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運命婚 白馬の王子様はヤクザ?  作者: トモサン


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運命婚 白馬の王子様はヤクザ? 5



 数日、悩み続けた私だったが、やはり、杉崎実業に呼ばれた日に、杉崎実業に、行くことにした…


 これは、本当に、悩みに、悩んだ…


 私の人生の中で、もっとも、悩んだ出来事といっても、いいのかもしれない…


 しかしながら、いかに悩んでも、結論は、いっしょ…


 杉崎実業に、入社するしかなかった…


 それ以外に、選択肢がなかった…


 すでに、これまで、何度も言ったように、今年の就活は、終わっている…


 だから、仮に杉崎実業に入社しない場合は、大学を留年して、来年、再び就活をするか、それとも、大学を卒業して、バイトを続けながら、就活をするしかない…


 それ以外の選択肢はない…


 そして、仮にそうしたとしても、来年、杉崎実業以上の会社に入社できるかどうかは、わからない…


 すると、どうだ?


 これまで、何度も、考えたように、杉崎実業に、入社するしかないという結論に達する…


 メリーゴーランドではないが、いくら、考えても、結果は同じ…


 同じ結論に達した…


 グルグルと、何度も、同じことを考え続けるが、いつも結果は、同じだった…


 だから、杉崎実業に行く、当日、私は覚悟を決めた…


 どう考えても、来年、杉崎実業に、入社するしかない…


 そう覚悟を決めて、家を出た…


 率直に言って、気が重かった…


 当たり前だ…


 杉崎実業は、東証一部上場の一流企業とはいえ、たぶん、ヤクザのフロント企業…


 しかも、同期入社予定の五人の女子の中で、私だけが、一番劣っている…


 こんなことを知って、落ち込まなければ、どうかしている…


 普通は、誰もが落ち込むものだ…


 誰もが、私の立場ならば、落ち込むものだ…


 私は、考える。


 その中で、数少ない光明というか、救いは、あの高雄悠(ゆう)の存在だった…


 あの爽やかな印象の、長身のイケメン…


 高雄の存在が、私の数少ない希望だった…


 しかしながら、先日、いきなり私に電話をかけてきて、私の都合など考えず、どうしても、一方的に私に会いたいと言い続ける、高雄の、我の強い性格を知って、私は、引いたというか…


 恋も冷めかけた…


 あの思いがけず、強引で、自分勝手な性格を知って、辟易したというか…


 冷静に考えれば、電話というのが、いけなったのかもしれない…


 姿を見せれば、違ったのかもしれない…


 今になってみれば、そう思う…


 高雄の武器は、あのルックス…


 父親が、高名なヤクザであるにも、かかわらず、その姿が、サラリーマンに近いのと、同じく、息子の悠(ゆう)もまた、長身で、爽やか…


 ヤクザのヤの字も、感じさせない…


 むしろ、ヤクザと真逆な爽やかで、優し気な雰囲気を持っている…


 そして、それが、長所というか、武器…


 高雄悠(ゆう)の持つ、武器だ…


 高雄悠(ゆう)を一目見れば、誰もが気に入る…


 老若男女を問わず、気に入るに違いない…


 私と同じく就活をする学生ならば、一発で、面接は、受かるに違いない…


 それほどの好印象の持ち主だ…


 頭の中身は、わからないが、印象だけならば、誰にも負けないに違いない…


 だから、あの日、電話ではなく、直接会って話せば、また違った展開になった可能性も大…


 大きい…


 あの長身の優しく爽やかなイケメンが、私に頭を下げて、頼めば、たぶん、断れない(涙)…


 高雄がなにも言わず、私をジッと見つめるだけで、私は高雄の言いなり…


 いや、私だけでなく、大抵の女のコは、私と同じく、高雄の言いなりに違いない(笑)…


 しかし、あの日は違った…


 高雄の姿を、私は直接、目にしなかった…


 だから、高雄の魔法というか、最大の武器…


 ルックスという最大の武器も私に通じなかったということだ…


 私は思った…


 何度も言うように、目の前に高雄本人がいれば、また違った…


 私のみなならず、大抵の女のコは、高雄の持つ、優しく爽やかな雰囲気に魅了されて、高雄の言いなりになったに違いない…


 当然のことながら、この竹下クミも例外ではない…


 私、竹下クミも例外ではないのだ…


 私は、決して、面食いではない…


 男を選ぶのに、ルックスを優先する女ではない…


 しかしながら、どうしても、高雄のようなイケメンを目の前にすると、弱いというか…


 はっきり言って、よほどの無茶ぶりというか、ありえない要求でもされない限り受け入れてしまいそうだ…


 そして、実を言えば、高雄自身が、自分の持つ優しく爽やかな雰囲気が、自分の持つ最大の武器であることをわかっている感じというか…


 実のところ、それが気に入らない…


 自分の持つ武器を最大限に生かしている…


 美人ならば、美人であることを、自分がなにより、わかっているからこそ、その美人であることを武器に、学校でも、会社でも、世の中を渡っていこうとする…


 その根性というか、性根が気に入らないというか…


 先日、姿を見せない、電話でのやり取りだから、わかったということかもしれない…


 高雄の本性がわかったのかもしれない…


 私は、考える。


 そんなことを考えながら、駅に向かって、私は、歩いた…


 最寄りの駅に向かって、黒いリクルートスーツに身を包んで、歩いた…


 髪は束ね、いつもよりは、真剣な表情…


 自分で言うのも、なんだが、真剣だ…


 どうしても、杉崎実業に向かうのが、本当は、苦痛なので、表情が真剣だった…


 そんなときだった…


 どこかで、プーッ、プーッと、クルマのクラクションを鳴らす音がした…


 随分、うるさいなと、思ったが、当然のことながら、私は、そのクルマを見なかった…


 私には、関係がないからだ…


 私は、キチンと信号を守って歩いていたし、路上を走るクルマの邪魔をしていたわけでもないからだ…


 だから、無視した…


 が、


 そのクラクションはしつこかった…


 おまけに、気のせいか、そのクラクションの音が、ドンドン私に近付いてくる気がした…


 私は、うるさいと思いながら、周囲を見ると、明らかに、周囲の人間が、私を見ていた…


 …どういうことだ?…


 私は、周囲の人間の反応を見る…


 と、ほぼ、同時に、


 「…お嬢…」


 という声が聞こえた…


 どこかで、聞いた声だ…


 が、


 私は、考えないことにした…


 考えると、嫌な予感と言うか…


 悪寒しかなかったからだ(涙)…


 私は、聞こえないフリをして、一直線に、歩いた…


 すると、背後から、もう一度、


 「…お嬢…」


 と、もっと大きな声がした…


 それでも、私は、無視した…


 嫌な予感マックスだった(涙)…


 すると、今度は、


 「…クミ、お嬢…」


 と、もっと大きな声で、私を呼んだ…


 それでも、私は無視しようとしたが、ダメだった…


 いや、


 無駄だったというべきか…


 いつのまにか、クルマが、私と並んで、走っていた…


 そして、あろうことか、あのヤクザ界のスター、稲葉五郎が、クルマから、身を乗り出して、私に声をかけてきた…


 いかに、私でも、この状況で、無視はできない…


 気付かないフリはできない…


 私は、足を止めて、


 「…ご無沙汰しています…」


 と、土下座せんばかりに、クルマに向かって、頭を下げた…


 そんな私に対しても、ヤクザ界のスターは、少しも気分を害した表情ではなかった…


 「…偶然ですね…お嬢、これから、どこに行くんですか?…」


 …偶然?…


 …ホントに、偶然か?…


 私の脳裏に、そんな思いが浮かんだ…


 …ホントに偶然、ココで会ったのか?…


 …ホントは、私を待ち伏せしていたんじゃないのか?…


 私の脳裏に、そんな言葉が次々浮かんでは消えたが、なにひとつ、言葉にはできなかった…


 なにしろ、相手は、ヤクザ界のスターだ…


 私が、なにか、一つでも、文句を言えば、なにをするか、わからない…


 あの大きなカラダで、怒り出せば、私など、簡単に、やられてしまう…


 大の男が、数人集まって、かからなければ、とても、このヤクザ界のスターには、勝てない…


 いや、大の男が数人がかりでも、このヤクザ界のスターには、勝てないだろう…


 なにしろ、誰が見ても、ヤクザだ…


 堅気ではない…


 まるで、虎かライオンのような、凶暴で、まがまがしい、雰囲気をしている…


 だから、ビビる…


 どんな男でも、ビビって、おいそれと、手が出せないからだ…


 そんなことを、考えながら、私が黙っていると、


 「…お嬢…よかったら、このクルマに乗りませんか? …どこに行くのか、知りませんが、送って行きますよ…」


 以外な、申し出だった…


 私は、慌てて、


 「…今日は、内定をもらった会社で、呼び出されたんです…」


 と、告げた。


 そうすれば、円満に、断れると、思ったからだ…


 「…内定をもらった会社? …ですか?…」


 「…そうです…この格好を見れば、おわかりになると、思います…」


 私は、黒いリクルートスーツに身を包んだ私の姿を見せつけるように、言った…


 稲葉五郎もまた、私の姿を見て、すぐに納得したようだ…


 当たり前だ…


 ヤクザといえども、日本国民…


 いや、日本国民でなくとも、日本に住んでいれば、普通は、私が今着ている黒いスーツが、リクルートスーツであることが、わかる…


 それぐらいの常識はあるに違いない…



 「…お嬢…失礼ながら、どこの、なんという会社ですか?…」


 稲葉五郎の質問に、私は、一瞬、悩んだが、


 「…杉崎実業と言う会社です…」


 と、正直に言った…


 一瞬、悩んだのは、会社の名前を言わなくても、あの大場が、同じ、杉崎実業の内定者…


 私が、言わずとも、あの大場の口から、わかるに違いないからだ…


 「…杉崎実業…」


 稲葉五郎は、そう言って、絶句した…


 それから、少しして、


 「…そう言えば、あっちゃんが、たしか、お嬢をオレに紹介したときに、杉崎実業に内定したとか、言ってた記憶が…」


 と、稲葉五郎が回想する。


 私もまた、たしか、あのときに、大場が、私を、この稲葉五郎に、紹介するときに、


 「…今度、杉崎実業にいっしょに入社する予定の竹下さん…」


 と、なんとか、言ったような気がしたことを、思い出した…


 「…だったら、お嬢…オレが、お嬢を、会社まで、送って行きますよ…」


 思いがけない言葉を、稲葉五郎が言った…


 「…いえ、とんでもありません…」


 私は、慌てて、断った…


 スマホの画面で、見るだけで、怖い、稲葉五郎だ…


 今は、まだ私に愛想よくしているが、いつ、私に向かって、牙を向くか、わからない…


 獣のような男だ…


 そんな男と、いっしょに、同じクルマに乗って、行くなんて、できるわけがない!


 できるわけはないのだ!


 私は思った…


 思わず、悪寒というか、恐怖で、カラダがガタガタと震えそうだった…


 それほど、怖かった…


 稲葉五郎の乗る、クルマは、ミニバンで、いわば、小さなバスと言うか…


 乗るのに、これほど、快適なクルマはない…


 事実、稲葉五郎が、私に、いっしょに、会社まで送ってゆくと言ったが、これが、稲葉五郎でなければ、私は、一も二もなく、承諾してしまうところだ…


 正直、歩いて、電車に乗って、杉崎実業に行くよりも、らくちんというか…


 楽で、快適だ…


 ただ、黙って、クルマに乗っていれば、目的地まで着く…


 これ以上、楽なことはない…


 杉崎実業の本社のある場所は、東京だが、華やかな地域ではない…郊外というわけではないが、いわゆる港区や新宿区のような都会ではない…


 だから、今いる場所から、稲葉五郎の乗るクルマに乗って、送ってもらっても、十二分に、時間までは間に合うだろう…


 そんなことも、考えた…


 しかし、やはり、稲葉五郎が、怖い…

 

 見るからに、ヤクザ以外の何者にも見えない稲葉五郎は、普通のひとにとっても、恐怖の対象…


 それが、まして、ヤンキーやヤクザが嫌いというか、苦手な、この竹下クミだ…


 怖いという言葉では、言いきれないほど、怖いというか…


 そもそも、そんなヤクザ者と、同じクルマに乗るなんて、ありえないというか、信じられない話だった…


 私が、そんなことを考えていると、


 「…お嬢…遠慮は無用です…」


 と、稲葉五郎が、ニコニコと、言う。


 「…え、遠慮なんかじゃありません…」


 私は、思わず、声を上げて、反論した…


 遠慮なんかじゃない!


 恐怖だと言ってやりたかった…


 しかし、言えなかった…


 ヤクザ界のスターを前にしては、そんな言葉は、言えるわけがなかった…


 私は、怖かったが、言うべきことだけは、言うことにした…


 ここで、黙っていると、いつのまにか、稲葉五郎に押し切られて、私は、ミニバンに乗らなければ、ならない事態になりそうだと、思ったからだ…


 すると、どうだ?


 稲葉五郎が、急に、


 「…お嬢…そんなにオレのことが嫌いですか?…」


 と、私に向かって、言った…


 泣きを入れたと言っても、いい…


 「…オレは、この通りの根っからのヤクザ者です…ですが、お嬢には、オレのことを…」


 と、まるで、ヤクザ界のスターが、私を口説くようなセリフを言った。


 御年50歳の、私の父親のような年齢で、しかも、ヤクザに関わらず、まだ22歳の、娘のような年齢の小娘に、泣きを入れたのだ…


 あまりに、意外な展開に、道行く人々が、何事かと、好奇の目で、私たちを見るのが、わかった…


 「…お嬢…オレは…」


 いかついカラダに、ごつい顔をした、ヤクザ者が、ミニバンの後部座席から、身を乗り出して、今にも泣きだしそうだった…


 道行く人々が、私と稲葉五郎を、交互に、見るのがわかった…


 私だって、私の立場でなければ、何事かと、好奇のまなざしで、私たちを見るだろう…


 ごつい顔をしたヤクザ者が、黒いリクルートスーツに身を包んだ女子大生に泣きを入れているのだ…


 見ようによっては、これ以上、面白い見世物は、なかったともいえる…


 私は、周囲の視線にたじろぎながら、どうしていいか、わからなかった…


 …一体、どうすればいい?…


 自分自身に問うた…


 …どこか隠れるところがないか?…


 考えた…


 …どこか、身を隠すところはないか?…


 このままでは、まるで、見世物だ…


 私は、慌てて、周囲を見た…


 周囲の視線から、逃れる場所は、なに一つない!


 いや、


 一つだけあった…


 だが、そこは…


 私は、しばし、悩んだが、周囲の視線から、逃れる場所は、そこしかなかった…


 …虎穴に入らずんば虎子を得ず…


 本当は、こんなときに使う言葉ではないけど、今の私は、それと同じ気持ちだった…


 「…わかりました…送ってください…」


 私は意を決して言った…


 周囲の好機の視線から、逃れることができる唯一の場所…


 それは、稲葉五郎が乗る、ミニバンの中だけだった(涙)…



 「…お、お嬢…」


 稲葉五郎が、嬉しさに、感涙するのが、わかった…


 「…やっと、オレの気持ちが、お嬢に…」


 ウソではなく、稲葉五郎のごつい顔から、涙が、こぼれるのが、見えた…


 「…やっと、お嬢がオレを認めて…」


 稲葉五郎の、ごつい顔から、涙がとめどなく、溢れる。


 …まさか、私が、稲葉五郎の乗るクルマにいっしょに乗るだけで、ここまで、嬉しがるとは、思わなかった…


 だから、少しばかり、感動したというか…


 いや、


 少しばかりどころではなく、感動した…


 誰もが、そうだろう…


 たかだか、いっしょのクルマに乗ることを了承するだけで、涙を流すほど、感動されることなど、誰もが、ないに違いない…


 …実は、この稲葉五郎という男は、案外悪い人間ではないのかも…


 そんな思いが、脳裏をかすめた…


 ヤクザとて、全員が悪人ではない…


 まして、この稲葉五郎は、ヤクザ界のスター…


 立派な稲葉一家の組長だ…


 管理職だ…


 ヤクザ界は、実力社会に決まっている…


 その中での、その地位だ…


 当然、人望もあり、配下の若い衆からも、慕われているに違いない…


 父が、言ったように、誰もが納得しなければ、組織の中で、上に上がるのは、難しいからだ…


 そんな思いが、私の脳裏をかすめた…


 その直後だった…


 「…なにを、とろとろやってんだ…てめえら…さっさと、クルマから、降りて、お嬢を、このクルマに乗せねえか!…」


 と、稲葉五郎が、怒鳴ったのだ…


 まるで、獣の咆哮のようだった…


 まるで、ライオンが、雄たけびを、上げるようだった…


 私の稲葉五郎に下した評価が、一瞬にして、覆った…


 …やはり、怖い…


 見る見る、私の足が恐怖にすくんだ…


 …やはり、いっしょにクルマに乗るのを、了承するのではなかった…


 だが、そんなことを、今さら言っても、後の祭り…


 後悔先に立たずというヤツだ…


 私は、今さらながら、思った…


 すると、路上に停めたクルマの運転席の横の助手席のドアが開いて、すぐに、若い衆が降りてきた…


 「…お嬢…申し訳ありません…」


 初対面にもかかわらず、平身低頭で、私に頭を下げた…


 そして、それから、稲葉五郎の乗る、ミニバンの後部座席のドアを開けた…


 ホントならば、稲葉五郎が自分で、後部座席のドアを開ければ、良いものだが、やはり、それでは、まずいのだろう…


 会社のお偉いさんと、同じだ…


 自分で、ドアを開ければ、良いだけだが、それでは、威厳が保てない…


 だから、わざわざ、部下に、ドアを開けさせる…


 例えば、従業員が一万人いる大企業で、社長が、自分で、コピー機の前で、コピーを取ることはできない…


 それでは、威厳がなくなるからだ…


 だから、自分付きの、秘書のお姉さんに、コピーを取ってもらう…


 それと、同じだ…


 私は思った…


 若い衆の手で、ミニバンの後部座席のドアが開いて、私は、


 「…失礼します…」


 と、言って、乗り込んだ…


 隣には、稲葉五郎…


 率直に言って、怖かった…


 目の前の稲葉五郎を見ると、ついさっき流した涙が、頬に残っている…


 しかしながら、同乗する、若い衆に、


 「…さっさとしねえか…」


 と、怒鳴る、稲葉五郎もまた、同じ稲葉五郎だった…


 たかだか、私といっしょに、クルマに乗るだけで、感動の涙を流す一方、配下の若い衆には、怒声を浴びせる…


 とても同じ人間には、見えなかった…


 とても、同一人物には、見えなかった…


 一人の人間が、まるで、ジキルとハイドのように、二面性を持っている…


 これは、怖いと言うか、面白いというか…


 ある意味、興味深かった…


 私は、そんなことを思った…


 目の前に、有名な役者がいるのと、ある意味、同じだ…


 自分が、内心、どう思おうが、泣いたり、笑ったり、瞬時に、切り替えることができる…


 まるで、スイッチを入れたように、どんな表情でも見せることができる…


 不意に、そんなことを思った…

 

 私が、そんな思いで、目の前のヤクザ界のスター、稲葉五郎を見ていると、


 「…お嬢、本当にありがとうございます…」


 と、ヤクザ界のスターが、丁寧に、私に頭を下げた…


 「…いえ…」


 私も、反射的に、稲葉五郎に頭を下げた…


 すると、その光景を見ている視線を感じたというか…


 運転席と助手席に乗る、二人の若い衆が、呆気に取られて、私と稲葉五郎を見ているのが、わかった…


 そして、その視線に気付いたのは、当然、私だけではなかった…


 稲葉五郎もまた、気付いていた…


 「…てめえら、なにを見てやがるんだ…さっさとクルマを出せ!…」


 またも、稲葉五郎が吼えた…


 おそらくは、稲葉五郎が、私に向けて涙を流したのを見られた、照れ隠しの意味もあるのだろう…


 獰猛な獅子のように、吼える…


 それを聞いた、ハンドルを握る若い衆は慌てて、クルマを発進させた…


 助手席の若い衆もまた、慌てて、私たちから、視線をはずした…


 稲葉五郎は、それで、安心したのだろう…


 少しばかり、表情が和らいだようだ…


 「…しかし、お嬢が、あの杉崎実業に入社とは…」


 クルマが走り出すと、稲葉五郎が口を開いた…


 「…あそこは、色々ゴタゴタして…」


 「…ゴタゴタ…ですか?…」


 私は、つい口に出してしまった…


 本当は、この稲葉五郎のようなヤクザ者は、怖いのだが、稲葉五郎は、私に優しい…


 だから、つい、聞いてしまった…


 本当ならば、ヤクザやヤンキーが大の苦手な私が、ヤクザ界の大物に、声をかけるなど、ありえない…


 できない芸当だった…


 「…あそこは、高雄の兄貴が、買い取って、色々、やってるんだけど、うまくいかないって話も漏れ聞こえてきてる…だから、兄貴もさじを投げかけたところに、息子の悠(ゆう)が、ボクにやらせてくれって、いうものだから、兄貴も、渋々というか…」


 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんを知ってるんですか?…」


 「…それは、兄貴の息子だから、オレも悠(ゆう)が小さいときから、知ってて…」


 稲葉五郎は、私が、高雄悠(ゆう)の話題に食いつくというか…いきなり、悠(ゆう)の話題を持ち出したから、驚いたようだ…


 「…お嬢…お嬢は、悠(ゆう)をご存じなんですか?…」


 「…ハイ…」


 私は、頷いた。


 「…杉崎実業の内定式に集まったときに、親会社の取締役として、やって来られて…」


 「…取締役として、やって来た…」


 私の言葉に、稲葉五郎が、驚いた…


 「…それで、私や、大場さんを含めた五人の女のコの中で、ボクは、この中の誰か一人と、結婚すると、宣言したんです…」


 「…けっ…結婚?…」


 稲葉五郎は、文字通り仰天した…


 驚天動地といえば、大げさだが、ビックリした顔で、私を見た…


 「…ゆ…ゆう…が…ですか?…」


 「…ハイ…」


 私は、頷いた…


 それから、稲葉五郎は、少しばかり、考え込んだ…


 わずかの間だが、無言で、考え込んで、宙を睨んだ…


 そして、口を開いたときは、


 「…悠(ゆう)も覚悟を決めてきたんだな…」


 と、ボソッと呟いた…


 「…覚悟…」


 「…そう…覚悟…」


 ポツリと呟く。


 私はなんの覚悟だか、聞きたかったが、聞けなかった…


 親子のように、歳の離れた、男のひとに、そんなことを簡単に聞けるほど、私は、図々しくない…


 なにより、どんなに、私に優しく接してくれても、稲葉五郎は、私がまだ知り合ってまもない人間…


 しかも、ヤクザ…


 大物ヤクザだ…


 そんな男に、私がアレコレ質問できるわけがなかった…


 私が、そう考えていると、


 「…お嬢…」


 と、稲葉五郎が、声をかけた…


 「…ハイ…」


 思わず、私は、返答した…


 というのも、稲葉五郎は、これまで、見たことのないほど、真剣な表情だったからだ…


 「…ここだけの話、悠(ゆう)には、悪いんだが、悠(ゆう)は見た目とは、違う…お嬢も悠(ゆう)の見た目に騙されないようにというと、大げさだが…」


 それだけ言うと、稲葉五郎は、口をつぐんだ…


 正直に言って、それが、稲葉五郎が、私に言える限界だったのだろう…


 そのときは、わからなかったが、後になって、わかった…


 誰もが、自分の置かれた立場がある…


 だから、口にできる言葉、口にできない言葉がある…


 稲葉五郎は、本来、口にすべき言葉というか、言ってはいけない言葉を、私に言ったというか…


 稲葉五郎が、私を好きなゆえに、自分でできる、ギリギリの言葉を私に投げたというか…


 後日、それがわかった…


 少なくとも、稲葉五郎が本気で、私を心配してくれているのが、わかった…


 誰もが、そうだが、自分以外の人間が、自分を本気で心配してくれているのか、それとも、言葉だけなのかは、なんとなく、わかるものだ…


 わからない人間もいるに違いないが、大方はわかる…


 むしろ、わからないのは、それを言った方…


 口にした方の人間だ…


 いかにも、心配するフリをしているが、それをされた人間は、どうせアイツは、口だけだからとか、単にポーズに過ぎないことを見透かされてる人間が多いものだ…


 単純に、言った方は、それに気付かないだけ…


 自分が、形だけ心配しているのを、相手が見透かしている現実に、気付かないだけだ…


 だが、眼前の稲葉五郎は違った…


 本気で、私を心配しているのが、わかった…


 おそらく、稲葉五郎が言うように、私が、亡くなった山田会の古賀会長の探していた娘だと勘違いしているからだろう…


 だから、ことのほか、私の身の上が心配なのだろう…


 私は、思った…


 そして、それ以上、気になったのは、今、稲葉五郎が言った、

 

「…あそこは、高雄の兄貴が、買い取って、色々、やってるんだけど、うまくいかないって話も漏れ聞こえてきてる…だから、兄貴もさじを投げかけたところに、息子の悠(ゆう)が、ボクにやらせてくれって、いうものだから、兄貴も、渋々というか…」


 という言葉だった…


 一体、どういう意味だろう…


 実に意味深な言葉だ…


 私は、悩んだが、直球で、


 「…あの…稲葉さん…稲葉さんがおっしゃった…杉崎実業を、高雄さんのお父様が買い取って、うまくいかないって、お話は、一体どういう…」


 と、聞いてしまった…


 本当ならば、こんな突っ込んだ話は、とても、昨日今日知り会った人間に聞ける話ではなかった…


 しかも、相手は、何度も言うように、高名なヤクザ…


 ヤクザ専門誌に載る、ヤクザ界のスターだ…


 しかしながら、初めて会ったときから、


 「…お嬢…お嬢…」


と、私を持ち上げてくれるから、つい気を許すというか…


本当は、怖くて、話もできない、いかついルックスの持ち主にもかかわらず、つい聞いてしまった…


が、私の質問は、やはり、してはいけない質問だったようだ…


私の質問に、眼前の稲葉五郎は、固まったというか…


明らかに、眉間に皺を寄せて、考え込んだ…


 それから、


 「…オレも、ちょっと口が軽いというか…つい、お嬢だから…心配で、言っちまったが…」


 と、前置きした上で、


 「…あの杉崎実業は、わけありなんだ…」


 と、言った。


 「…わけあり?…どういう意味ですか?…」


 「…あそこは、さまざまな権利関係と言うか、とにかく、色々な勢力が入り組んでいる…あっちゃんもそうだが、親父の大場小太郎代議士の肝入りで、あの杉崎実業に入社した…アレは、言葉を変えれば、それほど、あの杉崎実業に、うま味というか…」


 そこまで言って、稲葉五郎は、口を閉じた…


 それ以上は、口にできなかったのかもしれない…


 「…正直、うちも狙ってたんだが、手を出すのは止めた…競争相手も多いし、なにより、リスクがあり過ぎる…」


 稲葉五郎が断言する。


 「…だから、正直に言って、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したときは、オレもちょっと意外というか…兄貴は、何事にも慎重で、リスクは取らない性格というか…別の意味で言えば、勝負に出たのかなと思った…」


 「…勝負? …なんの勝負ですか?…」


 「…山田会の次期会長の座をゲットする勝負です…」


 稲葉五郎が、ドスの効いた声で、言った…


 「…山田会の次期会長の座…」


 私は、小さな声で呟いた…


 言われてみれば、当たり前のことだった…


 高雄の父親と、この稲葉五郎は、山田会の次期会長の座を争っている…


 それは、私も随分前から、知っていた事実だ…


 私が、そんなことを、考えていると、


 「…お嬢、どんなことも、リスクのないことなんて、この世の中にありません…」


 と、いきなり、稲葉五郎が言った…


 「…高雄の兄貴は、それを承知で、勝負に出て、オレは、勝負に出なかった…だけど、勝負に出たから、勝つかどうかはわからないし、勝負に出なかったオレが、負けるとも決まってません…」


 「…」


 「…どんなことにも、リスクが生じるものです…お嬢も、いずれ、結婚するでしょう…そのときに、当然、その男と一生添い遂げたいと思うでしょう…だけど、その男が、外に女を作ったり、あるいは、今の世の中、リストラされて、離婚する可能性も大きい…だったら、もしかしたら、別の男と結婚すれば、良かったのかと悩んでも、仕方がない…その男と結婚しても、不倫やリストラはあるかもしれない…だから、相手を選ぶ上で、リスクは、避けられない…」


 稲葉五郎が、考えながら、ゆっくりと、言った…


 私は稲葉五郎の言うことが、よくわかった…


 どんなことにも、リスクはある…


 避けられない…


 なにより、うま味があれば、あるほど、リスクというか、賭けの部分が多くなる…


 ギャンブルの要素が大きくなる…


 株で言えば、ハイリスク、ハイリターン…


 儲かれば、デカいが、元金を大きく減らす可能性も高い…


 危険があれば、あるほど、儲かる可能性が高いということだ…


 だから、下手をすれば、一文無しになる可能性もあるということだ…


 「…お嬢…どんなことにも、リスクは避けられません…」


 稲葉五郎が、もう一度繰り返した…


 しかし、それは、私に言うというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせている感じだった…



 …どんなことにも、リスクがある…


 私は、心の中で、稲葉五郎の言葉を繰り返した…


 今、稲葉五郎が言ったのは、一般論ではない…


 事実、杉崎実業を買収するか、しないかで、悩んだと、稲葉五郎は言った…


 なにより、杉崎実業には、買収する、うま味があるのだろう…


 しかし、リスクがある…


 そのリスクを考えて、稲葉五郎は、杉崎実業の買収に手を挙げなかった…


 片や、高雄の父は、それを承知で、杉崎実業を買収した…


 儲かる可能性が高いからだ…


 そして、おそらくは、高雄の父親も、この稲葉五郎も、来たるべき、山田会の次期会長の座を狙って、動いていたのでは? と、思った…


 山田会は、大きな組織…


 それを束ねるには、大きな資金が必要に違いない…


 その資金を確保するために、高雄の父は、杉崎実業を買収したに違いない…


 私は、そう思った…


 なにより、この稲葉五郎が、高雄の父を評して、


 「…だから、正直に言って、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したときは、オレもちょっと意外というか…兄貴は、何事にも慎重で、リスクは取らない性格というか…別の意味で言えば、勝負に出たのかなと思った…」


 そして、私が、


 「…勝負? …なんの勝負ですか?…」


 と、聞くと、


 「…山田会の次期会長の座をゲットする勝負です…」


 稲葉五郎が、ドスの効いた声で、言った…


 これが、すべてだろう…


 たしかに、あの杉崎実業は、おかしいというか、不思議だ…


 あの次期総理総裁候補にも挙がる大場小太郎代議士の娘が入社したり、あの大金持ちのお嬢様の林が、入社したりして、普通ではない…


 魑魅魍魎の類いと言えば、大げさだが、政治家の娘から、大金持ち…そして、ヤクザまでもが、巣くっているというか…


 どう考えても、まともではない…


 普通ではない…


 私は、考える。


 と、そこまで、考えて、ふと気付いた…


 この稲葉五郎は、ヤクザ界のスターと持ち上げられ、事実、いかつい顔に、大きなカラダを持って、いかにも、ケンカの強そうなヤクザ者だ…


 しかし、今、杉崎実業の買収について、まるで、経済評論家のような見立てといおうか、意見を口にした…


 なにより、オレも、杉崎実業を買収しようとしたが、止めたと、言った…


 と、なると、やはり、ただのヤクザ者ではない…


 ただのケンカに強いヤクザ者ではない…


 …経済ヤクザ?…


 私の脳裏に、ふいに、そんな言葉が浮かんだ…


 そんなことを、考えていると、


 「…お嬢…一体なにを考えてるんです?…」


 と、稲葉五郎が、優しく私に声をかけた。


 私は、慌てて、稲葉五郎の顔を見た…


 稲葉五郎は、ごつい顔だが、なぜか、ニッコリと、私に優しく微笑んでる。


 だから、私も、つい気を許して、


 「…いえ、高雄さんのお父様と、一度お会いしたことがありますが、サラリーマンのような穏やかな方で、杉崎実業の買収をされたと聞いても、驚かないんですが、稲葉さんは…」


 と、そこまで、言って、これ以上は、マズいと判断した…


 明らかに、稲葉五郎の顔色が変わったのだ…


 私は、恐怖した…


 私もまた稲葉五郎同様、顔色が変わった…


 しかし、これは、稲葉五郎と違って、恐怖のためだ…


 そして、稲葉五郎の場合は、明らかに、怒りのためだった…


 私が、高雄の父親が、サラリーマンのような方だから、杉崎実業を買収しても、驚かないが、稲葉さんは…


 と、言ったのを、聞いて、プライドを傷つけられたに違いない…


 稲葉五郎は、誰が、どう見ても、ただのヤクザ者…


 しかしながら、稲葉五郎自身は、その評価は、不本意なのかもしれない…


 だが、私が、恐怖で、引きつった顔を見せたことで、稲葉五郎は、自分の感情を抑えることができた…


 見る見る、表情が、穏やかに、変化した…


 それから、すぐに、


 「…お嬢…怖がらせて、スイマセン…」


 と、私に詫びた…


 「…自分でも、いい歳をして、大人げないと思うんですが、つい自分のことを、昔ながらのヤクザ者と言われると、頭にくるというか…」


 「…」


 「…いや、ヤクザ者は、ヤクザ者に間違いはないんですが、結構、この業界も変わってきて…要するに、金儲けができない人間は、ダメなわけです…」


 「…金儲け…」


 「…ハイ…金儲けです…」


 稲葉五郎が、即答する。


 「…オレも、高雄の兄貴も同じですが、ヤクザといっても、食わなきゃいけません…まして、オレや高雄の兄貴のように一家を張れば、自分の配下の面倒をみなければ、なりません…会社を経営するのと、同じです…」


 「…会社を経営するのと、同じ…」


 「…その通りです…よく芸能人が、それまでいたプロダクションから独立して、個人事務所を立ち上げるでしょ? それと似ています…オレらの業界も、なになに組にいるときは、幹部クラスなら、話は別ですが、下っ端でいれば、飯は食わせてもらえます…ただ、上の言う通りに動けばいい…だけど、自分が独立して、組を持てば、当然、配下の人間を食わせていかなきゃいけなくなる…芸能人も同じでしょ? 大手のプロダクションにいるときは、自分についているマネージャーも当然、プロダクションの所属ですから、自分が、マネージャーの給与を出すわけではない…でも、独立すれば、自分が経営者になるわけだから、自分の稼ぎから、マネージャーの給与も出さなければ、ならない…マネージャーだけじゃない、事務所の事務員、その他諸々の給与を稼ぎ出さなければならない…それと同じです…」


 稲葉五郎が理路整然と説明する。


 私は、稲葉五郎の言うことが、よくわかった…


 と、同時に、やはり、バカでは、ヤクザとて、上に上がれない…


 いや、


 むしろ、ヤクザだから、上に上がれないのでは? と、考えた。


 ヤクザは実力社会…


 下っ端でいるときは、ただケンカが強ければ、いい…


 だが、上に上がれば、上がるほど、経営能力といおうか、金を稼ぐ才能が必要になる…


 ヤクザ映画ではないのだから、そう滅多にヤクザ同士の抗争なんて、あるわけがない…


 あるのは、日常…


 昨日と同じ、平凡というか、平穏な日常に他ならない…


 むしろ、抗争があるのが、異常というか、非日常だろう…


 これは、例えば、ボクシングでも、相撲でも同じ…


 いわゆる、本番と言うか、試合がある日は、滅多になく、普段は、ジムや相撲部屋で、練習や稽古をしてるだけ…


 そして、それが、日常であり、試合がある日が、非日常となる…


 それと同じだろう…


 私は、思った…


 「…お嬢は、オレを見て、根っからのヤクザ者と思ったのかもしれませんが、オレとて、チャカを持って、修羅場をくぐったのは、それほど多くありません…」


 稲葉五郎が、以外なことを言った…


 「…ヤクザ映画じゃありません…他団体との抗争なんて、滅多にあるものじゃありませんし、仮にあったとしても、上にいる人間は、現場に出ることは、ありません…」


 「…現場に出ることはない? どういう意味ですか?…」


 「…ほら、戦争に例えれば、上にいる人間は、司令官です…参謀本部に所属していると、考えればいい…参謀本部だから、地図を広げて、あれこれ、作戦を考えるだけ…実際の戦闘は、現場の人間がやります…」


 稲葉五郎が、いかつい顔に似合わず、意外なことを言った…


 「…この世界に入った人間は、大昔は、ヤクザ映画に憧れて、入ってきた人間が多かったです…でも、入ってみて、すぐに映画と現実のヤクザ社会は違うと、誰もがわかった…でも、だからといって、すぐにやめることはできない…だから、オレもこの歳まで、続けてきた…それが、現実です…高雄の兄貴も同じでしょう…」


 「…」


 「…まあ、オレも高雄の兄貴もたまたま、この業界に適性というか、自分で言うのも、なんだけど、周囲の評価が高かった…それも大きいと思う…」


 稲葉五郎が、照れたように、言った…


 そして、続けた…


 「…でも、今の時代は、これまでとは、また違って、変化が激しい…だから、ヤクザを続けるのであれ、続けないのであれ、常に、周囲の動きを読むというか…」


 稲葉五郎が、続ける。


 そして、稲葉五郎が、チラリと、前の座席座る、二人の若い衆に、視線を送るのを見た…


 それで、私も、ようやく気付いた…


 私は、ここまで、話して、ようやく、稲葉五郎が、私でなく、このミニバンを運転する若い衆と、その隣に座った、若い衆に、語っていることがわかった…


 おそらくは、私との会話にかこつけて、若い衆に、教えているのだろう…


 自分の体験を、話しているのだろう…


 誰もがそうだが、自分の体験ほど、身になるものはない…


 どんな、高尚な理論もなにも、自分が体験したことには、叶わないというか…


 要するに、血肉にならないのだ…


 自分が体験したからこそ、説得力を持って、他人に語ることができる…


 失礼ながら、ヤクザの場合は、わかりやすいのは、刑務所の体験だろう…


 いかに、刑務所の生活が過酷なものか、身をもって体験したからこそ、切々と、他人に語ることができる…


 なにより、体験したからこそ、話に説得力がある…


 そして、なにより、この稲葉五郎という男は、身内思いというか、優しいのだろう…


 私に話すフリをして、自分の若い衆に、自分の体験を語っている…


 そのごつく、いかつい顔にかかわらず、案外性根が、優しいのかもしれない…


 私は、ふと、思った…


 いや、なにより、それが、事実だろう…


 そして、案外、自分の下の者から、慕われているのでは? と、気付いた…


 私に話すフリをして、うまく、自分の若い衆に、自分の体験を聞かせている…


 若い衆もバカでなければ、稲葉五郎が、自分たちに、話して聞かせているのが、わかるに違いない…


 なにより、気配りができている…


 稲葉五郎の言葉は乱暴だが、自分たちのことを、大切に思っているのが、わかるに違いない…


 そう考えれば、稲葉五郎のことを、嫌いになれない…


 誰もが、そうだが、自分を大切に思ってくれる人間を、嫌いになれないからだ…


 私は、考える。


 「…お嬢…」


 と、稲葉五郎が、いきなり、私に声をかけたことで、私の思考が停止した…


 「…なんでしょうか?…」


 私は、尋ねる。


 そして、やはり、顔を見て話さなければ、稲葉五郎に失礼だと思い、稲葉五郎の顔を見た…


 稲葉五郎は、私の顔を見て、これまでと、同じように、ニッコリと、微笑んだ…


 いや、


 これまで以上に、ニッコリと、優しく微笑んだ…


 「…お嬢も、これからの人生、恋をしたり、色々と楽しいことも、あると思います…ですが、これだけは、覚えておいて、下さい…」


 稲葉五郎が、真剣に語る。


 「…どんなときも、必ず、自分の味方を作って下さい…」


 「…味方ですか?…」


 …意外なことを言う…


 …どういう意味だろう?…


 「…そう…味方です…一人で、構いません…たった一人でも、構いませんから、自分のために親身になって、心配してくれる人間を、身近に作って下さい…それは、男でも女でも、構いません…付き合ってる彼氏でも、身近にいる女友達でも、なんでも、構いません…それが一人でもいれば、お嬢も楽しいし、お嬢の人生も、楽しくなっていきます…」


 稲葉五郎が、言葉に力を込める。


 力説する。


 「…ヤクザ者のこのオレが、こんなことをいうのは、おかしいのかもしれませんが、オレも昔は、高校を出て、一時ですが、会社に入ったことがあります…」


 意外なことを、口にした…


 「…オレが、会社に入ったときは、いわゆるバブル景気で、日本中が、好景気に湧いていました…誰もが浮かれていたというか…オレが入った会社でも、オレレベルの人間が、一目見て、それまでに入社した人間と違って、オレたちと同じ時期に、入社した人間は、レベルが格段に落ちていることがわかりました…」


 「…」


 「…そんな中で、入社したてのぺーぺーのオレから見ても、明らかに、この好景気が終われば、オマエは、クビを切られるよ、という人間を男女問わず、大勢見ました…そして、それに気付いている人間も、もちろん、大勢いたに違いません…ですが、誰もそれを、そいつらに教えようとは思いません…野球で言えば、最初から戦力外というか、要するに数合わせで、とりあえず、今景気がいいから、採用しておけば、将来なにかの役に立つだろうぐらいのノリです…」


 「…」


 「…オレは、それを見ているのが、嫌でした…当時、会社を辞めたのは、それが、一番の理由ですが、なにも言ってもらえない人間を見ているのが、なにより苦痛でした…そして、なにも言ってもらえない人間の方が、オレは将来出世するとか、ありえないことを、口にしてました…」


 「…」


 「…ですから、誰もがそうですが、自分に親身になって考えてもらえる人間を、一人は作ってもらいたいんです…そいつらは、大半が、バブルが弾けてすぐに、クビになったか、すぐにクビにならないまでも、一生ぺーぺーのままでしょう…最初から、先がありません…」


 「…」


 「…オレが、そいつらを見て、学んだのは、頭が悪ければ、悪いほど、性格も悪く、そのくせ、上昇志向というか、出世欲が強いという事実です…ヤクザ者のオレが言うのも、変ですが、どんな世界にいても、そいつらが、出世するとかは、ありえないでしょう…ですが、誰かが、教えてくれれば、あるいは、10人に一人、20人に一人でも、自分の置かれた立場に気付いたというか…」


 「…」


 「…変な話、オレがヤクザになって、この世界に入った以上の衝撃が、あの時代でした…お嬢に、長々とつまらない話をして、申し訳ありません…」


 稲葉五郎が、私に頭を下げた。


 私も、反射的に、稲葉五郎に、頭を下げた。


 稲葉五郎の話は、痛いほど、わかった…


 この手の話は、父から何度も、聞いたことがあるからだ…


 私の父も、この稲葉五郎も、歳は、5歳は優に違うが、ほぼ同世代…


 ほぼ同じ世代で、同じ時代に生きたというか、体験したから、この手の体験が、強烈だったに違いない…


 稲葉五郎が言うように、ヤクザになっても、これ以上、驚いた体験はなかったに違いない…


 当然、ヤクザになれば、バブル期とは比較にならない修羅場は、くぐっているに違いない…


 だが、ヤクザだ…


 最初から、ヤクザとは、こういうものという、わりきりというか、達観があるに違いない…


 だから、例えばドンパチがあっても、驚かないというか…


 しかし、稲葉五郎が、言ったように、普通の会社に入社して、どう見ても、それまでに、その会社に入社した人間と、レベルが格段に落ちても、それに気付かない人間というのは…


 ありえないというか…


 信じられない(笑)…


 そして、そんな人間たちを間近に見ているのが、稲葉五郎は、嫌だったのだろう…


 だからこそ、私や、前の座席にいる、自分の組の若い衆に、そんな体験をさせたくないのだろう…


 そして、もし、私や、若い衆が、そんな立場になったら?


 そしたら、自分の身を親身になって、心配してくれる、会社の同僚でも、恋人でも、友達でも、いれば、違うと言いたかったのだろう…


 それゆえ、わざと、長々と、自分の体験を話したに違いない…


 私は、そう思った…

 

 そして、そんなことを、考えていると、やがて、クルマは、杉崎実業に、到着した…



 …杉崎実業…


 私は、会社の看板が見えてきたのを、見て、心が高鳴ったというか…


 大場や林、柴野、野口と会える…


 そう考えた…


 そう、考えたときに、いきなり、クルマが急ブレーキを踏んだ…


 何事かと思った…


 私も、稲葉五郎も、ミニバンの中で、カラダが大きく揺れた…


 二人とも、危うく、前の席のシートに頭というか、カラダごと、ぶつかりかけた…


 私は焦ったが、なんとか、両手で、その衝撃を和らげたというか…


 偶然と言うか、うまく反射的に、両手が前に出て、前のシートに手をやることで、直接、頭が、シートにぶつかることはなかった…


 だが、当然のことながら、痛い…


 「…い、いたーい!…」


 思わず、声に出した…


 本当は、稲葉五郎の前で、こんな声を出したくはなかった…


 せっかく、私に気を使って、ここまで、送ってくれた、いわば恩人の前で、こんなことは、いいたくなかったからだ…


 すると、間髪入れずに、


 「…大丈夫ですか? …お嬢…」


 と、隣の稲葉五郎が、声をかけた…


 「…大丈夫です…」


 私も、間髪入れずに、即答する…


 ホントは、全然、大丈夫じゃなかったが、稲葉五郎に心配をかけるわけには、いかない…


 稲葉五郎を見ると、心底、私を心配している様子が、表情から、見て取れた…


 だからこそ、余計に心配させるわけには、いかなかった…


 「…よかった…」


 私の言葉を聞いて、稲葉五郎が安堵する。


 それから、すぐに、大声で、


 「…どうした? …なにがあった?…」


 と、叫んだ…


 前の座席にいる、二人の若い衆に、聞いたのだ…


 「…スイマセン…いきなり、女が、このクルマの前に、飛び出してきて…」


 「…なんだと?…」


 稲葉五郎は、答えるや、すぐに、ドアを開けて、外に飛び出した…


 …早い!…


 私は、とっさに思った…


 しかも、ドアを開ける前に、わずかの間だが、窓から、外を見て、周囲の状況を、窺っている…


 稲葉五郎は、ヤクザ者だから、外にヒットマンがいるか、どうか、確認したのかもしれない…


 外に、ヒットマンがいれば、このまま、ミニバンに隠れていた方が、安全だからだ…


 しかし、普通は、ヒットマンがいるとは思えない…


 いかにヒットマンがいても、真っ昼間で、拳銃をバンバン撃ち合うとは、思えない…


 いや、思えないからこそ、あえて決行するとも、考えられる…


 誰もが、そんなことはありえないと、考える、真逆をいくことで、相手の隙を突くことができるからだ…


 それに、なにより、今、山田会は、次期会長の座を巡って、ゴタゴタしている…


 他団体との抗争はないが、身内の方が、いったん揉めた場合は、厄介に違いない…


 堅気(かたぎ)というか、一般の家庭でもそうだが、他人と、揉めるよりも、身内の親戚や兄弟で、揉める方が深刻だ…


 普段から、近い関係だから、言いたいことは言える…


だから、いったん揉めると、他人とのケンカよりも、壮絶なものになりがちだ…


私は、思った…


と、そこまで、考えたとき、


「…ちょっと、場所を考えて下さい…」


という、大きな女の声がした…


私は、慌てて、開けっぱなしにしたミニバンの扉から、外を見た…


一人の背の高い女のひとが、立っていた…


私は、その顔に見覚えがあった…


杉崎実業の人事部の女性…


…たしか、藤原綾乃とかいった女だった…


…人見人事部長の部下だと、言っていた女だった…


「…どういうことだ? テメエ?…」


稲葉五郎の怒声が、響き渡った…


「…今が、どういう状況だか、わかるでしょ? 稲葉さん…」


藤原綾乃の声が聞こえる。


藤原綾乃が、


「…稲葉さん…」


と、名指ししたことで、藤原綾乃が、稲葉五郎を知っていることが、わかった…


「…状況?…どういう意味だ?…」


「…この杉崎実業は、高雄総業の子会社…稲葉さんと、対立する、高雄さんの関連会社…それが、どういうことか、おわかりになるはず…」


「…どういう意味だ?…」


「…無用な争いごとを作って欲しくないの…ただでさえ、みんなピリピリしてる…それなのに、稲葉さんが、ここにやって来ては、ダメ…」


藤原綾乃が強い口調で言う…


「…瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず李下(りか)に冠(かんむり)を正さず…」


「…どういう意味だ?…」


「…疑わしいことはするなと、言いたいの…」


藤原綾乃が、断言する。


すると、稲葉五郎が黙った…


たしかに、稲葉五郎は、高雄の父親と、山田会の次期会長の座を巡って争っている…


その争っている当人が、相手の牙城と言うか、勢力圏にある場所に、顔を出すのは、抗争の火種になるのでは? と、言いたいのだろう…


稲葉五郎もまた、それを理解したからこそ、黙ったに違いない…


「…オレは、今日、ここに用事がある女のコを連れてきただけだ…」


「…女のコ?…」


私は、その言葉を聞いて、ミニバンから降りた…


ミニバンから降りた私を見て、藤原綾乃が、


「…アナタ…」


と、仰天する。


それから、稲葉五郎を振り返って、


「…アナタもやるものね…」


と、声をかけた。


「…どういう意味だ?…」


稲葉五郎の顔色が変わった…


突然、まるでスイッチが入ったように、獰猛な素顔が剥き出しになった…


「…このお嬢ちゃん…」


と、藤原綾乃が、そこまで、言って、止めた…


「…それは話すのは、愚問ね…」


と、藤原綾乃は、笑った…


そして、また稲葉五郎もまた、


「…」


と、なにも言わなかった…


「…とりあえず、このお嬢ちゃんを、無事に送ってきてくれたことには、感謝するわ…」


藤原綾乃が言う。


しかし、この言葉にも、稲葉五郎は、無反応というか、


「…」


と、なにも言わなかった…


代わりに、私に振り向いて、


「…お嬢…お気を付けて…」


と、稲葉五郎が丁寧に頭を下げる。


まるで、私が、どこかの令嬢というか…


敬礼というか、頭を下げた相手が、ヤクザ界のスター、稲葉五郎だから、日本を代表する暴力団のお嬢様になった気分だった…


なにより、ヤクザやヤンキーが大の苦手な私が、高名なヤクザ者に頭を下げられる…


この現実が受け入れられないというか、変な気分だった…


シュールというか、あまりにも、非現実的だった…


暴力の匂いが大の苦手というか、率直に言って、怖い、私、竹下クミが、高名な暴力団の組長に、入社する予定の会社まで、送ってもらい、丁寧に頭まで下げられてる…


見る者が見れば、むしろ、お笑いになる…


ヤクザが怖い、女が、高名なヤクザ者に頭を下げられてる…


とても、現実とは思えない…


ありえない光景だからだ…


だから、笑えるのだ…


私は、そんなことを考えながら、


「…ありがとうございました…」


と、稲葉五郎に丁寧に頭を下げた。


が、稲葉五郎は、そんな私を見ることもなく、丁寧に頭を下げ続けた…


私は、どうしていいか、わからなかった…


「…顔を上げて下さい…」


と、本当ならば、声をかけたかったが、それも憚(はばか)れたというか、できなかった…


だから、つい、藤原綾乃の顔を見た…


藤原綾乃は、私が、どうしていいか、わからず困った顔をしているのを見て、


「…稲葉さん…頭を上げて…このお嬢さん…どうしていいか、わからず困ってるわよ…」


と、声をかけた。


「…困ってる?…」


藤原綾乃の指摘で、稲葉五郎が、頭を上げた。


「…自分の父親ぐらいの年齢の男の人に、丁寧に頭を下げられれば、誰でも、困るでしょ? 困らないのは、生まれつき、そういう環境に生まれた人間…日本では、皇族ぐらいよ…」


藤原綾乃が指摘する。


それを聞いて、うまいことを言うと、思った…


たしかに、この日本で、今の時代、生まれたときから、他人に頭を下げられるのを、慣れている人間は、皇族ぐらいの者だろう…


その言葉で、今度は、稲葉五郎が困った顔になった…


自分が丁寧に、頭を下げることで、私を困らせたことに、あらためて、気付いたというか…


「…それは、スイマセン…」


と、顔を真っ赤にして、謝った…


そして、謝ったのは、藤原綾乃ではなく、当然、この竹下クミ…


私は、この対応に固まった…


どうして、いいか、わからなかった…


が、その対応を、


「…相変わらず、不器用な男ね…」


と、藤原綾乃が笑った…


「…高雄さんも心配してたわ…周りに乗せれられて、利用されて、ポイされかねないって…」


「…兄貴が?…」


そう言って、稲葉五郎が絶句した…


私は、凄いことを言うと思った…


ヤクザ界のスターに向かって、なんということを…


すでにチャレンジャーを超えて、命知らずと言うか…


が、稲葉五郎はなにも言わなかった…


ただ、私に、


「…それでは、お嬢…お気を付けて…」


と、一言、言ったきり、踵を返して、歩き出して、ミニバンに乗り込んだ…


私は、唖然として、その姿を見ていた…


そして、ふと、気付いた…


…どうして、藤原綾乃が、あのミニバンを見て、稲葉五郎と気付いたのかと言うことを、だ…



私が、藤原綾乃を見ながら、それを聞こうかどうか、悩んでいると、その視線に気付いたのだろう…


「…どうしたの? …お嬢ちゃん…なにか、私に聞きたいことがあるの?…」


と、藤原綾乃が、私に言った。


私は迷うことなく、


「…どうして、あのクルマが、稲葉さんのクルマだと知っていたんですか?…」


と、聞いた。


この藤原綾乃は、当然、ヤクザではない…


だから、聞きやすかった…


「…簡単よ…」


藤原綾乃が、即答する。


「…ナンバーよ、ナンバー、クルマの…」


「…ナンバー?…」


「…稲葉さんは、0、1、7、8…1(い)、7(な)、8(ば)と、わかりやすい、ナンバーにしているの…だから…」


と、藤原綾乃が指摘する。


だが、私は、信じなかった…


藤原綾乃が今言っていることは、ウソではないだろう…


しかし、稲葉五郎のクルマが、杉崎実業に着いた時点で、藤原綾乃が、クルマの前に飛び出したのは、タイミングが良すぎる。


誰か、稲葉五郎の動静を、この藤原綾乃に伝えた人間がいるのでは?


私は、思った…


あるいは、藤原綾乃に直接ではなくとも、この藤原綾乃の上司の人見人事部長に伝えたのかもしれない…


そして、そこまで、考えると、あの稲葉五郎の周辺にも、やはり、稲葉五郎の動静を、直接、あるいは、間接にせよ、この藤原綾乃に伝えた人間がいるということ…


稲葉五郎の周辺に、はっきり言えば、稲葉五郎を裏切っている人間がいるということだ…


私は、考える。


と、そこまで、考えたとき、藤原綾乃が、


「…さあ、お嬢ちゃんも、難しい顔をしてないで、行きましょう…」


と、声をかけた。


私は、その声で、現実に引き戻されたといおうか…


思考が中断した…


「…さあ、お嬢ちゃんが、やって来なきゃ、始まらないわ…」


藤原綾乃が、声をかける。


…私が、やって来なければ、始まらない?…


…一体、どういうことだ?…


私は、藤原綾乃のモデルのような均整の取れたカラダの上にちょこんと載った端正な小さな顔を見た。


私の視線に気付いたのだろう…


「…なに? …お嬢ちゃん…真剣な顔をして、私を見ているの?…」


と、藤原綾乃が、口にする。


私は、言っていいか、どうか、しばし悩んだが、


「…私が、やって来なければ、始まらないって、一体どういう意味ですか?…」


と、直球に聞いた…


私の質問に、藤原綾乃は、


「…エッ?…」


と、小さく呟いて、驚いたが、すぐに態勢を立て直した…


何事もなかったように、


「…バカね…お嬢ちゃん…社交辞令に決まってるでしょ…」


と、説明した。


「…社交辞令?…」


「…そう、社交辞令…誰も、本気で、お嬢ちゃんが、来なければ始まらないなんて、思っちゃいないわ…」


そう言って、藤原綾乃がケラケラと楽しそうに笑った…


だが、私は、それを信じなかった…


いや、信じられなかった…


稲葉五郎と、この藤原綾乃が、まるで、大切な宝物のように、私を扱っていたからだ…


社交辞令でもなんでもなく、本気で、私が来なければ、始まらない…


そう信じてる可能性の方が、はるかに高かった…



 …私が、来なければ、始まらない…


 誰もが、そう言われて、悪い気はしない…


 事実、あのヤクザ界のスター、稲葉五郎に、お姫様扱いされて、私は、悪い気はしなかった…


 稲葉五郎は、たしかに見てくれは、怖いし、怒れば、私など、簡単に、殺されそうだが、なぜか、稲葉五郎は、私に優しい…


 演技かもしれないが、演技とは、思えないほど、私を優しく見る…


 優しい眼差しで、見る…


 50歳の稲葉五郎から見れば、22歳の私は、娘…


 もしかしたら、稲葉五郎には、私と同じくらいの年齢の娘がいて、私にその娘の面影を見ているのかもしれない…


 私は、ふと思った…


 稲葉五郎は、ヤクザ者…


 ヤクザ者は、やはり、離婚が多いに違いない…


 いや、ヤクザ者に限らず、一般人も、今の時代、離婚が多い…


 離婚した元の奥さんに、私と同年齢ぐらいの娘がいて、稲葉五郎が、私に、その娘を重ねて見ていた、可能性が高い…


 ホントのところ、稲葉五郎が、ロリコンで、あるいは、私に下心がある…


 その可能性も捨てきれない(笑)…


 しかしながら、自分でいうのも、なんだが、私はそれほどキレイではない…


 美人ではない…


 稲葉五郎のような高名なヤクザ者ならば、父子ほど歳の離れた、女でも、なんとか、なるに違いない…


 私のような、そこそこの美人よりも、本物の美人を手に入れられるに違いない…


 だから、どう考えても、稲葉五郎が、私に下心があるようには、見えない…


 見えないのだ…


 私が、そんなことを考えてると、


 「…どうしたの…お嬢ちゃん…ボーっとして…さっさと来ないと、置いてっちゃうよ…」


 と、藤原綾乃が、声をかけたので、慌てて、歩き出した。


 「…スイマセン…」


 私は、慌てて、藤原綾乃に駆け寄った…


 そんな私を、藤原綾乃は、ニコニコと見た…


 「…お嬢ちゃん…面白いね…」


 藤原綾乃が、意外なことを言った…


 「…面白い? …」


 私は、思わず、オウム返しに、繰り返した…


 「…いえ、お嬢ちゃんだけじゃないわ…お嬢ちゃんといっしょに、入社する予定の他の4人もみんな、面白い…」


 藤原綾乃が続けた。


 しかし、私は、それを信じなかった…


 おそらく、


 「…お嬢ちゃん…面白いね…」


 と、思わず、口にした言葉が真実というか、本音では? と、考えた。


 なぜなら、他の4人は、面白いのではなく、優れているのだ…


 何度も言うように、林は、大金持ち、大場は、次期総理総裁候補の娘、残りの、柴野と野口の素性はわからないが、柴野は一橋大、野口は東京外語大と、頭脳が優れている…


 私だけ、なにもない…


 同じような顔をして、同じような身長の5人の女の中で、私だけ、なにもない…


 だから、この藤原綾乃は、


 「…お嬢ちゃん…面白いね…」


 と、言ったに違いない…


 私は、そう見抜いた…


 私は、そう判断した…


 そう考えると、自然に、


 「…承知…」


 と、心の中で、叫んだ…


 私だけ、なにもない…


 でも、恐れることはない…


 なぜか、私は、好かれている。


 自分で言うのも、なんだが、周囲の人間から、大事にされてる…


 だから、この藤原綾乃もまた、

 

 「…お嬢ちゃん…面白いね…」


 と、言ったに違いない…


 なにもない、私、竹下クミが、周囲から好かれている…


 大事にされてる…


 その事実を指して、

 

 「…お嬢ちゃん…面白いね…」


 と、言ったに違いないのだ…


 私は、そう固く、信じた…


 いや、信じ込もうとした…


 そうでなければ、やってられないからだ…


 私だけ、なにもない…


竹下クミだけが、なにもない中で、他の4人の女と席を並べるのは、苦痛しかないからだ…


 私は、そう信じて、藤原綾乃の後を追った…


 杉崎実業のあるビルに入った…



 結局、その日は、なにもなかった…


 なにもなかったというのは、正直、顔見せに過ぎなかった…


 前回、同様、この杉崎実業に、入社するか否かの意思確認に過ぎなかった…


 実際は、そうはいってないが、カリキュラムといおうか、講義といおうか、講座といおうか、藤原綾乃が講師となって、私を含めた5人の入社予定者の前で、語ったのは、社会人としてのマナーだとか、心構えとか、一言で言って、どうでもいい内容と言うか、ありきたりな内容だった…


 だから、どうしても、この日集まったのは、

顔見せに過ぎないと、とろい私でも、気付いた…


 とろい、竹下クミでも、気付いた(笑)…


 これは、この杉崎実業にかかわらず、どこの会社もやること…


 どこの企業でも、行われることだと、以前から、父が言っていた…


 要するに、入社予定の学生に、入社前に逃げられては、困るからだ…


 他社に逃げられては、困るからだ…


 だから、入社前にもかかわらず、何度も顔を会わせ、仲良くさせる。


 そうすることで、脱落者を少なくさせる。


 いわば、団結心を固めさせるというか…


 オレも、アイツも、来年、この会社に入社するんだと、頭の中だけでなく、体験させることで、心の中だけでなく、カラダでわからせるというか(笑)…


 つまり、そういうことだ(笑)…


 そして、これは、以前も書いたが、入社後も、数年は続ける…


 いわゆる、同じ入社年次=同期の人間を集めて、アレコレ、今の私と同じように、講義やら、あるいは、飲み会やらを行うことで、団結心を固めさせるというか…


 脱落者を出さないように、させる。


 退職者を出さないように、させる。


 要するに、目的は、コレに過ぎない(笑)…


 だから、私は、藤原綾乃の講義を聞きながら、退屈だった…


 いや、私だけではない、他の4人も退屈だったに違いない…


 なぜなら、他の4人は、優秀…


 私よりも、はるかに優秀なのは、誰の目にも明らか…


 そんな優秀な4人だから、私よりもはるかに先に、今日集まった目的が、わかったに違いない…


 理解できたに違いない…


 私は、そう考えて、他の4人の顔色を窺ったが、他の4人は、思いのほか、マジメといおうか…


 今日集まった目的は、私よりもはるかに先にわかったに違いないにも、かかわらず、そんな態度は、おくびにも出さなかった…


 さすがというか…


 優秀な人間は、どんなことにも、優秀だ…


 能力がない人間は、むしろ、こんなときは、


 「…今日、私たちを集めた目的は、単なる顔見せと言うか、この会社に入る予定の人間に、他社に逃げられないために、集めたんでしょ?…」


 と、言葉にしないまでも、露骨に態度に示しかねない…


 私は、今日、私たちを集めた目的は、わかっているとばかりに、それを態度に示すことで、自分が優秀だと、周囲にアピールするのだ…


 真逆に、能力がある人間は、わかっていても、それを態度に示さない…


 あからさまに、態度に示すことで、周囲の反感を買うことを、恐れているからだ…


 能ある鷹は爪を隠す…


 そういうことだ(笑)…


 私は、思った…


 だが、私の見立てと違ったのか、講師の杉原綾乃が、突然、


 「…なんだか、皆さん、退屈そうね…」


 と、口にした…


 私は、驚いた…


 とても、私には、そんなふうに、思えなかったからだ…


 「…やはり、皆さんには、高雄取締役が、来なければ、ダメなようね…」


 と、藤原綾乃が、突然、高雄悠(ゆう)の名前を口にした…


 私は、ビックリした…


 まさか、ここで、いきなり高雄の名前が出るとは、思わなかったからだ…


 「…私も、皆さんが、男性ならば、少しは、興味を持たせることが、できたと思う…」


 と、藤原綾乃が、意味深に笑う…


 たしかに、藤原綾乃は、30歳は過ぎているが、長身で、抜群にプロポーションが、良いだけでなく、ずばり色気がある…


 いくら、美人で、プロポーションが良くても、色気がまったくなければ、男が、興味が湧かない…


 いや、


 湧かないわけではないが、色気があるか、ないかで、周囲の注目度というか、視線の数が異なってくる…


 いわゆる、セクシーであるか、否か、だ…


 逆をいえば、色気があれば、顔やスタイルが良くなくても、ある程度の視線を集められるとも言える…


 色気=要するに、雰囲気だ…


 藤原綾乃は、私たちが女ではなく、男だったら、もう少し、私たちが、身を入れてというか、真剣に、藤原綾乃の話を聞いてくれると、思ったに違いない…


 事実、その通り…


 藤原綾乃の言う通りだ(笑)…


 藤原綾乃は、私たち5人から見れば、いわゆるキレイなお姉さん…


 歳も十歳ぐらい上だ…


 だが、たしかにキレイだが、特段、関心はない…


 失礼ながら、藤原綾乃が芸能人かなにか、有名人ならば、話は別だ…


 美人だし、抜群のプロポーションの持ち主だから、憧れる…


 でも、藤原綾乃が、一般人である以上、失礼ながら、それだけ…


 それ以上の関心はない(笑)…


 同性に関心のある女もいるに違いないが、それは、ごく少数派…


 世間一般が騒ぐほど、男も女も、同性に、関心のある人間はいない…


 それが、痛いほどわかっているからこそ、眼前の藤原綾乃は、高雄の名前を出したのだろう…


 思えば、高雄悠(ゆう)も、また、藤原綾乃と同じ…


 一言で言って、街中を歩けば、誰もが思わず振り返って、見たくなるほど、ルックスが、優れている…


 ルックス+雰囲気がある…


 誰もが、いっしょに歩きたい存在…


 いっしょに歩くだけで、友人や、会社の同僚に、自慢できる存在だからだ…


 あんなキレイな女と、どこで知り合ったんだ? 


 とか、


 あんなカッコイイ男と、どこで知り合ったんだ?


 とか、聞かれて、嬉しくなる…


 例え、藤原綾乃や高雄悠(ゆう)と、恋人同士でもなんでもなく、ただの友人に過ぎない場合でも、やはり嬉しくなる…


 他人が、羨ましがっているのが、わかるからだ…


 例えて言えば、いいクルマ=高級なクルマ=ポルシェやフェラーリに乗っているのと、同じ…


 例え、それが、友人から借りたクルマでも、そんなことを知らない、第三者が、ハンドルを握るドライバーを羨ましがって見る…


 それと一緒だ…


 「…皆さんも、やっぱり、年頃の女のコね…高雄取締役と、私とでは、皆さんの態度が違う…」


 と、藤原綾乃が、自嘲気味に呟く。


 「…でも、皆さん、ご心配なく…高雄取締役は、まもなくやって来ます…」


 藤原綾乃が、突然、言った…


 「…エーッ?…」


 思わず、私を含む五人の女の中から、悲鳴といおうか、歓声といおうか、声が上がった…


 その声に、思わず、藤原綾乃の顔が、ニヤリと、した…


 ずばり、笑った…


 「…やはり、私とは、反応が違うわね…」


 藤原綾乃が、笑った…


 だが、その笑いは、意味深だった…


 「…皆さんが、高雄さんには、憧れるのは、わかる…」


 藤原綾乃が、わざと、もったいぶって、言う。


 しかも、


 「…ルックスだけではなく、色々な意味で…」


 と、付け加えた。


 と、そのとき、明らかに、空気が変わった…


 その言葉で、周囲に緊張が走ったというか…


 途端に、ピリピリとした雰囲気になった…


 その変化を見て、


 「…あらあら、図星ね…」


 と、藤原綾乃が笑った…


 「…たった一人を除いて…みんなピリピリしている…」


 …たった一人を除いて?…


 …一人って、誰だ?…


 って、私は、言いたかったが、気が付くと、そう発言した藤原綾乃が、私を見ていた…


 気のせいではない…


 ずばり、誰が見ても、藤原綾乃の視線が、私に向けられていた…


 しかも、


 しかも、だ…


 そのことに、他の四人は、別段、関心がない様子だった…


 当然と言うか、誰も驚いている様子はなかった…


 私には、その方が、驚きだった…


 …なんだ?…


 …一体、どうしてなんだ?…


 …一体、私がなにをしたというんだ?…


 私は叫び出したい気持ちだった…


 ちょうど、そのときに、


 バタンと、いきなり、部屋のドアが開いた…


 すぐに、すらりとした長身の男が、


 「…遅れて、スイマセン…」


 と、詫びながら、部屋に入って来た…


 高雄…


 高雄悠(ゆう)だった…



 …高雄…


 …高雄悠(ゆう)…


 やっと、会えた!


 私は、嬉しかった…


 ホッとした…


 …悠(ゆう)は見かけとは、違う…


 ヤクザ界のスター、稲葉五郎も言っていたし、はっきり言って、自分でも、その通りだと思う…


 でも、やはりというか…


 高雄の爽やかなルックスを前にすると、その言葉も色褪せてしまう…


 私は、当然、高雄が、見かけとは、違う人間だということは、わかっているし、はっきり言って、警戒すべき、人間だと、わかっている…


 要注意人物だと、わかっている…


 しかし、そんなことは、十分、わかっているつもりでも、高雄の爽やかなルックスを前にすると、そんな気持ちは、きれいさっぱりどこかへ、消し飛んでしまう…


 どこかへ、消えてしまう…


 まさに、高雄、恐るべし!


 高雄、恐るべしだ!


 私は、考える。


 「…遅れて、スイマセン…」


 高雄は、同じ言葉を繰り返した…


 ペコリと頭を下げて、周囲の雰囲気を窺う…


 わずかだが、高雄が頭を上げるときに、眼つきを鋭くして、私を含む、五人の女の顔を確かめたのが、わかった…


 明らかに、高雄は警戒しているというか、予想以上に、私たち五人を注意して、観察している…


 そんな感じがした…


 そして、以前、高雄が、私に言った言葉を思い出した…


 私たち五人の女の、顔つきも、ルックスも、身長も似ているのは、高雄が、ある女性を探しているから…


 その女性の身体的な特徴というと、大げさだが、大まかな特徴は掴んでいる…


 そして、その女性を手に入れることで、高雄は、成り上がることができる…


 高雄総業は、高雄は、はっきりと、口にしてないが、おそらくは、高雄の父は、山田会の次期会長の座に大手をかけることができる…


 だが、敵もさるもの…


 高雄がそれを狙っているのを、見越して、この五人の中に、高雄が勘違いするような特徴の女を紛れ込ませたと言っていた…


 つまりは、高雄が、狙って、手に入れた女が、実は、ジョーカーだった…


 高雄は、その女を手に入れることで、高雄の父は、山田会の会長の座にリーチをかけたつもりが、実は、真逆…


 高雄総業が、敵に乗っ取られる事態が発生する可能性がある…


 そう、高雄は以前、私に語っていた…


 私は、高雄の態度から、今、それを思い出した…


 今、見た、高雄の態度は、十二分に、その言葉を連想させるものだったからだ…


 同時に、気付いた…


 高雄自身が、油断のならない人間であることに、だ…


 さっき、この杉崎実業まで、私を送迎してくれた、ヤクザ界のスター、稲葉五郎ですら、


 「…言いにくいのですが、高雄は…悠(ゆう)は、見た目とは、違います…」


 と、私に教えてくれた…


 はっきり言えば、警告してくれた…


 あるいは、稲葉五郎の言うことは、ウソかもしれない…


 なぜなら、稲葉五郎と、高雄の父は、次期、山田会の会長の座を巡って争っている…


 だから、稲葉五郎が、息子の悠(ゆう)のことを、悪く言っても、おかしくはない…


 普通に考えれば、そう思える…


 だが、しかし、というか、稲葉五郎の私を見る優しい眼差しを、考えると、稲葉五郎に分が上がるというか…


 稲葉五郎の言葉の方が、説得力がある…


 ずばり、信じられる…


 ヤクザや、ヤンキーが大の苦手な、この竹下クミが、言うのは、自分でも信じられないが、目の前の爽やかな美男子の高雄悠(ゆう)よりも、いかついカラダで、見るからにヤクザ者の稲葉五郎の言葉を信じてしまう…


 自分でも、不思議というか、信じられないが、事実…


 ある意味、衝撃の事実だ…


 私は、思った…


 そう考えたとき、


 「…高雄さん…なんだか、お疲れのようね…」


 と、藤原綾乃が、高雄に聞く声が聞こえた…


 その声で、私は、高雄を見た…


 いや、


 私だけではない…


 他の四人もまた全員、高雄の顔を注視した…


 たしかに、高雄は誰がどう見ても、疲れた様子だった…


 「…いえ、そんなことは、ありません…」


 高雄は、否定する。


 しかし、その否定する声も弱々しかった…


 すると、藤原綾乃が、


 「…ウソは止めて下さい…」


 と、キツイ声で言った…


 いや、


 言ったというよりも、注意したと言った方が適切な気がした。


 「…高雄さん…誰が見てもわかるウソは止めて…ウソと言うのは、わからないから言いの…誰が見ても、わかるウソはついちゃダメ…」


 藤原綾乃が、助言する。


 その言葉で、高雄は困ったような表情になった…


 一瞬、表情が、明らかに固くなったが、すぐに、


 「…その通りです…ウソをついてスイマセン…」


 と、丁寧に頭を下げて、謝った…


 「…申し訳ありませんでした…」


 と、深々と、頭を下げたまま、続けた。


 まるで、中学生やら高校生が、授業に遅刻して、ウソの言い訳をして、先生に注意されたみたいだった…


 事実、二十代後半の高雄よりも、三十代前半の藤原綾乃の方が、誰が見ても、年上…


 だから、高雄が、藤原綾乃に叱られても、おかしくはない…


 これが、真逆に、藤原綾乃が、高雄に叱られていては、おかしい…


 やはり、三十代前半の女が、二十代後半の男に叱られるのは、おかしい…


 私は、思った…


 そんなことを、考えていると、


 「…高雄さん…どうして、そんなにお疲れなの?…」


 と、藤原綾乃が、直球に聞いた…


 「…どうしてって、言われても…」


 高雄は、藤原綾乃の言葉に戸惑う…


 そんな高雄の態度に、


 「…やっぱり、女? 高雄専務は、女性にモテモテだから…」


 と、藤原綾乃が、からかう…


 その言葉に、一瞬、私を含め、同じ顔の女たち全員が、ムッとした…


 明らかに、空気が変わった…


 おそらくは、高雄の正体と言うか、素性について、私以外の四人は、当然のことながら、私よりも、早く気付いている…


 にもかかわらず、ムッとした…


 これは、女の性(さが)といおうか(笑)…


 男も同じだが、眼前に、美人がいて、その美人が、男関係で、悩んでいると、打ち明けられれば、いい気はしないというか…


 こんな美人なのだから、当然付き合っている男は、いるに違いないと思いながらも、実際に、そのことを告白されると、いい気はしない…


 大げさにいえば、幻想が敗れるからだ(笑)…


 やはり、どうしても、美人を目の前にすれば、付き合っている男はいない方がいい…


 もしかしたら、この後、これをきっかけにお付き合いが始まるかもしれない(笑)…


 そんな夢を見させてくれる…


 そんな希望を抱かせてくれる…


 それが、付き合っている相手がいると、告白することで、その夢が木っ端みじんに、砕け散るからだ(笑)…


 私は、思った…


 高雄は、藤原綾乃の言葉に、薄ら笑いを浮かべるだけで、


 「…」


 と、黙っていた…


 ただ、疲れた表情で、意味深に笑っていた…


 しかし、そんな高雄に、藤原綾乃は、容赦なかった…


 「…女…やっぱり、女ね…」


 と、繰り返した。


 高雄は、藤原綾乃の攻撃に力なく笑っていた…


 否定するでもなく、肯定するのでもなく、ただ力なく笑っていた…


 私は、藤原綾乃の追及に違和感を感じたが、少しして、


 …もしかしたら、藤原綾乃は、なにか、高雄の情報を掴んだのかも?…


 とっさに、脳裏にそんな予感がした…


 ずばり、なにか、高雄の情報を掴んでいる…


 …それも、女に関しての情報を掴んでいる…


 だからこそ、これほど、しつこく、高雄に何度も、


 …女…


 …女…


 と、繰り返して、聞くに違いない…


 そう直感した…


 確信した…


 そのときだった…


 まるで、藤原綾乃の追及に、白旗を揚げたように、


 「…そう…女です…」


 と、高雄が告白した…


 私を含む、五人の女から、


 「…エーッ!…」


 と、悲鳴が上がった…


 「…ボクのもっとも、愛している女性が今、行方不明といおうか…」


 高雄が力なく告白する。


 …愛している女性?…


 やっぱり、高雄は、愛している女がいたのか?


 当たり前のことを思った…


 高雄は、長身のイケメン…


 付き合ってる女がいるのは、わかる…


 むしろ、これは、想定内…


 当たり前だ…


 高雄ほどのイケメンが、付き合っている女がいない方がおかしい…


 そう思った…


 だが、そう思いながらも、ふと、疑問に思った…


 高雄は、私たち五人の中の一人と、結婚すると、公言したはずだ…


 …約束したはずだ…


 その約束は、どうなる?


 いや、


 恋愛と結婚は、違う…


 好きな女は、いても、私たち五人の中の一人と結婚しても、おかしくはない…


 だが、それを、私たち五人の前で言うのは、どうか?


 結婚すると、公言した五人の女の前で、愛している女性がいると、言うのは、どうだ?


 私は、考える。


 それとも、やはり、以前、私たち五人の前で、


 「…この中の一人の方とボクは、結婚します…」


 と、断言したのは、ブラフ…


 はったりか?


 自分に有利に進めるために、ハッタリをかましたのか?


 私たち五人を騙したのか?


 そんな思いが次々と、私の中に生まれた…


 というか、思いが、ドンドン溢れ出した…


 と、そのときだった…


 「…高雄さんの愛している女性って?…」


 藤原綾乃が訊く。


 高雄は疲れた表情で、


 「…わからない…」


 と、大げさに首を横に振った…


 「…わからないって?…」


 「…わからないんです…」


 高雄が疲れ切った顔で、繰り返す。


 「…なにが、わからないの?…」


 「…その女性の心が行方不明なんです…」


 「…心が行方不明って?…」


 藤原綾乃が絶句する。


 …心が行方不明って、一体どういう意味だ?…


 私は、考える。


 それから、急いで、私以外の四人の女を見た。


 四人とも、やはりというか、悩んでいた…


 …心が行方不明なんて、もったいぶった言い回しをするから、一体どういう意味なのか、皆目見当もつかないからだ…


 「…一体、心が行方不明って、どういう意味ですか?…」


 藤原綾乃が訊く。


 「…簡単ですよ…」


 「…簡単?…」


 「…要するに、相手の女性が、なにを考えてるのか、さっぱりわからない…だから、心が行方不明…まるで、相手の女性が、どこかに失踪したように、その女性が、なにを考えているか、さっぱりわからなくなったんです…」


 高雄が力なく告白する。


 そして、私を見た。


 竹下クミを見つめた。


 …なんだ?…


 …一体、どういうことだ?…


 私は、動揺する。


 しかも、


 しかも、だ…


 そんな私の動揺など、お構いなしに、高雄はジッと、私を見つめた。


 当然、私以外の他の四人も、そんな高雄の視線に気付いた…


 しかし、そんなことは、お構いなしに、高雄は、ジッと、私を睨んだ…


 睨み続けた…



 …どういうことだ?…


 …一体、どういうことだ?…


 私は、幾度となく、心の中で、反芻した…


 繰り返した…


 なぜ、高雄が、私を睨む…


 私が、一体全体、高雄になにをしたっていうんだ?…


 なにか、私が、高雄に恨まれるようなことでも、したというのか?


 いや、


 そもそも、私は、高雄と接していない…


 会っていない…


 そんな全然会ってない、高雄に私が恨まれることなど、ありえない…


 絶対にありえない…


 私は、必死になって、考え続ける。


 そんな高雄の視線に、当然のことながら、気付いた、藤原綾乃が、


 「…あら、高雄専務? 女のひとに、フラれたの? それとも裏切られた?…」


 と、からかうように言った。


 きっと、この部屋の空気が、高雄が私を睨み続けることで、ピンと張り詰めたから、わざと軽い調子で言って、この場の雰囲気を和ませようとする、藤原綾乃の配慮だろう…


 私は、思った。


 そして、高雄は、藤原綾乃の言葉に、一瞬、ムッとして、藤原綾乃を睨んだが、ため息をつくように、


 「…ハイ…その通りです…」


 と、認めた…


 そんな高雄の言葉に、私以外の他の四人から、


 「…エーッ?…」


と、悲鳴とも嬌声とも、つかぬ声が上がった…


しかも、その嬌声の間にも、高雄は一瞬たりとも、私から目をはずすことは、なかった…


まるで、私と、なにか勝負をしているように、ジッと私を睨み続けた…


私は、動揺したが、目をはずすことは、なかった…


ここで、私から、先に、高雄から視線をはずと、なんだか、高雄に負けた気がしたからだ…


私は、決して、負けず嫌いな性格ではない…


むしろ、自分で言うのも、なんだが、結構、周囲に流されやすい人間と言うか…


ともかく、強い人間ではない…


お世辞にも、周囲の人間を束ねることができるリーダーの資質は、微塵もない…


にもかかわらず、ここで、高雄の視線を、自分から先に外しては、絶対いけないと、思った…


なんだか、よくわからないが、そんな心の声がしたというか…


内なる声がしたというか…


とにかく、自分でも、よくわからないが、高雄に負けたくなかった…


絶対、負けたくなかった…


 だから、ジッと、高雄を睨んだ…


高雄もまた、そんな私に対抗するように、ジッと、私を睨んだまま…


まるで、私と高雄が勝負している感じだった…


「…あらあら…なんだか、お嬢ちゃんと、高雄専務が、睨み合ったままね…」


藤原綾乃が、私と高雄を仲裁するように、声をかけた…


「…まるで、恋人同士がケンカしたみたい…一体、二人の間になにがあったの?…」


と、楽しそうに聞く…


事実、そうでもしなければ、ならないほど、私と高雄は、睨み合っていた…


周囲にピンと張り詰めた空気が、漂った…


「…ひょっとして、高雄専務が裏切られた彼女って、お嬢ちゃん…」


と、藤原綾乃が、高雄に聞く。


が、


高雄は、


「…」


と、黙ったまま、答えない…


代わりに、藤原綾乃が、私に、


「…お嬢ちゃん…高雄専務と付き合ってたんだ?…」


と、冗談めかして、冷やかした…


私は、それを即座に否定した…


「…付き合ってません…」


大声で言った。


「…エッ? 付き合ってない?…」


藤原綾乃が、驚いた…


「…ハイ…私は、高雄専務と付き合ってません…」


声を大にして、宣言した…


私の言葉に、他の四人が、ざわざわと、ざわめくのが、わかった…


「…でも、だったら、どうして?…」


藤原綾乃が、戸惑い気味に言った…


「…そんなこと、私に聞いても知りません…高雄専務に聞いてください…」


私は、言った。


「…高雄専務…」


藤原綾乃が遠慮がちに声をかけた…


「…彼女は、付き合ってないと、言ってますが…」


それでも、高雄は、


「…」


と、声を上げなかった…


まるで、私に勝負を挑むように、私を睨んだまま…


私は、心の中で、


「…承知!…」


と、叫んだ…


この勝負、受けて立つ!


私は、自分自身に宣言した…


例え、相手が、高雄でも、この勝負、受けて立つ!


例え、どんなイケメンでも、この勝負、受けて立つ!


私の心が躍ったというか…


ずばり、火が点いた…


率直に言って、なんで、高雄が私を睨むのか、さっぱり、わからない…


なんで、高雄のようなイケメンに、私が、睨まれるのか、さっぱり、わからない…


でも、睨まれてる事実は、確か…


変わらない…


例え、どんなにイケメンでも、理由なく、睨まれて、気分のいい、女はいない…


だから、当然、私も、気分が悪い…


はっきり、言って、不快…


不愉快だ…


だから、生まれて初めて、メンチを切った…


いわゆる、ガンを飛ばした…


が、


高雄もまた、そんな私にたじろぐことなく、睨み続けた…


すると、


いつのまにか、周囲が、沈黙した…


まるで、この部屋に、私と高雄が二人きりで、いるようだった…


それほど、静かだった…


ずーっと、そのまま、何十秒…


いや、


何分か、経っただろうか?


「…ハイ、ハイ…お二人さん、それまで…」


藤原綾乃が、手を叩いて、宣言した…


「…二人とも、なにが、あったか、しらないけど、それまで…いい加減にして…」


藤原綾乃が、警告する。


それから、まず、高雄を振り返り、


「…高雄専務も、なにがあったか知りませんが、自分よりも年下の女性を、ずっと睨み続けるのは、どうかと、思います…」


次いで、私を見て、


「…お嬢ちゃん…アナタも同じ…まだ入社していないとはいえ、この会社の親会社の専務の顔をジッと睨み続けるなんて、失礼極まりないわ…」


藤原綾乃が、言った…


私も、藤原綾乃の言葉に、内心、同意した…


しかし、


しかし、だ…


高雄からは、ずーっと私を睨み続けた謝罪はなかった…


詫びはなかった…


だから、私から、謝るわけには、いかなかった…


だから、


「…」


と、なにも、言わなかった…


そして、それは、高雄も同じだった…


そんな私と高雄を見た、藤原綾乃は、


「…二人とも、頑固ね…」


と、匙を投げた。


「…いいわ…好きなようになさい…」


そう言って、部屋を出ていってしまった…


と、同時に、


「…ちょっと、二人とも、いい加減にして…」


私以外の四人の女の一人が、声を上げた…


見ると、それは、柴野だった…


「…なにが、あったか、知らないけど、いい加減にして…」


柴野が叫ぶ。


そして、それに賛同するように、野口も、


「…そうよ…いい加減にして…」


と、席から、立ち上がって、私と高雄を非難した。


と、そのときだった…


高雄がニヤリと、笑ったのだ…


満足げに、ニヤリと、笑った…


…どういうことだ?…


私は、考える。


「…ようやく藤原さんが、出て行った…」


高雄がいきなり、言った…


「…彼女には、ここにいて欲しくなかった…」


高雄が、打ち明ける。


…それで、私を睨みつけた?…


私は、内心、気付いた…


…藤原綾乃を、この部屋から、追い出すために、なにか、騒動を起こそうと思った?…


考えた。


が、


高雄から、私に謝罪はない…


ということは、やはり、高雄は、私を恨んでいる?


高雄が、女に裏切られたと、藤原綾乃の質問に、答えたが、その女は、もしかしたら、私?


竹下クミ?


そんなことを思った…


そのときだった…


「…高雄さん…どうして、竹下さんを睨んだんですか?…」


大場が直球に聞いた。


いかにも、大場らしい…


誰にも、いいづらい質問を遠慮なく、口にする(笑)…


私は、内心、苦笑した…


「…どうしてって? …それは?…」


高雄は、明らかに、大場の質問に、困惑している様子だった…


「…理由もなく、竹下さんを睨むなんて、おかしいです…なにか、理由があるはずです…」


大場の質問に、高雄は、


「…」


と、沈黙する。


が、


大場は、


「…答えて下さい…」


と、容赦がなかった…


大場の質問に、高雄は、しばし、躊躇したが、


「…竹下さんが、父の敵というか、ライバルと、仲がいいんで…」


と、答えた。


私は、高雄の答えに、


「…」


と、絶句した…


…見抜いている…


いや、


…調べている…


高雄は、私と、稲葉五郎が、仲良くしていることを知っている…


そう思った…


そう思った途端、返す刀で、


「…大場さんも…」


と、高雄は、ニヤリと笑って、付け足した。


その一言で、今度は、大場が固まる番だった…


なぜなら、私に、あのヤクザ界のスター、稲葉五郎を紹介したのは、大場…


大場に他ならないからだ…


「…なにか、目的があるようですね…」


高雄が意味深に呟く。


大場は、


「…」


と、黙ったままだった…


「…もちろん、なにか目的があって、この場にやって来るのは、いいことです…」


高雄が、言う。


「…会社に入って、イケメンを狙うのもいい…それも立派な目的です…」


高雄がわざと言う。


明らかに嫌み…


イケメンである自分を狙っているとでも、言いたいのだろう…


が、


違った…


「…要は、イケメンを狙っているように、見せかければ、いいんです…」


と、高雄が、付け足したからだ…


その言葉に、大場の顔色が変わった…


顔面蒼白とまでは、言わないが、明らかに、顔色が変わった…


そして、高雄は、言った。


「…さっき、藤原さんが、ボクに、女に裏切られた? と、質問して、ボクは、それを認めました…でも、その女とは、ずばり、皆さんです…」


…皆さんって、どういう意味だ?…


私は、考える。


「…竹下さんは、父のライバルと仲がいい…大場さんは、なにか、目的がありそうだ?…」


高雄が言う。


「…でも、これって、ボクに対する裏切りです…だって、そうでしょう? ボクは、皆さんの内の一人と結婚すると、宣言したんですから…」


高雄が続ける…


無茶苦茶な論理だが、筋は通っている…


たしかに、そう考えれば、私たち五人の女は、おそらく高雄を裏切っている…


が、


それを、どうして知っている?


いや、


いつ、それに気付いた?


それに、


それに、だ、


そんなことを、私たちと、話すために、藤原綾乃を部屋から、追い出すように仕向けたのか?


私は、思った…


 …高雄の目的は、なんだ?…


 私は、考える。


 要するに、藤原綾乃が、邪魔だった…


 だから、この部屋から、出ていかせたかった…


 高雄のその言葉にウソはあるまい…


 だが、


 本当に、それだけか?


 なにか、別の目的はないのか?


 考える。


 策士策に溺れる…


 考え過ぎは、良くない…


 なにか、裏があるのかと、勘ぐれば、勘ぐるほど、泥沼というか…


 真実から、離れることが、たびたびある…


 そもそも、藤原綾乃の役割はなにか?


 藤原綾乃は、この杉崎実業の人事部所属の社員…


 だから、今、来春、この杉崎実業に入社予定の私たち五人に対して、事前研修を行っている。


 だが、その藤原綾乃の行動に、不自然な点が見られた…


 ずばり、私がヤクザ界のスター、稲葉五郎に、送迎されて、この杉崎実業にやって来たときに、突然、クルマの前に現れた…


 これは、当然、誰かが、藤原綾乃に、私が、稲葉五郎に送られて、やって来ることを、告げたから…


 藤原綾乃が、単独で、ひとりで、行動したとは、考えられない…


 当然、誰かの指示で動いていると、考えるのが、自然…


 そして、今、高雄が、藤原綾乃を、意図的に、この部屋から、追い出したことから、考えると、藤原綾乃の行動は、高雄の指示を受けてではない…


 だから、はっきり言えば、藤原綾乃は高雄と敵対関係かもしれない…


 いや、敵対関係は言い過ぎでも、藤原綾乃は、高雄を裏切っていることになる…


 なぜなら、この杉崎実業は、高雄総業の支配下にある…


 高雄は、高雄総業の専務…


 だから、当然、高雄の指示で、動かなければならない…


 しかし、そうはなっていない…


だからこそ、今、高雄は、藤原綾乃を排除した…


そういうことだろう…


 だが、これは、一体どうしてだ?


 どうして、そうなったんだ?


 私の頭の中で、さまざまな可能性を考える。


 そのときだった…


 「…竹下さん…」


 と、いきなり、高雄が私の名前を呼んだ…


 「…ハイ…なんでしょうか?…」


 「…さっきは、竹下さんを睨むような真似をして、申し訳ありませんでした…」


 高雄が、私に対して、深々と頭を下げた。


 「…いえ…こちらこそ…」


 私も、反射的に、頭を下げる。


 が、


 高雄に油断したわけではなかった…


 警戒心を解いたわけではなかった…


 ずばり、高雄は信用できない…


 誰から見ても、長身の爽やかなイケメンだが、おそらく中身は、真逆とはいえないが、食えない人物であることは、間違いないからだ…


 それは、大場に対する、高雄の行動からも、明らか…


 すでに、大場が、なんらかの意図を持って、この杉崎実業に入社しようとしているのを、高雄は見抜いている…


 それを、わざと、大場に知らせることで、大場の動きを牽制しようとしたのだろう…


 そして、それは、大場のみならず、ここにいる全員…


 私を含め、五人全員に警告している…


 そういうことだ…


 私は、思った…


 高雄の行動の真意はなに?


 考える…


 そして、思った…


 私たち五人は、同じ顔、同じ身長…


 だが、本当にそうか?


 大場は、父親の大場小太郎代議士のかつての当選の映像で、今よりも、数年前の若いときの映像があり、今と同じ顔をしているから、疑いはないが、私を除いて、他の三人は、わからない…


 もしかしたら、整形した可能性も否定できないからだ…


 そんなことはありえないと思いながらも、私は、そんなことも考えた…


 …真剣勝負…


 とっさに思った…


 …もっとも、危険なゲームかも、しれない…


 私は、考える。


 この杉崎実業には、謎がある…


 謎があり過ぎる。


 私は、考える。


 が、


 結局、その日は、なにも起こらなかった…


 高雄は、その後、部屋から出て行った藤原綾乃を呼び戻し、研修が再開した。


 高雄自身は、すでに、部屋に戻って来ることはなかった…


 要するに、高雄の目的は、藤原綾乃を部屋から追い出して、私たち五人に、警告することだったのだろう…


 私を除く、四人の女たちに、


 …アンタたちの目的は、見え見えだよ…


 …こっちは、先刻お見通しだよ…


 と、警告したかったわけだ…


 大場の顔色が変わったのも、そのためだ…


 そして、その警告は、ウソではなかった…


 数日後、大場の父親であり、次期総理総裁候補にも、名前が挙がる、大場小太郎代議士が、逮捕されるのでは? との情報が、テレビや、新聞、ネットニュースに流れたのだ…


 すぐに、逮捕というわけではないが、すでに、警察や検察が動いているという噂をわざとリーク=漏らした…


 いわゆる、黒い交際疑惑…


 山田会の次期会長候補の、山田会傘下の有力組織、I一家との交流が、暴露された…


 I一家とは、稲葉一家…


 稲葉五郎の組のことだ…


 事実、稲葉五郎は、大場をあっちゃんと呼び、実に親しそうだった…


 大場は、私と同年齢…


 その大場とは子供の頃からの付き合いだと、稲葉五郎は言っていた…


 つまり、稲葉五郎は、大場の父親、次期総理総裁候補の大場小太郎代議士と、昔から仲がいいということだ…


 そして、本当は、大場の父親が、仲がいい=懇意にしているのは、稲葉五郎ではなく、先代の山田会の会長に他ならない…


 すでに、亡くなった山田会の会長と、大場小太郎代議士が、親しかったのだろう…


 選挙には、さまざまな人間の思惑が、入り乱れるというか…


 実にさまざまな人間が集う…


 その思惑というか、その本音というか目的は、多くは仕事の斡旋にある…


 議員になれば、公共工事の斡旋に関わることができる…


 要するに、誰に、公共工事の仕事を割り振るか、決める決定権を持つことができる…


 そこに、さまざまな利権が巣くう…


 大ざっぱに言えば、ヤクザが、自分の息のかかった会社に、仕事を発注させることで、簡単に儲けることができる…


 いわゆる公共工事に市場原理は、発生しない…


 普通の商品ならば、Aというスーパーで、1000円で売られていて、Bというスーパーで、900円で、売られているから、Bというスーパーで、買った方が、100円得すると、消費者は、考える。


 つまり、ここに市場原理が成立する。


 ところが、公共工事は、受注する会社も少なく、市場原理が、発生しづらい…


 市場原理とは、競争であり、競争とは、競うライバルが複数存在することで、成立する…


 しかし、そもそもライバルが少ない時点で、公共工事に市場原理は、成立しづらい…


 いわゆる、公共工事に限らず、ライバルが少ない、業界というか、製品は、市場原理が成立しづらいのだ…


 話を戻そう…


 大場の父、大場小太郎代議士が、亡くなった山田会の会長、そして、稲葉五郎と、どういう関係であったかは、推測の域は出ないが、関係というか、付き合いがあったのは、事実だろう…


 そして、この場合の焦点は、大場小太郎代議士が、山田会と接点があった…付き合いがあったと認めるか、否かだろう…


 いや、


 よしんば、山田会との付き合いを認めないまでも、次期総理総裁候補にも、名前が挙がる、大場小太郎代議士に、この黒い交際疑惑は、ひどい汚点というか…


 下手をすれば、この報道をきっかけに、次期総理総裁候補から、名前が消える可能性すらあり得る…


 私は思った。


 そして、思ったのは、誰が、大場の父親が、稲葉五郎と関係があると、マスコミにリークしたか、だ…


 普通に考えれば、政界の大場小太郎代議士のライバルがリークしたと考えるのが、一般的というか、原理原則というか…


 一番、考えられる…


 しかしながら、この報道で、痛い目に遭ったのは、稲葉五郎も同じ…


 山田会の有力組織、稲葉一家の稲葉五郎も同じだ…


 高雄の父親と、山田会の次期会長レースに臨んでいる、稲葉五郎にとっても、痛い失点となったはずだ…


 ならば、この報道は、高雄の父親の側が、マスコミにリーク=漏らしたのだろうか?


 自分が山田会の次期会長レースを勝ち抜くために、リーク=漏らしたのだろうか?


 可能性としては、考えられる。


 しかし、果たして、そこまでやるだろうか?


 ヤクザ業界のことは、わからないが、稲葉五郎は、高雄の父親のことを、兄貴と呼んで、慕っている様子だった…


 だが、だとすれば、当然、高雄の父もまた、稲葉五郎のことを嫌いなはずはない…


 一方が好きで、もう一方が嫌いという関係は、通常ありえない…


 男女の場合は、男女どちらでも、一方的に相手に思いを寄せて、その相手が、アレは嫌だとか、付き合うつもりはないと、断言することは、普通にあるが、一般の人間関係でいえば、そういうことは、あまり起こりえない…


 自分が相手を嫌えば、当然、相手も、自分を嫌う…


 それが、当たり前だ(笑)…


 自分が、その相手を好きならば、当然、なんとなく、態度に出る…


 その逆もしかり…


 嫌いでも、態度に出る(笑)…


 そして、当然のことながら、好かれれば、相手も気分が良くなるし、嫌われれば、相手も、気分が悪くなる…


 この場合、相思相愛…あるいは、蛇蝎の如く、お互い忌み嫌う関係が出来上がる…


 世の中、そういうものだ(笑)…


 人間関係とは、そういうものだ(笑)…


 話は、少し、それたが、結局、今の時点では、誰が、大場小太郎と、稲葉五郎の関係をリークしたか?


 あるいは、マスコミに漏らしたか、わからなかった…


 だが、それもまもなく、わかった…


 大場が、私に、電話をかけてきたのだ…


 まさか、大場が私に電話をかけてくるとは、思わなかった…


 電話をとったときは、思わず、なにかの間違いだと思ったほどだった…


 電話を取る前に、すでに、登録した大場の電話番号から、大場の名前が、スマホに表示されたが、正直、信じられなかった…


 なにかの間違いかもと、思った…


 なにより、私は大場と、それほど親しくはない…


 大場の父親が、ピンチであることは、私でも、わかる…


 いや、


 私に限らず、誰の目にもわかるはずだ(笑)…


 だが、そんな危機的状況の中で、大場が、私に電話をかけてくる意味がわからなかった…


 私は、正直に言って、頼りがいのある人間ではない…


 集団の中で、リーダーシップを取る人間ではない…


 むしろ、リーダーについてゆく人間だ…


 はっきり言って、頼りがいが、まるでない(笑)…


 だから、こんな状況で、大場が私に電話をかけてくる意味がわからなかった…


 が、大場の申し出は意外なものだった…


 「…もしもし、竹下さん?…」


 「…ハイ…竹下です…」


 私は、少し間を置いて、電話に出た…


 当然のことながら、電話の声は、大場のものだと思ったが、どうしても、信じられなかったからだ…


 「…しばらく…いえ、先週、杉崎実業の研修で会ったわね…」


 大場が苦笑する。


 自分でも、自分の言葉のおかしさに気付いた様子だった…


 が、逆に言えば、そんなおかしなことを、口にするほど、メンタルがやられていた…


 ずばり、精神的に追い詰められていたに相違ない…


 口調も、いつもの強気一辺倒の大場ではなかった…


 「…竹下さん…」


 大場がゆっくりと、口を開いた…


 「…ハイ…」


 私は、返答したが、内心戦々恐々だった…


 一体、大場が、なにを言い出すのか、皆目見当もつかなかったからだ…


 「…力を貸してくれない?…」


 「…ち・か・ら…?…」


 思わず、絶句した…


 一体、私に、どんな力があるというのか?


 いや、


 そもそも、なぜ、大場は私に電話をかけてきたのか?


 それが、わからない…


 疑問だ…


 普通、こんなときに、電話をかけるのは、林だろう…


 林は、大金持ちのお嬢様…


 生粋のお嬢様だ…


 お金があれば、なんでもできるとは思わないが、少なくとも、こんな危機的状況で、頼るのは、私ではなく、林…


 林に決まっている…


 だが、


 しかし、


 もしかしたら、そんなことも、わからなくなってくるほど、精神的に追い詰められているのかもしれない…


 そんなこともわからなくなるほど、精神に変調をきたしているのかもしれない…


 だが、まさか、それを口にするわけには、いかない…


 直接、大場に言うわけには、いかない…


 だから、遠慮がちに、


 「…大場さん…相手を間違えてるんじゃ…」


 と、言った。


 大場は、一瞬、


 「…」


 と、絶句したが、


 「…間違えてる? …どういう意味?…」


 と、聞いた。


 「…いえ、いいづらいんだけど、こんなときに、電話をするのは、私じゃなく、林さんじゃ…」


 「…林? …どうして、林なの?…」


 「…だって、林さんは、お金持ちでしょ?…」


 「…お金持ち?…」


 「…そう…お金持ちの林さんなら、大場さんの力になれるかと思って…」


 私の言葉に、大場は、


 「…」


 と、絶句した…


 言葉を失った…


 が、少しして、


 「…今、必要なのは、お金じゃない…」


 と、林が返答した…


 「…お金じゃない?…」


 それは、わかるが、だったら、なんで、私なんだ?


 この平凡な竹下クミなんだ?


 私は、思った…



「…今、必要なのは、お金じゃない…」


 大場が言った…


 それを、私は、頭の中で、反芻した。


 繰り返した…


 大場の言うことは、わかるが、だったら、一体、なんだと言うんだ?


 お金じゃないと言ったら、一体なにが、欲しい?…


 あるいは、必要と、言いたいんだ?…


 いや、


 問題は、そこじゃない!…


 今、必要なのは、お金じゃないというのは、わかるが、それなら、一体、私に、なにを望んで、電話をかけて、きているのか?


 この平凡な竹下クミに、一体、なにを期待して、電話をかけてきたのか?


 大場は、何度も言うように、次期総裁候補にも、名前が取りざたされる、有力議員の娘…


 そんな日本中に知られた有力議員の娘が、一体、私に、電話をかけてきて、どうするつもりなのか?


 こんな平凡極まりない私に、電話をかけてきて、どうするつもりなのか?


 私は、思った…


 そして、それを、口にした。


 「…大場さん…私に、大場さんに力になれることなんて…」


 私は、恐る恐る、言った…


 「…いいえ、竹下さんだから…できる…」


 大場が即答する。


 「…私だから、できる?…」


 思わず、大場の言葉を、反芻した。


 繰り返した。


 …私だから、できないの間違いじゃ…」


 思わず、心の中で、叫んだ…


 と、同時に、やはり、大場は、頭がおかしくなった…


 はっきり言って、父親のピンチに、慌てふためいて、わけがわからなくなった…


 そう、考えた…


 だが、それを言うわけには、いかない…


 口にすることは、できない…


 だから、私は、ふと、考えて、


 「…大場さん…一体、私になにができると言うの?…」


 私は、言ってやった…


 私にできることなんて、あるわけがないからだ…


 「…一体、なにができる? できるわ…」


 大場が、電話の向こうから、嬉しそうに言った…


 「…竹下さんが、高雄さんに、一言、頼めば、高雄さんは、竹下さんの言うことは、なんでも聞く…」


 大場が、早口にまくしたてるように、言った…


 「…私が、頼めば、高雄さんが、なんでも、言うことを聞く?…」


 思わず、私がのけぞるようなことを言った…


 まさに、驚天動地の驚きだった…


 「…そんなこと…」


 私は、つい言ってしまった…


 口をすべらせて、しまった…


 …そんなこと、あるわけない…


 と、本当は言いたかったのだ…


 だが、


 「…そんなことも、こんなこともない…高雄さんは、竹下さんに、首ったけ…竹下さんの言うことなら、どんなことでも、断らない…」


 「…私の言うことなら、どんなことでも、断らない…」


 私は、大場の言葉に絶句した。


 大場のあまりの言葉に、驚いて、言葉を失っていると、


 「…まだ、わからないの、竹下さん…」


 と、大場が強い口調で、言った。


 「…わからない? …なにがわからないの?…」


 「…高雄さんの本命は、竹下さん、アナタよ…それを見破れさせないように、私を含め、竹下さん以外の四人が、すべて、竹下さんに、似た女のコを集めた…」


 衝撃的な事実を、大場は言った…


 その言葉を聞いて、思わず、


 「…ウソ!…」


 と、言った。


 いや、


 つい、言葉に出た…


 「…ウソじゃない…あの杉崎実業に入社予定の五人は全員、似ている…私を含め、全員同じ顔…同じ身長…同じ年齢…なぜだか、わかる?…」


 「…」


 「…それは、竹下さん、アナタに似ているから…私も林もそれで集められた…」


 衝撃的な事実を口にした。


 私は、


 「…」


 と、言葉もなかった…


 すでに、なにを言っていいか、わからない状態だった…


 高雄が、私に気がある?


 あのイケメンの高雄が、私を目当て?


 一体全体、どういうことだ?


 あんなイケメンが、私を狙っていたなんて、一体どういうことだ?


 「…高雄さんは、竹下さんの頼みなら、断らない…」


 大場が言う。


 「…だから…」


 大場が言う…


 そして、いつも強気の大場が、電話の向こう側で、泣いていることが、わかった…


 「…だから…お願い…私に力を貸して…」


 大場が涙ながらに、電話の向こうから、言った…


 ずばり、私に懇願した…


 もしかしたら、これは演技かも?


 一瞬、そんな考えが脳裏をかすめた…


 大場が私を騙している…


 あるいは、


 からかっている…


 不謹慎かもしれないが、一瞬、そんな考えが、脳裏に浮かんだ…


 そもそも、あの美男子の高雄が、私の言いなりになることなど、ありえないからだ…


 だが、もう少し、冷静になって、考えると、それも怪しかった…


 なぜなら、今、大場はピンチ…


 大場の父の大場小太郎代議士は、黒い交際疑惑で、議員生命のかかったピンチだ…


 そんなピンチのときに、わざわざ、私に電話をかけて、私をからかっている暇など、あるわけがなかった…


 だから、なんだか、わからないが、大場は本気…


 本気で、私に頼んでいる…


 懇願している…


 それが、わかった…


 と、そこまで、考えて、


 「…わかった…」


 と、小さく、言った…


 「…ホント?…」


 嬉しそうに、言う声が、電話の向こうから、聞こえた…


 「…私にできることなら…」


 小さく言った…


 小さな声で言った…


 正直、自分になにができるか、さっぱりわからないからだ…


 高雄に会って、一体、自分が、なにをすれば、いいか、わからないからだ…


 「…ありがとう…竹下さん…」


 電話の向こう側から、大場が、心の底から、私に感謝するのが、わかった…


 演技ではない…


 これは、演技ではない…


 なぜだか、さっぱりわからないが、私は、高雄に気に入られてるらしい…


 私自身、さっぱりわからないが、少なくとも、大場はそう思っている…


 あるいは、


 心の底から、そう信じている…


 私は、そう思った…


 「…で、私は、具体的に、なにをすれば、いいの…」


 「…それは…」


 大場が言った…


 私は黙って、それを聞いていた…


 

 大場との電話が終わった後、私は、考えた…

 

 高雄…


 高雄悠(ゆう)…


 考えてみれば、実にミステリアスな存在だ…


 山田会の次期会長候補の息子に生まれたにも、かかわらず、ヤクザというよりも、図書館や花屋が似合う、おとなしめ系の男…


 ヤクザとは、真逆の、非暴力系の男子…


 見るからに、優しく穏やかな、男…


 だが、その実態は…


 私は、考える。


 おそらく、真逆…


 誰よりも、したたかで、狡猾な可能性が高い…


 あのヤクザ界のスター、稲葉五郎が、


 「…悠(ゆう)は、見た目とは、違う…」


 と、私に警告した…


 そして、それを、私は信じた…


 ウソではないと、思った…


 それが、真実…


 真実に他ならない…


 本当のところは、わからないが、そう私に思わせる、なにかが、高雄にあるということだ…


 私は、考える。


 人間の本性は隠せない…


 漫画ではないのだから、常時、演技をすることはできない…


 かつて、父が、私に言ったことがある。


 職場で、同僚を見て、思うのは、仕事ができる、できないではないということだ、と…


 どういうこと?


 と、私が、父に聞くと、


 仕事ができる、仕事ができない…それに、


 仕事ができないフリをしている…


 これが、入る場合が、稀にある、と…


 でも、なぜ、できないフリをしているのか?


 私が、父に尋ねると、


「…理由はひとそれぞれだろう…」


と、父は、答えた…


 一番、単純な理由は、その職場、あるいは、会社が、腰掛けに過ぎないと、当人が、考えている場合…


 なまじ、仕事ができるのを、見せて、仕事をさせられたら、困るからだ…


 そもそも、その会社に長居をすることなど、考えてもいないのに、良い評価を下されたら、困るからだ…


 良い評価=仕事がきつくなる…


 どの会社でも、それが、普通だ(笑)…


 できると、周囲に思われるから、余計に、仕事を任される(苦笑)…


 それが、嫌だから、最初から、できないフリをする…


 そういうことだ(笑)…


 また、そこまで、いかなくても、例えば、単純な話、パソコンのウインドウズのインストールなど、単純なことでも、本当は、できるのに、できないフリをしているのを、見たことがあると、父は言っていた…


 なぜ、できるのに、できないフリをしているのか?


 この場合の理由は、単純で、一度でも、パソコンのウインドウズのインストールをやれば、次からは、必ず、その人間が、職場のパソコンのウインドウズのインストールをやらされるからだ…


 パソコンのウインドウズのインストールに限らず、一度でも、できるのを職場の人間に、見せたら、次からは、その業務は、その人間がやらされる…


 それがわかっているから、あえて、できないフリをする人間は、世の中、結構いる…


 単純に、会社に残る、辞めるという選択肢ではなく、その仕事をできるのを見せることで、次から、その仕事を任されるのを、恐れる、あるいは、嫌がるからだ…


 出世や昇進とは、まるで関係がないような、小さなことでも、普段、自分が、やっていないことを、次から、やらされるのを、目に見えるからこそ、できないフリをする人間は、世の中、いっぱいいる…


 話は、若干それたが、高雄の場合もまた、それに似ている…


 高雄は、長身の爽やかなイケメンで、一見、誰が見ても、非の打ちどころのない好青年に、思えるが、少し、接すると、なにかが、違う…


 心に刺さるというと、大げさだが、なにか、微妙に引っかかることがある…


 それが、なんだか、正直に言って、私には、わからない…


 あるいは、それは、高雄の出生に関係しているのかもしれない…


 高雄は、かつて、自分は、今の家に生まれたのではない、と、私に言っていた…


 途中から、今の家に入ったと…


 高雄の父は、有力ヤクザ…


 だから、もしかしたら、高雄は、高雄の父の愛人の子供なのかもしれない…


 ヤクザに限らず、今は、不倫をする男女は多いが、どうしても、ヤクザの場合は、普通よりも、多いと、考えられる…


 実際、私は、これまで、ヤクザを誰一人知らなかったが、どうしても、そう思ってしまう…


 これは、私に限らず、誰もが思う、世間一般のヤクザ観だろう…


 ヤクザに対する見方だろう…


 そして、もし、高雄が父の愛人の子供で、最初は、別の家庭に生まれて、途中で、今の家庭にもらわれた…あるいは、移ったと考えた場合、心に傷を負うというと、大げさだが、その後の高雄の人格形成に、大きな影響を与えた可能性が高い…


 あるいは、生まれ持っての性格というものは、存在するが、どうしても、生きてゆく上で、身に着いた周囲の環境というものの、存在は大きい…


 無視できない…


 高雄の父が、有力ヤクザと言っても、昔から、有力ヤクザというわけではあるまい…


 ヤクザは世襲制ではない…


 代々、ヤクザを続ける家庭は、決して多くはない…


 ヤクザの子はヤクザということは、当然、あるけれども、いわゆる、山口組の組長を例に挙げれば、わかるように、今の山口組の組長の父親はヤクザではない…


 つまり、世襲ではないということだ…


 オーナー社長が君臨する会社や歌舞伎のように、世襲ではない…


 いわゆる、実力社会…


 だから、昔から、腕っぷしに自信のある、若者が、ヤクザになったのだろう…


 一攫千金というと、大げさだが、腕に覚えがあれば、出世できると、考えたのだろう…


 思えば、あの稲葉五郎など、その好例だろう…


 私は、思った…


 つまり、なにを言いたいかと言えば、高雄は、今は、有力ヤクザの息子だが、高雄が、今の家庭に引き取られたときは、父親は有力ヤクザなどではなかったということだ…


 むしろ、貧乏だった可能性すらある…


 そんな家庭に引き取られた高雄が、どんな性格になったのかは、わからない…


 ただ、高雄を昔から知る稲葉五郎は、高雄の性格がわかっているのだろう…


 だから、私に警告した…


 …悠(ゆう)は見た目とは違うと、警告した…


 その言葉がすべてだろう…


 私は、考える。


 考え続けた…



 …高雄…


 …高雄悠(ゆう)…


 私は、考え続けた…


 思えば、あの杉崎実業の内定をもらって、高雄と一目会って以来、私は、いつも、高雄のことを考え続けている…


 いつも、心のどこかに、高雄が、住んでいるというか…


 在中しているというか(笑)…


 高雄と、会ったのは、まだ、ほんの数回にも、かかわらず、あの日、杉崎実業の内定に出向いて、高雄と会って以来、私の生活は一変した…


 なぜなら、高雄を中心に動き出したからだ…


 高雄の父が、私のバイト先のコンビニにやって来たり、同じく、杉崎実業の内定で出会った林も大場も、高雄の父と同じく、バイト先のコンビニにやって来た…


 つまりは、なぜか、高雄人脈というか、高雄と知り合って以来、私の周りに、高雄をきっかけに、知り合った人間が、集まり出した。


 そして、その最も影響が大きいというか、私に親しく接しているのが、ヤクザ界のスター、稲葉五郎だ…


 大柄なカラダで、見るからに、怖そうで、誰が見ても、ヤクザそのものだが、なぜか、私に優しい…


 驚くほど、私に優しい…


 おそらく、稲葉五郎に娘がいても、私に接するほど、優しく、接しないのでは?


 そう思えるほど、優しい…


 と、同時に、気付いた…


 今回の危機は、大場の父親の危機だけではない…


 あの稲葉五郎にとっても、危機だということを、だ…


 あの、なぜか、私に優しい、稲葉五郎にとっても、危機に違いない…


 ヤクザ社会のことは、わからないが、次期総理総裁候補の大場小太郎代議士と、稲葉五郎が、親しく接していると、世間に暴露されても、いわゆる、ヤクザ社会で、男を上げたことには、ならないだろう…


 やはり、ヤクザは、ケンカが命…


 どこそこの誰かと、ケンカ=抗争をして、それに勝利して、名を上げるのが、筋だろう…


 ヤクザもまた、人間なのだから、有名な芸能人や政治家と、懇意にしているのは、嬉しいに違いない…


 誰それと、親しく、いっしょに、飲み歩いたと言うのは、自慢になるからだ…


 しかしながら、それを、周囲に自慢するのは、小物といっては、失礼だが、大物になれば、それも、できなくなる…


 自分の一挙手一投足が、話題になる…


 だから、どんなことにも、慎重になる…


 例えば、公の場で、有名芸能人や、有力政治家と親しいなどとは、口が裂けても、いえなくなる…


 言えば、相手に迷惑がかかるからだ…


 逆に言えば、そんな気配りができるからこそ、ヤクザ社会で、出世ができて、大物と呼ばれる地位に就いたとも言える…


 ま、しかし、これは、ヤクザ社会に限らず、どこの世界も同じだろう(笑)…


 言っていいことと、悪いことの区別ができない人間が、どこの世界でも、出世できるわけはない…


 偉くなれるわけはない…


 あの稲葉五郎もまた、出世した人間…


 だから、当然、周囲に気配りができるに違いない…


 そんな、稲葉五郎だから、今、苦慮しているのではないか?


 苦しんでいるのではないか?


 私は、思った…


 大場小太郎代議士との関係に、自分の名前が出て、迷惑をかけている…


 それで、苦しんでいるのではないか?


 そう思った…


 いつのまにか、高雄ではなく、話の中心が、稲葉五郎に移った…


 なぜか、高雄ではなく、稲葉五郎が心配になった…


 我ながら、不思議だった(笑)…


 だが、考えてみれば、これは、不思議でもなんでもないのかもしれない…


 稲葉五郎は、見かけは、ゴツイが、なぜか、私に優しい…


 心の底から、親身になって、接してくれる…


 私を、当初、稲葉五郎が探していた、亡くなった山田会の前会長の探していた娘だと、誤解していて、私が、何度も、違う、人違いだと、言っても、それを信じることがなかった…


 だから、稲葉五郎は、今だに、私を、山田会の前会長が、探していた娘だと、信じている…


 だが、それだけではあるまい…


 私が否定しても、私を山田会の前会長が探していた娘だと、心の底から信じているから、私に親切にしてくれる…


 私を大切にしてくれる…


 とても、そうとは思えない…


 あの街中華の女将さんは、私を取り込むことで、稲葉五郎が、高雄の父と争う、山田会の次期会長レースで有利になるためだと、言った…


 山田会の次期会長レースで、亡くなった山田会の会長の探していた娘を、自分の味方に引き入れることで、どれだけ、有利になるか、私には、わからない…


 ただ、女将さんが言うには、表立って、有利になるわけではないが、嫌われるのは、困るということだ…


 あの山口組の田岡組長の娘さんや、息子さんが、今の組長は、嫌いだと公言されては、堪らない…


 おそらく、今の山口組とは、なんの関係もないだろうが、嫌われては、決して、自分のいいイメージにはならないだろう…


 プラスには、ならないだろう…


 そういうことだ…


 しかし、稲葉五郎は、そういった損得抜きで、私に優しい…


 どう考えても、損得で、私に接しているようには、思えない…


 胸に打算があって、接していると、どうしても、下心が態度に出る…


 だが、稲葉五郎には、その下心がないように、思える…


 ただ、純粋に、私を可愛がってくれる…


 そう思える…


 そして、それが、嬉しかった…


 誰でも、そうだが、なんの打算もなく、下心もなく、自分に優しくしてくれるのは、嬉しい…


 私が、女で、稲葉五郎から見れば、娘ぐらいの年齢だが、どう見ても、稲葉五郎が、私に下心があるようには、思えない…


 下心=この場合は、男女の関係だが、それがある場合は、やはり、態度に出るものだ…


 なんとなくジロジロと、いやらしい目で見たりして、見られている人間にも、それがわかる…


 稲葉五郎には、それがない…


 稲葉五郎は、純粋に、私を可愛がってくれる…


 どうしてだか、わからないが、純粋に私を可愛がってくれる…


 なぜだか、わからないが、高雄ではなく、稲葉五郎のことを、いつのまにか、考えていた(笑)…


 高雄ではなく、稲葉五郎の方が、私には、心配だった(笑)…


 結局、大場から、頼まれて、私は、高雄に連絡を取ることにした…


 高雄組に連絡をすることにした。


 以前、高雄から聞いた、電話番号に、電話をかけた…


 正直、ドキドキした…


 以前、電話をしたときは、この電話番号が、高雄組の電話番号であることを、知らなかった…


 だから、


 「…どちらさんですか?…」


 と、いうヤクザ特有のだみ声が、電話の向こうから、洩れてきて、私は、慌てた…


 まさか、ヤクザが電話に出るとは、思わなかったからだ…


 しかし、今は違う…


 この電話番号が、高雄組であることが、わかっている…


 そういう意味で、私には、余裕がある…


 最初から、この電話番号が、高雄組であることがわかっているから、それに対抗するというか…


 覚悟ができているということだ…


 私が電話をかけると、まもなく、相手が電話に出た。


 「…こちら、高雄組ですが、どちらさんでしょうか?…」


 「…竹下…竹下クミと言います…」


 私は名乗った…


 「…竹下さん…?…」


 電話に出た、男の声が怪訝な様子になった…


 若い女が、この電話番号に、電話をかけてきたのが、不審に思ったのかもしれない…


 しかしながら、電話に出た相手も、また、私と同じくらいの年齢の男だった…


 なぜなら、声が若い…


 電話だから、顔はわからないが、声が若いのは、わかる…


 例えば、男でも女でも、二十歳と四十歳の声は違う…


 若いときは、高い声でも、徐々に、低くなる…


 だから、声を聞いただけで、なんとなく、相手の年齢がわかる…


 「…失礼ですが、どういう、ご関係でしょうか?…」


 …どういう、ご関係って?…


 私は、相手の質問に一瞬悩んだが、


 「…今春、杉崎実業に内定をもらった者です…先日、親会社の取締役として、やって来られた、高雄…高雄悠(ゆう)さんに、お会いしたくて…」


 私が、最後まで、言い終わらないうちに、


 「…坊ちゃんはいません…」


 と、冷たく、返した…


 「…いない?…」


 「…そうです…」


 「…だったら、今どこに?…」


 「…知りません…」


 そう言うと、相手は、非情にも、プツンと電話を切った…


 私は、驚いた…


 唖然とした…


 まさか、電話を切られるとは、思わなかった…


 これは、一体、どういうことだ?


 私は思った…


 電話に出たのは、間違いなく、高雄組の若い衆…


 電話番に違いない…


 それが、勝手に、組長の息子にかかって来た電話を切るとは?


 いや、


 勝手に電話を切ることは、ありえない…


 そんなことをすれば、高雄の父親に怒られるに決まっている…


 ということは?


 ということは、どうだ?


 これは、高雄の父親の指示…


 高雄組組長の指示に違いない…


 私は、思った…


 父子の断絶…


 あるいは、そこまで、行かなくても、なにかが、起こっている…


 私は、考えた。


 …だが、どうする?…


 大場に、高雄に会ってくれと、私は、頼まれた…


 だが、私は、高雄の連絡先は知らない…


 高雄が、以前、私に教えてくれたのは、なぜだか、わからないが、実家の電話番号だった…


 高雄組の電話番号だった…


 これは、まったくもって、意味がわからない…


 普通は、自分のケータイの電話番号を教えるはずだ…


 なぜ、そうしなかったのか?


 …試している?…


 …私を試している?…


 とっさに、そんなことが、閃いた…


 私が、高雄に教えてもらった、電話番号にかければ、当然、自分の父親の組の若い衆が出る…


 なにも、知らなければ、電話をかけた人間は、当然、慌てふためく…


 それで、相手が、どう出るか、試している?…


 誰もが、そうだが、とっさに、行動するときに、その人間の真価が出るというと、大げさだが、その人間が、どういう人間だか、わかる…


 ハプニングに出くわしたときに、その人間の本性が出る…


 わかりやすい例えで言えば、若い恋人同士で、歩いていたときに、街のチンピラに絡まれたとする…


 普通ならば、男が女を守ると、思いがちだが、なかには、逃げ出すものもいる…


 その場合は、男が情けないと言ってしまえば、それまでだが、少し考えてみると、別の考えが浮かんでくる…


 まずは、男の女に対する、考え…


 男が女をどれぐらい好きか、どうか?


 そのとき、いっしょに連れた女の場合は、逃げ出したが、別の女の場合は、勇敢に闘ったかもしれない…


 その可能性もある…


 あるいは、相手がどんな美女でも、自分が大事だから、常に、逃げる…


 その可能性もある…


 どんな美女を連れていても、自分の方が大事だからだ…


 だが、普段は、そんなことは、わからない…


 この場合は、街でチンピラに絡まれたことで、男の本性がわかる…


 そういうことだ…


 話がいささか、回りくどくなったが、つまりは、高雄にも、そういう可能性があるということだ…


 わざと、高雄組の電話番号を教えて、その電話番号にかけてきた人間が、どういう反応を示すか、試している可能性があるということだ…


 私は、思った…


 だが、どうする?


 このままでは、大場の頼みは、引き受けることができない…


 高雄に、会うことが出来ないからだ…


 誰か、高雄の電話番号を知っている者は、いないか?


 あるいは、電話番号は知らずとも、高雄に連絡が取れる人間…


 要するに、高雄の身近な人間だ…


 それが、誰か、私は、考える。


 とっさに、二人の人間が、脳裏に浮かんだ…


 一人は、高雄の父親…


 一度会っただけだが、なぜだか、わからないが、私に優しい…


 だから、電話をするのは、躊躇(ためら)わないといえば、ウソになるが、決して、電話ができないわけではない…


 だが、そもそも、さっき、高雄の家に電話をかけたときに、電話に出た若い衆が、


 「…坊ちゃんはいません…」


 と、いきなり、私の電話を切った…


 あれは、さっきも、考えたが、父親の組長から、命じられたに違いない…


 まさか、若い衆の独断で、自分の組の組長の息子宛ての電話を勝手に切ることはできないからだ…


 と、なると、どうだ?


 例え、私が、高雄の父親と会ったところで、息子の悠(ゆう)とは、連絡が取れない可能性が高い…


 おそらく、高雄の父親は、私に、息子の悠(ゆう)の連絡先を教えては、くれないだろう…


 それに、正直に告白するが、高雄の父親と会うのは気が引けるというか…


 物腰は、穏やかなサラリーマンのようだが、当然のことながら、中身は違う…


 あのヤクザ界のスター、稲葉五郎の兄貴分…


 日本で、二番目に大きな山田会の次期会長候補の大物ヤクザだ…


 私が、会いたいといえば、もしかしたら、会ってくれるかもしれないが、正直言って、怖い…


 できれば、会いたくない…


 それが、偽らざる本音だった…


 そして、もう一人は…


 意外かもしれないが、あの稲葉五郎だ…


 稲葉五郎は、高雄のことを悠(ゆう)と、呼び捨てにしている…


 逆にいえば、それほど、親しいというか、仲がいい証拠…


 事実、高雄を子供の頃から知っていると言っていた…


 そして、悠(ゆう)が、見せかけとも違うと、私に警告したのも、稲葉五郎だった…


 あの稲葉五郎ならば、もしかしたら、高雄の連絡先がわかるかも…


 私は、そう思った…


                <続く>


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