アパッチの雄叫び
ムンクは叫びである。複雑な絵図面のように、不安が流れ混んで、いっぱい重なって、厚みをなしてゆく。その幾枚かの曲面が、冬の朝、奇怪な梅雨雲のように垂れ込めている。
ジェロニモはランニングの道すがら、いつもいっとき、その橋の上で、ダンベルを忍ばせたリュックサックをおろす。それまで、道場から、何枚かのダンベルは、駆け足の前進に連れて、力強い掛け声のような鉄のきしみを以て、彼の耳を追ってきたのである。
自然を貫く果てしない叫びが、うしろの空となかのフィヨルドをゆがませ、血と青黒に染め上げている。
それを見ると、ジェロニモは、四年前、その橋の上で、ウララー!!と雄叫びをあげることを禁じ得なかった自分の姿が思い出される。
彼は目を地球の裏側に投げる。超人たちが塔めがけて集まってくる広場には、夏の濃い光が滝のように流れている。そこは超人たちの認定の場所である。去年の今ごろは六人が認定されたのである。・・・・・・
至るところに残りなく、ジェロニモは超人への憧憬を見る。彼の胸には紛れもない人間としての徽賞がついている。ナメック星人のように常緑ではないしるしなのである。
或る時には諦観の心持ちで、俺はみまかる人間だと思う。こう思うことは、やはり彼の矜りを鼓舞する。人間としての哀しみを背負うことは彼の矜りなのである。
皆はこれから彼が超人になるのだといっている。人を越えた超人に。・・・・・・しかしジェロニモは己れは散りゆくものだと感得している。そして鍛練のあと滝へゆき、洗い落とした汗のあとに、鬱蒼とした二十歳の蓬髪を滝壺から出すと、この生身の人間は、己れが燼滅する生とは一体何なのかと思う。傷をつけ、痕を残し、最期は土くれに還るだけの人間が、その生涯を賭してなすべきことは何かと考える。
ジェロニモは日曜日は安息日として散歩に出かけた。道場の近所に、汚れた河川に面した住宅街があった。そこをとおりかかると、いつも元気よく挨拶をする、そばかすの、小さな女の子に、挨拶を投げ掛けられたことがある。次の日曜日も通ると、挨拶をしてくれるので、その子に話しかけられるのが習慣になった。
「こんにちは、良いお天気ですね」
「・・・・・」
「こんにちは、今日も良いお天気ですね」
「・・・・・」
「何でお嬢ちゃんは、天気の話ばかりするんだ!? 俺は天気のほかに考えなければならないことがたくさんあるのに」
「やっぱり、そうだったの。だから教えてあげたのよ。いつも靴紐をきっちり締めた厳しい顔をしているから・・・・・。 ほら、見て」
ジェロニモは見上げた。そこには何の幻もなく、ただ空があった。烈しい肉体的な苦難の休息には、絶対的な押し上げられた青空が必要だったのである。
・・・・・・しかし夜、一人寝床に寝ていて、彼は俊敏な狼のように、目を光らし、耳をそば立てていることがあった。夜の闇のなかから、超人たちが呼んでいるような気がする。不死不滅の超人たち。
雨戸の外から、走りすぎざま、その一人が呼びかけるだろう。
「ジェロニモ、行こう」
彼ははね起きるだろう。
「よし、行くぞ」
彼は行って、そして今度こそは、もう帰ってこないだろう。
・・・・・・それまでは、苛烈な訓練と温かい平和な寝床がある。しかしもしある夜、雨戸の誰かが呼びかければ、彼ははね起きて、もう一度、世界中の恐れを根絶やしするために、走りだし雄叫びをあげるだろう。
◇◇◇
私は債権者の女性と名画の世界を歩いていた。ムンクの「叫び」である。彼女も私も不安を抱えていた。彼女には額にできた、ぼっちという烙印が消え落ちないという気掛かりがあった。私には彼女が追加融資を許容してくれるかどうかという憂いがあった。
突然、暮れなずむ夕陽がその裏側で登る朝陽に変わった。フィヨルドも清掃士の修復を享受したような入江へと変容した。
ムンクの「叫び」がムンキューの「雄叫び」に重ね描きされたのである。人間の造る最も大きな雄叫びが聞こえてきたからである。
散るをいとふ
世にも人にも
さきがけて
散るこそ花と
吹く小夜嵐
ウララー!!
朝陽は愛の献血車の夢のような血の色をしている。入江はブルーモーメントの青で刷かれている。ゆがみが旧に復した橋の上では、小さな女の子がアッチョンブリケをしている。
私は立ち止まり、債務者に沈殿する肩こりが取れたのを感じた。それはしがみつかれていた貧乏神が別離を告げてくれるような軽やかさだった。
私は厚かましくも、人間の造る最も小さな声で恐る恐る頼んでみた。
「債権者でいる限りぼっちではありませんね。ぼっちのひらがな3文字を債権者の三文字に上書きすればよいのです。ですからこの小説を一文字七円で買い取ってくれないでしょうか?」
彼女は怒りによる震えと戦っているようにも見え、また微苦笑による震えと戦っているようにも見えた。




