第四十四夜 傷跡と自立
事件の波紋は、俺たちの周囲の環境を劇的に変えた。
麻里奈の家庭環境――ネグレクトと、出入りしていた男たちによる虐待の痕跡――が警察を通じて児童相談所に通報され、行政が介入することになった。
麻里奈は母親から引き離され、遠く離れた県に住む親戚の家へ引き取られることが決まった。
当初は児童養護施設への入所が検討されたが、麻里奈を不憫に思った母方の年の離れた従姉妹、倉科小百合の夫婦が子供がいなく、幼い頃の麻里奈とよく遊んだ経験があることで決まった。
それが、彼女にとって一番安全で、真っ当な未来へ繋がる道だった。
少なくとも麻里奈の母の元にいるよりは……麻里奈の母親は、小百合に麻里奈と引き換えに金品を要求したという。
彼女がこの街を発つ日。駅のホームには、俺と、そして双葉の姿があった。
俺はあえて数歩後ろに下がり、二人のための時間を作った。
「見送りなんて、来なくてよかったのに」
小さなキャリーケースの持ち手を握りながら、麻里奈が照れ隠しのように笑った。
「……来るに決まってるだろ」
双葉はうつむいたまま、ぽつりとこぼした。
彼の顔からは、かつての「市議の息子」という傲慢なメッキは完全に剥がれ落ちていた。
ただの、不器用で、自分の無力さを知った十四歳の少年の顔だった。
「あのさ、双葉」
麻里奈は一歩だけ双葉に近づき、その顔を覗き込んだ。
「助けに来てくれて、ありがとう。全部捨てて来てくれたこと、一生忘れないから」
「……遅かった。俺がもっと早く、親父の顔色なんか窺わずに言っていれば、お前はあんな怖い目に遭わずに済んだ」
「ううん。双葉が来てくれたから、私、大人の言い訳に負けないで戦えたんだよ」
発車ベルが鳴り響いた。
麻里奈は双葉からスッと体を離し、真っ直ぐに彼の目を見た。
「じゃあね。双葉も、自分の足でしっかり立ってね」
それは、依存からの脱却だった。
双葉に守られるだけの弱かった少女は、もうここにはいない。
ドアが閉まり、列車がゆっくりと滑り出す。双葉は追いかけることも、気の利いた言葉を投げることもしなかった。
ただ、遠ざかる車両を、見えなくなるまで静かに、そして誇り高く見送っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
麻里奈を見送った数日後の放課後。
誰もいない校舎の廊下を歩いていた俺の耳に、微かにピアノの音が届いた。
音楽室から驚くほど力強く、透き通った旋律が響いていた。
俺は吸い寄せられるように階段を上がり、少しだけ開いていた音楽室のドアの隙間から中を覗き込んだ。
夕日が差し込む窓際で、香織がピアノを弾いていた。
誰かに強要されたような強張った背中ではない。
鍵盤の上を滑る指先は自由で、彼女自身がその音色を心から楽しんでいるのが分かった。
ひとみ先生の呪縛も、沢崎の歪んだ執着も、もう彼女を縛り付けてはいない。
自らの声で罪を告白したことで、香織は過去という暗いトンネルを抜け出し、光の下へと歩み出たのだ。
ふと、ピアノの音が止んだ。
「……入ってくればいいじゃない」
鍵盤から手を離さず、香織が背中越しの俺に向かって言った。
「邪魔して悪い。すごいな、また弾けるようになったんだな」
俺は気まずさを誤魔化しながら、音楽室の中へと足を踏み入れた。
香織がゆっくりと振り返る。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。いつもの「コミュ障」の仮面でも、俺にすがりつくような怯えた表情でもない。
そこには、俺が今まで一度も見たことのない、憑き物が落ちたような、綺麗で柔らかい笑顔があった。
「アタシ、やっと自分のために弾けるようになったよ」
香織は静かにそう言って、ピアノの蓋をパタンと閉じた。
「……晴矢」
名前を呼ばれ、俺の肩がわずかに跳ねた。
香織は立ち上がり、俺の目の前まで歩み寄ってくると、逃げることなく真っ直ぐに俺の目を見上げた。
「晴矢のこと、好きだよ。……ずっと前から」
不意の告白に、俺の心臓が大きく高鳴った。
俺もだ。
俺も、お前を守りたいと思っていた。
俺がお前を救ってやるんだと、そう思っていた。その言葉を喉まで出しかけた時、香織は小さく首を横に振った。
「でもね。今の私たちが一緒にいたら、きっとずっと『あの夜の傷』を慰め合うだけの関係になっちゃう」
「香織……」
「お互いの傷を舐め合って、過去を理由にして寄りかかるのは、もう嫌なの」
その言葉は、俺の胸の奥にあった「彼女を守らなければ」という、歪んだ依存心と優越感を正確に射抜いていた。
俺たちは、共犯者として傷を共有していただけだ。
それが愛だと錯覚して、互いの弱さに寄りかかって安心しようとしていただけだったのだ。
「だから今は、一人で歩く」
香織は、夕日を背にして凛とした声で言った。
「晴矢も、自分の足で立って」
それは拒絶ではなく、俺たちがお互いを対等な一人の人間として選び直すための、愛の告白とセットになった「自立の宣言」だった。
俺は、強く、美しく成長した彼女の姿を前にして、自分がひどく幼い子供のように感じられた。同時に、彼女が示してくれたこの先の道標が、とてつもなく眩しく見えた。
「……分かった」
俺は真っ直ぐに香織の目を見返し、深く頷いた。
「俺も、一人で立つ。過去の言い訳は、もうしない」
香織は、満足そうにふわりと微笑んだ。
俺たちはもう、傷を舐め合うための共犯者ではない。
夕日に染まる音楽室で、俺たちは互いの背中を押し合うようにして、三年間囚われ続けていた「過去」に、本当の意味での別れを告げたのだった。




