第二夜 月は見ている
俺たち四人は、富士坂三丁目の交差点に差し掛かった。ここが二つ目の分岐点だ。
富士坂三丁目は、この街の中心街である。地元のデパート『木下屋』を中心に、東側にはブティックやカフェが立ち並び、西側には歓楽街が広がっている。
歓楽街の外れには、俺たちのような中学生でも気軽に出入りできるファストフード店がいくつかあり、下校途中に密かに立ち寄って買い食いをしたりする。
たまに見回りの生活指導の教師に見つかって親を呼び出される奴もいるため、誰が名付けたか、福岡の歓楽街にあやかって『親不孝通り』なんて呼ばれていた。
ここで、麻里奈と双葉とは別々の道になる。
「じゃあ、後でグラウンドでな。ちゃんと来いよ?」
「わーったって。じゃあな、双葉」
「香織、禎元先生に変なことされないように気をつけてね!」
「麻里奈、お前なぁ!」
「心配しなくて大丈夫よ、麻里奈。晴矢に本物のお医者さんになれるような頭脳はないから」
「おい、否定するのそこかよ!」
香織の容赦ない切り返しに、俺は苦笑いするしかなかった。
麻里奈と双葉の家は、この交差点から自転車で二、三分ほどの住宅街にある。
俺と香織の家は、方向こそ違うが同じくらいの時間で着く距離だった。
二人きりになると、俺たちの間には決まって重苦しい沈黙が落ち、やがてどうしても『あのこと』が話題にのぼる。
「……もう、三年経つんだね」
自転車を押しながら、香織がぽつりと呟いた。
「ああ」
「アタシ、たまに夢に見るよ」
「俺もだ」
「私は……正直、まだ全然立ち直れてない。麻里奈も奈央も、あれから立ち直って普通に笑ってて、凄いと思う。私には……無理だったわ」
「確かにな。でも、俺たちは忘れなきゃいけないんだ。俺たちの未来のためには、何もなかったと思い込むしかない」
「あの事を、そんな簡単に忘れられるわけないじゃない! だって、私……あんな事までして!」
香織の声が震え、自転車のブレーキを強く握りしめた。彼女の脳裏に、金属バットを振り下ろしたあの夜の生々しい感触が蘇っているのが分かった。
「香織! あれは不可抗力だ! 俺たちを守るためだったんだから」
俺は言い聞かせるように、少しだけ声を荒らげた。
「忘れられないなら、心の奥底に鍵をかけて沈めるんだ。このまま一生、お前一人だけがあの夜の罪悪感を背負って生きていく必要なんてないんだぜ?」
「……晴矢は、心が痛くならないの? 締め付けられるように苦しくならないの?」
悲痛な香織の問いに、俺は言葉に詰まった。
「なるさ」
絞り出すように、俺は答えた。
「苦しいから、逃げたいんだ。……俺は、お前が思ってるほど強くない」
「真実から目を背け続けて……本当にアタシたちに、未来なんて来るのかな?」
「……」
俺には、もう何も答えることができなかった。
重い沈黙のまま、香織の家の前に着いた。
「すまない、香織。俺、自分のことだけで精一杯で逃げてばかりで……本当にごめん」
「ううん。アタシこそごめん。いつも、うまく自分の感情をコントロールできなくて……晴矢を困らせて」
「なんでそうなるのかは、一番よく分かってるさ。気にするなよ」
「アタシ……」
「じゃあ、また明日な」
俺はこれ以上踏み込むのが怖くて、逃げるように背を向けた。
「晴矢!」
「ん?」
「ううん、何でもない。……練習、がんばって」
香織は何かを言いかけたが、無理に飲み込んだようだった。
俺もその先を聞くのが怖かった。
「ああ。……今度、勉強教えてくれよ。俺、どうやら医者にならないといけないみたいだしさ」
俺がわざとおどけてみせると、香織は寂しそうに微笑んだ。
「バカなの?」
香織は、俺と二人きりになった時にだけ、この脆く壊れそうな顔を見せる。
同性の麻里奈や奈央には決して見せようとしない、罪悪感に苛まれる生々しい顔だ。
その顔を突きつけられるたび、俺は自分の不甲斐なさに押し潰されそうになり、逃げ出したくなる。
(俺は、卑怯だ)
聞こえないように独りごちた時、不意に心の奥底にあった本音がポロリとこぼれ落ちた。
「実はさ……俺も、独りになるのが怖いんだ」
俺がうつむいたまま呟くと、香織は無言で頷いた。
そして、そっと伸ばされた彼女の白く長い指先が、冷え切った俺の頬に触れた。
それは純粋な愛情というよりも、同じ傷を持つ者同士が、互いの体温で孤独と恐怖を埋め合わせようとする、ひどく危うくて悲しい『共依存』のサインだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「香織が言ってた転校生ってさあ、どんな人かな?」
晴矢と香織と別れた後。麻里奈と双葉は、立派な門構えをした双葉の家の前で自転車を止め、話し込んでいた。
「どんな奴かね。サッカーやってたりしないかな」
「ねえ、双葉」
「あん? なんだ?」
「アタシたち……これからどうなっちゃうんだろう」
麻里奈の口からこぼれた不安の欠片に、双葉は空を見上げて短く息を吐いた。
「どうもなんねえって。誰にも分かりゃしねえよ」
「今日、ヒナって子が仲間に入って来たけど、本当に大丈夫かな?」
麻里奈は、不快感と警戒心が入り混じった顔で言った。
「ああ。俺もちょっと気にはなるな」
「あの時のこと、余計なこと言わないように気をつけないとね。よそ者にバレたら終わりだもん」
「そうだな」
「他の四人にも、ちゃんと釘を刺しておかなきゃ」
双葉は、深いため息をついた。
「まあ、あいつらだってみんな傷ついてるし、ずっとバレるのを恐れて生きてるんだ。言わなくても分かってるさ」
麻里奈も同調するように頷く。
「そうよね。香織なんて、あれからすっかり性格が変わっちゃったし」
「奈央は変わらないよな。雄二もな」
「本当、そうだよね。あの二人は普通にしてる」
実際には、奈央は雄二の前でだけ激しいトラウマのフラッシュバックに苦しんでおり、雄二も無力感に苛まれているのだが、麻里奈も双葉もその真実を知らない。
表面上の「変わらない奈央」を見て、自分たちだけは大丈夫だと安心しようとしているだけだった。
「晴矢のことは、どう思う?」と麻里奈。
「晴矢は……人の目ばかり気にするようになった気がするよ。あいつ、前はもっと『俺が俺が!』って前に出るタイプだったのにさ。今は何かに怯えてるみたいだ」
「うーん、そうかもね。……みんな、少しずつ歪んじゃったのかな」
重い空気を振り払うように、双葉は自転車のスタンドを蹴り上げた。
「悪りい。俺、そろそろ着替えて練習に行かないと」
「うん、分かった。また明日ね」
麻里奈が自転車を漕ぎ出す。
まだ台風の気配は感じられない、静かな夕暮れだった。
西の空には、薄暗くなり始めた山の稜線から、冷たい上弦の月が顔を出していた。
暗い秘密を抱え、互いの本心すら見失いながら危ういバランスで寄り添う六人の少年少女たちを、月はただ静かに見下ろしていた。




