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運命婚 白馬の王子様はヤクザ?  作者: トモサン


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12/16

運命婚 白馬の王子様はヤクザ? 12



 「…じゃ…乗って…」


 大場が言った…


 私は、大場の声で、現実に戻ったというか…


 あらためて、自分自身の置かれた状況を考えた…


 …終わってない!…


 …まだ、なにも、終わってない!…


 今さらながら、思った…


 杉崎実業に端を発した、今回の騒動が終わっていれば、こうして、大場が私を誘うことなど、ないに違いないからだ…


 次期総理総裁候補の娘が、この平凡な竹下クミを誘うことなど、ないに違いないからだ…


 私になにが、あるか、わからないが、利用価値はあるに違いない…


 あらためて、そう思いながら、私は、大場の言葉に従って、大場の運転するクルマに乗った…


 当然のことながら、大場がハンドルを握る…


 私は、真っ先に、大場に、


 「…このクルマ…なんて、クルマ?…」


 と、聞いた…


 どうしても、聞いてみたかったのだ…


 大場は、私の質問に、怪訝な表情を浮かべたが、


 「…別に…ただの国産車よ…」


 と、言っただけだった…


 だが、私は、追及の手を緩めなかった…


 「…車名は?…どこのメーカー?…」


 大場は、私の追及に、不満な表情を見せたが、


 「…マツダよ…マツダ3のセダン…恰好が好きなの…」


 大場が告げる…


 「…真っ赤な色が、これほど似合うクルマもない…一言で言って、セクシーっていうか…単純にこのクルマが好きなの…」


 大場が告白する…


 たしかに、今は、すでに乗車してしまったから、このクルマの外観は見えないが、このクルマは、カッコよかった…


 あまり、クルマに興味のない私でも、カッコイイのは、わかった…


 すると、前回、大場が、ベンツGクラスに乗ってきたのは、ヤンキーを気取るためと思っていたが、違うのだろうか?


 私は、考えた…


 私を脅すために、わざと、あんな大きなクルマに乗って、革ジャンを着て、やって来た…


 すべては、私を脅すため…


 私、竹下クミが、ヤンキーがヤクザといった、いわば暴力の匂いのする輩(やから)が大の苦手と、事前に調べて、わざと、ヤンキー系になりすますためにやったと思ったが、違うのだろうか?


 私は、思った…


 だから、聞こうと思った…


 が、


 その前に、大場が口を開いた…


 「…でも、不思議…」


 いきなり、言った…


 一体、なにが、不思議なのだろう?


 「…不思議って、なにが、不思議なの?…」


 「…ほら、竹下さんと私、それに林もだけど、みんな似たような顔に、似たような身長…」


 …たしかに…


 …それは、わかる…


 「…いえ、別になぞなぞゲームをしようというんじゃないのよ…でも、5人、集まって、その5人が、みんな、似たような身長に、似たような顔っていうのは、衝撃的というか…あり得ないというか…」


 …試している?…


 私は、気付いた…


 わざと、こんなことを言って、私が、どこまで、気付いているか、試している…


 とっさに思った…


 だから、


 「…それって、好みなんじゃ…」


 と、言った…


 「…好み? なんの好み? 誰の好み?…」


 「…人事部長の…だって、誰を採用するか、決めるのは、人事部長でしょう…」


 私の答えに、大場は、


 「…」


 と、沈黙した…


 私の答えが、予想外だったのかもしれない…


 だから、私は、


 「…私たち5人は、みんな、子供っぽいから、あの人見って部長…きっと、ロリコンよ…だから、わざと、子供っぽい、5人を採用したの…それとも…」


 「…それとも、なに?…」


 「…単純に、私たち5人の顔が好みだったのかも…美人過ぎず…ブスでもない…クラスにいれば、3番目にかわいい女のコ…だから、職場に配属しても、私たち5人を巡って、男たちが、取り合いになって、ケンカすることもない…無難というか…」


 わざと、私は言った…


 言いながら、大場の反応を見た…


 大場は、私の言葉に、


 「…」


 と、沈黙した…


 どう言おうか、考え込んでいる様子だった…


 まもなく、


 「…それはあるかも…」


 あっけらかんと、大場は言った…


 「…竹下さん…鋭い…鋭いね…」


 「…そう…」


 私は、答える。


 あまりにも、意外な大場の反応だった…


 本当に私の言うことを信じたのだろうか?


 「…以前、パパが言ってた…」


 突然、言った…


 「…なんて、言ったの?…」


 「…今の竹下さんが言ったのと、同じこと…」


 「…同じこと?…」


 「…そう…会社で美人を採用するのは、よし悪し…同じ能力ならば、あえて、ブスの方を採用する会社もあるって…」


 「…あえて、ブスを採用する?…」


 思わず、声を上げた…


 信じられない言葉だった…


 「…どうして、ブスを採用するの?…」


 「…今、竹下さんが、言ったじゃない…男たちが、女のコを取り合いになって、ケンカになったら、困るって…」


 私は、大場の返答に、


 「…」


 と、絶句した…


 たしかに、言ったが、それは、口から出まかせを言ったというか…


 冗談で言っただけだ…


 まさか、それを真に受けるとは?


 私が、驚いていると、


 「…パパから聞いたの…」


 と、大場が続けた…


 「…お父様から?…」


 「…パパは、あの通り、国会議員だから、人付き合いも、多いっていうか…さまざまな業界の人間と、接する…だから、今、竹下さんが、言ったように、会社が、若い男ばかりで、若い女のコが少ないところは、あえて、美人とブスが、面接にやって来たら、ブスを採用するんだって…竹下さんが、言ったように、若い男のコたちが、その美人を取り合いになって、取っ組み合いのケンカになったり、職場がギクシャクしたら、困るから…」


 私は、大場の回答に、ただただ、唖然とした…


 思わず、目を白黒させた…


 自分では、口から出まかせというか、適当に、いい加減なことを言ったにもかかわらず、それが当たっているとは、まさか、思わなかったからだ…


 「…それを思えば、美人に生まれて、いいことばかりじゃないね…私も、竹下さんも、いわば、そこそこの美人に生まれてラッキーかも…」


 大場が笑う…


 いつのまにか、気が付くと、いつも通り、大場が会話の主導権を握っていた…


 今日は、これまでとは、違って、大場はヤンキーのフリをしていない…


 にもかかわらず、最初は、この竹下クミが、会話の主導権を握っていたにも、かかわらず、いつのまにか、大場に主導権を奪われた…


 そのことに気付いた私は、落胆した…


 見るも無残に落ち込んだ…


 まさか、ヤンキーのフリをしていない、大場に、ここまで、主導権を握られるとは、思わなかった…


 大場が、ヤンキーのフリをして、私に圧をかけていたことを、見破ったにも、かかわらず、結果は同じ…


 いつもの通りだった…


 そんな私の様子に気付いたのだろう…


 ハンドルを握る大場が、


 「…竹下さん…なんだか、落ち込んでるみたい…」


 と、言った…


 私は、


 「…その通り…」


 とは、さすがに言えないので、


 「…」


 と、黙っていた…


 私が、落ち込んでいると、認めれば、どうして、落ち込んでいるか、説明しなければ、ならないからだ…


 まさか、大場が優位に立ったので、いつも通り主導権が握られて、悔しいとは、言えない…


 だから、ふと、考えて、話題を変えることにした…


 「…大場さんのお父さん…凄いね…」


 と、とっさに、話題を変えた…


 が、その話題を、私が、口にした途端、なぜか、ハンドルを握る大場の顔が微妙に引きつったというか…


 明らかに、緊張した表情になった…


 私は、驚いた…


 これまで、次期総理総裁と呼ばれながらも、正直、地味というか、影が薄い、大場小太郎が、今度の一件で、一躍脚光を浴びて、有名になった…


 知名度を上げた…


 世間では、文字通り、次の首相候補の最右翼になった…


 にもかかわらず、なぜ、大場が嫌な顔をするのだろう…


 私には、疑問だった…


 ハンドルを握る大場は、私の問いかけに、


 「…」


 と、黙っていた…


 なにも、答えなかった…


 …どうして、答えないのか?…


 私は、大いに疑問だった…


 これまで、次期首相候補と呼ばれながらも、知名度が低かった大場小太郎が、一躍有名になった…


 これは、嬉しい出来事…


 にもかかわらず、大場は、少しも嬉しそうではない…


 これは、一体、どういうことだ?


 私は、考える…


 大場は、


 「…」


 と、なにも、言わなかった…


 だから、当たり前だが、私も、


 「…」


 と、なにも、言わなかった…


 だから、車内は、無言だった…


 いや、


ただの無言ではない…


緊張感が、漂った…


当たり前だが、互いが、沈黙する中で、空気が微妙になった…


「…凄いか…」


ようやく、ボソッと、呟いた…


「…たしかに、凄い…それまで、長らく、総理総裁候補、次の首相と、呼ばれながらも、世間的な知名度は、低かった…ルックスも悪くない、頭もいい…背も高い…でも、ダメだった…」


大場が呟く…


「…やっと、ここまで、来た…ずっと昔から、パパが夢見た総理大臣になれる…その椅子が、パパの手の届くところまで、やって来た…」


大場が言う…


その口調には、万感の思いが詰まっていた…


「…ウチは…大場の家は、ずっと、政治家を続けてきた…でも、まだ、誰も総理大臣になった者は、いない…パパは優れていて、ずっと昔から、いずれは、総理になると言われてきた…だけど、影が薄いっていうか、正直、存在感が乏しかった…だから、これまで、ダメだった…それが…」


大場が、感極まった表情で、続ける…


まさに、万感の思いが詰まった言葉だった…


だから、さっきまで、緊張していたんだ…


私は、なぜ、さっきまで、大場があんなにも、緊張した表情でいたのか、ようやく、わかった…


大場の父、大場小太郎は、総理大臣になるのが、夢だった…


大場家は、ずっと、政治家の家系…


だが、まだ、総理大臣は輩出してない…


だから、大場小太郎が、総理になるのは、一族の夢だったに違いない…


事実、大場小太郎は、東大出の元キャリア官僚だと、後で知った…


キャリアは、東大でも、上位の成績優秀者しか、なれない…


上位の一握りの成績優秀者の集まりだ…


それになれたのだから、当たり前だが、頭脳は優秀…


ルックスも良く、顔立ちは端正で、背も高い…


おまけに、代々続いた政治家の家系に生まれたせいか、品もある…


つまり、すべて、持って生まれた…


誰もが、憧れるものをすべて持って生まれた…


にもかかわらず、総理の座が、遠かった…


次期総理総裁にもっとも近いと言われながらも、世間的に知名度は低かった…


それが、今、ようやく、手元に近付いた…


手を伸ばせば、届く位置にやってきた…


それが、大場が、緊張した理由だろう…


遅まきながら、気付いた…


ずっと、待ち望んでいたものが、まもなく手に入る…


それゆえ、極端に緊張したのだ…


私が、そんなことを考えていると、


「…でも、パパが、総理大臣になるに当たって、邪魔なものが、ひとつだけある…」


不意に、大場が呟いた…


「…邪魔なもの?…」


思わず、言った…


口に出した…


…邪魔なものって、なんだ?…


考える…


国会は、今、まさに、大場フィーバー…


次期、総理総裁になる日も近い…


与党も野党も、いや、マスコミも皆、大場小太郎を持ち上げてる…


どこにも、死角がない…


まさに絶好調…


飛ぶ鳥を落とす勢いだ…


そんな大場小太郎にとって、邪魔なものとは、一体?


私は、考える…


が、


当たり前だが、わからなかった…


だから、聞いた…


「…大場さん…大場さんのお父様にとって、邪魔なものって、一体…」


大場の顔が緊張した…


ハンドルを握る、大場の横顔が、明らかに緊張した…


そして、大場はゆっくりと、口を開いた…


「…それは、竹下クミ…アナタ…」


クスリとも笑わない、真剣な表情で、ハンドルを握って前を見ながら、呟いた…



 …私?…


 …私、竹下クミが、大場小太郎の邪魔?…


 …大場小太郎が、総理になるのに、邪魔?…


 私は、思った…


 思いながら、


 …これは、一体なんの冗談だ?…


 考えた…


 大場小太郎は、たしかに、会ったことがあるが、数えるほど…


 隣で、今、ハンドルを握る大場の娘の敦子にしても、数えるほどしか、会ってない…


 それが、どうして、私が、大場小太郎の邪魔なんだ?


 どうしてだ?


 私は、考える…


 真剣に考え込んだ…


 そして、考え込んだ結果、これは、大場敦子の冗談に違いないと、気付いた…


 こんな平凡な竹下クミが、大場小太郎の邪魔であるはずがない…


 接点というか、似ているのは、今現在、隣で、クルマのハンドルを握る大場敦子と顔が似ているぐらい…


 …顔が似ている?…


 ここで、気付いた…


 まさか、


 そんなバカなとは思うが、


 …私が、大場小太郎の隠し子とか?…


 それならば、私と大場が似ているのは、わかるし、大場小太郎にとって、致命的なスキャンダルになる…


 外に、子供がいたのだ…


 これまで、報じられていなかったスキャンダル…


 セックススキャンダルに他ならない…


 もし、それが事実ならば、総理の座など、到底望むべくもない…


 完全に消滅だ…


 それに気付いた、私は、おずおずと、


 「…もしかして、私と大場さんが、血が繋がった姉妹とか?…」


 私の言葉に、ハンドルを握る大場が、ビックリして、私を見た…


 目を見開いて、私を凝視した…


 その表情で、私は、確信した…


 …やはり、大場と私、竹下クミは、姉妹…血の繋がった姉妹に他ならない…


 そして、ふいに、母を思った…


 まさか、母は父を騙して、本当は、私の父親が、大場小太郎なのに、それを隠して、父と結婚したのか?


 なんて、女だ!


 私は、同性ながら、母親が許せなかった…


 母は父を裏切っていたのだ…


 陰に隠れて、大場小太郎と…


 やはり、母は、大場小太郎の財力に目がくらんだのか?


 国会議員の家の跡取り息子だからか…


 私の心の中で、母に対する怒りが、フツフツと、湧いてきた…


 母、許すまじ!


 私の怒りは、もはや、爆発寸前だった…


 と、そのときだった…


 隣で、


 「…プッ…」


 と、音がした。


 次いで、


 「…キャハッハッハッ…」


 と、大場が爆笑した…


 私は、慌てて、隣で、ハンドルを握る大場を見た…


 「…一体、なにを言い出すんだと思ったら…竹下さん…面白い…面白すぎ…」


 ハンドルを握る大場が、爆笑する…


 「…パパの邪魔が、竹下さんだって、言ったら、いきなり、私と竹下さんが、血が繋がった姉妹だなんて…一体どういう思考形態をしているんだか…頭の中身を割って、見てみたい…」


 大場が笑いながら、言う。


 私は、大場の言い草に頭にきたが、さりとて、大場が、そう思うのは、わかる…


 理解できる…


 しかし、それを除けば、私が、大場小太郎の邪魔になるわけがない…


 やはり、冗談か?


 そう思った…


 外見が似ている、私と大場が、実は、父親が同じ、血が繋がった姉妹だった…


 ありえないことだが、それが、一番可能性があった…


 だから、私が、大場小太郎の邪魔なのだ、と…


 大場小太郎が、外に作った子供がいると、報道されれば、このご時世、真っ先に、次の首相の座が遠のく…


 今、政治家は、芸能人と同じく、セックススキャンダルが、命とり…


 品行方正でなければ、ならない…


 聖人君子でなければ、ならないからだ…


 しかし、それを、こんなにも、あっけなく否定するとは?


 正直、わけが、わからなかった…


 だから、やっぱり、冗談なのだろう…


 私は、そう思って、隣で、運転する大場を見た…


 が、


 大場は、私の予想に反して、緊張した表情のままだった…


 さっきまでと同じく、緊張した表情のままだった…


 …やはり、なにか、ある?…


 当たり前だが、気付いた…


 冗談で、私が、大場小太郎の邪魔だと、言ったわけではないことに、気付いた…


 …やはり、私に、なにか、あるのかもしれない…


 …私自身、気付いていない、なにかが、あるのかもしれない…


 そう、考えると、私自身も深刻になった…


 一体、私になにがあるのだろう?


 自分で、自分自身に問うた…


 が、


 当然のことながら、さっぱり、わからなかった…


 だから、


 「…」


 と、沈黙した…


 ハンドルを握る大場に、話しかけようとしたが、大場はとてもじゃないが、気やすく話しかけられる雰囲気ではなかった…


 だから、私も、辛うじて、


 「…どこに行くの?…」


 と、だけ、聞いた…


 なんだか、大場の緊張状態が、私にも、伝わってきて、怖かった…


 思わず、声が震えた…


 大場が、とてつもなく、緊張しているのが、わかったからだ…


 その緊張が、私に伝わって、車内の空気がピリピリと緊張した…


 ライターで、火を点ければ、一気に爆発するかも?


 そう思えるほどだった…


 それほど、緊張した…


 そして、徐々に、私にも、大場の緊張が移った…


 元々、気の小さい、私、竹下クミは、いつのまにか、今にも泣き出しそうになった…


 恐怖で、顔が蒼ざめた…


 こんな恐怖は、中学時代、ヤンキーの同級生の女のクラスメートに、


 「…放課後…トイレに来な…しめてやる!…」


 と、言われたとき、以来だ…


 私は、あまりの恐怖に、顔が蒼ざめ、その後の授業中に、卒倒して、保健室に担ぎ込まれた…


 それを見た、ヤンキーのクラスメートが、


 「…さすかに、あれを相手にしても…」


 と、なって、難を逃れた…


 それ以来の恐怖だった…


 あれ以来、ほぼ8年ぶりの、恐怖だった…


 もう少しで、泣きそうになった…


 涙が出てくる寸前になった…


 やはり、私は、弱かった…


 竹下クミは、弱かった…


 ヤンキーやヤクザが苦手…


 オラオラ系が、苦手だった…


 強くなれなかった…


 …神様…


 思わず、神に祈った…


 …私を助けて下さい…


 私は、真剣に祈った…


 今ほど、真剣に祈ったのは、これまで、一度もなかった…


 それほど、追い込まれていた…


 あまりの恐怖に、目をつぶると、涙が、ほんのわずかだが、流れた…


 涙が、ほんのわずかだが、頬を伝わった…


 それほど、怖かったのだ…


 すると、なぜか、突然、脳裏に、稲葉五郎の姿が映った…


 稲葉五郎の、大きなカラダと、ゴツイ顔が、映った…


 稲葉五郎を思い出した…


 私は、自分の脳裏に、稲葉五郎が映ったのに、自分でも、驚いた…


 が、考えてみると、当然だった…


 稲葉五郎は、強い…


 頼りになる…


 こんな弱っちい、竹下クミを救うのに、うってつけ…


 しかも、私は、これまで、稲葉五郎以上に、強い男を身近に見たことがなかった…


 見るからに、ゴツイ顔をしたヤクザだが、稲葉五郎以上に、頼りになる男は、身近にいなかった…


 だから、だ…


 私は、気付いた…


 なにより、神様は、空想の産物だが、稲葉五郎は、実在する…


 実在する人間に、救いを求めるのは、当たり前だ…


 「…稲葉さん…」


 つい、私の口から、ポロッと漏れた…


 「…稲葉さん…助けて…」


 小さく呟いた…


 自分でも、意外だった…


 まさか、稲葉五郎の名前を呼ぶとは?


 私は、急に恥ずかしくなって、慌てて、目を開けて、隣で、ハンドルを握る、大場を見た…


 すると、大場は、なぜか、さっき以上に、緊張した表情で、ハンドルを握っていた…


 そして、それは、緊張というより、恐怖に近かった…


 大場自身、なにかに、怯えているようだった…


 …一体、大場は、なにに、怯えているのだろう?…


 私は、思った…


 大場は、このマツダ3セダンという真っ赤なクルマに乗り、私をどこかへ連れてゆく…


 ただ、それだけのことだ…


 ただ、それだけだ…


 まさか、私をこのまま、拉致するわけではあるまい…


 大場は、大場小太郎の娘…


 次期総理総裁候補筆頭の娘だ…


 そんな大場が、私を拉致するわけがない…


 大場が拉致されることはあっても、私を拉致するわけがない…


 ひどく当たり前のことを思った…


 考えた…


 すると、当然だが、私は、安心した…


 こんな次期首相候補のお嬢さんが、私をどうこうするわけがない…


 そんなことをすれば、大場小太郎の次期総理の座が、吹き飛ぶ…


 木っ端みじんに、吹き飛ぶ…


 そう、考えると、安心した…


 ちょうど、そのときだった…


 「…稲葉五郎…次期山田会会長…」


 ポロッと、大場が稲葉五郎の名前を漏らした…


 口にした…


 「…稲葉のオジサンは、強い…子供の頃から、知ってるけど、ケンカが強いだけじゃなく、頭脳も明晰…頭もいい…」


 大場が、稲葉五郎を褒める…


 私は、なぜ、突然、大場が稲葉五郎を褒めるのか、わからなかった…


 が、


 口を挟まず、聞いていた…


 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんの父親の高雄組組長や、松葉会会長が、束になっても勝てない…まさに、ヤクザ界のスター、モンスターね…」


 大場が激賞する…


 「…正直、子供の頃から、知ってるから、あまりにも、身近で、稲葉のオジサンが、あんなに凄いひとだなんて、思わなかった…」


 大場が語る。


 しかも、シミジミとした口調だった…


 実感がこもっていた…


 「…だから、亡くなった山田会の古賀会長が、生前から、稲葉のオジサンを警戒していたのは、わかる…」


 …警戒?…


 あまりにも、意外な言葉だった…


 「…自分の後継者として、非の打ちどころがない…でも、これ以上、大きくなっては、困る…だから、高雄さんのお父様に目を付けて、稲葉のオジサンのライバルにしようと目論んだ…」


 「…ライバル?…」


 思わず、声を上げた…


 「…山田会で、稲葉のオジサンひとりが、あまりにも、大きくなると、自分の座を脅かされると、恐れた、古賀さんは、稲葉のオジサンに匹敵するライバルを山田会の中に作ろうとした…それで、白羽の矢が立ったのは、高雄さんのお父様…でも、無理だった…」


 「…」


 私は、大場がなにを言いたいのか、わからなかった…


 私が、偶然、稲葉五郎の名前を口にしただけなのに、こんなことを言い出すなんて?


 正直、わけがわからなかった…


 「…だから、稲葉のオジサンの弱点を探した…」


 「…弱点?…」


 「…人間、誰でも、弱点はある…でも、オジサンにはなかった…若い頃から、独身主義で、ヤクザに家族はいらないというのが、オジサンの口癖だった…家族もなく、自分ひとり…たったひとりで、ヤクザを続けている…誰もが、そう思った…」


 …一体、大場は、なにを言いたいのだろう…


 私は、思った…


 すると、私の思いが伝わったのか…


 「…稲葉五郎は、あまりにも、山田会内部で、大きくなりすぎた…あまりにも、強くなり過ぎた…すると、当然のことながら、無用な敵を作る…」


 「…敵?…」


 「…稲葉のオジサンが、好むと好まないと、オジサンが嫌えば、山田会内部で、出世はできなくなる…オジサンとウマが合わない連中が、それを恐れた…そして、その中には、古賀さんもいた…」


 「…ウソ?…どうして?…」


 「…稲葉のオジサンが、自分より、山田会で、力を持ちかねないからよ…」


 「…」


 「…そのうちに、古賀さんが、ボケだして…」


 「…ボケだした?…」


 が、


 それ以上は、大場は、口にしなかった…


 これ以上、なにか、言っては、マズいと思ったのかもしれない…


 私が、隣で、運転する大場を見ると、さっき以上に、緊張した表情になっていた…


 その緊張が、隣の私に、ビシビシと伝わった…


 いや、


 緊張だけではない…


 明らかに、恐怖も、大場敦子は、感じていた…


 それは、大場の額に流れる汗からも、わかった…


 ただの汗ではない…


 冷や汗というか、恐怖によって、流れる汗だった…


 極限の恐怖=それによって、もたらされる緊張によって、流れる汗だった…


 …一体、これから、なにが?…


 …なにが、起こるのだろう?…


 私は、ビクビクと怯えた…


 …一体、これから、私は、どうなるのだろう?…


 …もしかして、殺されるのかも?…


 ありえないことかもしれないが、そんなことまで、私の脳裏をよぎった…


 私は、恐怖のあまり、無言になった…


 大場もまた無言のまま、クルマを走らせた…


 クルマが疾走する…


 ただ、それだけだった…


 私も大場も、一言も言わず、ただ、無言のままだった…


 それが、到着まで、ずっと続いた…


 私は、思わず、


 「…稲葉さん…稲葉五郎さん…助けて…」


 と、祈った…


 繰り返した…


 今現在、私の知り合いで、稲葉五郎以上に、頼りになるものは、いなかったからだ…


 思いつかなかったからだ…


 やがて、


 「…さあ、着いたわ…」


 と、言って、大場がクルマを停めた…


 駐車場に入れた…


 私は、それまで、緊張と恐怖で、目をつぶっていたので、周囲の風景は見ていなかった…


 が、目を開けて、周囲を見渡すと、以前、見た風景だと気付いた…


 …ここは、たしか?…


 その私の目に、偶然、


 …稲葉一家…


 と、書かれたビルのテナントの看板が、目に入った…



 「…ここは?…」


 思わず、言葉が口を突いて出た…


 考える間もなく、つい、口にした…


 「…そう…竹下さんと、以前、来た…」


 大場が言った…


 …そうだ…


 …以前…っていうか、大場と初めて、あのベンツGクラスという大きなジープに乗って、やって来たのが、この場所だった…


 …そして、私は、この後、大場に連れられて、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんのいる店に行ったのだ…


 私は、それを思い出した…


 「…さあ、降りましょう…」


 大場は言って、シートベルトを外した…


 私も大場にならって、シートベルトを外した…


 そして、私は、ちょっぴり、安心したというか…


 心強くなった…


 私が無意識に、頼った、あの稲葉五郎の事務所が近くにある…


 この場所から、


 「…稲葉さん…助けて…」


 と、大声で、叫んでも、稲葉五郎がやって来るわけはないが、なんとなく心強くなった…


 自分でも、安心した…


 なんてったって、あの稲葉五郎が近くにいるのだ…


 これで、怖いものなしと言えば、おおげさだが、だいぶ精神的に落ち着いた…


 が、


 私のその予想を、あっけなく、大場が打ち砕いた…


 「…竹下さん…もしかして、稲葉のオジサンの事務所が、近くにあったのを見て、安心した?…」


 大場が、ちょっと、からかうように、私を見て、言った…


 が、


 からかいながらも、大場の顔は、緊張したままだった…


 「…竹下さん…稲葉のオジサンに、お嬢…お嬢って、持ち上げられて、いい気になっていたものね…」


 …いい気になっていた?…


 …ウソォ?…


 …私は、いい気になってなんか、いないぞ…


 私は、大場を見た…


 思わず、大場を睨みつけた…


 「…いい気になんて、なってない…」


 私は、反論した…


 「…いい気になってない?…」


 大場が私を見て言った…


 私の目を見て、言った…


 「…私は、私…竹下クミは、竹下クミ…稲葉さんが、お嬢…お嬢と、私を持ち上げても、なんの関係もない…私は、古賀会長の血筋を引いてなんかいない…」


 私は、断言する…


 私は、大場を睨みつけた…


 大場もまた、私から目をそらさず、睨んだ…


 互いに、睨み合った…


 5秒…


 10秒…


 そのままだった…


 どうする?


 このまま、睨み続けるか?


 考えたときだった…


 あろうことか、私より、先に、大場が目をそらした…


 「…議論しても、しょうがない…」


 ポツリと言った…


 「…ただ、私には、そう見えただけ…」


 それだけ言うと、大場は、クルマから降りた…


 私も大場に続いて、クルマから、降りた…


 「…どこへ、行くの?…」


 私が聞いても、大場は、なにも言わなかった…


 が、


 意地悪をしている感じでもない…


 ただ、緊張して、余裕がない様子だった…


 極度に緊張して、余裕がないというか…


 自分のやることに、没頭している様子だった…


 …逃げるか?…


 一瞬、そんな考えが、脳裏をかすめた…


 私は、当たり前だが、大場に人質を取られているとか、そんなことはない…


 だから、ここで、ダッシュで、この場から逃げ出しても、構わない…


 仮に、大場が、追っかけてきても、私は、大場を払いのけて、逃げる自信がある…


 なぜなら、大場は、私と同じ身長で、同じ体格…


 とても、大場が私を抑えつける力があるとは、思えない…


 が、


 しなかった…


 逃げなかった…


 ここで、逃げても仕方がない気持ちがあった…


 逃げることはできたが、それをしても、繰り返すだけだと思った…


 やはり、大場は、次にも、なにか、別の方法で、私に仕掛けてくる…


 その確信があった…


 いや、


 大場だけではない…


 あの高雄…高雄悠(ゆう)も、そうだ…


 今は、逮捕されてるから、私の前に、現れることはできないが、釈放されれば、再び、私になにか、仕掛けてくる…


 なにを仕掛けてくるのかは、わからない…


 だが、接触してくるのは、間違いない…


 だから、逃げなかった…


 逃げても仕方がないと、腹をくくった…


 そして、その結果、どうなるか?


 知りたくなった…


 きっと、今、逃げても、何度でも仕掛けてくる…


 ならば、一体なんで、そんなに仕掛けてくるのか、知りたくなった…


 当たり前のことだ…


 私に謎がある…


 これは、私にも、わかる…


 だが、その謎がなんなのかは、わからない…


 それが、今、大場の言われるままに、どこかへ行けば、わかるかもしれない…


 承知!


 とっさに、その言葉が脳裏に浮かんだ…


 承知!


 私は、なにもかも、承知で、大場の言う通りにする…


 大場の言いなりになって、やる…


 その結果、私になにがあるか、わかればいい…


 そう、腹をくくった…


 私は、黙って大場の後を歩きながら、そんなことを考えていた…


 一方、大場は、というと、無言で、歩いていた…


 黙って、後ろを歩く、私を振り返りもしなかった…


 ただ、背後を歩く、私から見ても、大場の足取りは、重かった…


 明らかに、軽くなかった…


 なんというか、無理やり、自分の足を動かしているというと、大げさだが、仕方なく、やっている感が、ありありだった…


 …一体、大場は、私をどこへ、連れてゆくのだろう?…


 私は、思った…


 思いながら、つい、あの稲葉一家の看板を見た…


 今すぐ、稲葉五郎が、私を助けにやって来ることは、ありえないが、見てしまった…


 稲葉五郎にすがったといってもいい…


 やはり、私は気が小さい…


 弱っちい…


 今さらながら、思った…


 つい、誰かを頼ってしまう…


 これは、子供の頃から、同じだった…


 変わらなかった…


 そんなことを思いながら、私は、大場の後をついて、歩いた…


 トボトボと歩いた…


 そして、気付いた…


 大場の歩く道は、以前、私も歩いた道だと…


 つまりは、この道は、以前、歩いたことがある…


 それを思い出した…


 そして、着いた先は?


 なんと、あの町中華の店だった…


 これは、驚いた…


 あの女優の渡辺えりに似た女将さんのいる店だった…


 ただし、店は、閉まっていた…


 閉店の札が、かかっていた…


 しかし、大場は、それに構わず、ドアを開けた…


 意外にも、ドアにカギは、かかってなかった…


 ガラガラと音を立てて、扉が開いた…


 私もまた無言で、大場に続いて、店の中に入った…


 店の中には、当然だが、ひとのいる雰囲気はなかった…


 店も暗く、電灯がついてなかった…


 が、外から入る光で、薄暗いが、中は見えた…


 すると、中に、ポツンと、ひとがいるのが、わかった…


 ひとりきりで、テーブルで、誰かが、座っていたのだ…


 私は、それが、この店の女将だと、すぐにわかった…


 あの女優の渡辺えりに似た女将さんだと、わかった…


 女将さんは、大場と私を見ることもなく、


 「…来たんだ…」


 と、呟いた…


 ひどく、物憂げと言うか、投げやりな口調だった…


 大場もまた、女将さんに声をかけることは、なかった…


 「…そこらへんに、適当に座りな…なんか、飲み物を持ってくる…」


 女将さんは、そう言って、席を立った…


 私は、驚いた…


 まさか、大場が、私をこの店に連れてくるとは、思わなかった…


 いや、


 そうではない…


 大場が連れてきた先が、この町中華の店とは、思わなかったのだ…


 …一体全体、なぜ?…


 …どうして、大場は、私をこの店に連れてきた?…


 私は、考える。


 しかし、考えながら、もう一方で、


 …それは、すぐに、答えが出る!…


 と、気付いた…


 答えを出すために、大場が、私を連れてきた…


 そうとも、言える…


 そして、ふいに、気付いた…


 大場が、私を邪魔と言った意味を、だ…


 私が邪魔といった意味を、だ…


 当たり前だが、大場にとって、大切なのは、父親である、大場小太郎の次期総理就任…


 今、大場小太郎は、以前は、影が薄かったのが、ウソのように、国会で、存在感を発している…


 それは、ちょうど、芸能人が、売れる前と、売れた後の違いのようなもの…


 文字通り、天と地の差だ…


 このままでは、誰の目にも、次の総理間違いなしだ…


 だが、そんな中で、なぜか、私が邪魔な存在らしい…


 一体なぜ?


 なぜ、私が、邪魔な存在なのか?


 考える…


 もう少しで、答えが出る…


 それが、わかっていても、やはり、もどかしかった…


 一秒でも、早く、答えを知りたかった…


 私と、大場は、テーブル越しに、向かい合わせで、座った…


 その方が、大場が、私を監視できると、思ったに違いない…


 大場と、私は、お互いに、見つめ合った…


 薄暗いが、大場が、緊張している様子は、手に取るようにわかった…


 いや、


 緊張だけではない…


 明らかに、恐怖している様子が、手に取るように、わかった…


 「…ホントは、こんなことしたくなかった…」


 いきなり、ボソッと、小さな声で、言った…


 私は、黙って、それを聞いていた…


 口を挟まなかった…


 それよりも、一体、大場が、なにを言い出すのか、興味津々だった…


 すべての謎が解ける…


 そんな期待に胸が膨らんだ…


 が、


 その期待を、女将さんが、打ち破った…


 「…そんなこと、言っちゃ、ダメだよ…」


 飲み物を手にした女将さんが、戻ってきて、言った…


 「…それを言えば、アタシもさ…」


 女将さんも、落ち込んだ表情で言った…


 「…いいコじゃないか? このお嬢ちゃん…性格もまっすぐで…ホント、いいコ…」


 なぜか、女将さんが、私を褒め出した…


 「…アタシもあっちゃんを、子供の頃から、知っている…だから、あっちゃんが、こんなことをするのは、気が進まないのは、よくわかる…」


 落ち込んだ声で、女将さんが、言う…


 「…すべては、運命さ…そう考えれば、諦めがつく…」


 女将さんが、そんなふうに、大場を励ました…


 私には、一体全体、なんのことだか、さっぱりわからなかった…


 …運命って、一体?…


 私を、この町中華の店に連れてくるのが、運命って?


 一体、全体、どういう意味?


 私は、考え込んだ…


 これって、まるで、最後の晩餐っていうか?


 キリストの最後の晩餐の光景に近い…


 なぜか、ふと、思った…


 今、女将さんが、持ってきた飲み物を飲んで、これから、私が、処刑されるような…


 まるで、これから、死刑囚が、処刑される寸前に、最後の食事を取るような…


 そんな感じだった…


 まさに、そんな感じだった…


 でも、


 どうして、


 そんな感じになるの?


 さっぱり、わからなかった…


 一体、私が、なにをしたって言うんだ?


 私が、大場になにか、悪いことをしたっていうのか?


 それなら、わかる…


 でも、私は、大場になにもしていない…


 だが、まるで、これから、私を処刑するような…


 そんな緊張感がある…


 そんな息苦しさがある…


 神様…


 私は、祈った…


 稲葉さん…


 ふいに、稲葉五郎の名前が浮かんだ…


 稲葉五郎ならば、この状況を救ってくれる…


 私を、この場から、救い出してくれる…


 そう思った…


 そう信じた…


 しかし、稲葉五郎の事務所は、近いが、この場所から、大声で、叫べば、届く距離でもない…


 私は、絶望に打ちひしがれた…


 いや、


 そもそも、今、現在、事務所に、稲葉五郎がいるか、どうかも、わからない…


 そんなことに、気付いた…


 そう考えると、文字通り、絶望した…


 と、そのときだった…


 店のドアが、いきなり、ガラッと開いた…


 私と大場、そして、女将さんの三人が、ドアを見た…


 そこには、大きなカラダが、あった…


 薄暗いが、すぐにゴツイ顔がわかった…


 ごつい顔が見えた…


 稲葉五郎だった…


 私が、祈った稲葉五郎の姿があった…


 夢?


 まるで、夢のようだ…


 もっとも、頼りになる男が、やって来てくれた…


 私は、カラダの中から、不意に、涙が溢れそうになった…


 「…どうした? オバサン…不意に、オレを呼び出して? しかも、電気を付けず…」


 稲葉五郎が、戸惑いながらも、うす暗い中、恐る恐る、私たちの方にやって来た…


 それから、私と大場が、この店にいるのを、知って、驚いた…


 「…あっちゃん…それに、お嬢…どうして、ここに?…」


 稲葉五郎が、戸惑う…


 そこへ、女将さんが、声をかけた…


 「…五郎、今すぐ、引退しな…ヤクザを辞めるんだ…」


 ありえない言葉を、稲葉五郎に言った…



 「…引退? …いきなり、オレを呼び出して、ヤクザを辞めろって…オバサンも冗談きついな…」


 稲葉五郎が戸惑いながらも言う…


 しかしながら、私や大場、そして、町中華の女将さんの、ただならぬ雰囲気から、それが、冗談ではないことに、すぐに、気付いた…


 「…オバサン…今日は、一体、なんで、オレを呼び出して…」


 その口調は、戸惑いながらも、真面目な口調に変わった…


 女将さんが、真剣であることに、気付いたのだ…


 「…五郎…アンタは、やり過ぎたんだよ…」


 女将さんが、言う…


 「…やり過ぎた? どういう意味だ?…」


 「…アンタは、アンタが思う以上に、山田会で、力を持ちすぎた…」


 女将さんが言った…


 それは、眼前の大場敦子が、さっき、ここにつれて来られるまでに、車内で、私に言った言葉と、同じだった…


 「…五郎…オマエは強い…ケンカも強く、頭も切れる…でも、そのおかげで、多くの敵を作った…」


 「…一体、なにを言い出すんだ、オバサン…オレが敵を作り過ぎた? …それが、一体

なんだって言うんだ? ヤクザが、誰とも、仲良くして、どうする?…」


 「…オマエが気付いていないだけさ…」


 女将さんが、落ち込んだ声で、言う…


 「…気付いていないだけ?…」


 「…オマエは気付いていないかもしれないが、大場代議士にとって、今や、オマエは、目の上のたんこぶ…総理になる前に、いてもらっちゃ、困る人間なのさ…」


 「…いてもらっちゃ、困る…おいおい、いくらオバサンとオレの仲でも、言っていいことと、悪いことがあるぜ…言葉に気をつけな…」


 「…言葉に気を付けな…か…さすがに、山田会会長になると、言葉が、重いね…アタシが、五郎の子分たちの前で、今の言葉をいえば、ぶたれるか、殺されるか…だね…」


 五郎は、女将さんの言葉に、


 「…」


 と、無言だった…


 無言が肯定を意味した…


 「…ヤクザも偉くなると、言葉を発せなくなる…親が冗談で、なにげなく言った言葉を、子が、真剣に受け止めたり、あるいは、アタシが、五郎に軽く言った言葉を、親分をバカにされたって、怒って、アタシをどうこうしたりする…」


 「…」


 「…だから、むやみに、言葉を発せなくなる…言葉を選んでから、口にせざるを得なくなる…」


 「…」


 「…アンタは、今の状況を数年前に見抜いていたんじゃないのか? 五郎…いや、宋国民…」


 …宋国民?…


 どこで、聞いたことがある?


 どこでだろう?


 私は、考える…


 頭を巡らせた…


 そうだ…


 わかった…


 古賀会長だ…


 亡くなった山田会の先代の古賀会長が、宋国民という名前の中国人だと、たしか、高雄悠(ゆう)が、私に教えてくれた…


 私は、それを思い出した…


 「…オバサン…一体、なんの冗談だ?…」


 稲葉五郎の口調が、ひどく真剣になった…


 「…いくら、オレとオバサンの仲でも、タダじゃすまねえことだって…」


 稲葉五郎が、言い終わらないうちに、女将さんが、


 「…ホントのことを知られるのが、そんなに怖いか? 五郎…いや、宋国民?…」


 と、言った…


 稲葉五郎は、


 「…」


 と、黙った…


 反論しなかった…


 「…頭のいいオマエは、いずれ、こうなることがわかっていたのさ…それで、手を打った…」


 「…どういうことだ?…」


 「…オマエは、手っ取り早く、高雄さんの息子に手を伸ばした…」


 「…高雄さんの息子さん?…それって、高雄悠(ゆう)さん?」


 思わず、声を上げた…


 「…高雄さんは、アンタと同じ、山田会の双璧と言われていたが、実際は、アンタに遠く及ばない…力で、言えば、昔の徳川家康と、前田利家の差さ…豊臣秀吉が、顕在だった頃、家康は、250万石、対する利家は、100万石にも及ばなかった…だから、高雄さんが、どうあがいても、アンタには、遠く及ばない…勝てるわけがないからだ…でも、アンタは警戒した…」


 「…」


 「…だから、悠(ゆう)を取り込んだ…悠(ゆう)もまた、高雄組の先行きに不安を持っていた…いや、高雄組じゃない…高雄さんの先行きに、不安を持っていた…」


 「…どういうこと? オバサン?…」


 大場が口を挟んだ…


 「…高雄さんが、五郎に山田会を追放されるんじゃないかと、心配していたんだ?…」


 「…そんな?…」


 「…五郎と、高雄さんが、ガチンコで、ケンカをすれば、山田会は、割れるかもしれないが、経済ヤクザの高雄さんが、武闘派の五郎とガチンコのケンカをして、勝ち目がないことは、最初からわかってる…だから、悠(ゆう)は、五郎と手を結んだ…手を結ぶことで、父親が、山田会から、追放されないように、五郎に頼んだんだ…」


 「…でも…」


 今度は、私が口を挟んだ…


 「…でも、稲葉さんは、いつも、高雄…高雄悠(ゆう)さんを信用するな…アイツは、見た目と違う…信用しちゃ、ダメだって…」


 「…それは、お嬢ちゃん…アンタを、悠(ゆう)さんから、遠ざけるためさ…」


 「…遠ざける?…」


 「…仲良くなれば、内幕がバレる心配がある…」


 「…」


 「…それに、お嬢ちゃんを、ヤクザ同士の争いに、巻き込まれないようにするためもある…」


 「…でも、それじゃ、そもそも、私と接触しなければ…」


 「…それはできない…」


 「…できない? …どうして?…」


 「…お嬢ちゃんの近くにいかなきゃ、お嬢ちゃんを守れない…」


 「…守れない? どうして、守れない…いえ、守らなきゃ、いけないの? 古賀会長の血筋を引いてるから?…」


 「…血筋? そんなものを引いてる人間は、ひとりもいないよ…」


 「…いない?…」


 「…そうさ…」


 「…どうして、いないって、断言できるんですか?…」


 「…古賀さんは、女を抱けなかったのさ…」


 「…女を抱けなかった? どうして?…」


 あまりにも、意外な言葉だった…


 「…古賀さんは、子供の頃、命からがら、満州…今の中国東北部から、逃げてきた…そのときに、多くの女たちが、カラダを売って売春したり、それを金に換えたり、船や列車に優先して乗せてもらったりするところを見てきた…それだけじゃない…身近で、女が無理やり、犯されるところも、いやというほど、見てきたと言っていた…物心ついたか、つかないかの子供が、そんな光景を見たら、どうなると思う? トラウマになって、一生、女を抱けなくなっても、おかしくはないだろ? …後年、古賀さんが、ヤクザ界の秀吉と呼ばれたのは、一代で、ヤクザ界で、名を上げたことも、あるけど、秀吉のように、子宝に恵まれなかったこともある…でも、そもそも、女を抱けないんだ…子供ができる道理がないじゃないか…」


 女将さんが、告白する…


 たしかに、女将さんの言うことは、わかる…


 女を抱けなければ、子供ができるはずがない…


 しかし、どうして、この女将さんは、そんなことを知っているのだろう?


 わからない…


 「…あの…女将さんは、どうして、そんなことを知ってるんですか?…」


 「…アタシの両親が、古賀さんと親しかったのさ…って、いうか、アタシの両親の両親…つまり、祖父母が、子供時代の古賀さんを、連れて、この日本に引き揚げてきた…その縁さ…」


 その言葉で、私は、以前、高雄…高雄悠(ゆう)さんから、聞いた話を思い出した…


 古賀会長は、宋国民という名の中国人で、子供の頃、日本にやって来た…


 戦争に負けた日本人の家庭といっしょに、だ…


 古賀さんは、中国人だが、両親が、日本の家庭で、家政婦として住む込みで、働いていた…


 だが、その両親が、戦争で、死んだ…


 身寄りのない、古賀さんは、両親の雇い主だった日本人に引き取られ、いっしょに、日本にやって来た…


 たしか、そう聞いた…


 私は、それを思い出した…


 「…古賀さんは、用心深いというか…ひとを信用しないひとだった…やはり、満州からの引き揚げ体験が、その後の人生を作ったんだろうね…表向きは、豊臣秀吉になぞらえるほど、ひとをたらしこむというか、自分の味方に引き入れる能力が、抜群にあった…それは、満州からの引き揚げ体験で、ひとは、一人では生きれないことを、身をもって知ったからさ…だから、味方を作る…仲間を作る…一人では、できないことができるからさ…その反面、ひとは、信用できない…信用した人間が裏切ったり…裏切られたり…そんな光景をいやというほど、見せられ、子供心に、ひとは、心の底から信用できないって、悟ったって、言っていた…ただ、アタシの祖父母や、アタシの母には、違った…いっしょになって、満州から、命からがら、逃げてきた…そして、幼い自分を助けてくれた…それが、古賀さんの原点と言うか…生涯信用できる人間として、古賀さんが、身近に信頼を置いた人たちだった…」


 …そうか?…


 …だから、この女将さんは、古賀さんに詳しいんだ…


 あらためて、思った…


 同時に、考えた…


 稲葉五郎は、古賀会長の側近…


 だから、古賀会長の身近にいた、この女将さんと親しかったわけだ…


 だが、さっき、この稲葉五郎を、宋国民と呼んだわけは、一体?


 稲葉五郎は、本当は、中国人なのだろうか?


 私は、思った…


 だから、おずおずと、遠慮しながら、女将さんに、聞いた…


 「…あの…女将さんが、今、言った、宋国民って…」


 「…ああ、それは、五郎の本名さ…稲葉五郎は通名…本名は、別にある…いや、宋国民っていうのも、本名じゃないだろう…ホントは、アンタ、何者だ? …無国籍じゃないのか?…」


 女将さんの問いに、稲葉五郎は、沈黙した…


 「…」


 と、なにも、言わなかった…


 否定しないことが、女将さんの言うことが、ウソでないことの証(あかし)だった…


 十秒、


 いや、


 二十秒だろうか?


 時間が経った…


 そして、稲葉五郎が口を開いた…


 「…ずいぶんな言い草だな…」


 稲葉五郎の乾いた声が、薄暗い店内に響いた…


 「…妄想もたいがいにしてくれ…」


 「…妄想…どこが、妄想だよ…アンタはやりすぎたんだよ…」


 「…やり過ぎた?…」


 「…さっきも言っただろ? 山田会で、力を持ちすぎた…だから、アンタは、警戒された…その結果、五郎…オマエの身辺調査が、徹底的に行われた…五郎、オマエは、身ぐるみはがされたのさ…」


 女将さんの言葉に、また、


 「…」


 と、稲葉五郎は、沈黙した…


 無言が、肯定を意味した…


 女将さんの言葉に、ウソがないことが、再び、証明された…


 「…なにが、狙いだ?…」


 稲葉五郎が、口を開いた…


 「…五郎…アンタの引退だよ…ヤクザを辞めることさ…」


 「…そいつは、無理だ…できねえ相談だな…」


 「…どうして、できないのさ…五郎?…」


 「…できねえものは、できねえ…」


 「…山田会会長の座は、アンタにとって、そんな魅力的か?…」


 「…当たり前だ…日本で二番目にデカい、組織だ…」


 稲葉五郎が、胸を張る…


 が、


 その稲葉五郎を、フッと、女将さんが、笑った…


 「…ハッハッハッ…五郎…笑わせるね…アンタは、権力欲もなにもないさ…五郎を推す人間は、それを知ってるから、安心して、アンタを推している…金に汚くもなければ、威張ることもなく、権力欲もなにもない…ただ、実直にヤクザを続けているだけ…その五郎が、今、目の色を変えて、山田会の会長の座に座ろうとしている…なにか、あると、考えるのが、普通だろ?…」


 「…なにかって、なにがある?…」


 「…言いたくないのかい? ならば、言ってやるよ…」


 稲葉五郎の顔色が変わった…


 「…アンタが、山田会の会長の座に就きたいのは、ずばり、このお嬢ちゃんを、守るためだ…違うかい?…」


 「…お嬢を守る? どういう意味だ?…」


 「…五郎…とぼけるのも、いい加減におし…」


 女将さんが、凄んだ…


 「…今、アタシは、古賀会長は、女を抱けないと言ったはずだ…女を抱けない古賀さんに、子供がいるはずがない…」


 当たり前のことだった…


 …だったら、私は一体?…


 …この竹下クミは、稲葉五郎に、なんで、大事にされてるんだ?…


 …お嬢、お嬢…


 と、持ち上げられてるんだ?


 さっぱり、わからない…


 「…このお嬢ちゃんは、五郎…アンタの娘だろ? 違うかい?…」


 「…娘? …む・す・め?…」


 私が、場違いな素っ頓狂な声を上げた…


 あまりにも、以外と言うか、ありえない話だった…


 「…五郎…アンタが、ヤクザを辞められないのも、このお嬢ちゃんだ…ヤクザを辞めれば、お嬢ちゃんを守れない…違うか?…」


 「…オバサン…バカも休み休み言ってくれ…どうして、お嬢が、オレの娘なんだ? …お嬢には、立派なご両親が、いらっしゃるだろ…」


 「…立派なご両親ね…」


 女将さんが、笑った…


 「…たしかに、立派なご両親だろうね…アンタの娘を育ててくれたんだから…」


 「…」


 またも、稲葉五郎が、沈黙した…


 でも、娘って?


 私が、稲葉さんの娘って?


 ありえない…


 私は、生まれたときから、今の両親に育てられた…


 親戚にも、知り合いにも、ヤクザはいない…


 だから、私が、稲葉五郎の娘であるはずがない…


 「…そんなこと…そんなこと、あるはずがない…」


 気が付くと、いつのまにか、叫んでいた…


 「…私が、稲葉さんの娘であるはずがない!…」


 絶叫した…


 そんな私の姿を、稲葉五郎も、女将さんも、無言で見ていた…


 そして、大場敦子も…



 「…そんなわけない…私が、稲葉さんの娘であるはずがない…」


 私は、繰り返した…


 「…そんなこと、あるはずない!…」


 絶叫した…


 私が、大声で、絶叫すると、その場にいた全員が、黙り込んだ…


 誰も、なにも、言わなかった…


 薄暗い店内に、私の声だけが響いた…


 「…そんなこと…あるはずが…」


 私は、小さく繰り返した…


 本当ならば、ここで、涙を流すはずだが、涙は、一滴も、出てこなかった…


 当たり前だ…


 いきなり、稲葉五郎が、私の父親だと言われても、現実感もなにもない…


 ここに、私の両親が現れ、説明でも、されれば、話は別だ…


 だが、当然、両親はいない…


 だから、ここで、誰が、なにを言っても、現実感に乏しい…


 そういうことだ…


 私は、思った…


 そう、自分自身に、強弁した…


 そう、自分自身に、言い聞かせたときだった…


 「…当たり前だ…」


 小さく、言った声がした…


 稲葉五郎だった…


 稲葉五郎の声だった…


 「…お嬢が、オレの娘のはずがない…そもそも、お嬢は、古賀会長の血を引き継いだ、数少ない血縁者で…」


 「…それは、オマエが作ったストーリーだろ…」


 町中華の女将さんが、稲葉五郎の話を遮った…


 「…ストーリー?…」


 大場が、声を上げた…


 「…ストーリーって?…」


 「…すべては、この五郎が、自分の娘である、お嬢ちゃんを、守るために作った物語さ…」


 「…物語?…」


 「…古賀さんは、晩年、ボケが始まった…それをいいことに、この五郎は、自分の娘である、お嬢ちゃんを、守ろうとした…自分が、山田会で、敵を作り過ぎて、自分のことを、あれこれ、詮索する輩(やから)が、大勢出てきたことに、気付いたのさ…それで、一計を案じた…」


 「…どういうこと?…」


 大場が聞いた…


 「…古賀さんが、晩年、若いときに、作った娘が生きていることを知って、その血筋の娘がいることを知って会いたがっていた、という物語をでっち上げたのさ…そうすれば、お嬢ちゃんに、堂々と会える…そして、古賀さんの血筋を引く、数少ない血縁者と、山田会の人間に、知らせれば、誰も、お嬢ちゃんに、手が出せない…例え、五郎の敵に回っていても、手が出せないって、話さ…そうだろ…五郎?…」


 女将さんの話に、稲葉五郎は、


 「…」


 と、返事をしなかった…


 当たり前だ…


 「…それは、オバサンが作った物語だろ?…」


 間を置いて、発した…


 「…オバサンの頭の中で、作り出した妄想だ…第一、百歩譲って、このお嬢が、オレの娘だとする…だが、例え、ここに、お嬢の母親を連れてきても、オレは、お嬢の母親を知らねえ…面識がねえ…会ったこともなければ、当たり前だが、子供を作ることはできねえ…だから、お嬢が、オレの娘であるはずがねえ…」


 稲葉五郎が、勝ち誇ったように、言った…


 「…なんなら、これから、お嬢の家に行って、お嬢の母親に訊いてみるか? オレを知ってるかって? …例え、知らねえと言っても、ホントは、知ってれば、お嬢の母親は、動揺するに決まってるから、見れば、わかるはずさ…」


 稲葉五郎は、当たり前のことを言った…


 今、私は、22歳…


 だから、私の母親が、もし、稲葉さんと付き合っていれば、それは、22年前…


 22年前ならば、当たり前だが、面影はあるに違いない…


 だから、もし、稲葉五郎と、私の母が、昔、恋人同士ならば、動揺するに決まっている…


 それは、どう隠そうが、態度に出るに、決まっている…


 稲葉五郎の言葉が正しい…


 私は、思った…


 が、


 そのときに、小さな笑い声がした…


 「…フッフッフッ…」


 と、最初は、小さかったが、すぐに、


 「…ハッハッハッ…」


 と、大きな笑い声に変わった…


 町中華の女将さんだった…


 「…笑わせるんじゃないよ…五郎…オマエは、いつの時代に生きてるんだい?…」


 女将さんが、激高する…


 「…どういう意味だ?…」


 「…セックスをしなきゃ、子供が産めない時代じゃないんだよ…」


 女将さんが、断言する…


 稲葉五郎の顔色が変わった…


 薄暗い店内でも、稲葉五郎の顔色が変わったのが、わかった…


 明らかに、緊張した表情になった…


 …一体、どういうことだろう?…


 私は、思った…


 当然、男女がセックスをして、子供が生まれる…


 それがないなんて…一体?…


 「…オバサン…それ、不妊治療かなにか?…」


 突然、大場が、口を挟んだ…


 「…その通り…」


 女将さんが、即答した…


 …不妊治療?…


 私は、驚いた…


 ビックリした…


 「…不妊治療って?…」


 気が付くと、いつのまにか、私も声を出していた…


 「…このお嬢ちゃんは、父親が、子種がなくて、それで、この五郎から、精子を提供されて、お嬢ちゃんが、生まれたのさ…」


 「…ウソッ?…」


 思わず、声に出した…


 あまりにも、予想外というか、考えもしないことだった…


 文字通り、頭が混乱した…


 もちろん、言葉の意味はわかるが、それが、私に当てはまることとは、どうしても、思えなかった…


 現実感が、皆無…


 文字通り、他人事だった…


 「…稲葉のオジサンが、精子を提供した? …どうして? だって、竹下さんの母親と面識はないんでしょ? 知り合いでも、なんでもないんでしょ…」


 「…そうさ…」


 「…だったら、どうして?…」


 「…あっちゃん…不妊治療で、精子を提供する男って、どんな男かわかるかい?…」


 女将さんの質問に、


 「…」


 と、大場は、沈黙した…


 「…わからないだろ?…」


 「…わからない…」


 大場が答える…


 「…今は知らないけど、昔は医大生や大学病院を担当する製薬会社のMRっていう営業社員が大半だった…不妊治療は高度な医療だから、大学病院が大半だし、どうしても、身近なところで、精子を集めようと思うだろ…それになにより、男も女も、若い方が、妊娠できる確率が高い…50歳の男の精子より、20歳の男の精子の方が、いきがいいっていうか…」


 「…でも、オジサンは、医大生でも製薬会社の人間でもないんじゃ…」


 「…金をもらって、同じアパートに住む、製薬会社の社員に頼まれて、提供したのさ…そうだろ …五郎…」


 稲葉五郎は、


 「…」


 と、答えなかった…


 「…もちろん、慎重に相手を選ぶ…相手っていうのは、出身地…」


 「…出身地?…」

 

「…精子を提供した医学生やら、製薬会社の男だって、大抵は、結婚するだろ…そして、そんなことはありえないと思うけど、もし、自分が、精子を提供して、できた子供と、自分の子供が将来、出会って結婚したいと言ったら、困るだろ…だから、出身地を選ぶ…福岡在住の母親だったら、北海道出身の医大生やらMRとか…まず、一生出会わないであろう、出身地の異なる人間の精子を選ぶ…」


女将さんの言葉に、


「…」


と、誰もなにも、言わなかった…


「…この五郎は、昔から、何事にも慎重で、特定の恋人も作らなかった…自分の正体を詮索されると困るからさ…だから、金に困った、五郎が、精子を提供したのは、数少ない不手際っていうか…後で、若き日の自分の失敗を悔やんで、懸命に、自分の精子を提供してできた子供の行方を捜した…それで、見つけたのが、このお嬢ちゃんさ…」


女将さんが、説明する…


私は、その説明を聞きながら、ボンヤリと、思い出していた…


子供の頃、近所のひとや、両親の昔からの知人に、


「…やっと、出来て、良かったね…おめでとう…」


と、よく声をかけてもらったことを、思い出した…


要するに、結婚したのは、早かったが、子宝に恵まれなかった…


私が、やっと出来た子供だった…


しかも、私は、一人っ子…


兄弟はいない…


そして、もし、今、この女将さんが言ったことが、本当だとすれば、その理由がわかる…


母は、不妊治療で、私の父以外の男のひとから、精子をもらうことが嫌だったのではないか?


もし、本当ならば、私なら、そう考える…


自分の夫以外の男から、精子を提供されるのが、たとえ、夫が、承知していても、心苦しいからだ…


 私が、そこまで、考えたときだった…


 「…バカバカしい…」


 稲葉五郎が吐き捨てた…


 「…そんな絵物語のようなことが、どこにある…」


 「…ここにあるさ…」


 女将さんが、反撃する…


 「…なんなら、これから、大きな大学病院に行って、五郎…オマエと、このお嬢ちゃんのDNA検査をしてみるか? 血の繋がった父子だと、すぐに、わかるさ…」


 女将さんの言葉に、稲葉五郎は、


 「…」


 と、答えなかった…


 なにも、言わなかった…


 不気味な沈黙が、この薄暗い店内を、占めた…


 文字通り、不気味だった…


 薄暗い店内だから、余計に、不気味に感じたのだ…


 「…」


 と、誰も、なにも、言わなかった…


 薄暗い店内で、沈黙が、あたりを支配した…


 実に重苦しい空気だった…


 誰も、なにも、言わないことが、余計に、空気を重くした…


 そのときだった…


 「…なんだ? そういうことだったんだ?…」


 と、いう若い女の声が、突然した…


 私は、声の主を見た…


 声の主は、目の前の、大場敦子だった…


 「…竹下さんは、稲葉のオジサンの娘だったんだ?…」


 あっけないほど、軽い口調だった…


 一気に、空気が緩んだ…


 この重苦しい空気をどうにか、したかったのだろう…


 わざと、軽く言ったに違いない…


 「…だから、オジサンは、山田会の会長になりたかったんだ…」


 大場が続ける…


 「…私は、てっきり…」


 そこまで、言うと、


 「…てっきり、なんだ?…」


 と、稲葉五郎が続けた…


 大場が、大きく目を見開いて、稲葉五郎を見た…


 稲葉五郎の形相が変わっていた…


 これまで、見たことのない顔だった…


 文字通り、ヤクザ…


 凶暴なヤクザそのものだった…


 まるで、今すぐに、ひとを殺しに行くかと、思えるほど、切羽詰まった、それでいて、どこか、哀しそうな表情だった…


 「…さあ…あっちゃん…続けてくれ…」


 稲葉五郎が、陰鬱な声で言う…


 が、


 大場敦子は、続けられなかった…


 文字通り、恐怖で、声が出なかった…


 ただ、蒼ざめた顔で、ガタガタと、小刻みにカラダを震わせていた…


 恐怖のためだ…


 それを見て、女将さんが、


 「…余裕がなくなってきたね…五郎…」


 と、声をかけた…


 …余裕?…


 …どういう意味だろう?…


 私は、考える…


 「…どういう意味だ?…」


 稲葉五郎が、私が思った通りのことを、言った…


 「…五郎…オマエは、あっちゃんを子供の頃から、可愛がったろ? そのあっちゃんを怖がらせるなんて、真似は、絶対しなかった…それを、今、初めて、した…あっちゃんの前で、これまで見せたことのない極道の顔を見せた…余裕を失った証拠さ…」


 女将さんの言葉に、


 「…」


 と、稲葉五郎は、言葉もなかった…


 再び、沈黙が、この薄暗い店内を支配した…


 誰もが、沈黙した…


 十秒、


 二十秒、


 いや、


 それ以上、沈黙した…


 誰もが、息苦しいほどだった…


 「…余裕か?…」


 その沈黙を破ったのは、やはりというか、稲葉五郎だった…


 「…余裕なんて、言葉…オレの人生には、一瞬たりとも、なかった…」


 ボソッと呟いた…


 「…いつも、緊張していた…一瞬たりとも、緊張がなかった瞬間がなかったといえば、大げさだが、常に、どこかに、緊張があった…そして、それを見抜いたのが、古賀会長だった…」


 「…古賀さん?…」


 女将さんが、驚いた…


 が、


 稲葉五郎は、女将さんを見なかった…


 女将さんを見ないというより、どこか、自分自身に、言っているようだった…


 「…あのひともまた根無し草っていうか…実態がない人生だった…それをオレの中にも、見たんだろう…二人とも、どこか、似ていた…」


 稲葉五郎が、寂しそうに、告白する…


 …実態がない人生って?…


 私は、考える…


 一体、どういう意味なんだろう?…


 私は、聞いてみたかった…


 が、


 聞けなかった…


 とても、聞ける雰囲気ではなかった…


 しかし、私の代わりに、


 「…オジサン…実態のない人生って?…」


 大場が聞いた…


 稲葉五郎は、大場を見た…


 そして、


 「…それは、現実感の乏しい人生だ…」


 と、優しく、大場に言った…


 「…現実感に乏しいって?…」


 「…若い頃は、誰彼となく、ケンカを吹っ掛け、相手を殴り倒すか、全力で、逃げ出す…そんなときが、この上ない高揚感っていうか…生きてるっていう実感があった…」


 「…」


 「…そして、いつしか、古賀さんに出会った…古賀さんは、オレの中に自分を見たんだと思う…なにをしても、空虚で満たされない…そんな思いを抱いているのを、見抜いたんだと思う…」


 「…」


 「…いつのまにか、オレは、古賀さんから、杯をもらい、山田会に入った…だが、それが、間違いの始まりだった…」



 …間違いの始まり?…


 …凄いことを言う…


 私は、思った…


 自分の人生を否定することを、簡単に口にする…


 私は、驚いた…


 「…なにが、間違いの始まりなんだい?…」


 女将さんが、聞いた…


 「…適性だよ…」


 「…適性?…」


 「…オレは、自分で言うのも、なんだが、ヤクザがはまり過ぎた…適性があり過ぎた…」


 稲葉五郎が、薄ら笑いを浮かべながら、告白する…


 「…自分で言うのも、おかしいが、オレに上昇志向はなかった…ただ、言われたことをやるだけ…ただ、それだけだった…だが、それに、気付いた古賀のオヤジは、オレに罠を仕掛けた…」


 「…罠?…」


 「…オバサンが、さっき言った製薬会社のMRさ…精子の提供を求められて、金のなかったオレは、その話に乗ったが、それには、裏があった…」


 「…裏?…」


 「…その製薬会社のMRを陰で、古賀のオヤジが、オレに精子を提供させろって、脅したんだ…」


 「…どうして、そんなことを?…」


 「…オレの弱みを握りたかったのさ…オレは、若い頃から、一人…特定の女も決して作らなかった…だが、それが、古賀のオヤジは気に入らなかった…あのひとは、執念深く、猜疑心が強い…自分の子分たちの弱みを握ってないと、安心できないタイプなんだ…いつ寝首をかかれるか、わからない…そんな恐怖心が、山田会の勢力拡大の原動力だった…組が大きくなれば、なるほど、安心できる…そんな男だった…このオバサンが言ったように、中国からの引き揚げ体験が、強烈に根底にあるんだろう…とにかく、強くなければ、ならない…ひとは、容易に裏切る…だから、裏切れないように、事前に相手の弱点を掴む…そうすれば、誰も裏切れないからだ…製薬会社のMRを脅して、オレに精子を提供させたのも、そういう理屈だ…オレに子供を外に作らせ、いざというときに、オレが、歯向かえば、オマエの子供がどうなるかわかってるな? と、脅すことができるからだ…」


 「…ひどい…」


 大場が声を上げた…


 「…ひどい…たしかに、あっちゃんの言う通りだ…だが、ヤクザは、誰も似たようなもんだ…任侠映画には、ほど遠い…騙し合いの世界だ…」


 稲葉五郎が、薄ら笑いを浮かべながら、言う…


 「…そして、このオレも、その世界の住人だ…」


 稲葉五郎が、言う。


 しかし、それは、哀しい声音だった…


 心底、哀しそうだった…


 「…竹下さんが、稲葉のオジサンの娘だっていうのは、ホント?…」


 大場が核心を突いた…


 が、


 その言葉は、予想外のものだった…


 「…わからない…」


 そう、呟いた…


 「…わからないって?…」


 「…正直、確信がない…このお嬢が、オレの娘か、なんて、ホントはわからない…むしろ、さっき、このオバサンが、言ったように、DNA検査を受けたいぐらいだ…」


 稲葉五郎が穏やかに言った…


 私は、それが、稲葉五郎の偽らざる本心だと思った…


 普通の家庭ならば、生まれたときから、いっしょにいる…


 だが、精子を提供しただけの関係ならば、本当に、自分の娘かどうか、確信が持てないに違いない…


 初めて会ったのだ…


 私が、稲葉五郎の母親や、姉や妹に似ていれば、確信が持てるかもしれないが、それもないのだろう…


 私は、思った…


 思いながら、私は、自分が思いのほか、冷静でいることが、不思議だった…


 やはり、実感がない…


 それが、稲葉五郎同様、私の正直な気持ちだった…


 私の父や母を問い詰めれば、あるいは、実感が湧くのかもしれない…


 いや、


 たとえ、父や母が認めても、実感が湧かないのかもしれない…


 DNA鑑定で、稲葉五郎と、血の繋がった父子と、認定されても、実感が湧くか、どうか、わからない…


 あまりにも、非現実的だからだ…


 これまで、経験したことのない出来事だから、我ながら、どうなるか、わからない…


 自分の心の動きが、我ながら、どうなるか、わからない…


 そういうことだ…


 私は、思った…


 稲葉五郎は、


 「…」


 と、沈黙した…


 話すことがなかったのかもしれない…


 それは、私も同じだった…


 いや、


 残りの二人、


 女将さんと、大場も同じだった…


 私は、思った…


 が、


 そうではなかった…


 「…へぇー、そういうことだったんだ…」


 いきなり、大場が言った…


 なにか、大場が、いつもと、違った…


 そんな感じがした…


 「…オジサンは、そうして、高雄…高雄悠(ゆう)さんとも、繋がっていたんだ…」


 稲葉五郎が、少し、驚いた様子だった…


 「…そうだよ…あっちゃん…」


 大場の言葉に応じたが、少し、戸惑っている様子が、ありありだった…


 「…じゃ、高雄さんは…高雄悠(ゆう)さんは、父親の高雄組組長を助けたかったから、オジサンに協力したんだ…」


 「…そうだよ…」


 大場が、稲葉五郎の言葉に、突然、


 「…ウソ!…」


 と、強く、否定した…


 「…ウソ? なにが、ウソなんだ?…」


 「…オジサンは、ウソを言ってる…」


 「…なにが、ウソなんだ?…」


 「…高雄さんの目的? オジサンは、気付いていないの?…」


 「…悠(ゆう)の目的? 高雄のアニキを助けるためじゃないのか?…」


 「…違う…」


 「…違う?…」


 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんの目的は、あの高雄組を乗っ取ることよ…」


 「…高雄組を乗っ取るって? バカな…悠(ゆう)は、ヤクザでも、なんでもないじゃないか…」


 「…だからよ…」


 「…どういうことだ?…」


 「…あのひとは、いずれは、高雄組の資産を自分のものにしたかった…あのひとは、本当は、誰よりも貪欲で、がめつくて…それを見抜いたのが、古賀さんだった…」


 「…古賀のオヤジが?…」


 「…高雄さんも、稲葉のオジサンと同じく、古賀さんの側近だった…だから、高雄さんも、子供の悠(ゆう)さんを、よく古賀さんの元へ、連れて行った…そして、悠(ゆう)さんに、接するうちに、古賀さんは、悠(ゆう)さんの本質を見抜いた…」


 「…どういうことだ?…」


 「…冷酷非情といえば、おおげさだけど、なまじ頭が良かったばかりに、自分の才能を過信してるっていうか…本当は、誰よりも、わがままで、自信家の素顔を見抜いた…」


 「…」


 「…そして、古賀さんは、それを利用しようとした…」


 「…どういうことだ?…」


 「…稲葉のオジサンにとって、竹下さんが、血の繋がった娘というウイークポイントのように、高雄組組長にとってのウイークポイントが、悠(ゆう)さんだった…」


 「…どういう意味だ?…」


 「…さっき、オジサンが、言ったのと、同じ…」


 「…同じ?…」


 「…利用できると、思ったのよ…高雄悠(ゆう)というひとを…」


 「…」


 「…なまじ、他人様よりも、頭がいい…だから、自信がある…でも、まだ、子供だから世間を知らない…稲葉のオジサンにとっての、弱点が、竹下さんなら、高雄さんにとっての弱点が、悠(ゆう)さんだった…ヤクザに未来がないことを、悠(ゆう)さんに吹聴したのも、古賀さん…まだ、右も左もわからない悠(ゆう)さんに、ヤクザじゃ飯が食えないから、将来は、ゴッドファーザーのように、堅気を目指せばいいと教えたのも、古賀さん…」


 「…古賀のオヤジが?…」

 

 「…悠(ゆう)さんの野心を利用できると、思ったのよ…事実、悠(ゆう)さんは、古賀さんの路線とぃうか、それを現実化しようと、目論んだ…その延長に、杉崎実業の買収があった…杉崎実業の買収には、当然、高雄悠(ゆう)さんも、関わっている…」


 「…悠(ゆう)が?…」


 「…そして、悠(ゆう)さんの背後には、古賀さんがいた…」


 「…古賀のオヤジが? だって、オヤジはボケが始まって…」


 「…古賀さんは、いつもボケていたわけじゃないよ…」


 女将さんが、口を挟んだ…


 「…どういうことだ?…」


 「…まだらボケさ…」


 「…まだらボケ…そりゃ、なんだ?…」


 「…古賀さんは、いつもボケてるわけじゃない…ボケているときもあれば、普通のときもあった…要するに、五郎…アンタは、古賀さんの演技に騙されたのさ…」


 「…騙された?…」


 「…アンタが、若い頃に、自分が精子を提供して、できた子供を探すのに、古賀さんが、若い頃にできた娘の子供とか、なんとか、こじつけて、探した…でも、古賀さんは、オマエのウソに気付いていた…」


 「…だったら、オヤジは、なんで、オレを叱らなかったんだ?…」


 「…時勢だよ…」


 「…時勢?…」


 「…山田会は、もはや古賀さんの時代じゃない…だから、わかっていても、知らないフリをしていたのさ…五郎、オマエと、ガチンコで、ケンカしたら、山田会の大半が、オマエになびくことに、気付いていたのさ…」


 「…」


 「…それに、くさびは打ち込んでいた…」


 「…くさび?…」


 「…悠(ゆう)だよ…さっき、あっちゃんも言っただろ…悠(ゆう)をそそのかして、くさびを打ち込んだ…自分の立場が危うくなれば、高雄さんを盾に、五郎…オマエと戦うつもりだった…高雄さんを、経済ヤクザに仕立てのも、それが、理由さ…」


 「…」


 「…古賀さんは、最後まで、抜け目なかった…最後まで、安心できないひとだった…だから、同じ山田会でも権謀術数を用いて、なんとしても、自分の立場が危うくならないように、仕掛けた…おそらく、死ぬまで、幼少期の、満州からの引き揚げ体験に、縛られていたんだろう…その恐怖で、女も抱けず、他人を信用できなかった…だから、五郎が言うように、子分といえども、弱点を見つけて、いざとなれば、それを元に、相手を脅そうと考えていた…思えば、可哀そうな人生さ…」


 町中華の女将さんの言葉に誰もが、絶句した…


 「…」


 と、言葉もなかった…


 「…可哀そう…」


 大場が、一言、漏らした…


 「…子供時代の凄惨な体験に一生縛られるなんて…」


 「…誰も、同じさ…」


 女将さんが、口を開いた…


 「…同じ?…」


 「…アタシが、この中華店を開いたのも、同じさ…爺さん、婆さんが、満州の開拓団に行ったとき、中華料理のおいしさに、魅せられて、日本に戻ってきたときに、アタシの母親によく作ってくれたんだ…そして、母親は、アタシに作ってくれた…アタシは、それが、高じて、この店を出した…つまりは、この店の原点は、爺さん、婆さんの満州の経験さ…」


 女将さんが、言う…


 「…その経験がなければ、この店をやっちゃいないよ…」


 私も、その意見に賛成した…


 どうしても、子供時代の経験は大きい…


 一生を縛るかどうかは、わからないが、忘れることができない…


 例えば、私は、犬が苦手だ…


 どうして、苦手なのかと聞かれれば、子供の頃、犬に追いかけられた経験が、トラウマになってるからだ…


 今になって、考えれば、下手に逃げたから、追っかけられたのだが、当時は、子供だから、わからなかった…


 逃げるから、追いかけられる…


 逃げるから、追いかけられる?


 変だ!


 私は、思った…


 今、稲葉五郎は、私と、大場、町中華の女将さんの三人でいる…


 だが、なぜ、大場が、ここにいるんだ?


 どうして、大場は、私をここへ、連れてきたんだ?


 今さらながら、思った…


 今さらながら、気付いた…


 なぜなら、大場は、父親の大場小太郎が、今、絶頂期…


 間違いなく、次期首相になる…


 その娘が、日本で、二番目に大きな暴力団の組長と、今、いっしょにいる…


 これが、週刊誌にでも、撮られれば、格好の餌食…


 下手をすれば、父親の次期首相の目は、完全に消える…


 だから、例えば、稲葉五郎に誘われれば、逃げる…


 どんなことがあっても、断る…


 それは、父親の大場代議士だけでなく、娘のあっちゃんも同じはずだ…


 だが、今、現実は、逃げるどころか、稲葉五郎といっしにいる…


 まもなく、日本で二番目に大きな暴力団のトップとなる大物ヤクザといっしょにいる…


 これは、一体、どういうことだ?


 考える…


 いや、


 そもそも、私、竹下クミを、この場に連れてくるときに、大場は、怯えたような表情を見せていた…


 明らかに、緊張していた…


 それを思い出していた…


 いや、


 それを言えば、そもそも、どうして、大場は、私をここへ連れてきたのだろう?


 町中華の女将さんと結託して、呼び出したに決まっている…


 ということは、どうだ?


 ここで、なにが、行われるか? 


 事前に知っていた可能性が高い…


 つまりは、私を、稲葉五郎に引き合わせ、血の繋がった父子と、暴露することを知っていた可能性が高い…


 あるいは、知っていなくても、私が、必要だから、呼び出したに決まっている…


 では、誰が、大場敦子にそれを命じたのか?


 普通に考えれば、父親の大場小太郎に決まっている…


 ということは、どうだ?


 もしかしたら、大場小太郎は、稲葉五郎の弱点を掴んだと言うことだ…


 だから、安心して、娘の敦子を、この場に送り込んだ?


 いや、


 違う…


 どういう理由があろうと、自分の娘が、大物ヤクザと、会って、それを写真に撮られでもしたら、大変だ…


 一体、なぜ?


 その理由は、わからないが、例え、週刊誌に写真を撮られても、平気?


 あるいは、


 写真を撮られる危険を冒しても、この場に娘を派遣しなければならない…


 その、いずれかだ…


 その、どっちかだ…


 私は、考える…


 そのときだった…


 なんだか、外が騒がしくなってきた…


 


 「…なんだか、外が騒がしくなってきたな…」


 稲葉五郎が言った…


 当たり前だが、外が、喧騒としていることに、稲葉五郎も気付いた…


 薄暗い店内にいた、私たち4人だが、外の喧騒は伝わってきた…


 稲葉五郎は、立ったままだった…


 私と大場は、きちんと椅子に座っていた…


 女将さんは、飲み物を私たちに持ってきたところで、稲葉五郎が、やって来たので、やはり、立ったままだった…


 今さらながら、それに気付いた大場が、


 「…オバサンも、稲葉のオジサンも座ったら? 立ったままじゃ、疲れるでしょ?…」


 と、声をかけた…


 「…そうだね…」


 女将さんは言って、席に座った…


 「…オジサンも座ったら…」


 が、稲葉五郎は、座らなかった…


 まるで、聞こえないように、大場の言葉を無視した…


 「…五郎は、座らないよ…」


 女将さんが、言った…


 「…どうして、座らないの?…」


 「…逃げるためさ…」


 女将さんが、断言する。


 「…逃げるためって?…」


 大場が、絶句する…


 「…あるいは、すぐに反撃するため…椅子に座れば、どうしても、すぐに動けない…だから、この店に入って来たときから、ずっと、立ちっぱなし…すぐに、動けるように、準備してるのさ…そうだろ、五郎?…」


 稲葉五郎は、


 「…」


 と、答えなかった…


 女将さんの質問を無視した…


 「…変わらないねえ…若いときから、ずっとさ…古賀さんのボディガードをしていたときから、ずっと同じ…当時は、古賀さんを守る、番犬だと思っていたけど、今、考えると、それも違った…」


 「…どう、違うんだ?…」


 「…オマエは古賀さんの番犬なんかじゃない…オマエは、オマエを守っていたのさ…」


 「…」


 「…おそらく、オマエの生まれが、無意識にそういう行動をさせるんだろうね…いかに、過酷な人生を送ってきたのか、わかるよ…」


 「…どういう意味だ?…」


 「…稲葉五郎…いや、宋国民…オマエの人生さ…」


 その言葉に、稲葉五郎は、


 「…」


 と、なにも言わなかった…


 言葉を返せなかったのかも、しれない…


 「…ホントは、オマエは番犬というより、狂犬だ…力が強く、コントロールが効かない…きっと、古賀さんは、内心、オマエを恐れていたんだと思う…だから、このお嬢ちゃんが、オマエの血の繋がった娘か、どうかは、ともかく、オマエの弱点を掴んでいたかったんだと思う…」


 「…」


 「…コントロールの効かない狂犬ほど、恐ろしいものは、ないからね…」


 女将さんが、意味深に呟く…


 そのときだった…


 勢いよく、店の扉が開いて、誰かが入って来た…


 「…オヤジ…大変だ!…」


 勢いよく、店に飛び込んできたのは、戸田だった…


 稲葉五郎の子分だ…


 「…どうした?…」


 「…大場代議士が、刺されました…」


 「…なんだと?…」


 稲葉五郎が、驚愕する…


 いや、


 稲葉五郎だけではない…


 娘の大場敦子は、もちろんだが、私も、女将さんも、同じように、驚いた…


 私と、女将さんは、慌てて、大場敦子を見た…


 いや、


 私と女将さんだけではない…


 稲葉五郎も、戸田も、同じく、敦子を見た…


 「…刺された?…」


 そう一言、呟くや、敦子は、カッと目を見開いて、絶句した…


 それから、いち早く、稲葉五郎が、我に返った…


 「…誰に、だ? 誰に刺された? 刺した野郎は、摑まったのか?…」


 「…いえ…逃走したとのことです…」


 「…逃走した? …だが、おかしいな…大場代議士には、SPが付いているはずだ? なのに、なぜ、刺された?…」


 「…いえ、それが、犯人が顔見知りっていうか…」


 戸田が、話ながら、チラリと大場を見た…


 「…顔見知り? なら、SPも遠慮するっていうか…席をはずすな…で、誰なんだ?…」


 「…それが、どうも、高雄の坊ちゃんのようで…」


 言いにくそうに、戸田が言った…


 「…ウソッ?…」


 思わず、私は叫んだ…


 叫んだ後に、しまったと思った…


 大場の気持ちを、考えたとき、なにか、言葉を発しては、いけないと、思ったのだ…


 私は、急いで、大場を見た…


 そして、


 「…ごめんなさい…」


 と、詫びようとした…


 が、


 大場の口から出たのは、


 「…やっぱり…」


 という、思いがけない言葉だった…


 「…どういうことだ?…」


 稲葉五郎が、聞いた…


 「…高雄さんが…悠(ゆう)さんが、報復に出ることは、わかっていた…だから、パパは、悠(ゆう)さんを、逮捕して…」


 意外なことを、口にした…


 「…でも、悠(ゆう)さんが、警察から、出ていたなんて…」


 大場が、驚く…


 私は、考えた…


 高雄悠(ゆう)が、報復?


 報復?


 ということは、大場代議士と、高雄悠(ゆう)の間に密約というか、なんらかの取引があったに違いない…


 そして、大場代議士は、その密約を裏切ったというか、反故にした…


 だから、悠(ゆう)に、報復された…


 そういうことだろう?


 私は、思った…


 だが、


 となると、一体、悠(ゆう)と、大場代議士の間に、どんな密約があったのだろうか?


 考える…


 そのときだった…


 「…外が騒がしいのは、大場代議士が刺されたためだったのか?…」


 稲葉五郎が言う。


 が、


 すぐに、戸田が、それを否定した…


 「…原因は、うちの事務所です…」


 「…なんだと? どうして、だ?…」


 「…悠(ゆう)さんが、大場代議士を刺して、逃げたんで、それで、そのとばっちりと言うか…警察(サツ)が、ガサ入れにやって来て…」


 「…そうか…」


 稲葉五郎が言った…


 一瞬、驚いた表情だったが、原因がわかると、すばやく対応した…


 「…だったら、オレも事務所に顔を出さねえといけねえな…」


 稲葉五郎が呟く…


 「…そういうことだ…また今度…」


 そう断言するやいなや、稲葉五郎は、戸田を連れて、風のように、店を出て行った…


 あっけなく、店を去った…


 後には、私たち3人が、残った…


 しばらくは、誰もなにも言わなかった…


 虚無感というと、大げさだが、大きな脱力感があった…


 なにより、誰もが、なにを言っていいのか、わからなかった…


 ただ、大きな喪失感があった…


 3人とも、それを共有していた…


 「…まさか…悠(ゆう)さんが、大場代議士を…」


 女将さんが、力なく、呟いた…


 椅子に座って、心底、参ったというように、天井を見上げた…


 「…バカな男…昔から、ずっと自信過剰で…」


 大場が呟く…


 私は、その言葉を聞きながら、たしか、以前も林が、同じ言葉を言っていたのを思い出していた…


 「…バカな男…」


 林も、たしかに、そう言っていた…


 私は気付かなかったが、身近に接すれば、誰もが、同じ感想を抱くのかもしれない…


 外見は、花屋や図書館が似合う、おとなしめの男だが、その中身は、真逆…


 まったく違う…


 異常なまでに、自分のルックスに自信を持ち…自分の頭脳に自信を持つ…


 そして、その結果、野心満々…


 その化けの皮が剥がれたということだろう…


 私は、考える。


 「…バカな男…」


 大場が繰り返した…


 「…バカな男…」


 何度も繰り返した…


 そして、いつしか、大場の頬を涙が伝った…


 私は、それを見て、気付いた…


 ピンときた…


 もしかしたら?


 もしかしたら、大場が、私を連れて、来たのは、高雄に…高雄悠(ゆう)に、頼まれたからではないのか?


 そう思った…


 いや、


 それはないか?


 今、大場は、


 「…悠(ゆう)さんが、警察から出ていたなんて…」


 と、ポツリと漏らした…


 これは、高雄悠(ゆう)が、自由の身になれたことを知らなかったことに、ほかならない…


 だから、今日、私を、この店に連れてきて、この渡辺えりに似た女将さんが、稲葉五郎の正体を告げることを、事前に、打ち合わせていても、その決定を知ることはできない…


 なにより、大場は、今、父親の大場小太郎が、高雄悠(ゆう)を、逮捕させたと、言っていた…


 ということは、どうだ?


 高雄悠(ゆう)を、逮捕させなければならい理由があるということだ…


 つまりは、大場小太郎は、おそらく、高雄悠(ゆう)を裏切った…


 その報復を恐れて、悠(ゆう)を、逮捕したに決まっている…


 が、


 おそらく、逮捕したのが、無理筋というか、微罪だったのだろう…


 だから、長期間、高雄悠(ゆう)の身柄を拘束できなかったに違いない…


 だから、釈放したのだろう…


 しかし、


 しかし、今さらながら、思った…

 

 この大場が、涙を流すということは、やはり、恋人関係と言うか…


 普通の間柄ではない…


 私は、思った…


 このときは、わからなかったが、大場小太郎は、実は、高雄組の資産を狙っていた…


 つまり、亡くなった古賀会長を監視する目的で、山田会の最高幹部たる、稲葉五郎と高雄組組長たちと接しているうちに、経済ヤクザである、高雄組の資産が欲しくなった…


 そして、それを合法的に、自分のものにするには、どうすれば、いいか?


 思いついたのが、娘の敦子と、悠(ゆう)の結婚だった…


 無論、大物政治家の娘と、大物ヤクザの息子の結婚なんて、バカげている…


 できるはずがない…


 そんなことは、百も承知の上だが、やはり諦めきれなかった…


 これは、以前も書いた…


 そして、大場小太郎が、密かに、そう考えていることは、敦子もまた、手に取るようにわかった…


 いや、


 わかったのではないのかもしれない…


 卵が先か、鶏が先かの例えではないが、大場小太郎は、高雄悠(ゆう)と、敦子が、仲良く接しているのを見て、考え付いたのかもしれない…


 思ったのかもしれない…


 自分の娘と、高雄組組長の息子が、仲が良い…


 それは、傍から見ても、わかる…


 誰の目にも、わかる…


 だから、思いついたのかもしれない…


 大物政治家の娘と大物ヤクザの息子の結婚…


 所詮、無理な組み合わせと思いつつも、もしも、と、考えたのかもしれない…


 夢想したのかもしれない…


 そして、その結果、行きついたのが、高雄悠(ゆう)と、娘の敦子を結婚させることで、高雄組の資産を、自分のモノにするということだったのかもしれない…


 私は、思った…


 と、そこまで、考えたとき、女将さんが、私と、大場を見て、呟いた…


 「…似ているね…」


 当たり前のことを言った…


 そもそも、私と大場、林の3人が、偶然、似ていることから、杉崎実業を舞台にした物語が始まった…


 柴野も野口も、私たち3人と、似ているから、杉崎実業に合格した…


 言葉は悪いが、付け足しだ…


 本命ではない…


 「…あっちゃんは、悠(ゆう)さんのことが、好きだった?…」


 女将さんが、優しく言った…


 「…好き…」


 と、言って、首を縦に振った…


 「…そうかい…」


 女将さんが、嬉しそうに呟いた…


 それから、一転して、


 「…で、それを、大場代議士は知ってるのかい?…」


 と、聞いた…


 大場敦子は、黙って、首を縦に振って、頷いた…


 それを見て、女将さんが、


 「…おかしいね?…」


 と、突然、言った…


 「…おかしい? どういうこと?…」


 涙で頬を濡らした大場が聞いた…


 「…だって、そうだろ? 大物ヤクザの息子と大物政治家の娘…これが恋愛に発展すれば、双方が困る? 違うかい?…」


 女将さんの言葉に、


 「…」


 と、大場は答えなかった…


 その通りだったからだ…


 それから、ニヤッとして、


 「…案外、このお嬢ちゃんと、あっちゃんは、入れ替わったのかも? そしたら、大場代議士は、自分の娘じゃないから、悠(ゆう)さんとあっちゃんの交際を見て、見ぬふりをしていたのかも…」


 と、仰天の言葉を発した…



 …まさか?…


 …そんなバカな?…


 私は、思った…


 私と、大場敦子が入れ替わる?


 …そんなバカなことがあるはずがない…


 私が、


 「…そんなバカなこと…」


 と、言おうとするより先に、


 「…オバサン、バカなこと、言わないで…」


 と、大場が抗議した…


 「…いくらなんでも、そんなこと、あるわけないじゃない…」


 大場が言う。


 が、


 女将さんは、納得しなかった…


 「…そんなことは、百も承知さ…でもね…」


 「…でも、なに?…」


 「…自分の血の繋がった娘が、ヤクザの息子と結婚するのを、普通、承知するかね? だから、案外、このお嬢ちゃんと、入れ替わって…」


 「…バカなこと、言わないで!…」


 大場が激高する…


 当たり前だった…


 「…それに、オバサンが、先走りし過ぎ…

私と悠(ゆう)さんは、付き合ってるけど、結婚するとか、なんとか、言ったことは、一度もない…これは、悠(ゆう)さんも、たぶん、同じ…」


 「…それでもさ…」


 「…どういうこと?…」


 「…普通は、付き合うこと自体に、難色を示すんじゃないかい? …男と女さ…男同士でも、女同士でもない…男と女が、付き合えば、妊娠もある…それが、男と女の付き合いさ…それを、大場代議士だって、わかってるんだろう…だけど、なにも、言わないんだろ?…」


 女将さんの言葉に、


 「…」


 と、大場は、なにも言わなかった…


 「…それにだ…もし、このお嬢ちゃんが、ホントは、大場代議士の血の繋がった娘で、あっちゃんが、五郎の血の繋がった娘だとする…そうだとすれば、どうだ?…」


 「…どうって?…」


 「…大場代議士は、五郎の血の繋がった娘を手元に置いているんだ…いざ、五郎とことを構えても、大場代議士は、五郎の弱みを握っていることになる…」


 女将さんが言う…


 …うまいことを言う…


 私は、思った…


 たしかに、私が、大場代議士の娘で、敦子が、実は、稲葉五郎の娘と言うのは、ストーリーが面白いというか…


 説得力がある…


 ただし、だ…


 この発想には、無理がある…


 「…オバサン…頭、大丈夫?…」


 敦子が、大声を出した…


 「…自分の娘を交換して、どうなるの?…

 なにより、稲葉のオジサンの血の繋がった娘を、大場の娘として、育てるわけがないでしょ? 自分で言うのもなんだけど、大場の娘ならば、お金持ちで、なに不自由ない暮らしができる…それが、実の血の繋がった娘には、平凡な暮らしをさせるなんて、あり得ない…いざというときに、人質にできると、考えても、他人の娘に、あんな豪勢な生活を送らせるなんて、考えられない…」


 大場が、絶叫する…


 大場の言葉に、


 「…」


 と、女将さんは、なにも、言わなかった…

 

 大場が言ったことは、私が思ったことと、同じだった…

 

 私が、考えたことと、いっしょだった…


 有名政治家の娘であることは、メリットだらけ…


 自分の血の繋がった実の娘に、それを捨てさせることは、普通、あり得ない…


 考えられない…


 「…たしかに、ね…」


 女将さんも、大場の話を認めた…


 「…あくまで、可能性さ…それを口にしただけ…」


 女将さんは、あっさり、白旗を揚げた…


 話は、それで、終わった…

 

 「…つまらないことを言って、すまなかったね…」


 女将さんが、大場に、頭を下げた…


 大場は、なにも言わなかった…


 余裕が、なかったのだろう…


 自分の父親が、刺された…


 しかも、刺した人間は、自分が、子供の頃から、知っている幼馴染(おさななじみ)…


 そして、恋人だ…


 頭の中が、混乱するに、決まっている…


 私が、そう考えたとき、女将さんが、


 「…あっちゃん…家に、電話して…早く帰った方が、いいよ…」


 と、大場に助言した…


 大場もまた、今さらながら、その必要に、気付いた…


 自分の父親が、高雄悠(ゆう)に、刺されたことへの衝撃で、頭が混乱していたのだろう…


 今さらながら、その必要性に気付いた…


 ケータイを取り出し、電話をする…


 が、


 プル…プル…プル…と、電話の呼び出し音が、鳴るだけで、いつまでも、電話が繋がらなかった…


誰も出なかった…


 やはり、緊急事態というか…


 電話に出るどころでは、ないのかもしれない…


 あらためて、戸田の言ったことが、事実だと、わかった…


 「…テレビ…」


 突然、大場が言った…


 「…テレビをつけて…」


 テレビは、自分のスマホでも見れるが、大場は、それを忘れているようだ…


 無理もない…


 自分の父親が刺されたのだ…


 女将さんが、慌てて、席から、立ち上がり、店のテレビの近くに、歩み寄り、テレビをつけた…


 テレビの画面では、テロップに、


 …大場代議士…刺される…犯人は、逃亡中…


 と、大きく、流れていた…


 …やはり、本当のことだったんだ…


 私は、あらためて、思った…


 あの戸田が、この店に飛び込んできて、稲葉五郎に、ウソを言うとは、思わないが、テレビのテロップを見て、あらためて、大場代議士が刺されたことを、実感した…


 …あの、大場代議士が刺されるなんて?…


 私は、今さらながら、思った…


 稲葉五郎や、高雄組組長といった、大物ヤクザと、接したが、暴力とは、無縁だった…


 有名なヤクザと接したにも、かかわらず、暴力とは、無縁だった…


 暴力団と接していたにも、かかわらず、暴力とは、無縁だった…


 いや、


 まったくの無縁だったわけではない…


 一度だけ、暴力に遭遇した…


 一度だけ、暴力を目の当たりにした…


 それは、さっき、慌てて、この店に飛び込んできた、戸田が、稲葉五郎に殴られたのを、見たときだ…


 私を、勝手に、稲葉一家の事務所に入れたので、稲葉五郎が、激高したのだ…


 あのときは、なぜ、あんなにも、稲葉五郎が、激高したのか、わからなかった…


 しかし、今になってみれば、わかる…


 自分の血の繋がった実の娘かもしれない、私に、暴力団の事務所にやって来られるのは、嫌だったのだ…


 稲葉五郎は、ヤクザ…


 大物ヤクザだ…


 しかし、それは、結果として…


 さっき、稲葉五郎がいみじくも言ったように、


 …適性があり過ぎたのだ…


 つまりは、職業として、ヤクザをやっているに過ぎない…


 仕事として、ヤクザをやっているに、過ぎない…


 そして、成功したに過ぎない…


 そして、自分の娘には、その領域に、一歩でも、足を踏み入れてもらいたくなかったに違いない…


 はっきり言って、ヤクザは世間から、褒められる職業ではない…


 尊敬される職業ではない…


 自分が、その職業に就いていることは、構わないが、実の娘には、一歩たりとも、関わせたくないに違いない…


 それが、稲葉五郎の本心だろう…


 私は、今さらながら、思った…


 子が親を思う以上に、親は子を思うと、世間では、言われている…


 おそらくは、稲葉五郎は、自分の子供は、ヤクザにしたくないに違いない…


 おそらく、ヤクザとは、無縁の真っ当な仕事に就いてもらいたいに違いない…


 そこまで、考えて、あらためて、思った…


 高雄悠(ゆう)が、大場代議士を刺した、事件を、だ…


 二人とも、当たり前だが、ヤクザではない…


 ヤクザと深く接しているが、ヤクザではない…


 稲葉五郎や、高雄組組長と言った大物ヤクザが、身近にいるにもかかわらず、刺した人間も、刺された人間も、ヤクザではない…


 これは、ある意味、これ以上の皮肉はない…


 これに、勝る皮肉は、ないとも言える…


 ヤクザが、暴力を使わず、その周辺にいる一般人が、暴力を振るったのだ…


 まさに、これ以上の皮肉はない…


 私は、思った…


 そんなことを考えて、ふと、大場を見た…


 大場は、目を凝らして、テレビに流れるテロップを凝視していた…


 当たり前だ…


 自分の父親が刺されたのだ…


 真剣な表情で、食い入るように、画面を見つめていた…


 そんな大場に、


 「…あっちゃん…」


 と、女将さんが、優しく声をかけた…


 「…なにが、あっても、落ち込んじゃダメだよ…気をしっかり、持つんだ…」


 当たり前のことを言った…


 だが、この当たり前のことを言わなければ、ならないほど、大場は、誰の目にも、動揺していた…


 大場は、画面を見つめたまま、女将さんの言葉に、無言で、首を縦に振って、頷いた…


 私は、黙って、その光景を見ていた…


 大場もどうしていいか、わからないに違いない…


 あまりにも、意外な展開に、心が動揺して、正常な判断ができないに違いない…


 と、そこまで、考えて、ハタと気付いた…


 さっき、戸田が、この店に飛び込んで、稲葉五郎に、


 「…大場代議士が刺されました…」


 と、告げ、


 稲葉五郎が、


 「…誰がやった?…」


 と、聞いたとき、戸田が言いにくそうに、


 「…刺したのは、高雄の坊ちゃんです…」


 と、告げた…


 それを聞いて、この大場敦子は、


 「…やっぱり…」


 と、呟いた…


 さらには、こんなことが起きる可能性があるから、事前に高雄悠(ゆう)を逮捕させたことすら、暴露した…


 つまり、最初から、この展開は、もしかしたら、この大場にとっては、想定通りなのかもしれない…


 だからかもしれない…


 この大場が、この店に私を連れてくる最中に、すでに車中で、大場が、もの凄く緊張していることに、気付いた…


 あれは、この女将さんと、結託して、稲葉五郎を呼び出して、私が、稲葉五郎の娘だと告げる…


 そう、あらかじめ、シナリオを決めていたから、緊張していたのだろうと、思っていた…


 なにより、そんなことをすれば、私ではなく、稲葉五郎が、どういう反応をするか、わからない…


 その恐怖ゆえ、大場は、緊張していたのだろうと、考えた…


 だが、違うのかもしれない…


 もとより、それは、間違いではないが、すでに、高雄…高雄悠(ゆう)が、なにか、起こすことが、想定内というか、わかっていたのかもしれない…


 そして、それは、ずばり、自分の父、大場代議士への報復…


 それが、事前にわかっていたからこそ、大場は、緊張していたのかもしれない…


 なにより、大場は、稲葉五郎が、私の実の父親かもしれないと、女将さんが言っていたときに、妙に高揚感があった…


 普段のというか、これまで、会った、大場敦子とは、明らかに違った…


 それは、やはり、今言ったように、稲葉五郎の件と、高雄悠(ゆう)の報復が、頭にあったからに違いない…


 私は、あらためて、思った…


 考えた…


 と、そこまで、思ったときだった…


 突然、プル…プル…プルと、ケータイの電話が鳴った…


 最初、誰のケータイか、わからなかった…


 いまや、誰もが、ケータイを持っているからだ…


 持っていない人間を探す方が、難しい…


 だから、私のかもしれない、と思ったが、そうではなかった…


 大場のケータイだった…


 私も、大場も、呼び出し音が同じというか、平凡中の平凡の呼び出し音だったので、どちらのケータイだか、わからなかったのだ…


 「…ハイ…大場です…」


 大場が電話に出た…


 それから、一気に、大場の表情が、緊張した…


 「…高雄…悠(ゆう)さんなの?…」


 大場が言った…


 その言葉に、私も女将さんも、一気に緊張した…


 あり得ない展開だった…


 思わず、私と女将さんは、互いの顔を見合わせた…



 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんなの?…」


 大場が繰り返す。


 が、


 すぐに、相手は、答えなかった…


 少し間を置いて、


 「…そうだよ…」


 と、返答した…


 ケータイから漏れる声が、私や、女将さんにも、聞こえた…


 「…今、どこにいるの? いえ、どうして、お父さんを刺したの?…」


 大場が聞く。


 鬼のような形相だった…


 当たり前だ…


 自分の父親を刺した相手からの電話だ…


 だが、


 それは、同時に、自分の幼馴染(おさななじみ)であり、恋人でもあった…


 「…仕方ないよ…」


 高雄の声が漏れた…


 「…つい、やっちまった…」


 蚊の鳴くような声だった…


 「…これで、刑務所行きかな…出所したら、オヤジの組で、雑用か、電話番から、始めるかな…」


 「…バカなこと、言わないで…」


 大場が怒った…


 「…アンタみたいに弱っちいヤクザがいるものですか…アンタみたいな弱っちいのは、花屋か図書館で、働いていれば、いいのよ…」


 大場がケータイに怒鳴る…


 同じだ…


 私と、まったく、同じだ…


 高雄悠(ゆう)に、暴力は似合わない…


 ヤクザは、似合わない…


 似合うのは、花屋や図書館といった、おとなしめの職業…


 私が、いつも、考えていたことと、大場が同じことを言ったので、申し訳ないが、もう少しで、


 …プッ!…


 と、吹き出すところだった…


 危なかった…


 この深刻な状況で、笑うことはできない…


 吹き出すことは、できない…


 にもかかわらず、吹き出しそうになった(苦笑)…


 …まずい!…


 …まずい!…


 「…そうだな…あっちゃんの言う通りだ…」


 スマホの向こう側から、高雄悠(ゆう)の弱弱しい声が、聞こえてきた…


 「…でも、刺した男の娘に、電話しているなんて、なんか、複雑…オレって、ホント、救いようがねえな…ダメだな…」


 電話の向こう側から、自虐の声が漏れる…


 私は、驚いた…


 なぜなら、高雄が、自分のことを、オレと言ったのを、初めて聞いたからだ…


 いかにも、いいとこのお坊ちゃんっぽい、高雄には、ボクが、似合う…


 だから、普段から、いつもボク…


 それが、一転して、オレとは?


 なんだか、すごく追い込まれてる…


 そんな当たり前のことを感じた…


 「…とにかく、今、どこにいるか、言いなさい…」


 大場が、怒鳴る…


 「…言えねえよ…そんなことより、オマエの声を聞けて、よかった…」


 と、言うなり、プチっと、電話が切れた…


 「…チョッ…チョット…」


 慌てて、大場が、叫んだが、後の祭りだった…


 大場が、呆然とする。


 が、


 すぐに、我に返ると、急いで、電話しようとした…


 と、そのときだった…


 またも、


プル…プル…プル…と、電話が鳴った…


「…悠(ゆう)さん…」


と、慌てて、大場が電話に出た…


が、


相手は、悠(ゆう)ではなかった…


「…敦子…今、どうしているの?…」


中年の女の声だった…


「…ママ?…」


大場が驚く…


が、


それ以上に、驚いたのは、


…ママ…


と、大場が呼んだことだった…


いっときは、ヤンキーを気取って、私の前に現れたこともある、大場に、


…ママ…


は、似合わない(笑)…


だったら、父親の大場代議士のことを、


…パパ…


と、呼んだのは、どうなんだ? と、言いたくなるが、やはり、パパより、ママの方が、私的には、インパクトが強かった(笑)…


やはり、お金持ちは、私と違うのかもしれない…


そうも、思った…


が、


そんなことを、深く考えてる間もなく、


「…さっさと、帰って来なさい…お父さんが刺されて…」


電話から、狼狽した声が漏れた…


「…知ってる…だから、さっき、電話したけど、ママも、電話出なくて…」


「…今、すごくバタバタしているから、電話に出れなかったの…」


母親が、怒った様子で、答える…


すると、大場は、


「…」


と、黙った…


当たり前のことだからだ…


「…とにかく、帰って来なさい…詳しい話はそこで…」


言うなり、プチっと、電話が切れた…


大場は、所在なさげというか、どうしていいか、わからない様子だった…


それを見た女将さんが、


「…とにかく、お母さんの言う通り、家に帰りな…あっちゃん…」


と、声をかけた…


大場の背中を押したのだ…


「…どうなるかは、わからないけど、とにかく、お母さんの言う通りに…」


女将さんが言う…


これは、まずい…


思わず、女将さんの本音が漏れた…


どうなるか、わからないというのは、大場代議士の容態もそうだし、高雄悠(ゆう)の今後もそう…


どうなるか、さっぱり、わからない…


しかし、それを口にするわけには、いかない…


だが、思わず、女将さんは、その本音を口にしてしまった…


が、


狼狽した大場は、そのことに、気付かなかった…


そんな余裕がなかったからだ…


「…わかった…オバサンの言う通りにする…」


と、言うなり、あっけなく、店を出て行ってしまった…


私は、唖然とした…


私をここへ連れてきたくせに、すでに、私の存在など、忘れているようだった…


店には、ポツンと、女将さんと私だけが、残された…


なんだか、取り残された感じだった…


私と、女将さんの間に、気まずい沈黙が流れた…


元々、大した知り合いではない…


出会ったのが、たしか、今日が、3度目か、四度目という、きわめて浅いレベルの知り合い…


しかも、女将さんは、私が、稲葉五郎の娘かもしれないと、暴露した…


だから、女将さんも、私に対して、遠慮というか、及び腰だった…


だから、互いが互いを牽制するように、どうしていいか、わからなかった…


ピリピリというほどの雰囲気ではないが、明らかに、空気が緊張した…


そう、考えたときだった…


「…飲みなよ…せっかく持ってきたんだ…」


女将さんが、突然言った…


私は、ビックリした…


いきなり、なにを言われたのか、わからなかった…


「…飲み物だよ…お嬢ちゃん…さっき、五郎が来たときに、アタシが、あっちゃんと、二人分、持ってきただろ…」


そうだ…


すっかり、忘れていた…


手元に置かれたグラスに手を伸ばした…


「…いただきます…」


と、言って、口をつけた…


「…おいしい…」


思わず言った…


私の言葉に、渡辺えりに似た女将さんが、満足げに、笑った…


「…この店をやるにあたって、さんざ勉強したからね…この飲み物もオリジナルさ…」


女将さんが言う…


「…オリジナル?…」


「…そうさ…どこにでもある味なら、お客さんは、来てくれない…どこにもないようなオリジナルなもので、勝負する…これが、理想さ…」


女将さんが、解説する。


たしかに、女将さんの言うことは、わかる…


お店は競争が激しい…


生き残るには、その店オリジナルのもので、おいしいものがあるのが、一番だからだ…


私は、女将さんの入れてくれたドリンクを飲みながら、


「…女将さん…稲葉さんの話だけど…」


と、言った…


言わずには、いられなかった…


「…アンタが、五郎の娘かもしれないって、話かい?…」


「…そうです…」


「…あながち、間違いじゃないと思うよ…」


女将さんが言う。


「…間違いじゃない?…」


女将さんが、婉曲に断言しないことが、気になった…


「…アタシが知ったのは、つい最近…なにより、五郎が否定しなかっただろ?…」


曖昧にぼかした…


私も、それ以上は、突っ込めなかった…


「…それになにより、五郎のお嬢ちゃんに対する態度を見れば、わかるよ…溺愛する娘に対する態度そのものじゃないか? …まさにデレデレ…」


「…デレデレ?…」


「…それでいて、お嬢ちゃんに変な下心がないのは、わかるだろ? それで、気付いたんだ…」 


女将さんが、ぶちまける。


それから、私は、考えた…


女将さんに、そこまで、言われても、私自身は、稲葉五郎の娘かもしれないという実感はない…


まったくない…


だけど、私は、これから、どうすれば、いいのだろう?


両親…いや、母親を問い詰めれば、いいのだろうか?


いや、


母を問い詰めれば、本当のことを言うだろうか?


ならば、やはり稲葉五郎と私のDNAを鑑定して…


そこまで、考えたとき、


「…お嬢ちゃん…ご両親には、なにも聞かない方がいいよ…」


と、女将さんが言った…


「…どうしてですか?…」


「…世の中、知っていても、知らないフリをしていた方が、いいことがいっぱいある…お嬢ちゃんが、ご両親に聞いて、もし、五郎が、実の父親ならば、お嬢ちゃんと、今の父親との間に溝ができる…それは、五郎も望んじゃいないと断言できる…」


「…」


「…無用に波風を起こして、あとで、取り返しのつかないことになったら、困るからね…」


女将さんが、しんみりと言った…


私も、女将さんの言うことが、わかった…


痛いほど、わかった…


不用意に、変な言葉を言って、相手を傷つければ、相手との間に溝ができる…


付き合っている恋人でも、いれば、それが、好例だろう…


その言葉をきっかけに、破局する…


たとえ、いったんは、仲直りしても、


…アイツ、実は、こんなこと、思ってたんだ!…


と、思って、それが、心に刺さるというか…


気になってくる…


結局は、なんとなく、ギクシャクして、そのうちに、うまくいかなくなってしまう…


そういうことだ…


それが、子供のいない、若い夫婦や、若い恋人同士ならば、いいが、私のように、父娘では、困る…


取り返しがつかなくなる…


22歳になるまで、父娘をやってきた…


私は、父になんの不満もない…


母にも、なんの不満もない…


それが、私が、今回の件を持ち出して、両親を責めれば、どうなるだろう?


仮に、間違いならば、なんでもないが、本当だったら、取り返しのつかないことになる…


もはや、以前の両親と私の関係に、戻れない可能性が高い…


いや、


戻れないに決まっている…


双方に禍根が残るというか…


しこりが残る…


そして、それを、元に戻すことは、たぶん、できない…


それを、忘れることは、できないからだ…


それを、考えれば、なにも聞かない方が、いい…


このまま、なにもしない方が、いい…


女将さんの言葉で、あらためて、思った…


そう、思ったときだった…


「…五郎は、寂しいのさ…」


いきなり、女将さんが、言った…


「…寂しい?…」


思わず、女将さんの言葉を繰り返した…


「…五郎も歳さ…50にもなる…50にもなって、独身…身寄りもなにもない…それが、お嬢ちゃんが、自分の娘かもしれないと、知ったときは、複雑な反面、嬉しかったに違いないさ…」


しんみりと、女将さんが言う…


「…稲葉さんが、女将さんに、言ったんですか?…」


「…まさか…いくら、五郎でも、言わないよ…でも、ハタから見れば、誰でも、わかる…五郎のあんな嬉しそうな顔を見たのは、長年付き合っているが、初めてといっていい…ホント、嬉しそうさ…」


私は、女将さんの言葉に、どう言っていいか、わからなかった…


すると、女将さんが、


「…だからね…お嬢ちゃんに、アタシから、ひとつ、お願いがあるんだ…」


…お願い?…


…一体、なんだろう?…


考える…


「…なんでしょうか?…」


「…たいしたことじゃない…お嬢ちゃんに、このままでいてもらいたいんだ…」


「…」


「…五郎と、これまで通り接してあげて、もらいたいんだ…」


「…これまで通り?…」


「…今度の一軒で、五郎から、お嬢ちゃんが、離れたら、五郎もショックが大きいからね…」


「…」


「…おそらく、恋人と別れるときより、つらいと思うよ…」


女将さんが、指摘する…


「…男にとって、娘と別れるのは、その母親の奥さんと別れるより、はるかに、つらいって、いうからね…」


私は、女将さんの言葉に、なんと言っていいか、わからなかった…


だから、


「…」


と、黙った…


答えなかった…


が、


女将さんは、それを承知で、


「…頼むよ…」


と、言って、私に頭を下げた…


私は、女将さんに、どう答えていいか、わからず、


「…」


と、無言のまま、頭を下げた…


昼間だというのに、薄暗い店内で、女二人の奇妙なやりとりが続いた…



 結局、それから、私は、家に戻った…


 もはや、あの渡辺えりに似た女将さんと話はないし、互いに、相手が目の前にいるということが、苦痛というか(笑)…


 どうしていいか、わからなかった…


 だから、あれから、すぐに、


 「…これで、今日は、失礼します…いえ、あの飲み物代は払います…」


 と、言って、席を立つと、


 「…飲み物代は、いいよ…それより、お嬢ちゃん…これから、家に戻っても、今日のことは、ご両親に言っちゃダメだよ…」


 と、女将さんは、私に、念を押した…


 私は、


 「…ハイ…わかりました…」


 と、言って、コクンと、頭を軽く下げた…


 その私の姿を見て、女将さんが、シミジミと、


 「…ホント…お嬢ちゃんは、かわいいね…しかも、こう言っちゃ悪いけど、頼りがいがない…」


 と、言った…


 私は、いきなり、女将さんが、そんなことを言うので、唖然としていると、


 「…いえね…お嬢ちゃんの悪口じゃないよ…お嬢ちゃんは、父親にとって、まさに理想の娘なんだよ…」


 「…どういう意味ですか?…」


 「…父親にとって、娘が美人なのは、嬉しいけど、もっと、嬉しいのは、かわいくて、頼りないこと…」


 「…頼りないこと?…」


 「…要するに、父親からすれば、守ってあげたくなるじゃないか…」


 「…」


 「…美人で、勝ち気で、なんでも、一人で、できる…そんな女は、ドラマや映画で主人公を張れるけど、かわいくはない…父親も男だから、ブスより、美人が好きに決まってるさ…他人に、お宅のお嬢さん、美人ですね、と、言われるのは、嬉しいけど、それより、かわいいタイプの方が、ずっといい…それに、頼りないが加われば、最強さ…五郎がメロメロになるのは、わかるよ…」


 女将さんが告げる…


 私は、


 「…」


 と、黙って、頭を下げた…


 そして、店を出た…


 店を出てから、ずっと、女将さんの言葉を考えていた…


 …たしかに、私は、頼りない…


 これは、自分でも、わかっている…


 他人から、


 …ホント、クミは頼りないんだから…


 と、言われたことは、一度や二度ではない…


 男にも女にも、言われた


 年上にも年下にも、言われた…


 はっきり言えば、老若男女、私と知り合った、ほぼ全員から言われた(涙)…


 以前、コンビニのバイト仲間の当麻にも、言われた…


 …だから、竹下さん、就活で、失敗するんですよ…


 と、まで、酷評された…


 一目見て、面接で、頼りないから、使えないと、判断されると、思われると、言われたのだ…


 だから、就活は全敗…


 杉崎実業しか、決まらなかった…


 しかし、そんな私の欠点が、長所になるとは、思わなかった…


 あの渡辺えりに似た女将さんに、言われて、驚いた…


 たしかに、言われてみれば、自分でもわかる…


 最近、テレビで見た森七菜なんて、女優さんは、最強だ…


 もろに、当てはまる…


 あの森七菜が、自分の娘ならば、父親はデレデレだろう…


 かわいくて、かわいくて、仕方がないだろう…


 私もまた森七菜に遠く及ばないが、同じタイプ…


 これは、ハマる(笑)…


 自分が、父親ならば、全力で、面倒をみてやりたくなる…


 そういうことだ(笑)…


 私は、そんなことを、考えながら、家路についた…


 なぜか、頭の中は、森七菜で、いっぱいだった…


 いつのまにか、森七菜を、ライバル視している自分がいた(笑)…


 

 家に戻って、ゆったりとした…


 すでに、夕方だったので、お風呂に入り、湯船に浸かり、ボーッとした…


 …色々、あった…


 いや、


 …色々、あり過ぎた(笑)…


 ホント、世の中、なにが、起こるか、わからない…


 あの杉崎実業の内定を訪れた日から、まるで、嵐のように、怒涛の日々を過ごした…


 今さらながら、考える…


 我が身に起きたことを、振り返った…


 今まで、22年、生きてきて、ありえないことばかりだった…


 つくづく、人生は、わからない…


 高雄組組長や、稲葉五郎という大物ヤクザと知り合い、大場代議士とも知り合った…


 それが、全部、きっかけは、杉崎実業…


 杉崎実業を起点とした関係だ…


 しかも、その間に、高雄組組長は、失脚…


 ライバルの稲葉五郎は、まもなく山田会会長になる…


 勝負は、ついたわけだ…


 そして、大場代議士は、今回の杉崎実業が、中国に製品を不正に輸出した件を、うまく利用して、知名度を上げ、押しも押されぬ、次期首相の座に王手をかけたところで、高雄悠(ゆう)に刺された…


 ホント、人生はわからない…


 大場代議士が、この先、どうなるかは、わからない…


 死ぬのか?


 それとも、


 軽傷か?


 わからない…


 だが、この後、当然、今回、なぜ、大場代議士が刺されたのか?


 その背後関係が、暴かれるに違いない…


 と、なると、どうなる?


 せっかく、次期首相に間違いなくなれるところまで、上り詰めたのに、それが、一瞬にして、ダメになるというか…


 ご破算になる、可能性が高い…


 大場代議士は、一体、これを、どう思うのだろう?


 意識がない状態でいるのならば、いいが、もし、意識が鮮明な状態ならば、頭を抱える事態に違いない…


 これまで、やってきたことが、すべて、無になる…


 パーになるのだ…


 悔やんでも、悔やみきれないに違いない…


 もし、軽傷ならば、急いで、記者会見をしなければならない…


 なぜなら、この後、週刊誌やネットに、今回、どうして、大場代議士は刺されたのか、掲載されるに、決まっているからだ…


 だから、急いで、その前に、火消をしなければ、ならない…


 時間が経てば、経つほど、スキャンダルは大きくなる…


 火事で言えば、大火になる…


 なぜ、大場代議士は、高雄組組長の息子に刺されたのか、詮索される…


 これは、致命的…


 大場代議士と、高雄組組長の間に、なにが、あったかと、世間は血眼になる…


 例えば、半年や一年後に、会見をするようならば、すでに大場代議士の命はあっても、政治生命は潰(つい)えているに違いない…


 なぜなら、それまでに、あることないこと、ネットや週刊誌に嫌というほど書かれて、もはや、大場代議士の権威は、地に落ちているだろう…


 その状態で、記者会見を行っても、焼け石に水の状態に違いない…


 だから、一刻も早く、記者会見を行う必要がある…


 私は、思った…


 そして、そんなことを、考えながら、少しは、自分も成長した…


 大人になったと、思った…


 以前の私ならば、そんなことは、考えもしなかった…


 それが、今回、さまざまな人間と知り合うにつけ、少しは、考えるようになった…


 ひとは、つくづく出会いだと思う…


 どんな人間と知り合ったかで、大げさに言えば、人生が変わる…


 ヘッドハンティングではないが、会社員が、他の会社に引き抜かれるようなことはないが、出会う人間によって、大げさに言えば、人生観というか…


 考え方が、変わってくる…


 以前、父が言っていた…


 父は、若いころ、仲の良い従妹が美人だったので、困ったそうだ…


 なにに、困ったかといえば、自分の身の回りの中で、その従妹が、抜きん出て、美人だった…


 だから、つい、無意識に、自分の周囲の女のコを美人の従妹と、比べてしまう…


 それが、困ったそうだ(笑)…


 それが、大学時代どころか、最初の会社員時代まで、続いたそうだ…


 つまり、父は、それまで、身近に、その従妹以上の美人がいなかったということだ…


 それが、一転して、次の会社に転職すると、従妹と同等か、それ以上の美人や、あるいは、タイプの違う美人に出会った…


 例えば、その従妹は、女優の常盤貴子さんを小柄にしたタイプだったが、真逆に、背の高いモデルのような美人を目の当たりにして、世界が変わったと、言っていた…


 つまり、さまざまなタイプの美人を目の当たりにして、父の世界観が変わったわけだ…


 母は、その話を聞いて、憮然としていたが、私も、歳を取るごとに、その話の意味というか…


 その話を実感するようになった…


 つまり、誰もが、自分の背丈というと、語弊があるが、自分の見たものの中で、判断する…


 だから、こう言っては、なんだが、平凡な人生を生きてきた人間の人生は、奥行きがないというか…


 はっきり言うと、つまらない…


 そして、その中で、判断する…


 だから、美人の件で言えば、身近に美人がいると、世の中、それ以上の美人が、ゴロゴロいるのは、わかるが、そんな美人と自分は、一生出会えないと思ってしまう…


 そういうことだ…


 同じようなことで、例を上げると、


以前、コンビニのバイト仲間の当麻も言っていたが、高校生のバイトのコと話すと、なんとなく、高校の偏差値がわかる…


 そのバイトの行動を見ていて、仕事の飲み込みやその他、諸々(もろもろ)の行動から、なんとなく、頭のレベルが透けて見える…


 これは、ある意味、恐ろしいことだ…


 なぜなら、そういう自分もまた、他人から、そう見られているからだ…


 これは、今のバイトをして、初めて経験したことだ…


 このバイトをしなければ、こうは思わなかったかもしれない…


 つまり、出会い=経験だ…


 コンビニで、バイトをして、自分より年下の高校生を見たから、余計に、それが、わかった…


 コンビニで、バイトをしなければ、わからなかったに違いない…


 私が、今回、杉崎実業の内定を境に、さまざまな人間と知り合ったことで、少しは、私も、幅が広がったかな? とも思う…


 そして、それが、政界やヤクザ界を問わず、大物と言われる人物と出会うことで、為になったというと、ぶっちゃけすぎるが、まさにそういうことだった…


 それゆえ、これまで、考えもしなかったことを思うようになった…


 が、


 問題は、これからだ…


 これから、父や母と、どう接するか? だ…


 やはり、知らないフリをしているのが、一番だろう…


 それは、自分でもわかる…


 あの町中華の女優の渡辺えりに似た女将さんに、念を押されるまでもなく、わかる…


 正直、私は、聞きたい…


 聞きたいに決まっている…


 私の本当の父親が、誰だか知りたい…


 私と同じ立場ならば、誰もが、そうだろう…


 ただし、


 ただし、だ…


 自分でも、不思議だが、あの稲葉五郎が、父親でも、私は、不思議と嫌ではなかった…


 これは、自分でも、うまく説明できない…


 やはり、本当に、自分の父親が、DNA鑑定で、稲葉五郎とわかれば、また、違うかもしれない…


 でも、現時点では、不思議と嫌ではない…


 それは、やはり、稲葉五郎が、私を好きでいてくれるからだろう…


 私は、思った…


 どんな人間でも、と言われると語弊があるが、やはり、自分を好きと言ってくれる人間は、嫌いになれない…


 よく言葉では、オマエを好きだと言っても、態度が伴わない人間は、男女を問わず、いっぱいいる…


 つまり、言葉だけで、ホントは好きでも、なんでもないのが、態度から、透けて見えるのだ…


 しかし、稲葉五郎は、違う…


私を本当に好き…


 下心もなにもなく、好きなのは、わかる…


 だから、嫌いになれない…


 私は、思った…


 が、


 ホントのところは、自分でも、よくわからない…


 ホントのところというのは、稲葉五郎が、自分のホントの父親かどうかもそうだが、DNA鑑定で、稲葉五郎が、父親とわかったときに、自分が、どう反応するか、わからない…


 自分でも、自分の心の動きがわからない…


 自分の心の動きが、読めない…


 想像することと、現実は違う…


 例えば、よく言われるのが、自分が好きだった、かつて、付き合っていた恋人が、結婚したのを、人づてに聞いたとき…


 ガツンと、大きくショックを受ける人間もいれば、もう終わったことだからと、淡々としている人間もいる…


 各自の性格もあるから、一概には、言えないが、多くの人間は、それを聞いて、どう思うのか、自分でもわからないではないのか?


 好きだった人間が、数年後、風の噂に結婚したと聞く…


 それを聞いて、すでに別れて、何年もたっているから、関係ないと思っても、実際は、ひどく動揺するひともいれば、その真逆で、常に別れた恋人は、頭の隅にあったが、たいしたショックはなかったと、思うひともいるに違いない…


 いずれにしろ、それは、なってみなければ、わからない…


 起こってみなければ、わからない…


 そういうことだ(笑)…


 私は、のんびりと、湯船に浸かりながら、そんなことを考えた…


 そんなことを、考えながら、風呂から出た後、その日一日、過ごした…


                <続く>  


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