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運命婚 白馬の王子様はヤクザ?  作者: トモサン


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10/16

運命婚 白馬の王子様はヤクザ? 10



 私と、稲葉五郎がひとしきり話すと、さすがに、話が続かなくなった…


 正直言って、まだまだ聞きたいことは、あったが、さすがに、それを稲葉五郎に聞くわけには、いかない…


 だから、間が空いたというか、話す話題がなくなったというか…


 なにを話していいか、わからなくなった…


 それを敏感に察したのだろう…


 「…ちょっと、トイレに行ってくる…」


 と、漏らすや、すぐに席を立った…


 後には、私と戸田が残された…


 私は、あまりにも、早く、稲葉五郎が席を立ったので、唖然としていると、


 「…オヤジは、オレに気を使ったんです…」


 と、戸田が、意外なことを言った…


 「…気を使うって…どういう意味ですか?…」


 「…オヤジがいると、オレが、お嬢と話せないと思ったんだと思います…事実、オヤジが、いれば、オレはお嬢と話せない…この前、オレが、オヤジに殴られたのを、お嬢は見ています…だから、お嬢は、オレと話したいと思ってると思って…気を利かせたんです…」


 私は、戸田の言葉に、


 「…」


 と、言葉もなかった…


 「…そういうひとなんです…あのゴツイ顔と違って、内面は繊細そのものです…」


 「…繊細?…」


 「…高雄のオジキのことも、そうです…オヤジは、本気で、高雄のオジキを心配しています…」


 「…心配?…」


 「…高雄のオジキが、山田会から追放される危険がかなりあるんです…」


 「…それは、さっき、稲葉さんが、おっしゃった…」


 「…結構、ヤバイですよ…」


 戸田が、囁く。


 「…オレは、チンピラだから、普通は、こんなことは、わからないんですが、オヤジの近くにいるから、結構情報が入ってくるんです…」


 …さもありなん…


 戸田の言うことも一理ある…


 いや、


 一理どころか、百理も二百理もある…


 「…高雄のオジキは、経済ヤクザ…抗争には、強くない…」


 目の前の戸田が、稲葉五郎と同じことを言う。


 繰り返す。


 「…でも、オレに言わせれば、だから、松尾会長を頼ったんだと思います…」


 「…どういう意味ですか?…」


 「…さっき、オヤジが言ったように、高雄のオジキは、ケンカに強くない…だから、話し合いと言うか、うまく話をまとめて、抗争を終結させようとする…自分の弱点がわかっているから、それと、別の方法を模索するんです…」


 戸田が、言う。


 私は、うまいことを言うと思った…


 たしかに、ケンカに弱ければ、なにか、別の方法を模索するに限る…


 なにより、高雄組組長自身、自分がケンカ=抗争に弱いことは、自覚しているに違いない…


 だから、ケンカ=抗争はしない…


 あるいはケンカ=抗争をするときは、別の誰か…例えば、稲葉五郎を使ったに違いない…


 そういうものだ(笑)…


 しかし、この、戸田、案外、バカじゃない…


 いや、


 バカどころか、優れている…


 いや、


 それが、当たり前なのかもしれない…


 稲葉五郎は、次期山田会会長…


 戸田は、若いとはいえ、その側近だ…


 当然、優秀に違いない…


 組長=社長の側近が、バカなはずはない…


 社長=組長が、身近に置く人間は、当たり前だが、優秀に決まっている…


 おおげさに言えば、後継者…


 いずれは、自分の跡を継がせる後継者の可能性が高い…


 自分の後継者とすべく、自分の身近に置き、自分の仕事をすべて見せて、仕事を覚えさせる…


 いわゆる、帝王学だ…


 戸田は、おそらく、その後継者の一人なのだろう…


 今さらながら、気付いた…


 「…オヤジと高雄のオジキは、両輪…亡くなった古賀会長にとっては、大事な両輪でした…」


 「…両輪?…」


 「…オヤジはケンカに強く、高雄のオジキは、金儲けがうまい…その二人を使って、古賀会長は、山田会を大きくした…」


 私は、眼前の戸田が、あまりにも、予想外のことを言うので、驚いた…


 まだ、私と同じくらいの年齢なのに、随分物知りだ…


 「…戸田さんは、どうして、そんなことを知ってるんですか?…」


 思わず、聞いた…


 すると、戸田は、照れたように、


 「…受け売りです…」


 と、ちょっと、顔を赤らめて、答えた。


 「…山田会…いや、この稼業の人間なら、誰でも知ってることです…」


 「…」


 「…だから、あの二人は、争っちゃいけないんです…」


 戸田が、断言した…


 ちょうど、そのときに、稲葉五郎が、トイレから、戻って来た…


 稲葉五郎は、ニコニコと笑いながら、


 「…二人とも、随分、仲がいいんだな…」


 と、嬉しそうに語りかける。


 「…オレから、見ると、まるで、恋人同士だ…」


 嬉しそうに、言う。


 …恋人同士?…


 …まさか、稲葉五郎の口から、そんな言葉が出てくるとは、思わなかった…


 私が、内心慌てふためいていると、


 「…そんな…やめてください…」


 と、戸田が、顔中赤くなって言った…


 私は、むしろ、戸田が、こんな反応をするのが、以外と言うか、予想外だった…


 戸田の顔が、赤くなることで、戸田が、私を意識していることが、わかったからだ…


 「…いやいや、お似合いだぞ…」


 稲葉五郎が、からかった…


 戸田は、稲葉五郎の言葉に、


 「…」


 と、もうなにも、言わなかったが、顔は赤いままだった…


 私は、驚きの目で、戸田を見たが、それ以上に、稲葉五郎の嬉しそうな顔が印象的だった…


 結局、その日は、それで、戸田と稲葉五郎と別れた…


 ホントは、稲葉五郎と、もっと、話したかったが、やはり、立場の違いというものがある。


 私は、考える。


 ただ、当然のことながら、稲葉五郎は、色々と、将来というか、未来を見通している…


 ボンヤリと、そう思った…


 高雄の父?のことも、松尾聡(さとし)のことも、だ…


 しかし、そんなことを、考えると、どうして、そんな大物ヤクザが、私に優しいのだろうと、今さらながら、思う。


 やはり、一番の謎だ…


 亡くなった古賀会長の血筋を引くことが、そんなにも、重要なことなのだろうか?


 どうしても、考えが、そこにいってしまう…


 だが、一体、誰が、松尾会長を銃撃したのだろうか?


 これも、また謎だった…


 が、それは、まもなく、わかった…


 ただ、それ以上に、問題と言うか、意外だったのが、あの林だった…


 あの大金持ちの林だった…


 林の父親が、中国からのスパイ容疑で、逮捕されたが、その林の父親からの証言で、なんと、杉崎実業に、家宅捜査の手が入ったのだ…


 私は、その報道に唖然とした…


 容疑は、中国への輸出疑惑である。


 30年以上前の東芝機械ココム違反事件と同じ構図だった…


 要するに、当時、共産圏への輸出が認められてない工作機械を、東芝の子会社の東芝機械が、不正に輸出して、ソビエト連邦の潜水艦技術が、進歩した…


 それと同じ構図だった…


 杉崎実業は、当時の東芝機械同様、中国への輸出が認められていない、製品を、内容を偽って、輸出…


 いわゆる、技術の流出だった…


 容疑は、外国為替及び外国貿易違反である…


 中国は、今、現在、他国からの技術を盗み続けていると、言われている…


 その主な国は、当然のことながら、アメリカである…


 が、日本も当然、他国の中に入る…


 中国では、できない技術を、日本が持っている…


 ならば、その技術を手に入れようと、考えるのは、ある意味、当たり前というか…


 その先兵というと、いささか、大げさだが、その主要な会社が、今回は、あの杉崎実業だった…


 杉崎実業は、独立系の商社…


 規模も決して、大きくなく、目立つ会社ではない…


 それが、中国政府が目を付けた理由だった…


 どうしても、大手が関わると、目立つ…


 極端な話、三井や三菱が、関わると、目立つし、また、なにより、そんな不正な輸出に手は貸さないだろう…


 もし、バレたから、大げさに言えば、会社の存続に関わるからだ…


 そんな不正に手を染めた会社を、国が許すはずはない…


 公共事業は、もちろんのこと、あの手、この手で、会社を立ち行かなくさせることは、容易に想像できる…


 競争が激しい、今の時代ならば、大げさではなく、会社が倒産しても、おかしくはない…


 だから、大手が、そんなことに手を染めるはずは、まずない…


 もし、手を染めたならば、同じ大手グループに属しても、末端の子会社だろう…


 しかも、本社には、内緒に、だ(笑)…


 もし、本社にバレれば、大目玉を食らうことは、目に見えてるからだ(笑)…


 だから、中国政府は、大手ではなく、中堅で、あまり目立たぬ、杉崎実業に目を付けたともいえる…


 なにをやっても、目立たぬと、高をくくったのだろう…


 また、内通者というか、協力者も、杉崎実業の社内で、容易に、見つけることができた…


 それが、あの人見人事部長だった…


 普通は、技術を盗むのだから、技術者に目を付けるのが、当たり前だと、考えがちだが、今回は、違った…


 あの人見が、人事部長というのが、好都合だった…


 なぜなら、人事は、社員の家族構成やら、社員の個人情報を掴んでいる…


 これが、強みだった…


 人見は、人事部長という、人事部の責任者だから、社内の誰よりも、その個人情報を、優先的に、手に入れることができるというか…


 大げさに言えば、社内の誰が、どんな弱みを持っているか、わかっている…


 弱みと言えば、大げさだが、例えば、家族構成ひとつとっても、奥さんが、中国人だとか、高齢の母親が寝たきりだとかいう情報が手に入る位置にいる…


 それを手に入れれば、大いに有利というか、役に立つ…


 奥さんが、中国人であれば、中国政府が、接触するのに、楽だし、もし、こちらの要望を聞かなければ、中国国内にいる、奥さんの家族の身に危険が及ぶかもしれないと、匂わせればいい…


 そうすれば、相手も、いいなりになる…


 それを見越して、人事部長の人見に近付いた…


 人見自身が、どうして、中国政府のスパイになったのかは、わからない…


 お金かもしれないし、男だから、ハニートラップに引っ掛かって、誰か、若い女と、ホテルで、セックスしているところを、ビデオや写真に撮られて、それを元に、脅されたのかもしれない…


 原因は、どうあれ、人見が、スパイとなり、中国政府の言いなりになったのは、確かだった…


 そして、それゆえ、林の娘を人質に取った…


 いや、


 人質と言うのは、言い過ぎかもしれない…


 林の父親共々、双方の利害が一致したというのが、真相だった…


 林の父親は、事業に行き詰っていた…


 昨今の不況で、先祖代々、住んでいた、あの豪邸を失うかもしれないほど、追い詰められていた…


 人見が、杉崎実業の入社試験にやって来た、林が、大金持ちの娘だと知ったのは、偶然だった…


 たまたま、人見は、林と同郷だった…


 同じ地域の出身だった…


 それゆえ、住所から、なんとなく察しがつき、すぐに調べた…


 そして、あの大金持ちの林一族の娘だと知った…


 人見は、林に、興味を持った…


 なぜ、あんな大金持ちの娘が、名もない杉崎実業を受験したのか、謎だったからだ…


 当然、自分一人で、調べるのは、難しい…


 中国政府の力を借りた…


 その結果、林の実家が、事業に行き詰っている事実を突き止めた…


 しかしながら、それは、あの林の父親の目論見(もくろみ)でも、あった…


 林の父親は、杉崎実業が、あの東芝機械ココム違反事件同様に、国に内密に、中国に、輸出してはいけない、製品を輸出していることに、気付いていた…


 どこかで、情報を掴んでいた…


 それゆえ、ハニートラップではないが、あえて、自分の娘を、杉崎実業に受験させた…


 人事部長の人見が、同郷であることも、あらかじめ、調べておいて、あえて、人見の方から、接触してくることを、狙っていたのだ…


 あるいは、人見が、林に接触しない場合は、娘を使って、林の父親の方から、人見に接触するつもりだった…


 狙いは、ただ一つ…


 密貿易のうまみだった…


 当たり前だが、中国に輸出してはいけないものを、極秘裏に輸出しているのだ…


 自分もそれに、一枚加われば、莫大な儲けを得ることができる…


 林の父親は、そう考えた…


 それを、目当てに、自分の娘に、杉崎実業を受験させた…


 それが、目的だった…


 しかし、だとすれば、一体、私は、なんだというのだ…


 この竹下クミは、一体なんだというのだ…


 なぜ、そんな大事(おおごと)に、私が一枚噛んだのか?


 わざわざ、あの大豪邸に私を連れて行き、私の力になって欲しいと、林から、言われたのか? 


 さっぱり、わからない…


 これは、私が、中堅大学出身で、偏差値が高い大学を出ていないから、わからないということではない(笑)…


 断じて、そういうことではない…


 私は、考える。


 だが、これで、林の目的が、わかったことで、他のことも、色々、わかってきた…



 当たり前だが、あの松尾会会長、松尾聡(さとし)が、撃たれたことも、今回の杉崎実業が、中国に、不正に、機械を輸出した捜査の一環というか…


 その過程で、起きた事件だった…


 松尾聡(さとし)は、公安=大場小太郎代議士と、中国政府、どっちに繋がっているか、よくわからなかった…


 はっきり言えば、松尾聡(さとし)という男の力の源泉がわからなかった…


 松尾会は、すでに、何度か、説明したように、暴力団の中でも、決して大きくはない…


 規模で、言えば、中堅の組織だ…


 ただ、松尾聡(さとし)そのものが、戦国の時代の知将、黒田如水に例えられるほどのやり手だったことも、あり、その能力は、抜きん出ていた…


 しかしながら、いかに松尾諭(さとし)が、やり手でも、当たり前だが、自分一人の力は、たかが知れている…


 松尾聡(さとし)が、優れていたのは、むしろ、自分の背後関係を決して、明かさないことだった…


 松尾聡(さとし)の背後には、誰か、大物のバックが付いているとか、さまざまな政治家に異常なまでに、食い込んでいるとか、噂は、多数あった…


 だが、松尾自身に、そんな周囲の噂を直(じか)にぶつけても、ただニコニコ笑って、周囲の噂をけむに巻いてた…


 決して、真実を明かさなかった…


 松尾聡(さとし)が、巧みだったのは、決して、真実を明かさないことで、実際以上に、自分自身を大きく見せる術(すべ)を、心得ていたことだ…


 噂は、噂を呼ぶ…


 ありていに言えば、話というものは、どんどん大きくなる…


 話が膨らむのだ…


 尾ひれが山のようについて、真実とは、似ても似つかぬ話になる…


 松尾は、それを楽しんでいた…


 実を言えば、松尾自身には、当初は、それほどのバックもなかった…


 最初は、誰でも、そうだが、どこにでもいるチンピラの一人だった…


 ただ、頭が切れたので、頭角を現し、いつのまにか、ヤクザ界で、注目を浴びることになった…


 そして、松尾、最大の武器…


 それは、雰囲気だった…


 例えば、役者で、言えば、勝新太郎を思い浮かべればいい…


 さすがに、あそこまでの雰囲気はないが、やはり、その威圧感というか、存在感に周囲の者は、圧倒された…


 そして、周囲の者の質問をけむに巻く…


 わかっていても、わざと答えなかったり、答えても、明らかに、わかるウソを言ったり、する…


 だが、それだけでは、当然、相手が怒るから、真実もまた織り交ぜる…


 そんなふうに、敢えて言えば、芸といっては、失礼だが、松尾聡(さとし)自身の生まれ持ったキャラクターが、より一層、松尾自身を大きく見せることに役立った…


 実際の松尾自身は、御多分に洩れず、同世代のヤクザにありがちな、貧しい庶民の出だった…


 松尾自身は、後にヤクザになる者の大半が、そうであるように、カラダが大きく、ケンカが強かった…


 ただ、何度も言うように、松尾自身は、頭が切れた…


 いわゆる、学校の勉強とは、違う頭の良さを持って生まれた…


 それに、勝新太郎ではないが、松尾自身の圧倒的な存在力…


 それを武器に、ヤクザ界で、のし上がった…


 ただし、松尾自身には、本当は、大したバックはいなかった…


 あくまで、ポーズ…


 いろんな噂で、自分自身を大きく見せる術(すべ)を心得ていたことだ…


 あの大場小太郎代議士との関係もそうだった…


 大場小太郎自身は、同じく政治家だった父親が、国家公安委員長をしていた関係から、ヤクザを見張る意味で、亡くなった山田会の古賀会長や、松尾会の松尾聡(さとし)とも、親しくしていたが、それを、松尾自身は、大げさに喧伝(けんでん)した…


 自分自身の武器にした…


 そうすることで、自分自身を実際以上に、大きく見せることが、わかっていたからだ…


 ただし、当たり前だが、それが、虚飾に過ぎないと、気付いた者もいた…


 その一人が、亡くなった古賀会長だった…


 が、


 それを、周囲に、打ち明けることもなかった…


 変に、その事実を暴露することで、松尾会を敵に回すのは、得策ではないし、無用に敵を作ることになる…


 松尾会は、大きくはないが、やはり、松尾聡(さとし)は、侮れない…


 なにを、しでかすか、わからないからだ…


 ただ、一部の者には、そのことを打ち明けていた…


 その一人が、稲葉五郎だった…


 だから、稲葉五郎は、食わせ者と、松尾聡(さとし)を、喝破(かっぱ)したのだ…


 そして、肝心の今回の松尾会長を襲った銃撃…


 これは、松尾会長の自作自演だった…


 松尾会会長は、高雄の父?を通じ、杉崎実業のおおよその犯罪には、気付いていた…


 そして、それに一枚噛もうと、画策した…


 現実に、人見人事部長が、キーマンであることを、喝破して、人見に接触しようとした…


 しかし、それがいけなかった…


 松尾の送り出した松尾会の若い衆が、中国から送られてきた工作員に襲われたのだ…


 当たり前だが、ヤクザ者に、プロの工作員に勝つ能力はない…


 相手は、国家が養成したプロの工作員だ…


 拳銃をはじめ、体術、いわゆる、柔道や空手をマスターしている…


 松尾自身は、人見が、中国政府の傀儡(かいらい)になっていることは、掴んでいたが、中国政府の反撃というか、行動が、松尾の想像を超えて、早かった…


 しかも、凄惨だった…


 松尾は、その報告を聞いて、すっかり意気消沈してしまった…


 手を出してはいけないものに、手を出したことを悟り、すぐに身の安全を考えた…


 それが、銃撃だった…


 自分自身が、襲われたことを、自作自演して、病院に逃げ込むことを、思いついた…


 それに、もし、警察が、犯人を捕まえることを前提に、捜査にくれば、杉崎実業と、中国政府の繋がりを匂わせれば、いい…


 そうすれば、腰が引けるのは、わかっている…


 警察が、独自に対処できる話ではなくなってくるからだ…


 まさに、食わせ者…


 したたかな食わせ者だった…


 そして、それが、松尾聡(さとし)という男だった…


 それを見抜いているからこそ、稲葉五郎は、松尾聡(さとし)を、嫌っていた…


 そして、松尾自身も、稲葉五郎が、自分を嫌っていることに、当然、気付いていた…


 誰でも、そうだが、相手が自分を好きか、否かは、なんとなくわかるものだ(笑)…


 子供ではないのだから、あからさまに態度に出すことはないが、それでも、自分を好きか、嫌いかは、なんとなく、態度でわかる…


 あの日、私が、高雄の父? と、大場小太郎代議士、さらには、あの松尾聡(さとし)が、いる席に、稲葉五郎が、いなかったのは、なにより、稲葉五郎が、松尾聡(さとし)を嫌っているのが、わかっていたからだ…


 松尾聡(さとし)が、呼んでも、稲葉五郎は、よほどのことがなければ、来ないことは、わかっている…


 また、高雄の父? を呼び出すことで、稲葉五郎が、高雄の父? に、


 「…兄貴…どうして、あんなヤツと付き合うんだ?…」


 と、文句を言うに決まっている…


 だから、松尾聡(さとし)は、稲葉五郎を呼ばなかった…


 また、高雄の父? を呼んだのは、他でもない、杉崎実業について、訊きたかったからだ…


 杉崎実業は、高雄の父の会社、高雄総業の支配下にある…


 実質、杉崎実業の株を買い占めたからだ…


 それゆえ、悠(ゆう)は、あの若さで、杉崎実業の取締役になれたのだ…


 これは、敢えて、説明する必要は、なかったかもしれない…


 すでに、周知の事実だからだ…


 あの席で、松尾聡(さとし)は、私と、大場代議士を呼び出す前に、根掘り葉掘り、高雄の父から、杉崎実業について、訊き出そうとした…


 しかし、高雄の父も、当たり前だが、バカではない…


 松尾聡(さとし)の狙いは、読めたが、真摯に対応することなく、適当に流した…


 実際は、あの人見が、中国政府のスパイになっていることまでは、掴んだが、高雄組としては、それ以上、動かなかったというか、追求しなかった…


 藪をつついて蛇を出すという言葉の通り、人見に手を出せば、どうなるか、わからないからだ…


 中国政府が動くのは、わかっていたが、どう動くのか、読めなかった…


 また、人見に接して、どのくらいの時間で、中国政府が対処するのかも、読めなかった…


 ヤクザというものは、一般の人間が考えるよりも、行動に慎重な場合が、多い…


 慎重=臆病である…


 そして、それは、悪口ではなく、むしろ称賛されるものだった…


 匹夫の勇ではないが、勝算もなく、ただ行動を起こすほど、バカなことはない…


 高雄の父は、以前、私、竹下クミに会ったときに、語ったように、何事にも慎重な男だった…


 それゆえ、これまで、チャンスを何度も逃してきた…


 初めて、私に会った時に、高雄の父は、私に、そう語った…


 アレは、ウソでもなんでもなかった…


 事実だった…


 危ない橋は渡らない…


 それが、高雄の父だった…


 だから、高雄組は、人見に手を出さなかった…


 が、


 松尾聡(さとし)は、違った…


 人見に手を出してしまった…


 それが、失敗だった…


 思ったよりも、松尾聡(さとし)が、やり手でないことを、露呈した瞬間でもあった…


 有能でないことを、図らずも、周囲に知らせてしまった…


 いや、


 以前は、有能だったのだろう…


 どうひいき目に見ても、有能でなければ、松尾会というヤクザ組織を率いることは、できないからだ…


 ただ、歳をとって、その嗅覚というか、判断力が衰えたのかもしれない…


 残念ながら、歳を取って、判断力が、衰えるケースは、枚挙に暇(いとま)がない…


 昔は、戦国武将が良い例だったが、現在は、政治家や経営者に身近に多く見られる…


 歳を取って、周囲の風や、世間の声が読めなくなってきている…


 それで、経営者でいえば、判断ミスで、会社に損害を与えたり、政治家でいえば、周囲の風が読めなくなり、政界での、みずからの威光が消えてゆく…


 残念ながら、そんなケースが多い…


 松尾聡(さとし)も、同じだった…


 この後、衰えを見せた、松尾聡(さとし)率いる松尾会に他のヤクザ組織が、攻撃してくることは、目に見えてる…


 ヤクザは弱肉強食だ…


 例え、時代が、暴対法の時代になっても、それは、変わらない…


 後に、稲葉五郎が、そう、私に告げた…


 私は、ただ唖然として、それらの報道を見ていた…


 私の知った人物が、テレビや新聞、ネットで、報道される…


 それが、ある種、不思議な感覚だった…


 誰もがそうだが、自分の見知った人間が、テレビや新聞で、報道されることは、まずない…


 私は、稲葉五郎や、大場小太郎代議士たちと、知り合ってから、以前も今回のように、報道されたことは、あったが、今回は、規模が違った…


 なにより、他国=中国が関わったことは、驚きだった…


 が、


 当然のことながら、それ以上に、杉崎実業が、それに関わったことが、私にとって、一番の衝撃だった…


 なにしろ、私の就職先だ…


 唯一、内定した会社だ…


 これでは、私の就職は、一体どうなるんだ?


 普通に考えれば、就職=入社どころではないだろう…


 なにしろ、国に隠れて、中国に、製品を輸出したのだ…


 この行為に、アメリカもまたカンカンだ…


 日本政府としても、アメリカの手前、杉崎実業を見過ごすことはできないだろう…


 なんらかの処分を加えることになるに違いない…


 そして、それは、数年後に、倒産の引き金を引いたと思われるほど、厳しい処分になるかもしれない…


 会社の存続に関わる処分になるだろう…


 が、


 これら行為の相手である、中国政府は、当然のことながら、一切、それらの事実を認めなかった…


 事実無根の一点張りだった…


 この発表は、ある意味、予想通りと言うか、誰もが、わかっていたことだった(笑)…


 ただ、事実上、私の就職がなくなったのも、同然だった…


 内定が消えた瞬間でもあった…


 私は、ただ、ただ、唖然とした…


 どうして、いいか、わからなかった…


 私は、呆然としていたが、一方で、私は、現実家でもあった…


 とりあえず、働かなければ、ならない…


 先のことは、考えても仕方がない…


 ある意味、腹をくくったというか…


 以前も書いたが、もはや、悩んでも仕方がなかった…


 すでに、今年の就活は、終わっている…


 終了している…


 だから、今さら、就活=就職活動を続けても、まともな会社に就職できるわけはない(涙)…


 と、なると、残る、選択肢は、二つだけ…


 これも、以前も、書いたが、就職も決めずに、大学を卒業するか?


 あるいは、


 大学を卒業して、いわゆる、無職、あるいは、バイトを続けながら、就職先を探すのか?


 の、二択だ…


 ただし、大学を留年するには、お金がかかる…


 授業料がかかる…


 ウチは、決して、裕福ではない…


 ハッキリ言って、留年することは、難しい…


 両親に許可をもらって、いくらかの金額を援助してもらい、残りを私自身が、バイトして、学費を稼がなければ、ならない…


 だが、それは、苦痛でしかないかもしれない…


 なぜなら、それほどまでしても、来年、就職できるか、どうかは、わからないからだ(涙)…


 就活が成功するかどうかは、わからないからだ(涙)…


 お金をかけて、留年してまで、就活をして、就活がうまくいかなければ、なんのために、留年したのか、わからない…


 また、実際問題、留年すれば、どうして、留年したのか、面接で、聞かれるだろう…


 まさか、前年、就活がうまくいかなかったから、留年しましたと、馬鹿正直に、言うわけにはいかない…


 しかし、当然、企業の面接者は、それを見抜いているだろう…


 となると、やはり、留年しても、同じ?


 ならば、このまま、卒業して、無職、あるいは、フリーターの身分で、就活を続けたほうが、いいのだろうか?


 私は、悩んだ…


 悩みながら、コンビニの仕事を続けた…


 いつものことだった(涙)…


 この展開は、以前にもあった(笑)…


 ただ、今度ばかりは、本当に、追い詰められていた…


 なにしろ、内定を頂いた、唯一の会社、杉崎実業に、警察の家宅捜索が入ったのだ…


 これでは、来年の就職どころでは、ない…


 しかも、捜査は、中国への、不正輸出…


 東証一部上場とはいえ、世間的には、無名の中堅商社に過ぎない、杉崎実業で、倒産も免れないかもしれない…


 しかも、


 しかも、だ…


 それに、追い打ちをかけるように、杉崎実業に出資しているのが、高雄組であることが、バレた…


 報道された…


 これは、私にとって、想定外だったが、ある意味、当たり前…


 これほど、世間で、杉崎実業が、報道されているのだから、その背後というか、資本関係がバレるのも、時間の問題だった…


 ヤクザのフロント企業と、バレるのも、時間の問題だった…


 そして、それが、致命傷だった…


 もはや、立ち直ることができない致命傷だった…


 これで、杉崎実業の再建は、困難だろう…


 なにしろ、ヤクザのフロント企業であることが、バレたのだ…


 世間に知られたのだ…


 事実上、私の内定が吹き飛んだ瞬間だった…


 ただ一つの、内定先が、なくなった瞬間だった…


 私は、ただ茫然自失になった…


 頭の中が、真っ白になった…


 ただ、その一方で、これも何度も言うが、コンビニでのバイトに力を入れた…


 もはや、私の残された手段は、とりあえず、ここで働いて、金を稼ぐしかなかったからだ…


 私は、がむしゃらに働いた…


 無我夢中で働いた…


 すべてを忘れて、仕事に没頭した…


 仕事に没頭することで、すべてを忘れたかった…


 杉崎実業のこと…


 高雄(ゆう)のこと…


 稲葉五郎のこと…


 そして、


 私の将来のこと…


 そんな諸々(もろもろ)のことを忘れたかった…



 私が、そんな無我夢中の状態で、働いているのを、危険? に、思ったのか?


 コンビニの店長の葉山が、


 「…竹下さん…飛ばし過ぎだよ…」


 と、私を注意した…


 「…飛ばし過ぎ? それって、どういう意味ですか?…」


 「…ペース配分がおかしすぎ…まるで、一万メートル走に、100メートル走の速度で、走ってるようなものだよ…そんな速度で、飛ばせば、すぐにバテる…体調を崩して寝込むことになるよ…」


 と、警告した…


 私は、葉山の言うことがわかった…


 よく理解できた…


 しかし、


 しかし、だ…


 理解できたからと言って、それを抑えることはできない…


 ペース配分を変えることはできない…


 それは、ちょうど、暴れ牛ではないが、気が立っているときに、


 「…落ち着け! 落ち着け!…」


 と、声をかけるようなもの…


 気が立っているときに、言っても、すぐには、落ち着けない…


 そういうものだ(笑)…


 「…竹下さんも、なにか、イライラすることがあるかもしれないけど、それを仕事にぶつけちゃいけないよ…」


 葉山が諭すように言った…


 私は、


 「…わかりました…」


 と、口では、答えたが、ペース配分を変えることはできなかった…


 無我夢中で、働き出した…


 すると、


 「…竹下さん…ダメ…ダメ…」


 と、ダメ出しされた…


 「…もう今日は、帰っていいよ…」


 「…帰っていい?…」


 「…そうだ…そんな調子で、なにかに八つ当たりするように、仕事をしちゃ、商品を傷付けたり、怪我したりするよ…」


 葉山が言う。


 私は、葉山の言葉に、


 「…」


 と、言葉もなかった…


 葉山の言う通りだったからだ…


 「…スイマセン…」


 と、小さな声で、答えた…


 自分が悪いのは、わかっているが、謝るのもしゃくと言うか…


 とにかく、素直に謝りたくなかった…


 自分で言うのもなんだが、妙にむしゃくしゃしていた…


 気分が、ささくれだっていた…


 当たり前だ…


 就職先が、事実上、なくなったのだ…


 これで、平常心でいろ、と、言うのが、どだい無理な話だった…


 気分が、荒れて、当然だった…


 私の気分が荒れてるのに、わかった葉山が、


 「…竹下さん…」


 と、優しく声をかけた。


 私は、ある意味、驚いた…


 この葉山が、そんなにも、優しく、私に声をかけたことは、かつて、なかったからだ…


 「…なにか、イライラすることがあるのかもしれないけど、八つ当たりは、ダメだよ…さっきも言ったように、商品を傷付けたり、竹下さんもケガをするかもしれないよ…」


 私は、葉山の言葉に、


 「…」


 と、言葉もなかった…


 同時に、もはや、反論する気力もなかった…


 ただ、私は、黙って、うつむいた…


 それから、なんとなく涙が、頬に伝わった…


 なんだか、無性に、自分が情けなかった…


 自分が、悪いにもかかわらず、周囲に八つ当たりしていると、見られてるのが、情けなかった…


 だから、涙が出た…


 これまで、一度も、そんなことがなかった…


 ただ、ただ、自分が情けなかった…


 こんなふうに、涙を流したことは、一度もなかった…


 これまで、生きてきて、一度もなかった…


 だから、自分でも、驚いた…


 あるいは、葉山に予想外に、優しい言葉をかけられたから、一挙に緊張が緩んでしまったのかもしれなかった…


 これまで、抑えていた感情が、一気に、吹き出てしまったのかもしれない…


 それを見た、葉山が、


 「…どうしたの? 竹下さん…一体?…」


 と、優しく、声をかけた…


 私は、葉山の言葉に、一瞬、悩んだ…


 躊躇(ためら)った…


 が、


 正直に、言うことにした…


 「…会社が…私の内定した…就職先がなくなっちゃうかもしれないんです…」


 「…なくなっちゃう? それって、一体?…」


 葉山が私の言葉に仰天する。


 「…今、世間で、話題になってる、杉崎実業って会社…私の内定先なんです…」


 「…竹下さんの?…」


 葉山が驚いた…


 当たり前だ…


 「…でも、中国への不正輸出で、叩かれて、しかも、…杉崎実業に、暴力団まで、絡んでいるのが、バレて…」


 「…そう言えば、以前、この店に、高雄組組長がやって来たことがあったね…」


 葉山が言った…


 …エッ?…


 内心、私は、葉山の言葉に、仰天した…


 たしかに、以前、高雄の父である、高雄組組長が、やって来た…


 高雄の父は、ヤクザだが、一見して、ヤクザには見えない…


 長身で、スリム…


 さらに、お堅い印象だ…


 誰もが、お堅い職業に就いている…


 銀行員か、なにかに、見える…


 だが、この葉山は、一目見て、


 「…あの人、堅気じゃないね…」


 と、喝破(かっぱ)した…


 ずばり、正体を見破った…


 それに驚いた、私が、


 「…なぜ、そう思ったんですか?…」


 と、葉山に聞くと、


 「…ボクは以前、他の店でも、店長をしていて、その店の近くに、暴力団の事務所があって…それで、ヤクザは、匂いでわかるというか…堅気に見えても、ヤクザは見分けられるんだ…」


 と、私に告げた…


 が、


 このときの言葉は、あくまで、一般論と言うか…


 特定の個人を指してのことではない…


 なにを言いたいかと言えば、


 「…高雄組組長…」


 と、断定していない…


 言っていない…


 しかし、今、はっきりと、


 「…高雄組組長…」


 と、断言した…


 ということは、最初から、この葉山は、あの人物が、高雄組組長と知っていたということだ…


 そして、それを知って、思い出した…


 この葉山は、いつも店で、愛想が良く、ニコニコしている…


 まるで、絵に描いたように、商売が良く似合う…


 サービス業が、よく似合う…


 だが、以前、街で、偶然、見かけた葉山は、全然違った…


 愛想がいいどころか、むしろブスッと不機嫌そうな顔で、最初見たときは、別人かと思ったぐらいだ…


 それほど、この店の中で、いつも接している葉山とは、違った…


 だから、すぐに、店の中で見せる、ニコニコと愛想のよい顔は、ただの営業スタイルだと、気付いた…


 そして、同時に、この葉山は、おそらく、見た目と中身は、まったくの別人…


 油断のできない男だと、思った…


 今さらながら、そのことを、思い出した…


 そして、今…


 あらためて、葉山の正体について、考えた…


 思いを馳せた…


 そうすることで、いつのまにか、私の涙が止まった…


 もはや、泣いている余裕はなかった…


 涙を流している、余裕はなかった…


 …この葉山の正体は一体?…


 あらためて、葉山の正体について、考えた…


 葉山が、何者かわからないが、ただのコンビニの雇われ店長でない可能性について、考えた…


 私は、それまでとは、別の表情で、キッと、葉山を睨んだ…


 マジマジと凝視した…


 …この葉山の正体は、一体?…


 考えた…


 「…どうしたの? 竹下さん…そんな表情で、ボクを睨んで…」


 葉山がニコニコと、愛想よく笑う…


 私は、


 「…アナタは一体、何者なんですか?…」


 と、直接、葉山を問い詰めたがったが、止めた…


 そんなことをしても、葉山が、正直に答えることは、ありえないからだ…


 私は、


 「…いえ、なんでもありません…」


 と、答えた…


 それから、


 「…店長…私、冷静になりました…もう、イライラしませんから、今日は、このまま、仕事を続けさせて下さい…」


 と、葉山に頭を下げた…


 「…竹下さんが、それほど、言うなら…」


 葉山が折れた…


 私が、このまま、仕事を続けることを了承した…


 事実、私は、これで、冷静になった…


 葉山の言葉が、私に冷や水を浴びせた形になった…


 冷静さを取り戻したのだ…


 これで、私は、一気に冷静になった…


 黙々と、仕事を続けた…


 

 家に帰って、私は、自室で、なにげにテレビを見ると、ヤクザの抗争が、報じられていた…


 襲撃されたのは、松尾会の事務所だった…


 銃撃され、見るも無残な形に、窓ガラスが、割れて、滅茶苦茶になった、組事務所が、テレビに映し出された…


 ヤクザ界の反応は早かった…


 まさに、電光石火というヤツだ…


 後に、稲葉五郎が、語ったように、松尾聡(さとし)の化けの皮が剝がれたことで、対立する、周囲の組織が、松尾会の事務所を襲ったのだ…


 松尾聡(さとし)が、杉崎実業に、手を出して、中国政府の手の者に、松尾会の人間が、襲撃されたことで、松尾聡(さとし)の力が、衰えたことが、図らずも、露呈した瞬間だった…


 以前の松尾聡(さとし)ならば、ありえない判断ミスだった…


 それゆえ、ヤクザ組織の格好の標的になった…


 以前も書いたが、松尾会は、決して、大きな組織ではない…


 言ってみれば、松尾聡(さとし)一人の強烈な個性で、成り立ったヤクザ組織だった…


 だから、今の松尾会の系列の組長で、山田会と盃を交わした幹部は、誰一人いない…


 力が対等では、ないからだ…


 以前、松尾会と山田会の末端の組員同士が、いざこざを起こして、それが、思いがけず、大事(おおごと)になって、双方に緊張が走ったと書いたことがあった…


 それは、松尾聡(さとし)が、いなければ、成り立たないヤクザ組織だったからだ…


 引退はしていないが、事実上、引退したように、表舞台から去った松尾聡(さとし)だったから、配下の組長たちは、どう山田会と、対峙していいか、わからなかった…


 松尾聡(さとし)を頼れば、いいのだが、やはり、表舞台から姿を消した松尾聡(さとし)に、頼むのは、格好が悪い…


 松尾聡(さとし)が、山田会の亡くなった古賀会長と五分の盃を交わしていたことは、誰もが周知の事実だったが、その配下の者で、山田会の幹部と盃を交わしたものは、誰一人いない…


 それが、双方の力の差を現していた…


 つまり、山田会の執行部で、松尾会の執行部を相手にしている人間は、誰一人いなかった…


 だから、まともに、交流がないゆえに、松尾会の幹部は、どうしていいか、わからなかったのだ…


 その唯一の砦(とりで)といおうか、司令塔の松尾聡(さとし)が、老いて、判断力が鈍ったことが、今回の杉崎実業の一件で、図らずも、露呈した…


 ただ一人の強敵といえば、わかりやすい…


 松尾会は、松尾聡(さとし)で、成り立っているという現実だった…


 そして、それは、後継もなにもない…


 豊臣秀吉が死ねば、秀吉の代わりが、誰一人、できないので、豊臣政権が、崩壊したようなものだ…


 これは、徳川家康もまた、誰もが家康の代わりはできなかったが、家康は、家臣団をうまく統制して、次の世代の者が、自分の代わりを務められるようにゆくシステムを作った…


 これは、秀吉も同じだったが、秀吉の場合は、なにしろ、息子が、幼過ぎた…


 秀吉が、死んだときは、息子の秀頼は、わずか3歳…


 この年齢では、周囲の人間がうまく支えるしかないのだが、家臣団が、一枚岩でないこともあり、崩壊した…


 また別の見方をすれば、秀吉のときは、家康のように、大物のライバルがいたが、家康のときは、家康を脅かすほどの大物のライバルがいないことも、幸いした…


 いや、むしろ、ライバルがいないことが、徳川政権が続いた最大の理由だろう…


 話は、逸れたが、つまり、松尾会は、松尾聡(さとし)で、成り立っているが、その松尾聡(さとし)が、老いて、力がなくなった…


 その現実を、今回の一件は、全国のヤクザに知らせたのだ…


 松尾会の命運は、まさに風前の灯火だった…


 このままでは、遅かれ早かれ、崩壊する…


 それは、誰の目にも明らかだった…


 松尾会が、生き残る術(すべ)は、もはや、なかった…


 解散するか、他の組に、吸収合併されるかのどっちか?


 その二択しか、ない状態だった…


 これは、ヤクザも、会社も同じだ…


 業績が、悪くなった会社が生き残るには、誰かに、助けてもらうしかない…


 要するに、金を借りるしかない…


 金を借りて、会社を立て直す…


 ただし、誰もが、見返りなしで、お金を貸してくれることは、ありえない…


 当然、その代償はある。


 会社であれば、事業を縮小して、儲からななくなった事業を廃止したり、従業員をリストラしたりする…


 当たり前のことだ…


 例えば、お金を貸した銀行は、当たり前だが、利子をつけて、返してもらわなければ、ならない…


 そのために、経営が傾いた会社に、事業の売却や、従業員のリストラを要求する…


 会社を立て直すためだ…


 会社を立て直して、儲けが出るようになって、借金をかえしてもらう…


 それが、基本だ…


 松尾会も、また同じ…


 会社と同じで、まずは、単独で、生き残れるか、どうか、判断する…


 そして、単独で、生き残れないと判断すれば、どこかの組織に、吸収合併する形で、組織を譲渡するか?


 あるいは、


 会社の倒産ではないが、松尾会の解散しかない…


 その二択しかない…


 杉崎実業が、中国への不正輸出で、警察の家宅捜査が入ったと同時に、松尾会の命運が、決まった…


 が、


 考えてみれば、おかしな話だった…


 これは、偶然だろうか?


 果たして、偶然なのだろうか?


 杉崎実業の中国への不正輸出に始まって、林の父親の逮捕、そして、松尾会の窮地…


 そして、古賀会長の死で始まった、山田会の次期会長の行方…


 稲葉五郎と、高雄組組長の争い…


 これら、一連の流れは、すべて、偶然なのだろうか?


 風が吹けば桶屋が儲かるというように、偶然が重なって起きたことだろうか?


 私は、思った…


 タイミングが良すぎる…


 そして、私…


 竹下クミ…


 以前、大場敦子が、私に、


 「…竹下さん…気付いている?…」


 「…気付いているって、なにが?…」


 「…この杉崎実業の内定をもらった5人の女は、皆、外観が似ている…でも、その本命は、竹下さん、アナタ…」


 たしか、そんなふうなことを、私に言った…


 あれは、一体どういう意味なんだろうか?


 そして、最大の謎、


 あの高雄悠(ゆう)は、一体、それにどう絡んでいるのだろうか?


 私の悩みは、深かった…



 …高雄…


 …高雄悠(ゆう)…


 摩訶不思議な男だ…


 図書館や花屋が似合う、おとなしめの男子のくせに、実は、大物ヤクザの息子…


 しかも、血は繋がってない…


 長身の、イケメンで、暴力とは、真逆…


 いわゆる、ヤンキー臭さは微塵もない…


 だから、信頼できる…


 信用できる…


 だが、本当にそうか?


 たしかに、一見して、高雄は信用できる…


 しかし、犯罪者ではないが、叩けば叩くほど、ほこりが出てくると言うか…


 知れば知るほど、当初、抱いた高雄のイメージが、崩れてゆく…


 いや、


 崩れてゆくのではない、覆(くつがえ)されるのだ…


 いわゆる、当初、抱いたイメージと真逆の真実を知ることになる…


 だから、これは、逆効果…


 知れば知るほど、信用できなくなる…


 信頼できなくなる…


 つまりは、高雄悠(ゆう)という存在は、プラスではなく、マイナスになる…


 高雄悠(ゆう)は、それをわかっているのだろうか?


 いや、


 もし、最初から、わかって、行動していたとしたら?


 さまざまな考えが、脳裏をよぎる…


 色々、考えさせられる…


 私は、考える…


 考え続ける…


 私が、最初、高雄と会ったのは、あの杉崎実業の内定のとき…


 あのとき、人見人事部長から、杉崎実業の取締役として、高雄悠(ゆう)を紹介された…


 そして、それ以前に、たしか、大場が、この会社は、暴力団のフロント企業うんぬんと、口走った…


 いや、


 アレは、林だったか?


 いずれにしろ、あの時点で、すでに、あの二人は、杉崎実豪が、高雄組のフロント企業であることを知っていたことになる…


 が、


 残りの二人…


 柴野と野口は、たぶん、知らなかった…


 あるいは、知っていたかもしれないが、そういう発言は、一切していない…


 なにより、発言の口火を切っていない…


 口火を切ったのは、大場と林だ…


 だが、本当のところは、わからない…


 ただ、あの発言の後、高雄悠(ゆう)は、急いで、私を追って来た…


 私が、帰る電車の中で、私に話しかけ、その後、駅のプラットフォームに途中下車して、私に、杉崎実業の内定を蹴らないで、欲しいと、懇願した…


 頼み込んだ…


 私は、なぜ、高雄がそんなことを、私にするのか、わからなかった…


 が、


 高雄は、昔、子供の頃、会った、女のコがいて、その女のコが、この会社に入社して、いずれは、ボクと結婚して、会社を乗っ取ろうとしている…


 しかしながら、ボクは、真逆に、自分が、別の女のコを手に入れることで、ボク自身が、パワーアップするというか、会社が発展するようなことを、私に言っていた…


 だが、その会社は暴力団…


 高雄組のことだと、私は思った…


 以前、高雄に電話して、高雄の実家が高雄組であることを知っていたからだ…


 要するに、杉崎実業の5人の内定者の女のコの中に、敵と味方がいるというか…


 この場合の敵とは、高雄組の対立組織…


 高雄悠(ゆう)と結婚することで、高雄組に入り、内部から、高雄組を乗っ取ろうとしている…


 真逆に、味方とは、高雄悠(ゆう)と、結婚することで、高雄が、有利になる、人物…


 そういうことだ…


 私は、それを聞いたとき、面白いと思った…


 だから、高雄の話に乗った…


 高雄の力になりたい…


 純粋に、そう思った…


 高雄のようなイケメンに気に入られたい…


 好かれたいと、思ったのだ…


 女なら、誰もが、そう思うことだ(笑)…


 だが、


 今、考えると、それも眉唾物…


 どこまでが、本当なのか、わからない…


 ただ、高雄が、私を大事に思ってることは、確かだ…


 大場が言ったように、なぜかはわからないが、私がキーマンなのだろう…


 だから、私に似た4人の女を集めた…


 いや、


 もしかしたら、それも違うかもしれない…


 キーマンは、私と大場、林の3人だ…


 3人とも、なんとなく似ている…


 顔も背格好も、似ている…


 姉妹だと言われても、驚かない…


 違和感がない…


 それほど、印象が似ている…


 目鼻立ちひとつひとつは、微妙に違うが、全体から受ける印象が同じなのだ…


 ということは、どうだ?


 私たち3人に合わせるために、残りの二人を選んだのでは、ないのか?


 柴野と野口を選んだのでは、ないのか?


 突然、そう思った…


 たしか、林は、柴野は、一橋大…

 

 野口は、東京外語大と、言った…


 これは、ウソではあるまい…


 だが、同時に林は、大場、柴野、野口は、私以上のお金持ちと言った…


 が、


 これは、眉唾物だ…


 大場は、大場小太郎代議士の娘だから、林以上ではないが、お金持ちに違いない…


 だが、他の二人は、違うのではないか?


 柴野と野口は違うのではないか?


 ふと、思った…


 というか、ブラフ…


 ブラフ=はったりの類い…


 いや、


 それどころか、最初から、高雄、林、大場の3人は、組んでいた可能性が高い…


 単純に、柴野と野口は、私たち3人に似ている…


 つまり、私、竹下クミ、林、大場の3人と、顔や背格好が似ているから、選ばれたのではないか?


 そして、高雄は、私に噓八百を教え込んだ…


 私を引き込むためだ…


 私を利用するためだ…


 事実、大場は高雄と以前から面識があると認めていた…


 おそらく、林も、同じだろう…


 林は、父親の命で、杉崎実業に入社しようとした…


 が、


 それ以前に、なんらかの形で、高雄と知り合った可能性が高い…


 そして、彼ら3人で、今回のシナリオを練った可能性が高い…


 私は、思った…


 だから、林は、以前、私をあの豪邸に招いたとき、


 「…高雄さんは、映画のゴッドファーザーのように、ヤクザから堅気になろうとしている…暴力団を普通の会社にしようとしている…」


 と、言ったのではないか?


 最初から、高雄に、それを告げられていたのではないか?


 そして、それは、高雄の父も、認めていた…


 だから、その言葉にウソはあるまい…


 あるいは、そう告げることで、林を味方に引き入れようとした…


 いや、いや、疑えば、切りがない…


 どこまでが、真実か、わからなくなる…


 真相が、見えなくなる…


 ただ、今、私が、考えたこと…


 思いついたことに、間違いが、それほど、あるとは、思えない…


 つまり、高雄と、林、大場の3人が、最初から、組んでいたのは、明らかだ…


 そう考えれば、色々、納得がいく。


 最初、杉崎事業の内定で、私たち5人が会ったとき、たしか、大場が、この杉崎実業は、暴力団のフロント企業と、口走った…


 それを契機に、林が、反論して、大場と林のバトルに発展した…


 口論というか、口喧嘩になった…


 だが、今、考えてみれば、あれは、ヤラセだったのではないか?


 ヤラセ=お芝居だったのではないか?


 そう、考えれば、納得がいく…


 最初から、打ち合わせて、ケンカをしているように、見せかけたかったのではないか?


 そうすることで、お互いの繋がりを隠したかったのはないか?


 そう、思った…


 誰もが、言い争った人間同士が、陰で、手を結んでいるとは、テレビや映画でない限り、信じない…


 思わない…


 二人は、それを狙ったのではないか?


 ただ、二人、いや、高雄悠(ゆう)を加えて、三人は、皆、一枚岩ではない…


 言葉は悪いが、同床異夢…


 それぞれが、自分たちの打算で、トリオ(3人組)を組んでいるに、過ぎない…


 その目的は、林は、自分の家の再建と言うか、苦境からの脱出…


 大場は、父、大場小太郎代議士からの指示…


 そして、


 そして、あの高雄…


 高雄悠(ゆう)は、父の、高雄組組長からの指示と言いたいところだが、それは、ありえないというか…


 正直、微妙…


 高雄組組長の指示で、今回のシナリオを考えたとは、思えない…


 事実、高雄悠(ゆう)は、私の前で、育ての親である、高雄組組長と争った…


 アレが、お芝居とは、どうしても、思えない…


 また、林が言った、


 「…高雄さんは、映画のゴッドファーザーのように、暴力団を堅気の会社にさせようとしているの…」


 という言葉も、ウソとは、思えない…


 事実、暴力団は、先細り…


 将来的に衰退してゆくのは、誰の目にも明らか…


 また、高雄組組長は、経済ヤクザ…


 暴力団にもかかわらず、暴力をウリにしていない…


 だから、高雄組組長の指示で、将来的に、堅気の会社に生まれ変わりたいと、考えても、不思議ではない…


 だが、どうしても、そうは思えない…


 どうして、そう思うのか?


 なにか、証拠があるのかと問われれば、言葉に詰まるが、これは、女の直感というか…


 それ以外にない(笑)…


 高雄悠(ゆう)が、高雄組組長の指示で、動いているとは、どうしても思えない…


 いや、


 指示はあるかもしれない…


 だが、その指示を大きく超えて、独断で動いてる感じがする…


 それとも?


 とっさに、思った…


 それとも、高雄の背後に誰かいるのか?


 とっさに、気付いた…


 高雄悠(ゆう)自身が、誰かに操られている?


 あるいは、誰かの指示で動いているのか?


 とっさに、思いついた…


 ただ、操られているのと、指示で動いているのとは、違う…


 操られてるのは、高雄本人が、気付かないうちに、誰かの思うように、動かされてるということだ…


 指示を受けているというのは、ただただ、本人の考えはなく、ただ指示する人間の思う通りに、動いていることに、他ならない…


 そこに、自分の考えは、なにもないからだ…


 そして、もし、誰かに操られているとしたら?


 それは、おそらく、高雄悠(ゆう)の希望を利用されているということだろう…


 高雄が、高雄組を将来的に、堅気の会社に変貌させたいと、考える希望を利用されているということだろう…


 高雄が、高雄組を堅気の会社に変えたいという気持ちにウソ偽りはないと思う…


 また、高雄は、育ての親の高雄組組長と争っているように、見えるが、嫌ってはいないと思う…


 父子とはいえ、互いが嫌っていれば、それは、誰の目にもわかるものだ…


 むしろ、高雄は、父の思いに、答えたかったのではないか?


 血が繋がっていないにもかかわらず、自分の世話をしてくれる高雄組組長の恩に答えたかったというか…


 おそらくは、高雄組組長の真意というか、希望は、以前、聞いたように、三井や三菱のような大企業に就職して、出世すること…


 それが、叶わずに、ヤクザになった…


 そして、経済ヤクザとして、成功した…


 しかし、高雄悠(ゆう)は、高雄組組長を身近に見て、その希望を捨てることができない姿を、感じ取ったのではないか?


 経済ヤクザとして、成功して、押しも押されぬ大物ヤクザと呼ばれた今も、本当は、大企業に就職して、出世したかった…


 そんなふうに、感じたのではないか?


 そんなふうに、思ったのではないか?


 高雄悠(ゆう)が、その夢を叶えさせたかったと感じたのは、穿(うが)ちすぎだろうか?


 私の考え過ぎだろうか?


 だが、少なくとも、高雄悠(ゆう)と、高雄組組長の間に父子の断絶があるとは、思えない…


 確執があるとは、思えない…


 信頼し合っているとまではいえないが、嫌っているようには、どうしても思えない…


 むしろ、今も高雄悠(ゆう)は、育ての親である、高雄組組長に恩を返そうとしているように見える…


 高雄組を将来的に、普通の会社に変貌させることで、高雄組組長を喜ばせようしているように見える…


 だが、その目的を誰かに利用されているとしたら?


 それは、文字通り、高雄悠(ゆう)は、操られていることになる…


 本人が意図せずとも、誰かに操られているように見える…


 だが、もし、高雄悠(ゆう)が、操られているとしたら?


 操る人間は、誰か?


 おそらく、私の知っている人間に違いない…


 高雄悠(ゆう)の身近にいる人間に違いない…


 高雄悠(ゆう)を操る人間…


 それは、誰か?


 中国政府?


 とっさに思った…


 考えられないことではない…


 山田会の古賀会長は、中国政府の後ろ盾で、山田会を大きくした…


 その古賀会長が亡くなった今、中国政府が、代わりの人間を探すのは、道理にかなっているというか…


 ひどく当たり前に思える…


 しかも、高雄悠(ゆう)は、高雄組組長の息子…


 血が繋がってないとはいえ、父子だ…


 いわば、山田会の中枢に近い人間…


 その高雄悠(ゆう)を操って、山田会をコントロールしようと考えるのは、ひどく当たり前だ…


 私は、思った…


 だが、


 それは、あくまで、可能性…


 ひとつの可能性に過ぎない…


証拠もなにもない…


 だから、本当のところは、さっぱりわからない…


 ただ、高雄悠(ゆう)の背後には、誰かいるのではないか?


 漠然と、そう思った…



 私は、考える…


 考え続ける…


 すると、突然、スマホが鳴った…


 考えが中断する…


 …一体、誰だろう?…


 私は、思った…


 思いながら、スマホに表示された名前を見て、驚いた…


 なんと、林だった!


 林?


 あの林だった…


 たった今、林、大場、高雄悠(ゆう)の三人の繋がりを考えていたところだ…


 その林から、電話が来た…


 とっさに、思った…


 そして、すぐに、


 出るべきか?


 出ないべきか?


 しばし、悩んだ…


 そもそも、一体全体、私になんの用事があるのだろう?


 疑問に思った…


 林とは、あのマイバッハという超がつく高級車に乗って、あの江戸時代に建てられた、大豪邸に招かれて以来、会っていない…


 それが、どうして、今、私に連絡があるのだろう?


 まさか、林の父親の逮捕?


 とっさに気付いた…


 林の父親は、中国政府のスパイ容疑で、逮捕された…


 私は、テレビで、それを見た…


 ネットでも、新聞でも、確かめた…


 だから、誤りはない…


 間違いはない…


 だが、


 それと、今、私に、連絡があるのと、関係があるのだろうか?


 考えた…


 が、


 いつまでも、考え続けているわけには、いかなかった…


 とりあえず、電話に出ることにした…


 「…ハイ…竹下です…」


 私は、おずおずと言った…


 一体全体、どんな話になるのか、わからない…


 なにしろ、父親が、逮捕されているのだ…


 一度会っただけだが、童顔で、丸顔の、見るからに人の良さそうな人物だった…


 その人物の顔が、テレビやネット、新聞に出ていた…


 だから、間違いはない…


 「…竹下さん、久しぶり…元気?…」


 以外にも、スマホから、聞こえてきた林の声は明るかった…


 私は、林の挨拶に、どう答えていいか、わからなかった…


 だから、曖昧に、


 「…ええ…」


 と、言葉を濁した…


 まさか、父親が、中国からのスパイの容疑で、逮捕されてるのに、


 「…私は元気…」


 と、威勢よく、返すことはできない…


 だから、


 「…ええ…」


 と、曖昧に言葉を濁した…


 「…竹下さん…」


 「…なに?…」


 「…どこまで、気付いてるの?…」


 いきなり、林が言った…


 ずばり、核心を突いた…


 「…どこまでって?…」


 これも、曖昧に言葉を濁した…


 ちょうど、林と大場、それに、高雄悠(ゆう)が、組んでいたことに、おぼろげながら、気付いたところだ…


 だが、確証はない…


 証拠はない…


 しかしながら、自分の考えに間違いがあるとは、思えない…


 だから、


 「…」


 と、黙った…


 沈黙した…


 なにを、どう答えたら、いいか、わからなかったからだ…


 だが、その沈黙が、林は、気に入らなかったらしい…


 「…竹下さんって、案外ズルいのね?…」


 「…ズルい?…」


 どういう意味だ…


 いや、


 ズルいの意味はわかる…


 だが、どうして、私がズルいんだ?


 私は思った…


 「…どうして、私がズルいの?…」


 と、聞こうとしたところへ、


 「…大場が言ってた…竹下さんは、まるで、政治家みたいだ…自分に都合の悪いことには、黙って、一方的に、相手にしゃべらせようとする…」


 林が言った…


 それで、確定だった…


 私の中で、大場と林が繋がってることを、証明したも、同然だった…


 無論、あの杉崎実業の内定で、知り合って、仲良くなって、互いに連絡を取り合うようになった…


 その可能性はある…


 しかし、今の言葉は、それ以前に、林と大場が知り合いであるように、私には、思えた…


 だから、私は、


 「…林さんは、大場さんと、仲がいいのね…」


 と、だけ言った…


 相手が、どう出るか、わからないからだ…


 事実だけ、言うのが、正しいというか…


 無難だった(笑)…


 が、


 その反応はというと、ずばり、


 「…」


 と、沈黙だった…


 林もまた、私同様、慎重になっているのかもしれない…


 疑心暗鬼に陥っているのかもしれない…


 迂闊(うかつ)に、自分から、変な言葉を言えない…


 言えば、藪蛇になると言うか…


 揚げ足を取られかねないからだ…


 それが、わかった今、私も林も、発言に慎重になった…


 「…」


 と、お互いが、黙りこくった…


 沈黙した…


 沈黙することで、緊張が、互いの間に生まれた…


 これが、ボクシングならば、互いにファイティングポーズを取ったまま、リング上で、相手の出方を探っている形だ…


 右から来るか?


 左から来るか?


 それとも?


 互いが、緊張感を全身にみなぎらせながら、相手の出方を窺っている…


 そんな感じだった…


 だから、なんだか、私のスマホを握り締める手まで、緊張してきた…


 揺れてきた…


 震えてきた…


 一体、これから、どんな話になるのだろう?


 そう考えると、ドキドキした…


 ドキドキして、胸の心臓の鼓動が高まった…


 すると、今度は息苦しくなった…


 まるで、金魚かなにかのように、口をバクバクさせて、空気をむさぼりたい…


 そんな感じになった…


 胸が苦しくなる感じだった…


 互いに、相手の出方を窺うことが、こんなに苦しいとは、思わなかった…


 そして、それは、林も同じだったようだ…


 「…すごい…緊張する…」


 突然、スマホの向こう側から、林が言った…


 「…なんだか、男のひとが、殴り合いのケンカをしたり、ホラー映画を見たりする感じ…物凄い緊張…喉が渇く…」


 いきなり、林が言った…


 私も、それは、同じだった…


 と当時に、やはり林も同じだったと思うと、なんだか、ホッとした…


 安堵した…


 林の言葉で、一気に、緊張がほぐれた…


 「…高雄さんが言ってた…竹下さんは、見かけと違うって…」


 「…高雄さんが?…」


 言いながら、やはり、林は、高雄と繋がっていた…


 そう、確信した…


 「…竹下さんは、一見、真面目で、おとなしめで、どこにでもいる、お嬢さんに見える…でも、中身は違う…」


 「…違う…それって、どう違うの?…」


 「…見せかけよりも、鋭い…鈍くない…」


 私は、林の言葉に、


 「…」


 と、黙った…


 まさか、自分が、そんなふうに、高雄に評価されてるとは、思わなかった…


 見られているとは、思わなかった…


 あまりにも、意外な評価だった…


 「…高雄さんは、自分のルックスに自信があった…自分がうまく竹下さんに頼めば、竹下さんは、自分の思う通りに、動いてくれる…そう思ってた…」


 「…」


 「…バカな男…いくらなんでも、自分のルックスに自信を持ちすぎ…私に言わせれば、自分のルックスを鼻にかけた、鼻持ちならない男の典型…間違っても、あんな男を好きにならない…」


 林が、せせら笑う…


 「…でも、あの男の頼みは、断れなかった…パパが…実家が…家計が火の車で…先祖代々、受け継いできた、あの家を手放すかもしれないほど、追い詰められてることを、最近、知って…」


 林が、堰(せき)を切ったように、言った…


 それは、私が、予想したことでもあった…


 「…あの男は、高雄は…私に近付いて、言った…ボクが、林さんの苦境を救ってあげるって…」


 「…」


 「…正直、なにをバカなことを言ってるんだと思った…まだ、たかが二十代の男のひとに、一体なにができるんだって、思った…でも、高雄が、あの若さで、杉崎実業という、世間的には、無名だけど、一部上場企業の取締役だと知って、見方が変わった…」


 「…」


 「…実際に、高雄さんから、あの杉崎実業の本社に招かれて、人見人事部長を紹介されて、驚いた…」


 「…」


 「…そして、実は、杉崎実業は、山田会という名前の暴力団のフロント企業で、その山田会は、中国政府と繋がっているんだと、告白された…」


 「…」


 「…でも、最初は、そんな話、信じられなかった…杉崎実業は、中堅の商社…いわゆる、国内外の商品を買い付けて、どこかに、売るのを、商売にしている…だから、中国に、製品を輸出すると聞いても、おかしくはない…でも…」



 そこで、話が途切れた…


 すすり泣いているようでも、あった…


 「…でも、そこに、大場がいた…」


 「…大場?…」


 意外な名前だった…


 高雄と大場と林が組んでいるのは、わかっている…


 しかし、このタイミングで、大場の名前が出てくるとは、思わなかった…


 「…竹下さんも、すでに知っているように、大場のお父様は、国会議員の大場小太郎代議士…次期総理総裁の筆頭に挙げられる、超のつく、大物代議士…高雄さんは、私を…いえ、私たち父子を信用させるために、大場小太郎代議士にも、会わせた…」


 あまりにも、意外な真相だった…


 まさか、高雄は、自分たちを信用させるために、大場を使うとは、思わなかった…


 いや、


 可能性としては、ある…


 考えられる…


 しかしながら、次期総理総裁候補の筆頭にも、挙げられる、大場小太郎代議士を使うとは、思わなかった…


 利用するとは、思わなかった…


 たしかに、大場小太郎代議士が、登場すれば、林の父親も信用するだろう…


 なにしろ、大場小太郎だ…


 日本中、知らない者はいない、有名政治家だ…


 しかし、なぜ、高雄に、そんなことができる?


 いや、


 できるに、決まっている…


 私は、思い出した…


 あの高雄と、高雄の父である、高雄組組長が争ったとき、大場小太郎は、おそらく高雄に呼び出されて、あの場に出向いた…


 つまりは、高雄は、大場小太郎を呼び出す力があったということだ…


 私は、考える…


 つまりは、高雄は、父の高雄組組長抜きで、大場小太郎を呼び出せるほど、親しいということだ…


 だが、だとしたら、大場小太郎にとって、高雄は、どんな存在だ…


 私は、ふと、気付いた…


 大場小太郎にとって、高雄悠(ゆう)は、そんなに大切な存在なのか?


 高雄悠(ゆう)が、呼び出せば、国会議員という、日々、多忙な時間をやり繰りしている有名政治家が、わざわざ時間を作って会いに行くほどの価値があるのだろうか?


 私は、考える…


 そして、それほどの価値があるというのは、ずばり、国家公安委員長…


 ずばり、公安関係者として、スパイ容疑で、監視するためではないか?


 ふと、気付いた…


 大場小太郎代議士は、高雄組組長や、松尾会会長とも、親しい…


 しかし、それは、公安関係者として、彼らを監視するためだ…


 大場小太郎の父親は、代議士で、国家公安委員長を歴任している…


 その縁で、大場小太郎は、あえて、ヤクザ者と親しく交際して、情報を得ている…


 監視していると、高雄は言った…


 だが、その中には、それを暴露した、高雄自身が、含まれているのではないか?


 高雄悠(ゆう)自身が、含まれているのではないか?


 ふと、その事実に気付いた…


 その可能性に気付いた…


 だからこそ、大場小太郎が、多忙な合間を縫って、高雄の誘いに乗ったのではないか?


 高雄の父である、高雄組組長の頼みで、あの場に現れたのは、わかるが、それだけとは、思えない…


 むしろ、大場小太郎が、高雄悠(ゆう)もまた、監視対象としていると考えた方が、納得がゆく…


 そして、その事実を隠して、高雄は、自分自身が監視対象として、見られていることは、あえて、告げずに、私に、大場代議士の目的だけを言った…


 おそらく、自分自身が、監視対象として見られていることに、高雄自身も気付いているに違いない…


 その事実を隠して、自分の都合の悪い事実だけ、隠して、言った…


 高雄悠(ゆう)自身が、中国政府のスパイの可能性が高い…


 遅まきながら、その事実に気付いた…



高雄悠(ゆう)が、中国政府のスパイの可能性が高い…


 私は、遅まきながら、その事実に気付いた…


 高雄自身が、以前、言ったように、大場小太郎代議士が、亡くなった山田会の古賀会長や、松尾会の松尾聡(さとし)会長と親しくしていたのは、公安関係者として、彼らの動静を探っていたためだ…


 監視していたためだ…


 そう私に、暴露したが、肝心の自分のことは、一切言わなかった…


 どうして、そんなことを、私に告げるのか?


 そもそも、それが、謎だった…


 しかしながら、それはそれで、いったん横に置いても、大場代議士が、公安関係者で、亡くなった古賀会長や、松尾会会長を監視している事実を、どうして、知ったのか?


 肝心の部分は一切言わなかった…


 言及しなかった…


 当たり前だが、情報は、どこで、その情報を知ったのかが、大事だ…


 情報元が信頼できるか、どうかで、情報の精度が、わかる…


 信頼できる相手なのか、どうかが、大事だ…


 もし、


 もし、


 高雄が、中国政府のスパイではないとしたら、その情報は、当たり前だが、父親の高雄組組長から、仕入れた可能性が高い…


 血が繋がってないとはいえ、父子だからだ…


 高雄組組長は、経済ヤクザ…


 経済ヤクザにとっての生命線は、情報に他ならない…


 基本は、株などの債権の売り買いが主流になる…


 その場合は、どうしても、情報が命になる…


 上がるか、下がるか、


 見極めるには、情報が、一番重要だからだ…


 例えば、誰々が仕手戦を仕組んでいる…


 100円の株が、今、300円になっている…


 500円に上がるまでは、上昇するが、その後は、一転して、下がる…


 売りに転じるからだ…


 そんな真偽不明な情報が、市場に広まる…


 すると、どうしても、その情報が、どこまで、信頼できるのか?


 情報の出どころは、どこなのか?


 そんなことが、重要になる…


 高雄組組長は、そんな相場で、生きてきた…


 ネットに、そう書いてあった(笑)…


 だから、当然、情報の扱いに、敏感だ…


 慣れている…


 だから、高雄組組長が、高雄に色々教えた可能性は、捨てきれない…


 だが、私には、どうしても、そう思えない…


 理由はない…


 ただの勘だ…


 女の直感だ(笑)…


 私が、そんなことを考えていると、林が、


 「…竹下さん、聞いてる?…」


 と、スマホから、言ってきた…


 だから、私は、慌てて、


 「…聞いてるに、決まってるでしょ…」


 と、強く言った…


 聞いてなかったことを悟られないためだ(笑)…


 だから、わざと、強く言った(笑)…


 「…そう…そうよね…」


 林は、私の言葉に納得する…


 普段ならば、あるいは、林は、私が聞いてなかったことに、簡単に気付いたかもしれないが、今は無理…


 林は、それどころではなかった…


 追い詰められていた…


 それに、電話では、互いの顔が見えない…


 それが、好都合だった…


 間近で、顔を見れば、自分の話を聞いているのか、聞いていないのかは、バカでもわかる(笑)…


 「…パパは、父は、嵌められた…」


 「…嵌められた?…」


 意外な言葉だった…


 「…誰に?…」


 「…人見よ…人見人事部長…」


 「…人見人事部長?…」


 あまりにも、意外な人物だった…


 人見人事部長が、手引きしたのは、わかる…


 しかしながら、ストレートに嵌められたなんて、言うなんて?


 表現が生々し過ぎる…


 「…人見は、中国政府のスパイだった…でも、それを除いても、人見は、パパを陥れたかった…」


 「…陥れたかった?…」


 思わず、聞いた…


 陥れるなんて、言葉、普通は、使わない…


 どうして、そんな言葉を使うんだろ?


 私は、思った…


 「…人見は、家が貧乏だったの…」


 「…貧乏…」


 「…だから、お金持ちのパパが羨ましくて仕方がなかった…人見は、実家が、ウチの近くにあって…パパの知り合いでもなんでもなかった…ただ、ウチはお金持ちだから、竹下さんも知ってるように、地元でも有名で、それで、人見は、一方的に、パパを嫌っていた…」


 「…どうして、知り合いでもなんでもないのに、嫌うの?…」


 「…お金持ちが羨ましくて、仕方がないの…自分が、貧乏だから…」


 「…」


 「…だから、パパを引きずり込んだ…金策に夢中で、藁(わら)にもすがる思いだったパパは、それに乗った…違法な輸出の片棒を担いだ…しかも、お金に困ったパパに、お金を引き出させて、さらに、貧乏になるように、仕向けた…」


 「…どうして、そんな…」


 さっぱり謎だった…


 今、林は、人見と林の父親は、知り合いでもなんでもないと言った…


 ならば、どうして、人見は、林の父親にそんな真似をするのか?


 謎だった…


 「…単純よ…自分は、お金持ちじゃないから、金持ちが憎くて仕方がない…ちょうど、学校で、勉強ができないコが、勉強ができるコを羨むのと同じ…ブスが美人を妬むのと、同じ…ないものねだり…自分が、なにもないものだから、なにか、持っているひとが、憎くて堪らないの…」


 林が激白する…


 私は、林の言葉に圧倒された…


 ただ、ただ、圧倒された…


 そして、おそらく、それは、真実だった…


 林の父親は、人見に対して、なにもしていない…


 しかし、ただ、林の父親が、自分と同じ出身の地元で、金持ちで有名であることが、憎い…


憎くて、堪らない…


 だから、陥れる…


 林の父親にとっては、まさに言いがかりに近い…


 自分は、人見になにもしていないにもかかわらず、一方的に相手に恨まれている…


 …一方的に、憎まれている…


 だが、それが真実だろう…


 それが、真相だろう…


 不合理極まりない…


 誰もが、まったく納得はできないが、それが、真相だろう…


 私は、思った…


 「…人見が、アイツが仕組んだのよ…」


 林が激白する。


 私は、林の激白に、ただ、ただ、驚いたが、ふと、気付いた…


 人見が、逮捕されてない事実に、だ…


 逮捕されたのは、林の父親…


 人見の名前は、出ていない…


 だから、今、林の言っていることは、本当のことだろうか?


 一瞬、そんな気持ちが脳裏をよぎった…


 が、


 林の言葉にウソがあるとは、思えない…


 今、林が言っている言葉に、ウソがあるとは、思えない…


 スマホで、話してるから、林の顔は、見えないが、必死さは、十分に伝わって来る…


 とても、ウソをついているようには、思えない…


 だが、その人見と、高雄は、どう絡んでくるのだろうか?


 大場は、どう絡んでくるのかは、わかる…


 大場は、父親の大場小太郎代議士、同様、監視のため…


 中国のスパイの監視が目的に違いない…


 しかし、高雄の目的がわからない…


 だから、聞いた…


 「…高雄さんは、高雄さんは、一体、どう絡んでいるの?…」


 「…どう、絡んでいるって?…」


 「…高雄さんの目的…」


 「…高雄さんの目的は、以前、竹下さんに、話したように、実家の暴力団、高雄組を、映画のゴッドファーザーのように、堅気の会社にしたいってことだと思う…これは、何度も私に説明したし、ウソじゃないと思う…ただ…」


 「…ただ…なに?…」


 「…ただ、やっぱり、高雄さんには、謎がある…」


 「…謎?…」


 「…言ってることに、ウソはないんだけど、すべてを話していない…例えば、最初に会ったとき、あの若さで、杉崎実業の取締役だけど、実家がヤクザだって、決して、言わなかったでしょ? …まあ、あの場で言えるわけはないんだけど…つまりは、そんな感じ…まだ隠していることが、なにか、ある…」


 私は、その言葉に、激しく同意した…


 そして、思い出した…


 前回、今、話している林の豪邸に招かれたときのことを、だ…


 あのとき、林は、私に力を貸して欲しいと言った…


 私を丁重に扱い、私に力を貸して欲しいと、懇願した…


 だが、どうして、そんな真似をしたのだろう?


 私は、平凡な女だ…


 平凡、極まりない女だ…


 お金持ちでもなんでもない…


 そんな私に、どうして、そんな真似をしたのだろう?


 「…林さん?…」


 「…なに?…」


 「…今もそうだけど、あのとき、どうして、私に力を貸して欲しいって、言ったの? 高雄さんから、頼まれたから?…」


 「…それは、違う…」


 「…違う?…」


 「…高雄さんが、竹下さんを大事にするから…」


 「…私を大事に?…」


 「…高雄さんが、竹下さんを大切にしているから、なにか、あると思って…だから、こう言っちゃなんだけど、竹下さんを取り込もうと思って…」


 「…私を取り込む?…」


 「…だから、家に招いたの…正直、竹下さんに、なにがあるか、わからない…これは、たぶん、竹下さん自身も、気付いてないみたい…でも、高雄さんは、異常なまでに、竹下さんを大事にしている…気にかけている…だから、私も、大事にしなきゃと思って…」


 「…」


 「…だから、今も、こうして、電話している…竹下さんに電話することで、パパを助けられるかもしれないと思って…」


 仰天の告白だった…


 スパイ容疑で、逮捕された林の父親を助けるために、私に電話するなんて…


 考えられない…


 どう考えても、信じられない…


 しかし、


 しかし、だ…


 林の立場に立てば、わからないでもない…


 なぜか、知らないが、高雄が、私を大事にしている…


 だから、私に良くすれば、もしかしたら、父親を救い出してくれるかも?


 そんなふうに、考えてもおかしくはない…


 また別の見方をすれば、それほど、追い詰められている…


 精神的に、ギリギリの状態にいる…


 だから、溺れる者は藁(わら)をもつかむということわざのように、私に電話をかけてきているに、決まっている…


 できることと、できないことの区別ができなくなっている…


 私は、そう思った…


 そう思ったとき、


 「…笑っちゃうでしょ?…」


 と、いきなり、林が、私に言った…


 「…笑っちゃう? …なにが、笑っちゃうの?…」


 「…私よ、私?…」


 「…林さん?…」


 「…そう、私…だって、私は、竹下さんに、数えるほどしか、会ってない…そんな、会ってまもない、竹下さんに、こんなことを頼むなんて、自分でもおかしいと思う…でも…でも…」


 それ以上は、言葉にならなかった…


 スマホの向こうで、林は、むせび泣いていた…


 嗚咽していた…


 まさに、追い詰められていた…


 私は、これまで、そんなに追い詰められた人間は、見たことがなかった…


 いや、


 今も、私は見ていない…


 見てはいないが、接している…


 だから、接したことがなかったというのが、正しい…


 しかしながら、私が、もし、林の立場ならば、同じだろう…


 私が林ならば、同じように、竹下クミに電話をかけただろう…


 私は、思った…


 「…竹下さん…」


 むせび泣きながら、林が言った…


 「…なに?…」


 「…わかってる? …アナタがキーマンなの?…」


 「…キーマン?…」


 私がキーマン?


 思ってもみない言葉だった…


 「…そう…竹下さんが、キーマン…私もなぜ、竹下さんが、キーマンなのかは、わからない…ただ、おそらく、アナタの動静が、騒動を決める…」


 「…私が決める?…」


 「…そう…絶対にそう…だから、高雄さんは、竹下さんを大事にしている…私も最初は、気付かなかった…おそらく、高雄さんは…」


 そこまで、言って、いったん、言葉を止めた…


 そして、少しの間を置いて、再開した…


 「…高雄さんは、最初、大場と竹下さん、アナタが似ていることに、着目したというか、ヒントにしたと思う…」


 「…それって、どういうこと?…」


 「…竹下さんと、大場さんは、似ている…そこへ、やはり、二人に似ている私が加わった…それで、今回の計画を思いついたと言うか…」


 林が、私が、思いついたことと、同じことを言った…


 「…だから、野口も柴野も、私たち3人に、外観が似ているから、選ばれた…それだけ…」


 林が、断言した…


 以前、私に、野口と柴野は、私以上のお金持ちと言ったこととは、別のことを言った…


 おそらく、柴野と野口は、お金持ちでも、なんでもないのだろう…


 アレは、ただのウソに違いない…


 だが、それをこの場で、口にするのは、得策ではない…


 なにより、今、林は、追い詰められている…


 追い詰められている林に、なにか言えば、窮鼠(きゅうそ)猫を嚙む、のことわざのように、思いがけず、私に牙を剝いてくる可能性も否定できない…


 なにしろ、メンタルが普通ではない…


 父親が、逮捕されたのだ…


 普通のメンタルでいわれるわけがない…


 だから、私は、


 「…」


 と、なにも言わなかった…


 自分からは、一切質問はしなかった…


 すると、林も、言いたいことは、終わったのだろう…


 会話が途切れた…


 二人とも、


 「…」


 と、沈黙した…


 お互いに、話すことがなくなった…


 あるいは、聞きたいことは、あるかもしれないが、すぐに思いつかなかった…


 だから、互いが、これ以上、電話を続けても、会話が続かないと思った…


 しばらく、沈黙が続いた後、


 「…ごめんなさい…竹下さん…突然、こんな電話して…でも、どうしても、竹下さんに伝えたくて…本当にごめんなさい…」


 そう言って、林は電話を切った…


 私としても、林を引き止める理由はなかった…


 会話が続かなかったからだ…


 電話が終わった後、私は、虚無感にさいなまれた…


 虚脱感と言い換えてもいいのかもしれない…


 なにかをしたのではないが、どんよりと、気分が重かった…


 現実が重かった…


 まるで、底なし沼に落ちたように、ずるずると、気分が、落ち込んだ…



 気分が落ち込んだ…


 まさに、ヘビーな気分だった…


 こんなに気分が、落ち込んだのは、実に久しぶりだった…


 一体、いつ以来だろう?


 考えた…


 思えば、杉崎実業に内定をもらえるまでは、内定が一社もなく、気分が、滅入った…


 落ち込んだ…


 しかし、今の気分は、そんなものじゃないほど、ヘビーだった…


 他人のこととはいえ、言葉は悪いが、胸糞が悪くなるほどだった…


 原因は、人見だ…


 あの人見が、林の父親が、金持ちだから、それが、気に入らずに、林の父親を陥れる原因だと聞いたからだ…


 実に、気分が悪かった…


 気持ちが悪かった…


 そんな原因で、他人を陥れる人間の気持ちがわからなかった…


 いや、


 気持ちがわからないのではない…


 気持ちはわかるが、それを実践する人間が、身近に存在したことに、驚いたというか、深く嫌悪した…


 人間は、見た目ではない…


 つくづく思った…


 あの人見は、何度か会っただけだが、ただおとなしそうで、実直で、真面目な人柄に見えた…


 それが、こんなことを仕組み人間とは…


 今さらながら、思った…


 林の言葉が真実ならば、いずれ人見は、逮捕されるだろう…


 私は、考える。


 事実、嗚咽するほど、気分が落ち込んだ林の言葉に、ウソがあるとは、思えなかった…


 しかし、人見が…


 私は、考えた…


 ひとは、どうしても、外観で、判断する…


 見た目で、判断する…


 人見は、一目見て、おとなしめで、信用できる…


 信頼できる…


 だから、そんな人見の裏の顔というか、本性を知って、驚く…


 あまりにも、見た目と違うからだ…


 ある意味、人見が、中国政府のスパイだったことよりも、衝撃の事実だった…


 そして、それを考えたとき、ふと、私の脳裏に、あの稲葉五郎の姿が浮かんだ…


 あの稲葉五郎は、人見と真逆だった…


 見かけは、いかにも、昔ながらの、コワモテのヤクザだったが、なぜか、私に優しかった…


 まるで、自分の娘に接するか、あるいは、それ以上に、私に優しかった…


 目の中に入れても痛くないという表現があるが、まさに、その通りだった…


 人見のことを、考えると、どうしても、稲葉五郎のことを考える。


 二人は、真逆…


 共に、外観と、中身が、違う…


 人見は、見た目は、いかにも、信頼でき、信用できるが、中身は、真逆…


 信用できない…


 稲葉五郎は、人見と真逆に、コワモテの外観だが、信用できる…


 信頼できる…


 人間は、見た目ではないなと、つくづく考えさせられる…


 見た目で、いかに、信用できても、信用できない人間は多い…


 その代表が、あの人見なのだろう…


 ぼんやりと、私は、考える…


 そして、


 そして、


 稲葉五郎を思った…


 一体、今、稲葉五郎は、どうしているのだろう?


 松尾会の松尾聡(さとし)が、銃撃されて、病院に入院した…


 その後、銃撃されたのは、松尾聡(さとし)の自作自演だと、知った…


 杉崎実業の不正輸出に、絡もうとして、派遣した子分たちが、中国政府の工作員に、襲われたのだ…


 手を出してはいけないものに、手を出した…


 いち早く、自分の過ちに気付いた松尾聡(さとし)は、自作自演の銃撃で、病院に逃げ込んだ…


 中国政府の工作員から、身を隠すためだ…


 そして、その後の報道はない…


 松尾聡(さとし)は、今、一体、どうしているのだろう?


 そして、稲葉五郎は?


 松尾聡(さとし)と、関係はないが、あの後、松尾会は、他の暴力団の草刈り場になっていると、報道があった…


 松尾会は、松尾聡(さとし)の強烈な個性で、築き上げたヤクザ組織…


 その松尾聡(さとし)が、高齢で、判断能力が衰えたことを、図らずも、今度の一件で、ヤクザ社会に、露呈してしまった…


 以前の松尾聡(さとし)ならば、ありえない失態だった…


 中国政府が、反撃することは、容易に推測できるからだ…


 にもかかわらず、安易に、杉崎実業の不正輸出に絡んで、儲けようとした…


 あまりも、安易な判断ミスだった…


 と、同時に、気付いた…


 以前、稲葉五郎は、


 「…ウチも、杉崎実業を買収しようと思ったが、あそこは、色々あって、それで、買収を断念した…だから、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したのには、驚いた…あの石橋を叩いて渡る、堅実な兄貴が…」


 と、いうようなことを、私に言った…


 つまり、最初から、杉崎実業は、中国政府と繋がってる噂が、ヤクザ界で、流れていたわけだ…


 だから、稲葉五郎は、杉崎実業を買収しなかった…


 真逆に、高雄の父は、買収した…


 おそらくは、買収して、不正輸出で、儲けようとしたのだろう…


 経済ヤクザである高雄の父の生命線は、お金…


 いかに、稼ぐかに、かかっている…


 杉崎実業を買収するリスクはあるが、それ以上に、うまくいったときに儲けがあると、踏んだのだろう…


 だが、本当に、それだけか?


 私は、ふと、気付いた…


 そもそも、あの人見が、中国政府のスパイだと、高雄の父親や、稲葉五郎は気付いていた可能性が高い…


 以前、私が、稲葉五郎にクルマで、杉崎実業の近くまで、送ってもらったことがあった…


 あのとき、杉崎実業から、人見の部下である、藤原綾乃という、ナイスバディのお姉さんが、出てきて、稲葉五郎に杉崎実業に近付くな、と、警告した…


 具体的には、


 「…稲葉さん、今がどういうときか、わかってるの? …稲葉さんが、今、この杉崎実業にやって来ると…」


 と、言った…


 アレは、杉崎実業は、高雄組傘下のフロント企業であり、稲葉五郎は、同じ山田会の傘下だが、高雄組のライバルであり、次期会長の座を巡って争っている…


 それを証明する言葉だと、思った…


 だが、今、冷静になって考えると、違うのではないか?


 ふと、気付いた…


 なぜ、あのとき、あの藤原綾乃というナイスバディのお姉さんが出てきたか? だ…


 人見は、杉崎実業の人事部長…


 あの藤原綾乃は、人見の部下…


 人事部の部下だ…


 そして、気付いたのは、藤原綾乃の素性だ…


 人見が人事部長で、中国のスパイだと気付いた時点で、誰か、高雄組、あるいは、稲葉一家から、人見を監視する意味で、近くに人を配置したのではないか?


 それが、あの藤原綾乃ではなかったのか?


 ふと、気付いた…


 杉崎実業は、高雄組の傘下にあるとはいえ、会社にヤクザ者がいるような気配はなかった…


 おそらく、杉崎実業の株だけ買って、表立ってひとを派遣しなかったのだろう…


 だが、まったくひとを派遣しないことは、ありえない…


 つまりは、ヤクザ者ではない人間を極秘裏に派遣したのではないか?


 普通は、取締役など経営陣にひとを派遣して、会社を牛耳るものだが、さすがにそれでは、目立ちすぎる…


 悪目立ちし過ぎる…


 それゆえ、高雄組は、人事に、あの藤原綾乃を派遣したか?


 あるいは、藤原綾乃を買収して、自分の側に引きずり込んだのではないか?


 私は、思った…


 人事部は、会社の社員の個人情報の宝庫…


 人見同様、その人事部に在籍する人間を味方にするに、限る…


 高雄組は、おそらく、人事部だけでなく、他の部署にも、自分の息のかかった人間を送り込んだか? 買収かなにかして、自分たちに情報が入るように、仕組んだに違いない…


 さもなければ、杉崎実業の株を買収して、杉崎実業を手に入れても、その実態がわからないからだ…


 会社の内部事情を知るには、社員から情報を引き出すに限る…


 藤原綾乃が、高雄組のスパイだと言う保証はないが、おそらくは、稲葉五郎や高雄組長のどちらかと、通じているに違いない…


 あのとき、飛び出して、稲葉五郎に、杉崎実業に近付くなと、警告したのは、高雄組と稲葉五郎の関係を知ってるから…


 互いが、山田会の次期会長を巡るライバルだと知っているからだ…


 と、そこまで、考えて、気付いた…


 ただ、高雄組組長と稲葉五郎の関係を知っているだけなら、あのとき、いきなり、稲葉五郎に、


「…このビルに近付かないで…」


と、言っても、稲葉五郎が納得するはずがない…


普通に考えれば、二人は、顔見知りの可能性が高い…


となると、どうだ?


もしかしたら、藤原綾乃は、高雄組ではなく、稲葉五郎のスパイでもおかしくはない…


今さらながら、その事実に気付いた…


稲葉五郎が、藤原綾乃を、杉崎実業に派遣しても、おかしくはない…


そう思った…


すると、どうだ?


話が違ってくる…


なぜなら、稲葉五郎は、兄貴と慕っている、高雄組の傘下のフロント企業に、自分の部下を配置していることになる…


これは、一体全体どういうことだ?


そもそも、稲葉五郎は、本当に、高雄組組長を慕っているのか?


そんな疑問が湧いた…


そんなに慕っているのならば、高雄組のフロント企業に、スパイを潜り込ませる必要があるのか?


そんな疑問が湧いた…


もしかしたら、稲葉五郎は?


ふと、思った…


もしかしたら、稲葉五郎は敵?


高雄組組長の敵?


最初から、高雄組組長を監視していた?


ふと、そんなことを思った…


少なくとも、稲葉五郎が、


「…兄貴…兄貴…」


と、高雄組組長を慕っていた姿を額面通りに受け取れなくなった…


言葉通りに、受け取れなくなった…


そして、松尾会会長、松尾聡(さとし)が、高雄組組長に言った言葉、


「…山田会の次期会長は、稲葉さんです…これは、古賀さんの決めたことでもあります…」


と、私と、高雄組組長、そして、大場小太郎代議士の前で言った…


あの言葉を素直に取れば、当然、稲葉五郎は、次の山田会会長…


日本で、2番目に大きな暴力団のトップだ…


そんな大物ヤクザが、バカなはずはない…


兄貴、兄貴、と、高雄組組長を慕うフリをしながら、その実、高雄組組長の買収した企業に、スパイを送り込むことなどは、日常茶飯事なのかもしれない…


ヤクザは、裏切りが、日常とも、言った…


相手の寝首を掻くことが、日常とも、言った…


ネットに書いてあった(笑)…


ヤクザはサラリーマンとは、違う…


当たり前だが、会社員とは、違う…


出世の方法が、違う…


サラリーマンのように、段階を追って、出世することも、あれば、そうでないこともある…


なにより、ヤクザは実力社会…


それは、なにより、松尾会会長、松尾聡(さとし)が、力が衰えたのを、全国のヤクザが目の当たりにして、松尾会支配下の地域に、対立するヤクザ組織が、今、抗争を仕掛けている現実が、それを物語る…


つまりは、力が衰えたヤクザは、溺れる犬は棒で叩けのことわざのように、集団で、潰しにかかられる…


だから、弱みを見せることはできない…


自分の弱った姿を見せることはできない…


だから、虚勢を張る…


自分を、実力以上に強く見せる…


それが、ヤクザだ…


だが、当然、出世するものというか、頭の良いヤクザは、皆、臆病だ…


臆病=慎重だ…


なぜなら、自分の実力が、よくわかっているからだ…


その上で、相手の実力もまた、わかっている…


だから、慎重になる…


臆病になる…


そこまで、考えて、気付いた…


もしかしたら、稲葉五郎は、高雄組組長を敵と見なしてないのかもしれない…


だが、


「…兄貴…兄貴…」


と、呼ぶほど、信頼もしていないのかもしれない…


本当に、信頼していれば、自分の息のかかった人間を、高雄組傘下のフロント企業に送り込む必要はない…


スパイを潜入させる必要はない…


スパイを潜入させるのは、当たり前だが、情報を取るためだ…


杉崎実業の内部事情を探るためだ…


私は、考える…


ということは?


ということは、どうだ?


稲葉五郎の目的は、なんだ?


 杉崎実業を監視することか?


 高雄組を監視することか?


 あるいは、今、杉崎実業は、中国への不正輸出がバレて、世間から叩かれている…


 その杉崎実業は、高雄組のフロント企業…


 これもまた、週刊誌等で、今、暴露された…


 当然、杉崎実業に未来はない…


 あるのは、倒産か廃業の二者択一…


 それしか、選択肢はない…


 そして、それは、高雄組にも大きく影響するだろう…


 なにしろ、高雄組が、実質、杉崎実業の親会社だからだ…


 杉崎実業が倒産すれば、莫大な金額を失うことになるに違いない…


 杉崎実業に投資した莫大な金額が回収不能になるに違いない…


 となると、もはや、高雄組組長に山田会の次期会長の座はない…


 それどころではないに違いない…


 下手をすれば、高雄組の存続そのものに黄信号が灯っているのかもしれない…


 高雄組は、経済ヤクザ…


 暴力ではなく、金が力の源泉…


 源(みなもと)だ…


 その源泉が、枯渇する…


 なくなる…


 金がなくなるのだ…


 すると、どうだ?


 松尾会のように、大勢で、敵が潰しにかかる…


 そんな事態に陥るかもしれない…


 私は、考える。


 いや、そこまでは、ならないのかもしれない…


 高雄組は、山田会傘下の組織…


 山田会の二次団体だからだ…


 一本独鈷(どっこ)の松尾会とは、違う…


 独立した松尾会とは、違う…


 だから、すぐに敵が潰しにくることはないのかもしれない…


 しかし、これが、高雄組の凋落に繋がることは、否定できない…


 高雄組の力が衰えることは、否定できない…


 と、ここまで、考えて、今、気付いたことがある…


 先日、私は、高雄組組長、松尾会会長、そして、大場小太郎代議士の4人で会った…


 そのうちの二人、松尾会会長と、高雄組組長は、今、大変な事態に陥っている…


 私と大場小太郎代議士は、関係ないが、残りの二人は今、大げさに言えば、危急存亡の秋(とき)というか…


 尻に火が点いているというか、大変な事態だ…


 だが、果たして、これは、偶然なのだろうか?


 偶然、あの場にいた二人が、今、追い込まれているのだろうか?


 私は、不思議だった…


 そして、もし、偶然でなかったら?


 私の頭の中は、その思いでいっぱいだった…



 果たして、これは、偶然なのか?


 それとも…


 それとも、誰かが絵を描いているのか?


 推理小説ではないが、あらかじめ、想定して、行動しているのか?


 疑問に思う…


 だが、少なくとも、あの場にいた4人のうち、松尾会長と、高雄組組長の力は、衰えた…


 すると、当たり前だが、誰が得をしたのか、考える。


 得をした者が絵を描いている…


 作戦を練っている…


 その可能性が高いからだ…


得をしたのは、稲葉五郎…


 稲葉五郎に決まっている…


 これで、堂々と、次期山田会会長の座に座ることができる…


 同じ山田会で、ライバルと目された高雄組組長の力は衰退…


 亡くなった山田会の古賀会長の兄弟分で、五分の盃を交わした松尾会会長、松尾聡(さとし)の力も、自作自演で、病院に逃げ隠れるほど、衰えた…


 つまりは、稲葉五郎にとって、目の上のたんこぶと言おうか、邪魔な人間、二人が、いなくなったことを意味する…


 高雄組組長は、稲葉五郎の兄貴分…


 松尾会長は、叔父…


 名目上は、稲葉五郎よりも立場が上…


 しかし、今回の騒動で、明らかに、稲葉五郎よりも立場が下になった…


 地位が逆転した…


 これで、なにがあっても、この先、稲葉五郎に意見することなど、できないだろう…


 いや、それ以前に、たしか、稲葉五郎は、


 「…兄貴は、山田会から追放の危機にある…」


 と、私に告げた…


 松尾会との騒動で、高雄組組長が下手を打ったからだ…


 うまく収めることができなかったからだ…


 それゆえ、山田会内部で、あらためて、高雄組組長が、ケンカ=抗争に弱いことが、わかったというか…


 頼りにならないことがわかった…


 それで、急速に、山田会内部で、人心が離れていった…


 だから、稲葉五郎は、


 「…兄貴は、山田会から追放の危機にある…」


 と、私に言ったのだ…


 そこへ追い打ちをかけるように、高雄組傘下の杉崎実業の一件だ…


 経済ヤクザである、高雄組の資金が枯渇することは、目に見えてる…


 金が力の源泉である高雄組から、金がなくなれば、山田会内部で、急速に力を失うだろう…


 もはや、その命運は風前の灯火だろう…


 すべて、稲葉五郎に有利になった…


 私は、今さらながら、その現実に気付いた…


 そして、また、もう一つの事実に、気付いた…


 松尾会長と、高雄組組長の繋がりだ…


 なぜ、松尾会長は、杉崎実業に、手を出そうとしたか?


 杉崎実業が、中国への不正輸出で、儲けているのは、わかっている…


 しかし、その杉崎実業は、高雄組の傘下…


 高雄組のフロント企業に他ならない…


 その杉崎実業に手を出すと言うことは、高雄組に、ちょっかいを出すことだ…


 抗争=ケンカを売ることだ…


 それが、わかっていて、松尾会長は、杉崎実業に手を出そうとするだろうか?


 普通は、ありえないだろう…


 手を出すとすれば、松尾会長の背後に誰かいるか?


 後ろ盾がいるか?


 あるいは、


 最初から、高雄組組長が承知していたか?


 の、どっちかだ…


そして、普通に考えれば、高雄組組長が、承知していた可能性が高い…


それゆえ、杉崎実業に、松尾会会長は、手を出そうとしたのではないか?


私は、その事実に、気付いた…


その可能性に、気付いた…


それならば、松尾会長が、杉崎実業に手を出そうとしていたのは、わかる…


あらかじめ、二人の間に、取り決めといおうか、密約といおうか…


そんなものが、あったに違いない…


だから、松尾会長は、杉崎実業に手を出そうとしたに違いない…


考えてみれば、さっき、稲葉五郎は、


「…兄貴は、山田会を追放の危機にある…」


と、言った…


これは、松尾会と山田会の抗争で、高雄組組長が下手を打ったから…


うまく、抗争を収められなかったからに、他ならない…


だから、高雄組組長は、あの後、松尾会長とうまくやろうとしたのではないか?


事実上、引退状態に近い、松尾会長と繋がることで、自らの汚名を、挽回しようとしたのではないか?


その交換条件というか、松尾会長とうまくやる代わりに、高雄組傘下の杉崎実業による、中国への不正輸出に一枚噛んで、儲けさせることを了承したのではないか?


そう思った…


しかし、誤算があった…


中国政府からの報復が、迅速だったこと…


手を出そうとした松尾会のヤクザが、まるで、見せしめのように、機関銃で、ハチの巣にされて、路上に、放置されたのだ…


誰が見ても、文字通り、見せしめだった…


杉崎実業に手を出せば、こんな目にあわせてやる…


その見本だった…


その報復を見た、松尾会長は、顔が蒼ざめ、慌てて、病院に逃げ込んだ…


あたかも、自分が、襲われたように、自作自演の銃撃を演出して、病院に逃げ込んだ…


だが、冷静に考えれば、最初から、松尾会会長は、一人で、決断したわけではなかったに違いない…


高雄組組長という、協力者がいたに違いない…


だから、杉崎実業に手を出した…


 しかし、その反撃が、あまりにも、迅速で、しかも、凄惨なものだったので、松尾会長は、ブルッた…


 みっともなくも、病院に逃げ込む醜態を演じた…


 それを見た、松尾会と敵対するヤクザは、松尾会会長の力が衰えたことを知り、松尾会を攻撃することに至った…


 そういうことだろう…


 要するに、松尾会会長の、目論見がはずれた…


 賭けがはずれた…


 それだけのことに、過ぎない…


 ただ、そこに松尾会と敵対するヤクザは、松尾会会長、松尾聡(さとし)の、衰えを見た…


 おそらく、以前の松尾聡(さとし)ならば、そんな下手を打たなかった…


 十分に、策を検討して、それから、動いたに違いない…


 仮に、自分の組員が、中国政府の工作員から、機関銃で、ハチの巣にされる醜態を演じても、松尾自身が、慌てて、病院に隠れるような真似はしなかったに違いない…


 それでは、コメディだ…


 威厳もなにも、あったものではない…


 全国のヤクザ者に舐められるのは、わかっている…


 もはや、松尾会長が、ヤクザ界で、生きることは不可能…


 それほどの醜態だった…


 それを世間に晒すことが、どういう結果を意味するのか?


 それが、わからないほど、松尾会長は老いた…


 判断力が衰えた…


 それを、全国の暴力団に知らしめたということだった…


 私は、考える。


 そして、また、さらに、もう一つの可能性について、考えた…


 あの大場小太郎代議士の存在だ…


 あの大場小太郎代議士は、この件について、一枚噛んでいるのだろうか?


 関係しているのだろうか?


 それが、謎だった…


 結果的に、あの日、私と大場代議士、松尾会長、高雄組長の4人で会ったが、松尾会長と高雄組長は、没落した…


 凋落した…


 もはや、復活は不可能だろう…


 以前のような力を取り戻すのは、不可能だろう…


 だとすれば、大場代議士は、それにまったく無関係なのだろうか?


 あの場にいた、大場小太郎代議士は、まったく無関係なのだろうか?


 どうしても、気になる…


 以前、高雄悠(ゆう)は、大場代議士は、父親が、国家公安委員長で、その関係で、ヤクザを監視するために、山田会の古賀会長と親しくしていたと、言った…


 高雄組組長や、松尾会会長も、古賀会長の縁で、知り合い、引き続き、監視している…


 そう思った…


 そして、今回、この二人が、凋落した…


 没落した…


 そのことに、大場代議士は、どう関わっているのだろうか?


 いや、


 そこまで、考えて、さらに思った…


 あの高雄…


 高雄悠(ゆう)は、大場代議士が、公安関係者だと知っている…


 そのソースというか、情報源は、一体誰か? 


 ということは、いったん、横に置いても、高雄の父である、高雄組組長は、大場代議士が、公安関係者だと知らなかったのだろうか?


 その疑問が残る…


 松尾会長や、稲葉五郎は、ともかく、高雄組組長は、血が繋がってないとはいえ、父子だ…


 育ての親だ…


 普通は、教えるだろう…


 あの二人は、感情に行き違いはあるが、憎み合っているようには、見えない…


 ということは、教えないか? 最初から、高雄組組長が知っていたかのどっちか?


 あるいは、高雄組組長から、大場代議士の素性を聞いていたかのどっちかだ…


 その場合は、情報源は、高雄組組長となる…


 また、そう考える方が、自然だ…


 なんといっても、血が繋がっていないとはいえ、父子だからだ…


 だが、私には、どうしても、そうは思えない…


 理由はない…


 ただ、どうしても、そうは、思えないのだ…


 以前も言ったが、これは、女の直感かもしれない…


 証拠もなにもないが、ただ、そう思うのだ…


 そして、さっきの話に戻るが、松尾会の組員が、中国からの工作員に機関銃で、ハチの巣にされた件…


 杉崎実業を事実上、牛耳る、高雄組組長は、松尾会が、加わることを、知らせなかったのだろうか?


 中国政府と合意があれば、松尾会が、あらたに加わっても、排除することはあり得ない…


 この場合の考えられる可能性は、二つ…


 高雄組組長の力が、杉崎実業で及ばないか?


 あるいは、


 最初から、高雄組組長が、松尾会を杉崎実業に引きずり込んだのは、罠で、中国政府の力を借りて、松尾会の組員を始末させたかった…


 この可能性も考えられる…


 とにかく、誰が敵で、誰が味方か、考えれば、考えるほど、わからなくなる…


 ただ、一つ、その中で言えるのは、あの稲葉五郎の一人勝ちと言うか、つまるところ、稲葉五郎が、得をした事実だった…


 杉崎実業は、高雄組のフロント企業だが、その杉崎実業が、仮に倒産しても、山田会は、痛くもかゆくもないだろう…


 高雄組は、山田会の二次団体だが、仮に、高雄組が解散しても、困ることは、ないに違いない…


 あくまで、杉崎実業は、高雄組に関係する会社であり、山田会とは、関係ないからだ…


 つまり、稲葉五郎にとって、杉崎実業が、潰れようが、どうしようが、なにも関係がない…


 痛手がない…


 困ることがないのだ…


 いわば、稲葉五郎のみが、勝ち残ったことになる…


 これは、果たして、偶然なのか?


 それとも、


 最初から、これが、稲葉五郎の目論見なのか?


 稲葉五郎が描いた絵なのか?


 稲葉五郎が、考えた作戦なのか?


 気になる…


 いや、


 気にならないはずはない…


 だが、


 私にとって、稲葉五郎は、恩人というか…


 いや、


 恩人ではないが、私を大切に思ってくれる、人間だった…


 年齢は、私の父親と、同世代だが、ある意味、父親以上に、私に優しかった…


 あんなコワモテの外観なのに、なぜだか、知らないが、ビックリするほど、私に優しかった…


 それが、そんな抜け目がないというか…


 最初から、高雄組組長を陥れるような真似をしたのだろうか?


 当たり前だが、どうしても、私には、そんなふうには、思えない…


 私に、異常なまでに、優しいから、私の感覚が、おかしくなっているのだろうか?


 誰もが、自分を好きな人間を、嫌いになることはできない…


 変な話、男と女の間で、下心丸出しで、


 「…オマエが好きだ…」


 と、言われれば、誰もが引く…


 好きになれない…


 ただ、稲葉五郎は、父子ほど、歳が離れているし、誰が、どう見ても、私に下心があるようには、見えない…


 あるのは、下心ではなく、愛情だ…


 父親のような優しい眼差しで、いつも、私を見ている…


 だからだろうか?


 仮に、稲葉五郎が、そんな策士であっても、どうしても、そうは思えない…


 いや、


 そうは、思いたくない…


 自分が好きな稲葉五郎が、そんな人間で、あって欲しくなかった…


 そんな策を弄する人間であって、欲しくなかった…


 それが、私の本心だった…


 私の願いだった…


 そして…


 ふと、気付いた…


 もし、


 もしも、だ…


 稲葉五郎の本性が、そんな策を弄する卑劣な人間だとしたら、私を、


 「…お嬢…お嬢…」


 と、持ち上げるのに、理由がある…


 いや、


 その理由は、今は亡き、古賀会長の血筋を引く者というのが、公の理由だ…


 それが、真実か否かは、ともかく、もしも、稲葉五郎が、そんな卑劣というか、計算高い人間ならば、稲葉五郎が、正式に山田会会長に就任するまでもなく、すでに、ライバルの高雄組組長が、会長レースで、脱落した時点で、私は、用済み…


 必要な存在ではなくなる…


 と、なれば、不要な存在になった以上、私に対する態度は、急変することになるではないか?


 私は、思った…


 稲葉五郎が、もし、そんな計算高い人間であれば、私に対する態度が、変わるのではないか?


 そんな事実について、気付いた…


 そんな可能性に、気付いた…


 私は、いつのまにか、稲葉五郎について、考えていた…


 自分の未来…


 杉崎実業への内定が、ほぼ白紙状態になって、自分の将来を真っ先に考えなければ、ならないにも、かかわらず、稲葉五郎のことを考えていた…


 まさか、恋?


 一瞬、思った…


 まさか、私は、稲葉五郎に、恋している?


 一瞬、考えた…


 いや、


 それは、ありえない…


 いくら、稲葉五郎のことを、考えようと、これは、恋ではない…


 稲葉五郎は、嫌いではない…


 稲葉五郎が、私を可愛がってくれるから、私も稲葉五郎を、嫌いではない…


 好きだ…


 しかし、これは、恋とは違う…


 例えば、親戚の叔父さんを好きと同じような好きだ…


 私は、自分自身に言い聞かせる…


 これは、恋ではないと、自分自身に言い聞かせる…


 なぜか、稲葉五郎の存在が、私の中で、急速に大きくなっていった…



 稲葉五郎…


 次期、山田会会長の大物ヤクザ…


 たしかに、カラダは大きく、ゴツイ顔をして、いかにも、強そう…


 俳優でいえば、遠藤憲一のよう…


 そして、対する、高雄組組長は、俳優でいえば、松重豊だ…


 共通点は、背が高いこと…


 どちらも、長身だ…


 ただ、高雄組組長は、松重豊…


 ヤクザにもなれるが、銀行員にもなれる…


 要するに、見るからに凶暴なヤクザにもなれるが、お堅い銀行員にも、なれる…


 その点、稲葉五郎は、遠藤憲一だから、ヤクザは演じられるが、お堅い銀行員は、無理…


 誰がどう見ても、お堅い銀行員には、見えない(笑)…


 ただ、何度も言うように、見えないだけだ…


 実際に、遠藤憲一が、東大を出てもいいし、エリート銀行員であってもいい…


 ただ、その場合は、外観で、損をするだろう…


 どうしても、見た目=外観は大事だ…


 ファースト・インプレッション=第一印象は、見た目で決まるからだ…


 高雄組組長は、昔、イケイケのヤクザだったと、高雄悠(ゆう)が、言ったことがある…


 いわゆる、ヤクザらしいヤクザ…


 稲葉五郎と同じ、昔ながらのゴツイヤクザだ…


 たしかに、高雄組組長は、松重豊のように、長身だから、それもできたかもしれない…


 カラダが大きいから、できたかもしれない…


 しかし、弟分に、稲葉五郎ができて、路線を変えた…


 高雄悠(ゆう)は、そう言った…


 稲葉五郎は、生粋のヤクザ…


 ヤクザが似合うヤクザだ…


 カラダが大きく、腕っぷしが強い…


 高雄の父は、稲葉五郎を見て、自分は、このままでは、稲葉五郎に勝てない…


 それを悟ったから、腕っぷしではなく、経済に舵を切った…


 ヤクザ=抗争ではなく、


 ヤクザ=金儲け


 といおうか、いわゆる、経済ヤクザとして、生きてきた…


 経済ヤクザに、路線を変えた…


 つまりは、腕っぷしでは、稲葉五郎に勝てないから、経済ヤクザとして、生きてゆこうとした…


 ちょうど、ボクシングでは勝てないから、数学で勝負しよう…


 将棋で勝負しよう…


 というのに、似ている…


 同じ分野で、競っても、自分に勝ち目がないから、分野を変える…


 至極、真っ当な判断だ…


 死んだ古賀会長は、その二人を車の両輪のように、使った…


 抗争は、稲葉五郎…


 金は、高雄組組長…


 そして、その二人の組み合わせは、うまくゆき、山田会を、日本で二番目に大きな暴力団にのし上げた…


 だが、古賀会長が死に、二人の間に亀裂が入った…


 誰が、次の山田会会長に就任するかで、争った…


 稲葉五郎に、付くのは、山田会でも、抗争=ケンカに強い一派…


 高雄組組長に付くのは、同じような経済ヤクザ…


 金儲けがうまいヤクザだ…


 元々、同じ山田会内部でも、水と油と言うか…


 一言で、言って、人種が違う…


 一言で言えば、体育会系か、文科系かの違いだ…


 体育会系=抗争=ケンカが強い…


 文科系=インテリ=金儲けがうまい…


 その違いだ…


 だから、元々、うまくいかない(笑)…


 そもそも、考え方が違う…


 が、それをうまく束ねるというか、まとめることで、山田会は、うまく機能した…


 それで、組織が大きくなった…


 そう、ネットに書いてあった(笑)…


 だが、それが、今、大きく軋(きし)んできた…


 いわゆる武闘派の稲葉五郎の一派が突出して、大きくなった…


 穏健派というか、金融派というか、経済ヤクザの、高雄組を中心とする一派は、高雄組組長の失速で、急速に、山田会内部で、力を失ってゆくというか…


 互いの勢力のバランスが崩れた…


 これは、一体、どういう結末を迎えることになるのだろうか?


 私は、ボンヤリと、そんなことを、考えた…


 誰もが、嫌いな人間の下に付くのは、嫌に決まっている…


 経済ヤクザが、押しなべて、武闘派の下に付くのは、納得できないだろう…


 もしかしたら、また、なにか、騒動があるかも?

 

 そんなことを、考えながら、夜も更けていった…


 翌朝、朝、目が覚めたときに、私の予感が的中したことを、悟った…


 稲葉五郎が襲われたのだ…


 いや、正確には、稲葉五郎の事務所…あの私が訪れたことのある、稲葉一家の事務所がテレビに映った…


 その稲葉一家の事務所の窓ガラスが、滅茶苦茶に割れていた…


 銃撃があったのだ…


 いわゆる、カチコミだった…


 映像が、ニュースで、流れていた…


 イマドキ、ヤクザの抗争は、珍しい…


 暴対法の時代になって、ヤクザの抗争は、めっきり減った…


 なにしろ、ヤクザは、一人殺せば、死刑か、終身刑か、30年ぐらいの懲役になる…


 普通に考えれば、人生は、終了…


 一生、刑務所で、過ごすことになる…


 そんな時代だから、このカチコミという行為をするヤクザも減った…


 下手をして、警察に摑まれば、そんな死者もけが人も、出ていない犯罪でも、刑務所に何年も入れられるかもしれないからだ…


 偶然かもしれないが、稲葉五郎の姿が、テレビに映った…


 稲葉五郎の顔は、緊張というより、憔悴しているように見えた…


 落胆しているように、見えた…


 当たり前だが、インタビューを試みた記者というか、レポーターの質問には、一切、答えなかった…


 無言だった…


 私は、当然ながら、稲葉五郎を知っている…


 だが、あんな稲葉五郎の姿を見るのは、初めてだった…


 私に見せる姿とは、全然違った…


 いつも、私に見せる姿は、笑顔だった…


 常に笑顔を絶やさなかった…


 まるで、溺愛する娘を見守る父親だった…


 それが、見たこともない仏頂面だった…


 自分の組事務所が、襲われたのだから、当たり前と言えば、当たり前だが、私には、なにか、予感というか…


 予兆というか…


 とにかく、なにか、不幸なことが始める予感に思えた…


 そして、それは、的中した…


 それは、中国政府の動向だった…


 中国政府が、杉崎実業の一件について、公式に報道した…


 いわゆる、中国のスポークスマンである、報道官が、杉崎実業の一件について、語った…


 「…日本で、杉崎実業という会社が、中国に不正に製品を輸出しているという事実があり、日本政府が、杉崎実業を調査しているという話がありますが、これをどう思いますか?…」


 恒例の記者会見で、記者に聞かれると、


 「…中国は、いつも平和を望んでいます…これは、戦争でも、中国は、先に核兵器を使うことは、絶対にしないと、世界各国に宣言しています…それと同じように、平和を願う国家として、中国は、ルールを守ります…他国が、中国に、その製品を輸出しないのは、その他国の戦略であり、中国は、それもまた良しとします…どんな国にも戦略があるからです…中国は、そのルールを破ってまで、他国と争うつもりは、ありません…繰り返しますが、それは、中国は、平和を愛する国家だからです…」


 と、報道官は、真顔で言った…


 思わず吹き出しかねない言葉だった…


 きっと、この報道官も内心苦しかったに違いない(笑)…


 完全にお芝居だった…


 あらかじめ、質問をする記者と打ち合わせた上での、想定内の質問だった…


 臭い、お芝居だった…


 ただ、日本ではなく、他国と言ったことで、必要以上にことを荒立てたくない真意が、あることを仄(ほの)めかした…


 それは、すぐに、日本政府にも、伝わった…


 要するに、杉崎実業の一件を、大げさに荒立てるなということだと、解釈した…


 それによって、当初、想定していたよりも、杉崎実業に対する、捜査は大甘になった…


 アメリカの手前もあり、当初は、杉崎実業を潰すつもりだった日本政府は、大甘捜査に、終始した…


 杉崎実業の中国への不正輸出について、不問に付すことは、さすがにできないが、当初、予定した、全業務停止や、密かに関係者に命じて、市場からの締め出しを意図していたが、それをしなかった…


 日中間で、ことを荒立てることをしないという暗黙の了解ができ上った…


 そして、それを主導したのは、あの大場小太郎代議士だった…


 あの大場小太郎代議士が、率先して、その問題にあたったと、ネットや、週刊誌に書いてあった…


 私は、それを見て、考えた…


 あの大場代議士の立ち位置を、だ…


 あの大場代議士の役割を、だ…


 つまるところ、大場代議士は、勝ち組…

 

 稲葉五郎同様、勝ち組だった…


 杉崎実業を巡る処置で、大場小太郎代議士は、国会で、その存在感を高めた…


 大場小太郎代議士は、元々、生まれもよく、背も高く、顔も良く、知的なインテリといった感じのルックスの持ち主で、次期総理総裁候補の筆頭に長らく挙げられていたが、正直、存在感が、薄かった…


 そして、それが、大場小太郎代議士の最大のウィークポイントだった…


 どんな美男美女といえども、存在感が薄い人間が、稀にいる…


 顔=ルックスがいいのだが、華がないのだ…


 だから、大勢の中で、目立たない…


 大場小太郎代議士は、まさに、それだった…


 背も高く、顔も良く、頭もいい…


 しかし、華がない…


 華=存在感がない…


 それゆえ、苦悩した…


 華がなければ、集団の中で、目立たないからだ…


 国会議員は、芸能人と似ている…


 共に、人気商売…


 芸能人は、客から指示されることが前提…


 客は、テレビでは、視聴率…


 歌手では、売り上げが人気のバロメーター…


 それに対して、国会議員は、知名度と、得票数だ…


 とにかく有名でなければ、ならない…


 しかしながら、大場小太郎は、家柄もよく、頭もよく、ルックスも良かったが、唯一、華がなかった…


 それゆえ、国会内では、ともかく、全国的な知名度は、イマイチだった…


 しかし、今回の杉崎実業に関する話題では、一転して、常に話題の中心にいた…


 元々は、自民党内で、大場派の領袖であり、立派な派閥の会長であり、政治的には、中心人物の一人だった…


 だから、当然、力はある…


 その大場小太郎は、杉崎実業を巡る一件で、ヤクザでいえば、男を上げた…


 知名度を上げた…


 これで、一気に全国区に成り上がった…


 これまで、全国的な知名度に苦しんでいた大場小太郎だったが、一気に挽回した…


 前回、稲葉五郎との関係が取り沙汰され、負のイメージがついた大場小太郎だったが、そんな一件は、今度のことで、キレイに吹き飛んだ…


 まるで、国会は、大場小太郎の独断場だった…


 メディアも大場小太郎の特集を組むほど、大場小太郎を持ち上げた…


 元々は、華がないとは、いえ、ルックスに問題はない…


 背が高く、顔も端正で、見るからに、知的なインテリ…


 それが、脚光を浴びたのだから、人気が出ないわけは、なかった…


 私は、ただ、唖然として、それを見ていた…


 自宅で、テレビやネット、外出先で、スマホで、見ていた…


 なにより、私の身近にいた人間が、テレビやネットで、報道される…


 以前も書いたが、それが、不思議だった…


 文字通り、不思議な感覚だった…


 そんな思いを抱きながら、私は、今日も、コンビニで、アルバイトに精を出していた…


 必死になって働くことで、収入を得ようともがいていたのだ…


 卒直に言って、杉崎実業の前途は、さっぱりわからなかった…


 中国政府に、本来輸出禁止の製品を輸出して、日本政府からペナルティを取られたものの、それは、当初想定されたペナルティから、比べると、はるかに、優しいものだった…


 厳しいものではなかった…


 それは、なにより、中国政府と日本政府との間の阿吽(あうん)の呼吸というか…


 騒動をこれ以上、大げさにしたくない意図があってのものだった…


 だから、表面上は、杉崎実業に大したペナルティはなかった…


 三か月の全面的な業務停止…


 それが、日本政府が下した、処分だった…


 つまりは、三か月は、休業するということだ…


 休むということだ…


 そして、私…


 私、竹下クミに、杉崎実業からは、なんの連絡もなかった…


 内定を辞退しろと、強制されることもなければ、なにもなかった…


 こちらが、困惑するほどだった…


 どうしていいか、わからないほどだった…


 会社の経営状態は、お世辞にも良いとは、思えない…


 しかし、日本政府は、暗黙の了解で、杉崎実業の存続を認める方針のようだった…


 本来、杉崎実業は、高雄組のフロント企業であり、それが、週刊誌等で、世間に報道された時点で、アウトというか…


 暴力団と繋がっていることが、わかった時点で、アウトだったはずだ…


 東京証券取引所からは、上場廃止の命令を受け、会社としての存続もほぼありえないはずだった…


 それが、内部調査の結果、暴力団に株を買い占められ、経営権を握られたにも、かかわらず、実質的には、暴力団に経営の指示を受けていないことが、政府に報告された…


 その報告で、杉崎実業は、存続を認められた…


 暴力団=高雄組が、持っている杉崎実業の株式を、政府系の金融機関が、いったん買い上げ、買い上げた、株式の金額を、高雄組に与えた…


 金額は、40億…


 つまりは、杉崎実業を実質的に、国有化したのだ…


 一民間企業としては、ありえない厚遇だった…


 かつて、山一證券や、ダイエーなど、なんらかの形で、政府が、倒産しないように、お金を出して、助けた企業はある…


 しかし、それは、大企業であり、仮に、倒産すれば、大勢の人間が、路頭に迷うことになる…


 失業者が、世間に溢れ、大げさにいえば、社会不安を起こしかねない…


 また、世界恐慌の引き金を起こしかねない…


 そんな、さまざまな危険を併せ持つことで、大企業は、優遇され、事実上、倒産したにもかかわらず、政府が、金を出して、助けた…


 しかし、杉崎実業は、違う…


 東証一部上場とはいえ、名もない、無名企業…


 にも、かかわらず、この扱いは、まさに破格だった…


 ありえない、厚遇だった…


 そして、それは、結果的に、高雄組をも、救った…


 なぜならば、高雄組が出資した金、40億円が、高雄組に返されたからだ…


 正直言って、高雄組が、買い取った株の総額は、もっと大きかったと、言われている…


 ただ、どれぐらい減額されたかは、わからないが、40億円は、手元に戻って来た…


 それは、経済ヤクザとして、手元に金はできたことになる…


 つまりは、規模が縮小したが、高雄組が生き残れる可能性ができたことを意味した…


 山田会の次期会長レースでは、稲葉五郎の圧勝だったが、高雄組は生き残ることは、できた…


 高雄組組長が、ヤクザとして、山田会で、生き残ることができるか、どうかはわからない…


 しかし、死ぬことは、なくなった…


 殺されることは、なくなった…


 そういうことだ…


 松尾会長のことは、わからない…


 しかし、勝負は、決着した…


 稲葉五郎と、大場小太郎は、勝ち、高雄組長と、松尾会長は、負けた…


 そう、見えた…


 この時点では…



 そんな中で、だった…


 「…高雄組の組長は、なんとかなったようだね…」


 アルバイト先のコンビニで、店長の葉山が、突然言った…


 私は、


 「…」


 と、無言で、葉山を見た…


 「…良かったよ…あの高雄組組長も、これで、引退しなくてすむ…いや、仮に引退しても、40億あれば、食いっぱぐれることもないだろう…ちょっと早いが、第二の人生を生きれると思えばいい…」


 葉山が続けた…


 私は、葉山の言葉に、


 「…」


 と、無言だった…


 たしかに、葉山の言葉はわかる…


 言いたいことは、わかる…


 週刊誌やネットで、見ても、同じような言葉は、溢れている…


 ただ、目の前の葉山に、そんなことを言われると、やはり、疑問が湧いた…


 これは、以前も書いたが、最初、葉山は、初めて、高雄組組長が、このコンビニにやって来たとき、


 「…あの人、堅気じゃないね…」


 と、言い、


 私が、


 「…どうして、そんなことがわかるんですか?…」


 と、聞くと、


 「…以前、ボクは、別の店に勤めていて、その近くに、ヤクザの事務所があって、彼らを見ているから、堅気か、その筋のひとかは、一目見れば、わかるんだよ…」


 と、私に説明した…


 そのときは、そんなものかと思っていたが、

先日、


 「…ああ…高雄組組長は、以前、この店にやって来た…」


 と、ハッキリと、高雄組組長の素性を知っていたことを告げた…


 正体を見抜いていたことを告げた…


 私は、驚いた…


 高雄組組長は、大物ヤクザ…


 ネットを見れば、その顔を見ることができる…


 しかし、


 しかし、だ…


 現実に、目の前に現れて、それが、高雄組組長と見抜くことができるだろうか?


 初めて会う人間だ…


 それが、例えば、テレビでよく見る芸能人や、政治家ならば、わかる…


 誰もがテレビで見ているからだ…


 それが、突然、目の前に現れたとしても、わかる可能性は高い…


 しかし、高雄組組長は、一般人…


 その筋では、有名人かもしれないが、それは、その筋の関係者しか、知らないはずだ…


 わからないはずだ…


 と、なると、もしかして、葉山は、高雄組組長と、以前から、面識がある?


 あるいは、面識はなくても、一方的に、高雄組組長を知っていた可能性がある…


 ちょうど、我々一般人が、例えば、広瀬すずを知ってるように、知っていた可能性がある…


 私は、その事実に気付いた…


 ようやく、気付いた…


 つまり、葉山は、最初から、高雄組組長に近い存在だった可能性が高い…


 が、


 近い存在といっても、どんな存在なのか、わからない…


 高雄組組長の敵かもしれないし、味方かもしれない…


 いずれにしろ、ただのコンビニの雇われ店長ではない…


 私は、あらためて、葉山の正体について、考えた…


 考え続けた…


 結局、杉崎実業からは、いくら、待てども、連絡はなかった…


 私は焦った…


 杉崎実業は、おそらく倒産しないだろう…


 なんといっても、日本政府は、中国政府の手前、杉崎実業を潰すことができない…


 それに、なにより、一時的にしろ、国有化することで、杉崎実業は、国家の庇護の元に置かれるということだ…


 これは、ある意味、公務員と同じ…


 と、なると、公務員が失業するわけがない…


 倒産するわけはない…


 いや、


 失業はあるかもしれない…


 杉崎実業は、存続するだろうが、同時に、経営環境は、悪化するだろう…


 なにしろ、隠密裏に、中国への不正輸出で、稼ごうとしていたぐらいだ…


 元々、経営状態にも、不安があったはずだ…


 だから、中国への不正輸出で、儲けようとしたのだろう…


 人事部長の人見が、中国政府のスパイとして、社員の個人情報を、中国政府に売り、それを元に、杉崎実業の経営陣に、食い込んだ…


 当たり前だが、人事部長に過ぎない人見に、中国への不正輸出をする権限など、ない…


 不正輸出をするには、経営陣の了解を取ることが、必要だ…


 実際、逮捕されたのは、人見だけでなく、経営陣も、だった…


 末端の、実際に、その業務に関わった人間もだが、それも、ある意味、芋づる式で、逮捕された…


 そして、その中には、なんと、あの藤原綾乃の名前もあった…


 これは、驚きだった…


 藤原綾乃は、純粋に、中国のスパイだった…


 っていうか、純粋な中国人だった…


 考えてみれば、思い当たることもある…


 藤原綾乃は、背が高く、ナイスバディの美人で、しかも、色気がムンムンだった…


 パンツが見えそうな短いスカートを穿き、しかも、それが似合った…


 ただ、今、振り返って見れば、日本人で、あれほど、色気がある女はいない(笑)…


 存在自体が、大げさに言えば、色気の塊(かたまり)なのだ…


 要するに、日本人離れした、色気の持ち主だった…


 だから、人見は、なんのことはない、部下の藤原綾乃に監視されていたわけだ…


 これは、後に、もっとも、驚いたことの、一つだった…


 考えてみれば、人見を中国政府がスパイにする上で、身近に、人見を監視する人間が、必要になる…


 そして、それは、同じ職場に限る…


 なぜなら、通常は、男は、一日の大半を職場で、過ごす…


 ならば、そこで、監視するのが、一番だからだ…


 しかし、藤原綾乃は、純粋な中国のスパイではなかった…


 これも、後で知ったことだが、彼女は、日本に留学して、その後、中国のスパイになった…


 つまりは、最初から、中国のスパイではなかった…


 むしろ、スパイになったのは、30歳を過ぎてから…


 歳を取り、若さがだいぶなくなったことで、焦った藤原綾乃に、中国の工作員が接触した結果だった…


 私は、その記事を見て、不謹慎ながら、思わず、吹き出した…


 なぜなら、以前、杉崎実業の内定で、藤原綾乃が、講師として、やって来たとき、


 「…女の勝負時というのは、若さが失ったとき…まだ二十代のときは、若さがあるから、周囲の男たちがチヤホヤする…問題なのは、その後…若さを失ったとき、どうするか?…」


 私たち5人は、あのときの藤原綾乃の言葉に絶句した…


 その通りだったからだ…


 男のひとには、わからないかもしれないが、女はある程度の年齢になると、異常なまでに、年齢を気にするというか、こだわる…


 これは、男のひとには、わからないが、女にとって、年齢は、なによりも武器…


 若さというのが、武器だと、先天的に悟っているからに他ならない…


 生まれたときから、悟っているからに他ならない…


 たぶん、DNAレベルで、悟っていると言うか…


 DNAに刻み込まれていると言ってもいい…


 生まれたときから、なんとなく、わかっていると言っていい…


 そして、これは、男もオジサンになるとわかる(笑)…


 単純に、会社やスーパーで、若い女のコを見ると、若いなと、思うようになる…


 例えば、40歳の男が、30歳の女と20歳の女のどちらかを選べと言われれば、ルックスが大差ない場合は、誰もが、若い方を選ぶ…


 これは、女同様、歳を取ると、自分の若さがなくなったことを実感して、その分、パートナーに若さを求めることになるからだ…


 そして、女は、そんな男の欲求を、無意識に若いときから、感じているのに対し、男は、例えば、35歳とか、40歳とか、女に比べて、歳を取ってから、感じるようになる…


 その違いだ…


 話は、だいぶ逸れたが、つまり、なにを言いたいかといえば、あの藤原綾乃が、


 「…女は歳をとったとき…若さが失ったときが、勝負…」


 と、私たちに、断言したが、なんのことはない、藤原綾乃が歳を取って、若さを失いかけて、選んだ道が、


 …中国のスパイになる…


 ことだったわけだ(笑)…


 思わず、爆笑だった…


 他に、なにか、道がなかったのか、突っ込みたくなる(笑)…


 だが、本人にとっては、切実な問題だったに違いない…


 藤原綾乃は美人…


 背が高く、モデルのような長身で、スタイルが良いだけでなく、どことなくエキゾチックというか、色気が全身から溢れている…


 しかし、彼女も、すでに30代前半…


 いつまで、その美貌を売りにできるか、わからない…


 事実、一般的に言って、女は、35歳ぐらいを境にして、急激に老けるというか、おばさんになってゆく…


 普通のルックスの持ち主でも、この事態を恐れるのに、美人の恐怖は、普通のひとの比ではない…


 具体的には、職場で、周囲の男からチヤホヤされてきた美人が、いつのまにか、周囲からチヤホヤされなくなり、男からの誘いもめっきり減る…


 代わりに、自分より、はるかに年下の女のコがチヤホヤされるようになる…


 これは、当たり前なのだが、本人が、その状況を受け入れるようになるまでに、莫大な時間がかかる(笑)…


 自分のルックスが衰えた現実を受け入れるのに、莫大な時間がかかるのだ(笑)…


 藤原綾乃は、手っ取り早く、中国のスパイになる道を選んだ…


 ただ、これも、彼女にとって、過程というか、あくまで、通り道に過ぎない…


 なにを言いたいかと言えば、最終目的地ではないということだ…


 中国のスパイになることができたのも、まだ藤原綾乃に、美貌が残っているから…


 その美貌を生かして、杉崎実業に入社して、社内の男から、大げさに言えば、色仕掛けで、情報を掴んで来いと言うことになる…


 セックスをしろとは言わないが、藤原綾乃のムンムンな色気を前にして、頼まれれば、男なら、断ることは難しい(笑)…


 要するに、彼女の美貌を、中国政府は、買ったわけだ…


 つまりは、美貌が衰えれば、用なしになる…


 そして、それを、藤原綾乃は、誰よりも、実感していた…


 自分が、ただの中国政府のコマのひとつに過ぎないことを自覚していたわけだ…


 それゆえ、彼女は、ただの中国政府のスパイではなかった…


 いわゆる、本業が、中国のスパイで、それゆえ、杉崎実業に入社したにもかかわらず、副業に励んだ…


 副業=つまり、自分個人で、杉崎実業の置かれた環境を考え、それを元に、金を稼ごうとした…


 それが、如実にわかったのが、稲葉五郎が、杉崎実業にやって来たときだ…


 高雄組傘下の杉崎実業に、対立する稲葉五郎が、やって来ては、動揺するというか、混乱を招きかねない…


 だから、稲葉五郎に近付くなと警告した…


 しかし、普通に考えれば、なぜ、彼女がそんな警告をするのか、わからない…


 むしろ、杉崎実業に勤務する以上、彼女は、高雄組寄りのはずだ…


 だが、彼女にとって、高雄組も稲葉一家も関係がなかった…


 はっきり言えば、中国政府も関係がなかった…


 では、なにが、関係あるかといえば、単にお金だった…


 彼女は、高雄組に対立する稲葉一家に密かに連絡を取り、情報を流していた…


 そして、その対価として、金を得ていた…


 つまり、藤原綾乃の素顔は、したたかな中国人に他ならなった…


 ルパン三世でいえば、峰不二子のような存在だと思えばいい…


 敵か、味方か、さっぱりわからない…


 彼女の行動原理といえば、自分が得をするか、儲かるかどうか、それが、すべてだからだ…


 しかし、だからといって、彼女を責めることはできない…


 中国の人口は、14億人…


 人口が、1億人の日本人からすれば、信じられないくらいの競争社会だ…


 日本とは、競争のレベルが違う…


 わかりやすいのは、中国人が、海に海水浴に行った写真を見れば、わかる…


 まるで、芋を洗うように、ひとが込み合っている…


 日本で言えば、満員電車の中にいるようだ…


 それが、中国の海水浴場だ…


 その中で、競争するのだ…


 日本とは、競争のレベルが桁違いに激しいことが、実感できる…


 だから、おのずと、自分自身のことを考える…


 誰も当てにしない、人格が出来上がる…


 国家も、政府も、友人、知人も、心の底から、信頼しない…


 すべてが、自分の競争相手だからだ…


 藤原綾乃にとって、中国政府のスパイになることも、稲葉一家に情報を流すことも同じ…


 単純に報酬が得られるから、情報を流したに過ぎなかった…


 その意味で、彼女は、独立したキャリア・ウーマンというべきだろう…


なにより自分の価値が、客観的にわかっている…理解している女性だった…


 そして、藤原綾乃という名前も本名ではなかった…


 本名は、中国名で、別にあった…


 藤原綾乃という名前は、杉崎実業に入社するために、中国政府が用意した偽名に過ぎなかった…


 名前の由来は、単純で、女優の藤原紀香に、彼女が似ていたからだ…


 同じように、長身で、スタイルが良く、色っぽい…


 だから、それに似せた偽名を考え付いたに過ぎなかった…


 そして、彼女は、その偽名を気に入った…


 日本で、誰もが知る、セクシー女優に似せた偽名を気に入った…


 事実、藤原綾乃と藤原紀香は、似ていた…


 長身で、セクシー、そして、美人と三拍子揃っていた…


 女なら、誰もが、あんな美貌に生まれたいと、一度は、夢見る女性だった…


 しかし、現実には、藤原綾乃の人生は平坦なものではなかった…


 中国政府のスパイになり、杉崎実業に入社しても、敵方である、稲葉五郎に、情報を流す…


 これは、誰が見ても、裏切り以外の何物でもないのだが、それをするのは、藤原綾乃の人生が、過酷ゆえだった…


 そして、過酷ゆえに、他人を信用しない…


 お金を信用する…


 そして、なにより、自分の武器を知る…


 その武器が、あの美貌だった…


 あの美貌という武器も、いずれ、近い将来、賞味期限を迎える…


 それを、十分にわかっているからこそ、今のうちに、その美貌を武器に、稼いで、おこうということになる…


 そして、彼女は、それを実践した…


 彼女は、杉崎実業、そして、親会社の高雄総業、そして、高雄総業=高雄組のライバルである、稲葉一家と、接触するうちに、さまざまな人間と知り合うことになった…


 その過程で、彼女は、高雄組、そして、稲葉一家の秘密を知ることになった…


                <続く>


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