43 死闘(1)
四人に隙があった。ほんのわずかの。煩く言われていた『相互防御』『全方位警戒』がほんの少し緩んだ。陸自隊員の二人ですら。全員の眼が給湯室に注がれた。その直後だった。 天井から大音響が響いた。安っぽいモルタルの天井板が破けると、何か大きな巨大な影が落ちてきた。
部屋のど真ん中に着地したその巨大な影は、その身体を目にも止まらないくらいの速さで回転させた。銃を向けようと、咄嗟に身体を反転させた上市の脇の下に、長く太い物体が嵌まりこむんだ。
鍛え上げられた陸自空挺隊員の身体が一気に持ち上げられ、そのまま宙を飛び壁に叩きつけられた。飛ばされた時、上市の身体が一般人に接触し、彼は棒のように倒れて床を独楽のように回転しながら滑り、壁にぶつかりそこで止まった。上市もまた、気絶したのか、手足を拡げたままぴくりとも動かない。
(なんだあれは……)俺は恐怖を感じた。
影の正体は蜥蜴人間だった。だが今まで対峙していた蜥蜴人間よりも、一回り以上巨大で逞しい身体つきをしていた。今までの蜥蜴人間は、カナヘビのようなスマートな体型だった。だが、奴は違った。いかつく凶暴な身体つきだった。
上市を壁に叩きつけた長く太い尻尾を、威嚇するかのように今度は床に叩きつける。鋭い音がする。白目の無い真っ黒な眼をこちらに向ける。我に返った雄山が、背後から銃撃を加えようとした。だが彼も動揺していた。給湯室にいる蜥蜴人間に対する意識が抜け落ちていた。狙いをつけるため、無警戒に位置を変えた。その場所は、給湯室に隠れていた蜥蜴人間に完全に体を晒す結果となった。
立て続けに三発の銃声が俺の耳に響いた。
雄山が崩れるようにその場に倒れる。
(雄山三曹!)
咄嗟に二体の蜥蜴人間に向かって乱射した。給湯室の一匹は壁の陰に身を隠す。大型の方は銃口を向けた瞬間に、横っ飛びに逃げた。身体に似合わず恐ろしく俊敏だった。その隙に石動さんが雄山三曹の襟首を掴むと、懸命に扉の外まで引っ張り出そうとした。
雄山三曹は必死で右足で床を蹴り、左手を動かし、石動さんの助けを借りてその場から離脱しようとした。眼を固くつむり歯を食いしばる表情で。左脚は床に投げ出されたままで、かなり出血していた。右の肩か上腕部も鮮血にまみれている。
二人を援護するために、俺は大型の蜥蜴人間に向かって引き金を引いた。奴は素早かった。こちらが向けた銃口と、引き金に掛けた指の動きで瞬間的に判断しているのか、こちらが発砲する瞬間に右に左に移動して、全く当たらない。
何度か引き金を引いた時だった。弾が出ない。弾切れだ。夢中で撃っていたため、引き金を引いた回数のカウントを忘れていた。三十発入り弾倉。三点射での射撃。十回引き金を引けば弾は切れる。教官からは、訓練中に引き金を引いた回数を覚えておくように、散々注意を受けていたにも関わらず、未知なる大型蜥蜴人間に遭遇した驚きで、完全に失念していた。
再装填をする時間なんて無い。太もものホルスターから拳銃を抜こうと考えた。だが弾切れを察した奴が、すぐにこちらに対峙する。少し距離はあったが、奴の隙の無さに拳銃を抜くのは無理だと察した。
(絶対間に合わない……どうする?どうする?……どうしよう?)再び恐怖心が喉元にせり上がって来る。弾の入っていない銃を奴に向ける。
俺の動作を見た奴は、眼と頬を動かした……。どうみても表情を作っている。爬虫類の癖に表情があるのか?
(なんだ?なんだあいつの表情は……バカにしてるのか?)
俺の眼に、怯えの色を読み取ったのか奴は嗤っていた。しかもこちらを小馬鹿にするような、見下すような表情だった。そして、もう一度尻尾で床を叩く。恐ろし気な音がした。
あんなもんで打撃を受けたら体中の骨がバラバラになるだろう。思わず自分が床に横たわる姿を想像してしまった。全身の骨を砕かれて横たわる自分の姿を。
「ひ……」勝手に情けない声が口から洩れた。もうダメだ。死ぬのか。ここまでか。怯え切った俺を見て、奴は上体と顎を突き出した。格闘家が相手を挑発する時のポーズにそっくりだった。
『Shhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!』口を薄く開けて、空気をこするような鋭い威嚇するような声を出す。ピンク色の口中。びっしり生えた小さな歯。自信満々の奴の表情。俺は完全に呑まれてしまった。
「た、たす……」
掠れた声で『助けて』と言いかけた時だった。不意に脳内に、訓練満了式の時での教官の訓示が再生された。余りにも唐突で稲妻のようだった。
『……例えどんな状況に陥っても、決して諦めるな。挑め。恐怖を乗り越えろ……』
(決して諦めるな。……恐怖を乗り越えろ。……そうだ。諦めたら終わりだ)俺は、その言葉に縋った。このままだと唯諾々と死んでいくだけだ。恐怖に呑まれれば何もできずに死ぬ。それでいいのか?俺は。
(嫌だ)即座に思う。じゃあどうする?
(『挑め』)教官の声が脳裏を走る。
(挑む……でも……どうやって?)
(気持ちで負けるな。びびんな。舐められているぞ。俺は)今度は、自分自身の声が心の中で響いた。その声を聞いたとき、ほんの僅かな負けん気が身体に生まれた。その負けん気を使って、思い切って顔を上げ奴の眼を睨む。ふざけんな。
(あいつには負けねえ。余裕ぶっこいてる奴に分からせてやれ)
(言われっぱなしでいいのか?でかい声でなんか言い返してやれ)俺の心の中に生まれた『負けん気』が次々とアドバイスを送って来る。俺は素直にそれに従った。奴の眼を睨み付け、息を吸い込み、声が裏返らない様に腹に力を込めて怒鳴った。
「調子乗ってんじゃねーぞッ!この蜥蜴野郎が!! 財布にしてやろうかッ??!!!」
思いっ切り怒鳴りつけた。大声を出した瞬間、心を呑み尽くそうとしていた恐怖心が、一瞬にして霧散したのを感じた。行ける。大人しくやられてたまるかよ。やってやるよ。
雰囲気が変わったこちらを見て、奴は『ほぅ』と言った顔をした。(いちいち顔芸するんじゃねーよ。蜥蜴のくせに)俺はその顔を睨み返した。そして左半身の構えを取る。それを見た奴は少し身体を沈めると、再び尻尾で軽く床を叩く。
俺は喧嘩なんかした事は無い。ただ相手を制圧するとなったら、身体は勝手に柔道の技を出すだろう。柔道経験者が『喧嘩で柔道技を使うとなったら』というお定まりの妄想が俺の頭にも浮かぶ。
(ガードを固めて突っ込む。相手の一撃は意思の力で耐え忍ぶ。そしてそのまま懐に飛び込んで投げを仕掛け、倒れたところを関節技で仕留める)
これしかない。これしかないが……相手はこちらよりデカい。体高は180㎝近くあるだろう。そして、鍛え抜かれた屈強な空挺隊員を投げ飛ばし、壁に叩きつけた強力な尻尾。
(意思の力じゃ耐えられない。無理だ。無傷で……懐に飛び込まないと………)
その時、奴の眼が僅かに光った気がした。腰の辺りの筋肉に緊張が見えた気がした。ハッとした俺は後ろに飛び退いた。一瞬前まで自分が居た空間に、何かが走った気がした。そして切り裂く空気の唸り。奴が踏み込んで尻尾を振ったのだ。モーションは全く見えなかった。長い尻尾の射程距離は想像を遥かに超えていた。俺は驚愕した。
(嘘だろ?あそこから届くのか?しかも動きが全く見えない。無理だ。奴が隙を見せない限り、懐には飛び込めない)
それでも恐怖感は消えたままだった。ただ焦りの気持ちが沸いて来た。(表情に出すな。気取られるぞ)努めて無表情に。悟られぬように。(……攻撃してこない……向こうは遊んでいるのか?いや、どちらにせよ次は避けられない。くそ……要は当たらなければ大丈夫なんだが……)
そこまで考えた時、何故か初めて石動さんと会った時の会話を思い出した。(『当たらなければどうという事は無い』『そういうのは当たっちまってから考えれば良いんですよ』)半年も経っていないのに遥か昔の会話のような気がした。
(石動さん、当たっちまってから考えるのは『あの世で』になっちまいそうだ)そう思った瞬間、俺は少し笑ってしまった。こんな状況で昔の事を思い出し、そして笑ってしまう。自暴自棄になっているのか。
奴がふと首を傾げた。少し警戒している雰囲気だ。どうやら俺の笑みに不審を抱いているようだ。こちらに隠し玉、とっておきの秘策でもあるのかと思ったらしい。向こうの勘違いで数秒の余裕が出来た。……その数秒がチャンスを生み出した。
蜥蜴人間の後ろ、扉付近から石動さんが、そっと顔を出して短機関銃を奴に向けたのだ。彼女は慎重に狙いをつける。奴と向かい合ってる俺には彼女の姿がはっきり見える。俺は彼女には決して視線を合わせなかった。視線を動かせばバレる。奴の眼を睨み続けた。
石動さんがが引き金を引こうとした瞬間だった。彼女に気が付いた給湯室の蜥蜴人間が、立て続けに発砲した。弾は外れたが至近距離に着弾し、驚いた彼女は狙いがブレて弾を外してしまった。それでも突然足元の床を叩いた銃弾に奴は驚き、咄嗟に後ろを振り返って石動さんの方を見た。
(今だ)
俺は夢中で奴との距離を詰める。だが奴は有り得ない跳躍力で後ろに飛び退き、着地でしゃがんだ姿勢のまま身体を回転させた。石動さんの隣だ。何という跳躍力だ。
離された距離を縮めようと、手足をばたつかせた瞬間、急に周りがスローモーションのようにゆっくり動いた。極度の緊張、集中状態で、時の流れがゆっくりになる現象。
奴の尻尾が地面すれすれを走り、石動さんの足首を捉える。体勢を崩しながら、石動さんが再び射撃するが、銃弾はしゃがんだ奴の頭の上を通過した。
石動さんの身体は宙を浮いた。勢いよく足を払われたせいで真横の体勢になり、床と水平の状態で空中で静止したように見えた。
(石動さん、顎を引け。手を突くな)俺は心の中で叫んだ。
尻尾を振り終わった奴は、身体を一回転させながら立ち上がろうとしていた。石動さんは、徒手格闘の訓練時に受け身を習った。だが、身体に叩き込まれるくらい時間を取って練習したわけでは無い。結局は本能が勝った。彼女は咄嗟に床に手を突いてしまった。
女性の細腕で、勢いが付きながら落下する体重を支えられる訳が無い。突いた左腕があらぬ方向に折れ曲がるのがはっきり見えた。顎を引くことも出来なかった。鉄帽越しとは言えど、後頭部をしたたか床にぶつけるのが見えた。
俺が見たのはそこまでだった。身体を回転し終わり、立ち上がりかけた奴の姿が視界に一杯に飛び込んできたからだ。まだ体勢が崩れている。ここしかない。
右腕を精一杯伸ばす。奴の左脇の下に右手を差し入れる事が出来た。身体は勝手に動いた。奴の身体に密着したまま、思い切り右に身体を回転させる。俺の左手が奴の右手首をしっかり掴む。右の腰に身体が密着するのを感じた瞬間、右足を思いっきり跳ね上げ、奴の腰を払い上げた。
相手の身体の重さがゼロになった。全く重さを感じない。技が完璧にかかった時に感じる感覚だ。
(このまま巻き込め。受け身を取らすな。体重を掛けろ)時の流れは相変わらずゆっくりしていた。なので、冷静に考えることが出来た。俺は最大のダメージを与えるために、同体になって倒れようと体重を掛け、そして頭から落とそうと腕の角度を変えた。




