25 独白(2)
「はぁ……はぁ……」
暫くして俺は、石動さんの速く浅い呼吸に気が付いた。慌てて彼女を見る。石動さんは、いつの間にやら顔面が蒼白になって、冷や汗をびっしりかいている。髪の毛が顔に貼り付いている。しきりに生唾を飲み込んでいた。その度に細い喉元が動く。
(やばい。悪酔いしたか。吐きそうなんだな)
俺は、廊下の終端にトイレがあるのを見つけると、彼女を抱えたまま歩を早める。彼女もそれに合わして必死で足を動かす。
「もう少しだ。頑張れ」俺は彼女に声を掛ける。彼女は無言だ。トイレのそばまで来ると、彼女は俺を振り払うようにすると、トイレのドアに身体をぶつけるようにして、真っ暗なトイレ内に転がり込んだ。俺はドアの傍にある三つほどあるスイッチをカチカチと全部オンにした。トイレ内と洗面台の照明が点き、換気扇が唸りを上げる。
トイレの個室のドアがけたたましい音を立てて開く音がした。すぐにトイレを流す音が聞えた。間に合ったらしい。
彼女は、自分が悪酔いして嘔吐しているのを、他人に聞かれたくないだろう。俺だってそんなもん聞きたくない。俺はトイレから少し離れた廊下の壁に背を預けて、体育座りで座るとトイレから彼女が出てくるのを待った。
ほどなく、トイレ内で人が動く気配がした。洗面台で口をゆすいでいるらしい。
数分後、彼女がトイレからフラフラしながら出てきた。彼女は、無言で俺の隣に体育座りをする。
「飲み過ぎました……みっともない真似してすみません」
「いや、気にしなくて良いよ。大丈夫?」
「はい……びっくりするくらいスッキリしました。迷惑かけてすみません」
彼女の言葉遣いが敬語になっている。迷惑を掛けてしまった、という思いからだろうが、宴会の悪酔い程度で、そこまで落ち込んでほしくも無かった。
「そんな、気にしすぎだよ。だから、その敬語やめよーよ」
「あ、うん、でも、本当、すみませんでした」
「だから……」
「うん……分かりま……分かった。もうやめるね。でもホントごめん」
「だから気にするなって」
「うん」
二人とも暫く体育座りのまま黙っていた。俺も何を言っていいか分からず、対面の灰色の壁を見つめていた。
「さっき……」彼女がぼそぼそと話し始めた。
「うん」
「隊長の事、好きって言ったの……皆には言わないで下さいね。みんな気が付いてるって、言ってたけど……本人が言っていたって知られるのは、やっぱり嫌なので」
「大丈夫。誰にも言わないよ」
「ありがとう」
「……石動さんってさ」俺は、ある思いから、ちょっと踏み込んだ事を訊きたくなった。
「うん」
「男性から見て、それなりにモテると思うんだよね」
「いえ。全然、そんな事は無い」
「いや、中高生じゃあるまいし、一々隠したりしなくても良いよ。告白されたことも一度や二度じゃないんじゃない?」
「……」
彼女は答えなかったが、その沈黙は肯定を表していた。
「で、男性とも普通に付き合ったりした事あると思うんだ。想像で勝手な事言ってごめんだけど。そう考えると、石動さんの隊長に対する態度がどうも解せないんだ」
「……それは、どういう意味?」
「さっき、皆が気が付いている。って言ったよね」
「うん」
「分かりやす過ぎるんだ。好きな異性に対する態度が」
「……そう……か」
「いや、誰だって好きな人の前だったら、態度は変わると思うんだ。それなりに出ると思う。もしくは変に悟られたくないと思って、不自然なくらいよそよそしくするか」
「うん。それは分かる」
「で、恋愛経験が人並みにありそうな石動さんが、好きな人を前にあんだけ、はっちゃけた態度を取るのが分からないんだ」
「……うん」
返事をした後、石動さんが黙った。俺も黙った。お互いがぎこちなく黙り込んでしまった。俺が踏み込んだ事を訊いたのは、四か月前に彼女と出逢った時から彼女から受けた、「自分を変えたい」という明確な意思と、「つらい事から逃げたくない」という強い確信が、どうしてなのか知りたかったからだ。
指導教官の死神たちが、態度を変えるくらいの陸自の研修を乗り越えたのも、強い彼女の意思が大きな要素だった。なぜ、あそこまで強い決意があったのか。それを彼女の隊長に対する態度をとっかかりにして、訊いてみたい気がしたのだ。
でも、それは彼女の個人的な事柄だ。彼女のプライバシーに踏み込むのは、同じ隊の隊員だからと言って良い訳は無い。
……俺は彼女が沈黙したのを、『話したくはない』という反応と受け取った。数か月前、ふと感じた彼女の心の襞を、スザンヌヴェガを引き合いにして言い当ててしまった。その時、彼女は不意に自分の心に踏み込まれ、少し不愉快そうにしていた。当然だ。
『好奇心は猫を殺す』
日本でも良く使われるイギリスの諺を思い出した。やめておこう。好奇心で彼女の心を傷つけるのは良くない。それがきっかけで彼女とギスギスしてしまったら、それこそ『猫を殺す』事態になってしまう。今なら、たぶんギリギリ間に合う。俺は立ち上がろうとした。その時、意外な事に彼女が口を開いた。




