最終夜 月は君をみていた
あの日から、二度目の冬が来ていた。
マフラーに顔を埋め、俺は予備校からの帰り道を急いでいた。
吐く息は白く、マフラーの隙間から入り込む北風が、高校の指定のPコートを通り抜けて肌を刺す。
あの中学の卒業式の日以来、俺は香織たちと意図的に連絡を絶った。
同じ高校に進学した者は誰もいない。
双葉は親元を離れて全寮制の学校へ行き、雄二も奈央も、それぞれ別の道へ進んだ。
過去の傷を共有した仲間という「安全なシェルター」から物理的に離れ、完全にゼロから人間関係を築き直すこと。
それが、俺たちが自分の足で立つために選んだ最初の試練だった。
俺は今、医学部への進学を目指して猛勉強を続けている。我が家の家計を考えれば、国立山梨大学医学部以外には選択肢はない。
狭き門だろうが、俺を突き動かしているのは、サッカーという未来を失った後、俺の心の中にポッカリと空いた大きな穴を埋めようという渇望だった。
そう。
灼熱の車内で失われた「首藤 要」という幼い命の重さが、俺に立ち止まることを許さなかった。
もう二度と、自分の無力さや嘘で命を落とす人間を出さない。
奪ってしまった命を蘇らせることはできなくても、これから失われようとする命を繋ぎ止めることはできるかもしれない。
それが、俺が一生をかけて支払っていくべき「代償」の形だと思ったからだ。
ふと、足元の歩道に落ちる影が長くなった。
顔を上げると、見覚えのある交差点に差し掛かっていた。
富士坂三丁目のスクランブル交差点。
中学二年の冬、俺たちが狂気に満ちた首藤とすれ違い、絶望のどん底へと叩き落とされた因縁の場所だ。
横断歩道の前に立つと、赤信号が俺の行く手を遮った。
(……あの日も、こんな底冷えのする夜だったな)
ポケットの中で悴んだ手を握りしめながら、ぼんやりと交差点の対岸を見つめる。
行き交う車のヘッドライトが流れていく奥、横断歩道の向こう側に、一人の人影が立っていた。
別の高校の、見慣れないキャメル色のダッフルコートを着た女子生徒。
首元にはチェック柄のマフラーを巻き、背筋をピンと伸ばして静かに前を見据えている。
その横顔を見た瞬間、俺の心臓がドクン、と大きく跳ねた。
香織だった。
コミュ障を装い、いつも他人の視線を避けていた中学生の面影は、そこにはない。
凛とした佇まい。
街灯に照らされたその横顔には、自分の力で冷たい現実を歩き抜いてきた者だけが持つ、静かな強さと美しさが宿っていた。
俺の視線に気づいたかのように、対岸の香織がゆっくりとこちらに顔を向けた。
目が合った。
香織の瞳がわずかに見開かれ、そして、凍りついた空気を溶かすような、ひどく穏やかで柔らかい笑顔が浮かんだ。
『ピヨピヨ、ピヨピヨ』
歩行者用信号が青に変わり、電子音が冬の夜空に響いた。
俺たちは示し合わせたかのように、同時に歩き出した。
白い息を交差させながら、スクランブル交差点の真ん中へと向かっていく。
かつてはトラウマの象徴だったこのアスファルトの上が、今は不思議なほど温かく感じられた。
交差点の中央で、俺たちは立ち止まった。
「……久しぶりだな」
俺が声をかけると、香織は「うん」と小さく頷いた。
「偶然だな。こんなところで会うなんて」
「偶然じゃないよ」
香織は悪戯っぽく笑い、真っ直ぐに俺の目を見た。
「晴矢がこの予備校に通ってるって、雄二くんから聞いたの。だから……一人で立てるようになったら、ここで晴矢を待とうって、ずっと決めてた」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
彼女もまた、このトラウマの場所を「新しいスタート地点」に塗り替えるために、あえてここを選んだのだ。
「……アタシたち、もう大丈夫だね」
香織の声には、かつてのような震えも、依存の響きもなかった。
「あの夜の傷を隠すための共犯者は、もうどこにもいない。……ちゃんと、一人でここまで歩いてこられたよ」
「ああ。俺も、自分の足でここまで来た」
俺は深く頷き、交差点の真ん中で、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
もう、誰かを守らなければいけないという強迫観念もない。
誰かの傷を舐めて、自分の弱さを正当化する必要もない。
「誰の代わりでもなく、俺はお前と一緒にいたい」
俺は、ごまかしのない本音だけを口にした。
「一人の人間として、俺は香織が好きだ」
香織の大きな瞳がわずかに揺れ、やがて、春の陽だまりのような優しい笑顔が咲いた。
「私も……晴矢の隣を歩きたい」
点滅を始めた信号機に背を押されるように、俺たちは肩を並べて交差点を渡り切った。
もう二度と、怯えながら手を繋ぐことはない。俺たちは、未来を共に生きるために、自分の足で並んで歩き始めたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふと見上げると、冬の澄み切った夜空に、ひどく冷たく、そして美しい満月が浮かんでいた。
その光は、この街だけを照らしているわけではなかった。
親元を離れた全寮制の部屋で、机に向かい黙々とペンを走らせる双葉の背中を。
遠く離れた新しい街で、新しい友達に囲まれて笑う麻里奈の横顔を。
通信制高校で勉強をしながら、実家の酒屋で汗を流して働く雄二と、スケッチブックに月を描き留める奈央の姿を。
そして。
この街を遠く離れる夜行列車の窓際で、過ぎ去る景色を見つめる少女を。
父の罪を知り、すべてを失ったヒナは、復讐心から解放された静寂の中で、一人静かにあの月を見上げていた。
五年前の林間学校の夜、上弦の月が森の中の俺たちを見ていた。
どんな暗闇の中にあっても、決して誤魔化すことのできない「真実の眼」。
罪を隠し、嘘をつき続けた俺たちを、月はずっと見ていたのだ。
真実は暴かれ、報いを受けた。
取り戻せない命の重さを背負いながら、それでも俺たちは、それぞれの道を生きていく。
高く昇った満月が、バラバラになった俺たちの孤独で力強い未来を、どこまでも平等に照らし出していた。
(了)




