と親しかった縁で、その関係を引き継いだ…はっきり言って、持ちつ持たれつというか…ある意味、打算で付き合ってる部分があります…」


 「…」


 「…だから、相手に裏切られても、それも、仕方がないと、最初から腹をくくってる部分もあります…ただ…」


 「…ただ…なんですか?…」


 「…要するに、大場代議士にそんな真似をさせないように、すればいいんです…」


 戸田が、断言する。


 「…事実、オヤジは、そうすると、思います…ああ見えて、オヤジは、結構策士だから…」


 私は、戸田の言葉に、言葉もなかった…


 ただ、ただ、驚いた…


 この戸田の語ったこと、すべてが、私の理解を超えていた…


 と、ここまで、考えて、気付いた…


 さっき、稲葉五郎が、私と戸田を事務所から送り出すときに、言った言葉…


  「…それより、鼻血を拭いて、お嬢をお見送りしろ…なにか、間違いがあったら、困る…」


 あのとき、

 

 …間違い?…


 …間違いって、一体、なんだ?…


 と、思ったが、それは、もしかしたら、私の身の上を心配したのかもしれない…


 ふいに、そう思った…


 私が拉致されるというと、大げさだが、もしかしたら、高雄の父にさらわれると、思ったのかもしれない…


 ふいに、そう気付いた…


 この戸田が言うように、私が、死んだ古賀会長の探していた娘だと誤解している以上、高雄の父も、私を大事にするに決まっている…


 私を手に入れようとするに、決まっている…


 私を手に入れることで、山田会の次期会長の座を巡る争いに、有利になるからだ…


 しかし、それは、誤解だ…


 何度も言うように、私の親戚にヤクザはいない…


 どこを、どう探しても、ヤクザのヤの字も、親戚に一人もいなかった…


 すべては、誤解だった…


 そして、何度、誤解だと言っても、誰も私の言葉を信じなかった…


 誤解されながら、騒動の原因になる…


 ある意味、これ以上、辛いことはなかった…



 しかし、


 しかし、だ…


 この戸田の言うことは、わかる…


 理解できる…


 しかし、ふと疑問が残る…


 それは、高雄と大場の関係…


 なぜなら、私は、大場から、高雄悠(ゆう)に連絡を取ってくれと言われて、高雄に連絡を取ろうとした…


 だが、高雄の実家に電話をかけたが、高雄は不在…


 それゆえ、仕方なく、稲葉五郎の元に出向いた…


 いや、稲葉五郎と会うのは、怖かったから、あの街中華の女将さんの店に行った…


 つまりは、稲葉五郎の周辺に出向けば、高雄悠(ゆう)と、連絡が取れると、睨んだのだ…


 だが、今、冷静に考えてみると、一つの疑惑が浮上する…


 そもそも、私は、大場に頼まれ、高雄悠(ゆう)と、連絡を取ろうとして、それができないから、この稲葉一家の事務所の周辺にやって来た…


 逆に言えば、最初から、高雄悠(ゆう)と、連絡が取れれば、この稲葉一家の事務所の周辺にやって来なかったということだ…


 と、いうことは?


 と、いうことは、もしかしたら、最初から、大場と高雄悠(ゆう)は、グルの可能性がある…


 組んでいる可能性がある…


 最初から、高雄に私から連絡があった場合は、居留守を使うか、あるいは、連絡が取れないことを、あらかじめ、決めていて、それを実行した疑惑がある。


 私は、その可能性に気付いた…


 いや、可能性ではない…


 おそらく、事実に違いない…


 だが、


 そうだとしたら、どうだ?


 もし、高雄が、大場に協力したとする…


 そうすれば、自分の父親と、稲葉五郎の仲が険悪になる可能性が高い…


 それが、わかっていて、大場に協力するだろうか?


 いや、


 協力するかもしれない…


 以前、稲葉五郎は、高雄悠(ゆう)について、悠(ゆう)は、見た目と中身が違う…


 だから、警戒するように、と、私に忠告した…


 あのときの稲葉五郎の態度から、察するに、私を思って言っていたことが、わかった…


 見て取れた…


 それは、見せかけでもなんでもなく、心の底から、思ってる様子だった…


 誰もが、そうだが、口先だけで言っているのか、心の底から、心配して言っているのかは、わかるものだ…


 稲葉五郎は、心の底から、私のことを心配している様子だった…


 なぜだかは、わからない…


 私のことを、自分の娘か、あるいは、娘以上に、明らかに心配していた…


 やはり、それは、私が、死んだ古賀会長の探していた娘だと誤解しているせいだろうか?

 

 私は、思った…


 そして、やはり、疑惑の中心は、高雄になった…


 高雄悠(ゆう)になった…


 高雄は、どうして、父親に不利なことをするのだろうか?


 疑問が残る…


 高雄の目的は、一体なんだろうか?


 たしか、以前、林は、高雄の目的が、脱ヤクザだと言っていた…


 ハリウッドの映画、ゴッドファーザーを例に挙げ、高雄は、高雄組を土台に、いずれは、脱ヤクザを目指すようなことを言っていた…


 私は、それを聞いて、夢物語だと思った…


 空想というか、妄想と言うか…


 できもしない絵空事だと思った…


 映画と現実をはき違えていると思った…


 映画の中で、できたことと、現実は違う…


 そう思った…


 そして、考えた…


 高雄の父は、あの杉崎実業に投資した…


 いや、買収した…


 それを林は、脱ヤクザの第一歩だと評した…


 が、


 稲葉五郎は違った…


 あの杉崎実業は、ウチも狙っていたんだが、筋が悪いようなことを言った…


 筋が悪い=つまり、さまざまな勢力が入り組んでいて、手を出すのが、厄介というか…


 現に、林は、杉崎実業は、中国政府と繋がっているようなことを言っていた…


 だから、稲葉五郎は、杉崎実業の買収を考えたが、断念した…


 そして、高雄の父が、杉崎実業を買収したのを、


 「…よく、アニキは、あの会社に手を出した…」


 と、驚嘆としたというか、呆れたと言うか…


 ともかく、意外だと言ったように、呟いた…


 私は、それを思い出していた…


 いずれにしろ、高雄は、高雄の父親とも、違う…


 高雄の父の杉崎実業の乗っ取りは、要するに、金儲けだが、高雄の場合は、裏に別の思惑がありそうだ…


 あくまで、父親の力を借りて、いずれは、脱ヤクザを目指すようなことを言っていた…


 できもしない、夢物語を語っていた…


 私は、失礼ながら、そう思った…


 そう判断した…


 そして、それは、今も変わっていない…


 私は、この戸田の話を聞いて、今さらながら、高雄に不審を抱いた…


 一体、なにを考えているのか?


 なにを目指しているのかが、わからない…


 もしかしたら、自分の父親と、稲葉五郎が、抗争を起こしても、構わないのだろうか?


 自分の父親が、所属する暴力団の内部抗争の引き金を引いても、構わないのだろうか?


 私は、考える。


 そして、やはりというか、戸田を見た…


 やはり、戸田に聞くことにした(笑)…


 「…戸田さん…お聞きしてもいいでしょうか?…」


 「…なんですか? お嬢?…」


 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんを、戸田さんは、ご存じのようですが、どんな方なんですか?…」


 「…どんな方? …お嬢…なんで、オレにそんなことを聞くんですか?…」


 「…いえ、さっき、戸田さんは、大場さんが、私を動かすことで、稲葉さんと高雄さんのお父様が、反目し合うというか、仲が悪くなって、ケンカになるかもしれないと、おっしゃいました…」


 「…」


 「…ですが、そもそもの発端は、大場さんが、私に高雄悠(ゆう)さんに、連絡を取ってくれと、言って、高雄さんに、連絡が取れなかったのが、原因です…つまり、最初から、すんなり、高雄さんに、連絡が取れれば、私は、今日この場所にやって来ることもなければ、今こうして、戸田さんと話すこともなかったわけです…私が、今日ここにやって来たのは、街中華の女将さんに、稲葉さんの連絡先を聞いて、稲葉さんから、高雄悠(ゆう)さんの連絡先を聞こうと思ったからです…それで、この近くを歩いていたら、戸田さんに会って…」


 私は説明する。


 戸田は、私の話に考え込んだ…


 「…それは、つまり、あっちゃんと、悠(ゆう)さんが、グルってことでしょうか? 最初から、お嬢が悠(ゆう)さんに連絡を取ろうとしても、取れないように細工して、お嬢が、ここにやって来るように、仕向けた…」


 私は、戸田の言葉に、黙って首を縦に振って、頷いた…


 私が、戸田の言葉に、同意したのを見て、戸田が、考え込んだ…


 「…そんな…そんなことって?…」


 戸田が絶句する…


 「…初めから、高雄悠(ゆう)さんに、連絡が取れれば、私は、今日、ここにやって来ませんでした…」


 私は、ダメ押しをした…


 私の言葉に、戸田は、動揺した…


 どう対応していいか、わからない様子だった…


 私は、そんな戸田を見ながら、


 「…戸田さんの推測が正しいとしたら、私が動くことで、稲葉さんと高雄さんのお父様が、敵対する可能性が高いです…いえ、お二人とも、山田会の次期会長候補と言われているそうですから、どうしても、仲が悪くなる可能性が高い…でも、私が動けば、それに輪をかけて、険悪になる可能性が高いわけです…それが、わかっていて、どうして、悠(ゆう)さんは、大場さんに力を貸したのでしょう?…」


 私は、戸田に聞いた…


 いや、


 聞いたのではない…


 むしろ、自分自身に問うていた…


 …一体なぜ、自分の父親に不利になる行動をするのだろう…


 しかも、これは、選挙ではない…


 大場の父親のように、選挙に落選すれば、代議士ではなくなるが、殺されるわけではない…


 ところが、高雄の場合は、父親がヤクザ…


 下手をすれば、内部抗争が勃発して、父親が命を落とす可能性すらある…


 いや、大物ヤクザだから、命を取られる心配はないかもしれないが、それにしても、内部抗争は困るだろう…


 なにより、その結果、自分の父親がどうなるか、わからない…


 会社ではないが、抗争の結果、昇格ではなく、降格もあるかもしれない…


 つまり、今いる自分の地位よりも、はるかに、地位が下になる可能性すらあるわけだ…


 高雄は、当然、それが、わかっている…


 わかっていて、やっている…


 私を動かすことに、協力している…


 一体、高雄はなにを考えているのだろう?


 自分の父親が、窮地に陥る可能性すらある…


 そんなことに、どうして、手を貸したのだろう…


 いや、そもそも、それがわかってやっている以上、問題は、父親と高雄の関係だ…


 普通の父親と息子の関係ではないのかもしれない…


 私は、突然、思った…


 もしかしたら、憎悪というと、大げさだが、高雄は父親に対して、そんな感情があるのかもしれない…


 以前、高雄は、私に、子供の頃は、別の家庭で育ったと言っていた…


 途中で、今の家庭に移ったと…


 要するに、家庭環境が、複雑なのだろう…


 だが、だとしたら、どうだ?


 高雄が父親に対して持っている感情…


 おそらくは、反感が、父親に対して、あるに違いない…


 それを、父親が気付いていないはずはない…


 高雄組組長が気付いていないはずはない…


 高雄の父親は、息子が自分に対して、反感を抱いていることを、どう思っているだろう…


 そのときだった…


 ポツリと、戸田が、口を開いた…


 「…悠(ゆう)さんは、見かけとは違う…」


 私は、戸田の言葉に、慌てて、戸田を見返した…


 「…これは、オヤジが、時々、口にすることです…前にも、言いましたが、オヤジは、高雄のオジキと、昔から仲が良く、悠(ゆう)さんを、子供の頃から知っています…だから、悠(ゆう)さんが、どんな人間かをわかっている…」


 たしかに、この戸田が言うように、以前、稲葉五郎が、言いにくそうに、私に、


 「…悠(ゆう)は見かけとは違う…」


 と、忠告した…


 そして、この場合の見かけとは違うという言葉は、ネガティブな意味…


 なぜなら、高雄悠(ゆう)は、図書館や花屋が、似合うおとなしめの男子…


 そして、なにより、誠実そうな男子だからだ…


 それが、見かけとは違うということは、ずばり、陰険とか、性格が悪いということ…


 まさか、性格が悪いということは、言えないので、見かけとは、違うと婉曲に表現しているに過ぎない(笑)…


 これが、真逆に、見るからに性格が悪そうとか…陰険に見えて、


 「…悠(ゆう)は見かけとは違う…」


 と、言われれば、ポジティブというか、プラスの意味…


 要するに、見かけは、悪いが、中身はいいヤツだよ、となる…


 しかし、高雄悠(ゆう)の場合は、真逆…


 見かけは、誠実そうだが、中身は、腹黒いと言いたいのだろう…


 さすがに、そうは言えないから、稲葉五郎は、


 「…悠(ゆう)は見かけとは違う…」


 と、婉曲に表現したわけだ…


 私が、そんなことを、考えていると、


 「…お嬢…悠(ゆう)さんには、気を付けて下さい…」


 戸田が、いきなり、私に忠告した…


 私は、慌てて、戸田を見た…


 「…お嬢にこんなことを言うのは、差し出がましいことかもしれませんが、悠(ゆう)さんは、なにを考えているのか、わかりません…」


 「…なにを考えているか、わからない?…」


 「…ハイ…そして、なにを考えているか、わからない人間ほど、恐ろしいことはありません…」


 「…」


 「…ひとは、誰でも、なにを考えているか、わかれば、ある意味、安心できます…要するに、どんな人間か、わかるからです…ですが、真逆に、なにを考えているか、わからない人間は、恐ろしい…いきなり、こちらが、考えてもいないことをやらかすかもしれないからです…」


 戸田が、説明する。


 「…それが、悠(ゆう)さんの怖さです…」


 戸田が、ダメ押しをした…


 私は、戸田の言うことがわかった…


 戸田の言うことが、理解できた…


 …たしかに、なにを考えているか、わからない人間は、恐ろしい…


 …なにをしでかすか、わからないからだ…


 …いきなり、なにをやらかすか、わからない…


 …だから、こちらも対策の立てようがない…


 私が、ビックリして、ある意味、尊敬の眼差しで、戸田を見た…


 すると、戸田も私の尊敬の眼差しに気付いたのだろう…


 「…お嬢…そんな目で、オレを見ないでください…受け売りですよ、受け売り…」


 「…受け売り?…」


 「…オヤジの言葉の受け売りです…」


 「…稲葉さんの?…」


 「…オヤジは、高卒で、学はありませんが、間違いなく優秀です…コレは、悠(ゆう)さんに対してのオヤジの評価ですが、高雄のオジキにも、当てはまります…」


 「…高雄さんにも?…」


 「…ハイ…高雄のオジキが、杉崎実業を買収したのを知って、オヤジは、驚愕しました…オジキは、石橋を叩いて渡るタイプの男で、無茶はしない性格だと知っていたにもかかわらず、筋の悪い杉崎実業を買収しました…アレで、オヤジのオジキを見る目も変わりました…」


 そういえば、以前、稲葉五郎は、高雄の父親が、杉崎実業を買収したのを知って、


 「…アニキも勝負に出たな…」


 と、言っていたような記憶がある…


 アレは、単純に、山田会の次期会長を目指す上での勝負に出たというような言葉と、私は思っていたが、違っていたのかもしれない…


 今、この戸田が言うように、石橋を叩いて渡るような慎重な人間と思われた、高雄の父が、リスクのある会社を買収するような真似をしたことで、それまで、自分が、思っていた人間と、高雄の父が、違うと、感じたのかもしれない…


 …だから、余計に、高雄の父を怖いというか、警戒したのかもしれない…


 私は、思った…


 私がなにを考えてるか、もしかしたら、この戸田もわかったのかもしれない…


 「…オヤジが言いました…」


 突然、言った…


 「…なにをですか?…」


 「…やっぱり、アニキは、悠(ゆう)の父親…血は争えないって…」


 「…それって、なにをやり出すか、わからないっていう意味ですか?…」


 「…お嬢の言う通りです…」


 あっさり、戸田が、私の発言を肯定した…


 そして、その日、戸田は私が、電車に乗るのを、無事、見届けるように、私を駅のホームまで見送った…


 まるで、恋人同士の別れのようだった…


 戸田は、稲葉五郎の命令を忠実に守ったのだ…


 私を守ったのだ…


 それから、まもなくだった…


 テレビのニュースで、山田会の内部抗争が勃発したのを知った…



 …内部抗争が勃発した…


 …山田会の内部抗争が勃発した…


 私は、驚いたが、同時に、来るべきものが来た、とも、思った…


 内心、覚悟していたということだ…


 私は、ヤクザでもなんでもないのに、なぜか、今、山田会の内部事情というと、大げさだが、双方の会長候補と、知り合った…


 だから、気になったというか…


 本当ならば、暴力が大の苦手な、この竹下クミが、なぜか、暴力団の情勢に詳しくなったというか…


 これは、ある意味、これ以上、皮肉な展開はないというか…


 ありえないというか?…


 何度も言うように、暴力やヤンキーが大の苦手な竹下クミが、現役の暴力団の幹部と知り合ったのだ…


 これ以上、皮肉というか、因果と言うか…


 とにかく、ありえないことだった(笑)…


 テレビや新聞、ネット等で、報じられたニュースによると、山田会の下部の組織同士で、なにか、いざこざが起きたらしい…


 発砲というか、そんな大げさなことは、なかったが、要するに、どこか、街中の飲食店で、山田会の組員同士が揉めたらしい…


 山田会と言っても、互いに別組織の人間で、しかも間が悪いといっては、なんだが、その組員たちが、稲葉五郎を推す勢力と、高雄の父親を推す勢力に属していたということだ…


 単純に、組員同士の殴り合いから始まって、それが、導火線となり、双方の組員同士が、自分の組に応援を頼んだ…


 当然、応援を要請された組員は、人数をかき集めて、応援に向かう…


 それによって、一気に、その現場となった飲食店の周りに、山田会の組員同士が、100人を超えて、集まった…


 合計100人を超えるヤクザが、二手に分かれて、睨み合った…


 さすがに、それほどの大人数で、殴り合いとか、小競り合いをすることはなかったが、当たり前だが、大騒ぎになった…


 パトカーが数十台、サイレンを鳴らして、現場に急行した…


 実は、最初、飲食店の関係者だか、店のお客さんだかは、わからないが、警察に連絡して、近くの派出所の制服を着た警官が、二人、やって来たらしい…


 だが、すでに、そのときには、ヤクザが数十人規模に膨れ上がって、手が付けられない状態になっていた…


 警官二人は、見て見ぬふりをして、慌てて、現場から、立ち去り、警察署に応援を頼んだ…


 その結果、さらに、今度は、数十人規模の機動隊が、現場にやって来た…


 そして、その機動隊に見守られるように、その飲食店を中心に、山田会の組員同士が、百人を超える規模で、互いに睨み合った…


 言葉も暴力もなにもない…


 百人を超えるヤクザが、二つの勢力に分かれて、ただ睨み合った…


 そして、それを、さらに機動隊よりも遠巻きに、一般市民が、一体どうなるのだろう? と、固唾を飲んで見守っていた…


 そして、時間が、一時間、二時間と経った…


 経ち続けた…


 当たり前だが、その騒動は、山田会の、トップクラスの幹部にもすぐに、伝わった…


 さすがに、この騒動はまずいと判断した幹部は、すぐに、自分の系列のヤクザを、現場から撤収させることに、尽力した…


 命令を下した…


 それが、功を奏したのか、やがて、双方とも、蜘蛛の子を散らすように、現場から、いなくなった…


 と、それが、新聞や、テレビ、ネットが、報じた山田会の騒動の、顛末だった…


 内部抗争の勃発と言えば、言えるが、そこまで、大げさなものではない…


 結果で言えば、ただ大勢のヤクザが、二手に分かれて、睨み合ったに過ぎない…


 ただ、それだけのことだった(笑)…


 最初、殴り合いのケンカをしたヤクザたちは、警察にしょっぴかれたが、その後、どうなったのは、詳細は報じられてなかった…


 ただ、私が気になったのは、テレビやネット等で、同日、あの大場代議士の自宅に、発砲騒ぎがあったと、報じられたことだ…


 新聞に至っては、隅の方に、小さく載っていた…


 あの大場の父親、次期総理総裁候補の大場小太郎代議士の自宅に、拳銃の銃声らしきものが、響いた、と、大場の近所の家から警察に通報があった…


 その結果、検証に訪れた警官が、大場の自宅のクルマのガレージのシャッターに、拳銃の発砲された形跡を発見したらしい…


 私は、これを見て、稲葉五郎の仕業だと、直感した…


 気付いた…


 数日前、稲葉五郎の若い衆、戸田が、大場の父親の裏切りについて、

 

 「…要するに、大場代議士にそんな真似をさせないように、すればいいんです…」


 と、断言した…

 

 「…事実、オヤジは、そうすると、思います…ああ見えて、オヤジは、結構策士だから…」


 と、続けた…


 だから、それを実行したに違いない…


 なにしろ、発砲した場所が、クルマのガレージのシャッターだ…


 誰も、ケガをする者は、いない…


 警告として、考えれば、これ以上、最適な方法はない…


 私は、考える。


 しかし、内心、戸田が策士と、評した、稲葉五郎の行動が、大場代議士の自宅に拳銃を発砲するなんて、直接的すぎるというか…


 わかりやす過ぎる(笑)…


 策士と評したのだから、もっと、なにか、間接的に相手を脅すと言うか…


 そういう行動を取るものだと思った…


 いや、


 それでは、マズいのかもしれない…


 シャッターに発砲すれば、すぐに、誰がやったか、わかる…


 むしろ、それが、大事なのかもしれない…


 稲葉五郎からの警告だと、わからせるのが、大切なのかもしれない…


 そして、気付いた…


 今日、起こった、山田会の下部組織同士の争い…


 あの争いこそが、戸田の言う、策士の稲葉五郎の真骨頂だったのかもしれない…


 もしかしたら、稲葉五郎が、あの騒動を仕組んだのかもしれない…


 私は、ふいに思った…


 なぜなら、いきなり、大場代議士の自宅に、発砲騒ぎを起こしては、目立ちすぎる…


 何度も、言うように、大場代議士は、大物代議士…


 次期総理総裁候補の大物代議士だ…


 その自宅に発砲騒ぎが、あっては、どうしても、騒動になる…


 悪目立ち過ぎる…


 だとすれば、どうすればいいか?


 同じ時期に、もっと目立つ騒動を起こせばいい…


 そうすれば、世間の関心は、そっちに向かう…


 そう考えた可能性が高い…


 いや、


 事実、そう考えたに決まっている…


 そして、もし、そうだとすれば、戸田が言うように、あの稲葉五郎は、間違いなく策士…


 策士に違いない…


 大場代議士に警告はしなければ、ならないが、目立ち過ぎては、困る…


 かといって、目立たなくても、困る…


 だから、むしろ、新聞の隅に載るような扱いで、ちょうどいい…


 そう考えて、仕組んだ可能性が高い…


 同時に、あの戸田のことを思った…


 いや、戸田だけではない…


 あの稲葉五郎も、だ…


 あの二人がヤクザであることを、あらためて、実感した…


 稲葉五郎もそうだが、戸田もまた、私に対して、礼儀正しかった…


 数日前に、私を駅のプラットホームで見送る際には、深々と私に頭を下げるものだから、周囲の人間が、何事だろうと、私を訝しげに見たものだ…


 私は、恥ずかしくて、仕方がなかった…


 そんなことを他人にされるのは、初めての経験だった…


 なにより、私は、そんな真似をされる人間ではなかった…


 美人でも、金持ちでもない…


 どこにでもいる一般人だった…


 一般人の私、竹下クミが、そんなことを、されるなんて、恥ずかしいというか、あるいは、皮肉以外の何物でもなかった…


 平凡な竹下クミに、そんな真似をして、どういう反応を示すかの、皮肉しかなかった…


 ほめ殺しとも、言えた…


 私は、思った…



 平凡な日々に戻った…


 私にとって、平凡というのは、普通に大学に行き、普通に、コンビニで、バイトに精を出すことだった…


 店長の葉山が、


 「…竹下さん…久しぶりにシフトに入ったね…」


 と、言った…


 いや、皮肉を言ったのかもしれない…


 今年は、バタバタし過ぎて、コンビニのシフトに入れなかった…


 就活=就職活動で、忙しくて、バイトができなかったのだ…


 もちろん、葉山とて、そんな私の事情は、わかっている…


 百も承知だ…


 しかしながら、私の就活は、ちっとも、終わらなかった…


 十数年続いた就職氷河期が、終わり、ようやく、就活も、会社優位の買い手市場から、学生優位の売り手市場に変わったと、世間で、騒がれ出しても、私はちっとも、就職が決まらなかった(涙)…


 だから、当然、就活に明け暮れる…


 会社訪問に明け暮れる…


 当然、コンビニのシフトに入れない…


 バイトができない…


 ゆえに、葉山の目が厳しくなるのは、ある意味、当然だった…


 しかも、


 しかも、だ…


 ようやく、杉崎実業に内定したと思ったら、その杉崎実業は、暴力団のフロント企業で、私は、なぜか、その暴力団の関係者から、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、持ち上げられ、ちやほやされた…


 大事にされた…


 無論、周囲から、大事にされたのは、嬉しい…


 しかしながら、私が、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、持ち上げられたのは、誤解…


 人違いだ…


 いくら、それを説明しても、わかってもらえず、ちやほやされるのは、苦痛だった…


 と、同時に、もし、私が、人違いだとわかれば、どうなるのだろう?


 考えるだけで、恐ろしかった…


 なにしろ、相手はヤクザだ…


 そのヤクザが、これまで、



 「…お嬢…お嬢…」


 と、終始、私を持ち上げている…


 いくら、誤解だ、人違いだと言っても、信じない…


 だが、本当に、人違いだと分かれば、どうなるか?


 どう態度が豹変するか?


 考えるだけで、恐ろしい…


 恐ろしいのだ…


 私は、そんなことを思った…


 ここ数日、考え続けた…


 いや、


 考えてはならないと、一方では、思いつつ、もう一方で、考え続けた…


 一体、私が、稲葉五郎や高雄の父が、思い込んでいる、お嬢でないとわかれば、どうなるのだろう?


 殴られるのか?


 殺されるのか?


 それとも、私は女だから、ソープランドにでも、売られるのか?


 考えれば、考えるほど、恐ろしい…


 そんなことで、内心、恐怖で、震えていた…


 頭では、わかっていたことだが、これまで、あまり実感がなかったというか?


 どうしても、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、相手が、調子よく私を持ち上げてくれるものだから、その相手がヤクザであることを、忘れていた…


 いや、


 忘れていたわけではないが、相手がヤクザ…


 しかも、大物ヤクザであることを、意識しなかったのだ…


 もっといえば、わかっていたのだが、相手があまりにも、低姿勢で、私を持ち上げてくれるから、実感が湧かなかったというのが、正しい…


 しかし、今回、山田会の内部抗争を、テレビやネット、新聞で、見て、変わった…


 テレビや、ネット等を、見ると、そこに、高雄組や、稲葉一家の名前がある…


 私が、直(じか)に接した人たちの名前がある…


 これでは、恐怖を感じずには、いられなかった…


 あらためて、あの二人が、大物ヤクザであることが、わかった…


 実感した…


 身に染みたと言うか…


 あれから、色々考えた…


 どうして、私は、あの二人が、大物ヤクザだと、実感しなかったのだろうか?


 一つには、当たり前だが、あの二人が、あまりにも、低姿勢で、私に接するからだ…


 私が、亡くなった山田会の古賀前会長の探していた娘だと、誤解しているからだ…


 そして、もう一つは、失礼ながら、あの二人が、平凡だからだった…


 どうしても、ヤクザというと、昔の任侠映画を想像する…


 いわゆる、コワモテの人たちが、大声で、怒鳴り合って、抗争を繰り広げる…


 そんなイメージがある…


 だが、あの二人には、それがない…


 稲葉五郎は、たしかに、顔がコワモテだが、いつも私に低姿勢…


 片や、高雄組組長に至っては、長身で、どこか洗練された雰囲気があり、誰が見ても、上場会社の取締役かなにかのようだ…


 とても、ヤクザには、見えない…


 ヤクザには、見えないから、私は、恐れなかった…


 怖くなかった…


 それが、答えというか、真相だった…


 だが、ここ数日、それが変わった…


 激変した…


 山田会の内部抗争で、高雄組と稲葉一家の名前を二ユースで見て、考えを変えた…


 あらためた!…


 なにより、ニュースでは、高雄組と、稲葉一家の抗争と、はっきり、書かれていた…


 断言していた…


 山田会の次期会長を決める、内部抗争だと、はっきり断言していた…


 これでは、私に、恐怖を感じずにいろ、とうのは、無理…


 無理筋だ…


 考えれば、考えるほど、恐ろしい事態だった…


 そして、私が、今日、コンビニにバイトにやって来た理由…


 それは、そんな恐ろしい現実を忘れるためでもあった…


 仕事に限らず、スポーツでもなんでも、それに没頭すれば、忘れることができるからだ…


 忘れると言うよりも、仕事やスポーツに集中すれば、他のことを考える余裕がなくなるというか…


 少なくとも、それに集中している間は、高雄組や稲葉一家について、考える余裕はなくなる…


 そういうことだ(笑)…


 私は、それに気付いた…


 いや、


 最近、全然、コンビニのバイトで、シフトに入ってなかったから、罪滅ぼしといっては、なんだが、店長の葉山に悪いと思っていた気持ちも少なからずあった…


 つまり、そういうことだ(笑)…


 また、金の面もあった…


 やはり、自分の小遣いは、自分で稼がなくてはならない…


 これは、当然だった…


 私の家庭は、一般人…


 裕福でもなんでもない…


 だから、小遣いは、自分で稼ぐしかなかった…


 そんな諸々の事情が重なり、私は、慣れたコンビニの仕事に汗を流した…


 まるで、これまであった、出来事、すべてを忘れるべく、汗水たらして、働いた…


 すると、意外な人物が、店にやって来た…


                <続く>


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