第四十一夜 魂の反逆
底冷えのするコンクリートの感触と、鼻を突く埃と鉄サビの匂いで、麻里奈は意識を取り戻した。
視界は薄暗く、外の雪明かりがトタン屋根の隙間からわずかに差し込んでいるだけだ。
手首と足首を荷造り用のビニール紐で乱暴に縛られ、身動きが取れない。
双葉の家から雪の積もる坂道へと飛び出した直後、背後から突然口を塞がれ、無理やり車の後部座席に押し込まれた。
恐怖で声も出ないまま、どれくらい車に揺られただろうか。
ここは、どこかの廃工場か、使われなくなった倉庫のようだった。
「クソッ……クソッ! あいつらのせいで……あいつらさえいなければ……!」
数メートル先の薄闇の中で、カーキ色のミリタリージャケットを着た男が、獣のようにうなり声を上げながらウロウロと歩き回っている。
三年前の林間学校の日、相楽橋の下で奈央を攫おうとしたあの男だ。
「俺は被害者だ……! あいつらが俺を川に落としたから、要は死んだんだ! 俺は何も悪くないのに……どうして俺だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
男——首藤は、自分の頭をかきむしりながら、呪詛のように同じ言葉を繰り返し吐き出し続けている。
その言葉を聞いた瞬間、麻里奈の胸の奥で、恐怖よりも先にどす黒い嫌悪感が膨れ上がった。
(カナメ……?)
誰のことかは分からない。だが、首藤が「自分の不幸をすべて他人のせいにして喚き散らしている」ことだけははっきりと理解できた。
三年前のあの日、麻里奈は階段にへたり込み、ただ泣いて震えていることしかできなかった。
家に帰れば、酒の匂いをさせながら自分を厄介払いする母親がいた。
母親が連れ込む見知らぬ男たちから暴力を振るわれそうになった時も、麻里奈は無力な子供として、ただ耐えるしかなかった。
大人はいつもそうだ。
自分の弱さや身勝手さを棚に上げて、都合が悪くなると子供に八つ当たりをし、すべてを周りのせいにして被害者ぶる。
「おい、ガキ!」
首藤が血走った目で麻里奈を睨みつけ、ドカドカと足音を立てて歩み寄ってきた。
そして、麻里奈の胸ぐらを掴み、乱暴に上体を持ち上げた。
「お前もあの時、あそこにいたよな!? お前らが俺の人生を壊したんだ! お前らが要を殺したんだぞ!」
首藤の口から、腐ったような饐えた息が吐き出される。
だが、麻里奈はもう、目を背けなかった。
三年前の弱くて無力な『関麻里奈』は、もうどこにもいなかった。
「……ふざけないでよ」
「あぁ!?」
「自分の身勝手な欲望のせいでしょ……!」
麻里奈は、首藤の狂気を含んだ目を真っ向から見据え、腹の底から声を絞り出した。
「アンタが奈央を襲おうとしたから、香織がバットを振った! アンタが川に落ちたのは、アンタ自身が最低な犯罪を犯そうとした自業自得じゃない!」
「黙れッ! 俺はただちょっとからかおうとしただけで……!」
「『カナメ』って子が誰かは知らない。でも、アンタが帰ってこなかったせいでその子が死んだなら、殺したのは私たちじゃない!」
麻里奈の目に、怒りの涙が滲む。
それは首藤に対する怒りであり、同時に、自分から父親を奪い、ネグレクトを繰り返してきた母親たちへの、長年溜め込んできた魂の反発だった。
「自分の子供を守れなかった自分の弱さを、私たち子供のせいにして逃げるな!!」
麻里奈の絶叫が、廃倉庫の冷たい空気をビリビリと震わせた。
「被害者ぶってんじゃないわよ! アンタみたいな、自分の責任から逃げて言い訳ばっかりしてる最低な大人がいるから……子供が苦しむのよ!」
図星を突かれた首藤の顔が、怒りと羞恥で真っ赤に染まり、醜く歪んだ。
「この……クソガキがぁっ!!」
首藤が麻里奈を床に叩きつけ、大きな拳を高く振り上げた。
麻里奈は目を閉じなかった。
暴力に屈して心を殺すのは、もう二度とごめんだ。
その時だった。
ウゥゥゥゥーーッ、というけたたましいサイレンの音が、廃倉庫の外から鳴り響いてきた。
一つじゃない。二つ、三つと、複数のサイレンの音が急速に近づき、キーッという鋭いタイヤの摩擦音とともに倉庫のすぐ外で停まった。
倉庫の薄汚れた窓ガラス越しに、赤色灯の強烈な光がグルグルと回転し、室内の闇を切り裂く。
「な、なんだ……!? 警察……どうしてここが……!?」
首藤は振り上げていた拳を下ろし、狼狽したように後ずさりした。
「……ザマアミロだわ」
麻里奈は冷たいコンクリートの床に倒れ込んだまま、口角を上げて笑った。
「アンタの逃げ場所なんて、もうどこにもないわ」




