返礼 トーマ大隊長の話
サダと猛虎が神域で襲撃された事件直後のエピソードです。
「スティバル祭祀長の護衛として、明日、皇都へ出発してくれるか?」
緊急会議のため第一駐屯地の大隊長全員が招集された。 第一庁舎に出頭した所、まず私だけが将軍執務室に呼ばれ、将軍から異例の打診をされた。 命令ならともかく、このような頼む形でお聞きになるとは何故か? 将軍の額に走る縦皺の深さを拝見しただけで余程の事が起こったに違いないとは推測出来たが、滅多に外出なさらないスティバル祭祀長の護衛とは。 それだけでも驚くのに、行き先が皇都とはただ事ではない。
スティバル祭祀長が北に御着任なさってから二十四年経つ。 しかしその間皇都へお戻りになったのは、五年前にグリマヴィーン前中央祭祀長が退官なさった時と去年の皇王陛下即位式の二度だけだ。 因みに、そのどちらも私が護衛のお役目を仰せつかった。
五年前の時は初めての経験で緊張したが、大変な思いをしたのは去年の方だ。 祭祀長が神域の外にお出掛けになる時は第一駐屯地内でさえ目的地は勿論の事、道すがらの各方面に連絡する。 祭祀長が御旅行なさる時は、お食事からお休みに至るまで細かい決まり事があるし、不備や失礼があったら謝まれば済むというものでもない。
去年の即位式の場合、即位式がある事自体は何年も前から予定されていたが、それでも細部の調整に御出発前日までカルア補佐が泊まり込みなさる日が続いた。 お迎えする方にも準備期間が必要なのに、瑞鳥飛来によって予定が前倒しになり、全てが見切り発車となったからだ。 数日動かすだけでも大変で、結局動かさない事になりがち。 それは将軍も御存知のはず。 なのに明日、御出発?
先触れがどれだけ急いだところで御到着一ヶ月前の連絡にはならない。 行き先が皇都となると、知らせておかねばらないのは宿泊先や道中の警備態勢を整えるだけでなく、皇王庁と祭祀庁の両方に予め知らせておかねば御到着と同時に大変な騒ぎとなるだろう。 そのような諸般の事情を考慮していられない何かが起こったのだ。
将軍の全てを押し隠した表情からは何も窺えない。
「スティバル祭祀長の御決意は固い。 たとえお一人であろうとも明日御出発なさるとおっしゃった」
祭祀長は皇王陛下の代理人だから誰に何を命令しても良いお立場ではある。 だが私が知る限り、スティバル祭祀長がその権限を行使なさった事は一度もなかった。 単に私が大隊長だからそこまで知らされていない可能性はあるが、常日頃、身辺の護衛の安寧にさえお心配り下さるお人柄なのだ。 戯れや軽いお気持ちでこのような無茶を言い出されているとは思えない。
いずれにしても祭祀長の御決断を覆せるのは皇王陛下のみ。 私達には従う以外の道はないが、何故退官間近の私が打診されているのか?
神域の外へお出掛けなさる祭祀長には必ず大隊長以上が護衛として付く決まりになっている。 どの大隊長が付くかに関して特に決められている訳ではないから私が随行しても問題がある訳ではない。 とは言え、祭祀長の護衛を務めるのは大変な名誉で、その名誉を欲している大隊長が他にいくらでもいるのに、なぜ私?
実は五年前も去年も、私が指名された裏には他の大隊長を指名してはまずいという事情があった。 今回の理由は何だろう?
将軍自ら御出発なさる訳にいかない事は分かる。 序列上ヴィジャヤン大隊長とタケオ大隊長は私の下だから優先されなかったのは当然だし、明日の出発なら他の駐屯地から大隊長を呼び寄せている時間はない。 だが副将軍、ブロッシュ第一大隊長、サーシキ第二大隊長と、私より優先されるべき人が三人もいる。
いきなり出発するのは慌ただしいと言えば慌ただしいが、三人全員に断らねばならない理由があったとは考えられない。 もしやこの任務が危険過ぎるという理由で副将軍や次の将軍となる可能性が高い二人は外された? それなら尚の事、私に対して一言、行けと命ずれば良いだけの話。 このような打診をする必要などない。 打診は滅多にない事だが、あるとしたら相手を気遣ってするものだ。 そんな事をされたらかえって何事かと身構えてしまう。 将軍と私の間に友人と言えるような個人的な交流はないし、姻戚関係がないのは勿論、同じ大隊であった事さえなかった。
但し、私には過去に何度か忘れ難いお気遣いを戴いた事がある。 例えば七年前、私の先妻が亡くなった際、当時第一大隊長だった将軍は弔いをする私に邪魔が入らない様、私がするべき任務を進んで引き受けて下さった。 戻ってから補佐の報告でそれを知り、お礼を言いに行った時も、お悔やみのお言葉だけで恩着せがましい事は一言もおっしゃらなかった。
大隊長ともなると一筋縄ではいかない男揃いだが、皆、将軍を深く信頼している。 それは恐怖や強制、命令から生まれるものではない。 他の大隊長達にも大なり小なり私と似たような経験があるのだろう。
ただ今日の打診に限って言えば、将軍は私が知らない何かを御存知なのでは、と感じる。 しつこく聞けば教えてくれるかもしれない。 聞くべきかどうか少々迷ったが、結局聞かずに引き受けた。 聞いた所で断れまい。 ならば聞かなくてもよい。
私が承諾すると将軍の瞳に一瞬苦渋の色が浮かんで消えた。 まるで部下を死地へと送り込まねばならない上官のような。 不吉な予感はしたが、私は気付かないふりをした。
その後の緊急会議でヴィジャヤン大隊長誘拐未遂事件のあらましを聞いた。 神域に曲者が侵入しただけでも由々しき問題だが、それ以上に丸腰のタケオ大隊長が襲撃された事に驚いた。 何故タケオ大隊長が襲われたのか?
ヴィジャヤン大隊長を誘拐するのに人が少ない神域が都合良いのは分かる。 けれど真剣でタケオ大隊長を襲わねばならない理由はない。 これではタケオ大隊長暗殺の方が真の目的であるかのよう。
タケオ大隊長にはヴィジャヤン大隊長のような世間で騒がれる人気はないが、軍内に限れば稀代の剣士として畏敬されており、ヴィジャヤン大隊長以上の人望を集めている。 なのに暗殺を謀るとは、一体誰が? タケオ大隊長の出自が気に入らないとかの単純な理由ではないだろう。
目的は不明ながら神域には限られた者しか近づけない。 そのうえ傭兵や人形を神域に潜入させるとなると神官の手引きがなくては不可能だ。 神官は合計二十名しかいないのだから誰が手引きしたのか、いずれ解明されると思うが。
ヴィジャヤン大隊長が神域に行く機会をすかさず利用した手際といい、お棺や傭兵を用意した事といい、第一駐屯地所属の上級将校でなければ実行不可能と思われる。 つまり今この会議に座っている内の誰かが首謀者、又は幇助したのだ。 これは下手をすると北軍の根幹を揺るがす事件になる。
将軍は事件の調査をジンヤ副将軍に一任された。 という事は、少なくともこの時点でジンヤ副将軍を疑ってはいらっしゃらない。 ヴィジャヤン大隊長と、危うい所で命拾いをしたタケオ大隊長も容疑者から外せる。 すると残るはブロッシュ大隊長、サーシキ大隊長と私の三人だけ。
もしや私は事件と無関係と判断された故に護衛に任命された? それなら良いが、それでは将軍の額の縦皺の説明が付かないし、また自分の身に覚えはなくとも知らぬ内に容疑者の一人に数えられているのかもしれない。
嫌疑を掛けられているから調査の邪魔をしないよう、時間を拘束される任務を与えられたか。 或いは真犯人の一味に皇都への途中で襲われ、死ぬ筋書きが出来上がっている?
疑問は次々湧いて来たが、誰かに聞ける類の質問でもない。 私は目前の任務遂行に専念した。 急ぐ旅とは言え、行き先が行き先だ。 この身一つで出発したら皇王城に着いた途端に困る事になる。 私は百剣の道場で儀礼服を今晩中に用意出来るかを聞いた。 出来ると答えた三十名を護衛に選び、翌日早朝、皇都へ向けて出発した。
兵士にとって大した速度ではないが、乗馬に慣れない祭祀長と神官にとっては毎日大変な強行軍であったろう。 しかし祭祀長がお急ぎなのだ。 その御要望を最優先するしかない。
途中、北軍の駐屯地か駐在所がある場合はそこに、ない場合は神社に泊まった。 少人数での警護なだけに万が一急襲されたらひとたまりもない。 それでどの宿泊先にも先触れを出さなかった。 準備も碌にしていない普通の部屋に止ん事無き御方を御案内申し上げるのは畏れ多いが、火急の事態。 仕方がない。 側付きの神官から散々文句を言われたが、全て無視した。
毎日緊張の連続で、余計な事を考えている暇はない。 とは言え、事件の首謀者はブロッシュ大隊長かサーシキ大隊長のどちらかしかいない以上、どちらだろう、と考えずにはいられなかった。
瑞兆の御父上を誘拐しようと企てるとは、それだけで一族連座で死刑となる反逆罪。 そんな大それた事を唯一人で計画し、実行しようとするだろうか? では、二人で共謀した? あの二人が?
いずれ劣らぬ深謀遠慮の策士だが、お世辞にも仲が良いとは言えない。 下馬評では次期副将軍はブロッシュ大隊長と噂されているものの、公式発表があるまでは予定は未定。 要するに二人は競争相手なのだ。 陰で糸を引いている者がいて、誰も知らぬ間に何らかの利害が一致していた可能性は否定できないにしても、こんな一か八かの大博打を競争相手と打つとは俄には信じ難い。
それでなくともジンヤ副将軍の退官は僅か二年後。 サーシキ大隊長はブロッシュ大隊長より年上だから、ここで副将軍の座を逃したら昇進は副将軍止まりとなる。 将軍になりたくて焦ったという事があり得るが、ブロッシュ大隊長の場合、何事もなければ副将軍への昇進は確実。 わざわざ危ない橋を渡る理由はない。
ただブロッシュ大隊長、サーシキ大隊長のどちらも自分の利益になる事が確実でなければ、たとえ神官からの命令だろうと簡単に従うような男ではなく、現在北軍大隊長で神官との繋がりがあるのはタケオ大隊長だけだ。
タケオ大隊長が首謀者ではあり得ない。 なのに神官の手引きがあったとなると、この事件には皇王族か上級貴族の誰かが関与していたのではないか? その場合これは危ない橋ではなくなり、渡る理由にもなる。 事と次第によっては皇太子殿下暗殺未遂事件やサリ様誘拐未遂事件のように真犯人が解明されない事も考えられるし、仮に実行犯が分かったとしてもそれが事件の解決となるかどうか。
考えれば考える程謎は深まるばかり。 だが刺客の六人は相当な腕だったらしい。 そんな刺客を雇うには相当な金が要る。 そんな金を右から左へと動かせるのは大隊長しかいない。 首謀者ではなかったとしても事件に一枚加わっていたという事実が明るみに出ただけで退官に追い込まれるだろう。 もしどちらか、或いはどちらも関与していたとなると、最悪の場合第一と第二、両方の席が空く事になる。
第一、第二は世間から次代の将軍、副将軍候補と見なされているだけに、誰を繰り上げるか大きな問題となるはずだ。 大隊長を一つずつ繰り上げるという訳にはいかない。 そんな事をしたら全大隊長が自分の指揮する大隊の実情を知らない事になり、万が一の事態になった時に危うい。
だが今の所、自分の大隊を持たない身軽な大隊長はヴィジャヤン大隊長だけ。 では彼が第一か第二を指揮する?
う、うーむ。 毎日弓を射ってヒャラを踊っているだけの男とまでは言わないが。 想像しただけで寒気がするような。
人気なら掃いて捨てる程ある。 しかし将軍として指揮を執るなら怖れられるくらいの方が望ましい。 五万の兵を指揮するには嫌われる覚悟がなければ務まらない。 下手な人気は邪魔になるだけだ。 準大公なら歴代北軍将軍の誰より高位だが、身分があるからやれるという類いのものでもない。 ヴィジャヤン大隊長の直属部下は少数ながら優秀な者揃いなのは救いだが。
ただ実務能力があるとは言えない上官なのに、恥をかかせる部下が一人もいないのはヴィジャヤン大隊長に人望がある証拠で、それは評価出来る。 命の瀬戸際となった時、部下が命を投げ出しても上官を救おうとするか、見捨てて逃げるかを左右するのは上官の実務能力などではない。
残念ながら肝心の本人があれでは、第一の指揮をしろと言った所で、やれませんと断られて終わりだろう。 厚い人脈があるだけに無理強いした所で逃げられる。
では第四から第十までの七人の大隊長の中から誰かを選ぶのか? 彼らの功績や年に大した違いはないだけに誰を選んでも相当揉めるだろう。 かと言って、タケオ大隊長を第一か第二に昇進させたら異例中の異例と言うだけではない。 この先何十年も将軍を務める事になるし、ヴィジャヤン大隊長の上官になる。 たとえヴィジャヤン大隊長を副将軍に据えたとしても間違いなく皇都から待ったがかかるはずだ。
それにタケオ大隊長が第一、又は第二となる事を他の大隊長が黙って見ているか、微妙でもある。 そのうえタケオ大隊長が繰り上がるとなると、私が退官した後の空席を埋めるのは誰か、という問題も出て来る。
心の中で大きなため息をついた。 振り返れば四十二年の軍隊生活。 歳月は長い様で短い。 正直な所、生きて退官の日を迎えられるとは思っていなかったが、ここまで来れば後一息。 退官後は回想録を書き始めるつもりで年末を指折り数えて待っていたのに。
私に文才はないが、日常のあれこれを思いつくまま書き留めた備忘録はかなりの量になっている。 ここで引き止められる様な事態にだけはなって欲しくない。 その点、タケオ大隊長なら第三を安心して任せられる。 何しろ彼がそこに現れただけで部下の動きが違う。 さすがに大隊の指揮にはまだ慣れない事も多いから責務が過重にならぬよう気を付けているが、老骨の出る幕はない。
これがヴィジャヤン大隊長だったら安心して任せるどころか夜もおちおち眠れないだろう。 寝た所で緊急呼び出しを食らい、叩き起こされるような気がする。 ヴィジャヤン大隊長が新兵の時、殺人容疑で軍牢にぶち込まれた夜のように。 あの調子で一体どう大隊の秩序を保つと言うのだ。
あの事件だけで私の備忘録の一冊が埋まり、以前は簡潔無味乾燥だった備忘録が北方伯逸話で彩られる事になった。 おそらく私の回想録も退官前の四年間だけは後世の歴史家に読まれるだろう。 そう考えると悪い事ばかりでもないのだが。
実務は全てマッギニス補佐に丸投げとなるに違いない。 それならいっそ、マッギニス補佐を昇進させるか? 能力は間違いなくある男だ。 しかし小隊の指揮さえ経験のないマッギニス補佐に、いきなり大隊長をやらせるのも躊躇われる。 しかもその大隊が第一か第二となると、次の副将軍、そして将軍となる事は確実。 北出身ではない将軍の前例がないだけに、タケオ大隊長を昇進させるより揉めるはず。
遠からず御決断を迫られるであろう将軍には深く同情せざるを得ないが、有り難い事にこの人事は私が決めねばならない事ではない。 私にとって自分の後任が誰になるか以外の関心がある訳でもないのだが、自分で思う以上にあれこれ悩んでいる事が顔に出ていたようで。 明日、皇都に到着すると言う晩、スティバル祭祀長からお言葉を戴いた。
「北に『弓と剣』あり。 その官名、爵位、階級は、思い煩うべきものにあらず」
私はそのお言葉を深く胸に刻んだ。
第一駐屯地を出発して八日目、私達は皇都に到着した。 皇王城正門に着くと同時に、背負っていた箱の中から長さ二メートルの祭祀長旗を取り出し、旗竿に通して掲げた。
ヒョオオオオ、ヒョオオオオ、ヒョオオオオ。
両神官が男声とも思えぬ高音で祭祀長の御来臨を知らせると同時に、辺りの者が一斉に平伏する。 ウェイド小隊長が門番に向かい、大音声で呼ばわった。
「スティバル北軍祭祀長、御到着! いざ開け給え!」
物見の塔にいる兵士がすぐさま呼応した。
「スティバル北軍祭祀長、御入城! 開門せよ!」
かいもーん、かいもーん、と門の両側から応答があった。
じゃじゃーん、じゃじゃーん、と大銅鑼が打ち鳴らされて開門を告げると、ご、ご、ご、と正門が唸り声を上げ、動き始める。
「スティバル北軍祭祀長、皇国皇王陛下へお目通りを願うものなり!」
ワスムンド神官がよく通る声で告げると、正門を護衛していた近衛兵が一斉に四方八方へと散って行った。 近衛小隊長が進み出て、敬礼する。
「近衛第三大隊第七十二小隊長、アド・ザハラド、露払いのお役目を承りたいと存じます。 尊き御方に願い出る僭越を何卒お許し下さい」
祭祀長がそれをお許しになり、私達一行は彼の後ろに従った。
予想した混乱はなく、陛下の政務室のある一翼に通じるジェナサンガ門の前で下馬した。 そこからは迎え出た侍従が陛下のいらっしゃる部屋へと案内してくれた。
私まで皇王陛下へお目通りする事になってもよいのか不安だったが、何分前例のない事で、子細は祭祀長も御存知なかった。 辺りに近衛兵が沢山いるとは言っても、私の任務を解く事が出来るのは北軍将軍以外では陛下と祭祀長だけだ。 どこまで御一緒してよいのか迷ったものの誰にも咎められないまま、祭祀長に従って陛下にお会いした。
陛下のお姿をこれ程間近に拝見するのは初めての経験で、さすがに緊張した。 子爵位があった時でも新年の挨拶でお目通りするのは皇太子殿下であって、皇王陛下には新年の舞踏会や軍対会場で遠目にお姿を拝見するだけだ。 退官すれば準伯爵の位を頂戴するから、それが我が人生、最初で最後の陛下に直答する経験になるはずだった。
入室直後にお人払いがあり、私は室外で祭祀長をお待ち申し上げた。 一時間程経って祭祀長が御退室になり、神域へとお向かいになられる。 私達護衛は祭祀長がお泊まりになるお部屋の近くにある一室で休んだ。
翌日、祭祀長は終日多くの方々と御面会なさるとの事。 護衛任務は祭祀庁が派遣した剣士に引き継がれ、私達はお呼出しがあるまで神域で待機する事になった。 その夜スパエス上級神官から、明日、祭祀長が北へお戻りになられる事を伝えられた。
朝、神域内の一カ所へ案内されて行くと、そこには玉竜が待っていた。 玉竜とは皇王陛下をお乗せする飛竜だ。 もっとも実際陛下がお乗りになった事があるとは聞いた事がないが。 祭祀長がお乗りになるのは天蓋の付いた桟敷席で、それを四頭の玉竜が持ち上げる。 護衛は竜騎士の後ろに直乗りする。 そこで初めてモンドー将軍の瞳に浮かんだ申し訳なさが腑に落ちた。 私は飛竜が怖くて乗れないのだ。 モンドー将軍はそれを御存知でいらっしゃる。
私の母の実家であるボーンホースト伯爵家は西にあり、代々著名な竜騎士や飛竜操縦士を輩出している事で知られている。 特に母方の祖父、ナガ・ボーンホーストは亡くなってから三十年以上経つが、未だに有名だ。
モンドー将軍はお若い頃、竜騎士に憧れていらしたとかで私の祖父の名を御存知だった。 世間話のついでに、なぜ西軍に入らなかったかを私にお聞きになった事がある。 隠すまでもないと思ったので正直に答えた。
「西軍に入ったら必ず、あのボーンホーストの孫と言われます。 乗りたくもない飛竜に乗せられる事になるのが嫌で北軍に入隊しました」
母方の実家に行くと、男なら一度は大空を飛ぶ夢を見るもの、と嫌になるくらい言われた。 現在もボーンホースト家の男はほとんどが竜騎士か飛竜操縦士、又は飛竜関係の仕事をしている。
私の親戚に限らず、西では誰もが飛竜操縦士に憧れているから西出身のヴィジャヤン大隊長もそうかと思い、入隊歓迎の会食の際に質問した事があった。
「俺は大空を飛ぶ夢を見た事も、飛竜操縦士に憧れた事もないです。 あ、一応、男です」
一応?? いや、言葉尻を捉えようと言うのではないが。
ヴィジャヤン大隊長は明るく続けた。
「飛竜に乗った事は何度もありますが、飛竜操縦士にだけはなりたくないです。 落ちたら怖いし」
「怖い?」
「怖いです。 高い所から下を見るとくらくらするので飛竜に乗ったら上だけ見るようにしています」
「オークが怖くないのに飛竜は怖いのか?」
「オークだって怖いです」
「六頭も射殺したのに?」
「あんなのまぐれです。 まぐれが何回もあるはずないです。 次にあんな事があったら、ちゃんと逃げろってトビにも言ってあります」
それを聞いた時、怖いものを怖いと言って憚らない真っ直ぐな性格に深い感銘を受けた事を覚えている。 私には出来ない事なだけに。 それに従者に逃げろと言うだなんて、なんとも変わった主だ。 であればこそ従者の忠誠心も厚いのだろうが。
「飛竜操縦士になったら女にモテるとか、選り取りみどりと言われなかったか?」
「えーと、そう言えば、そんな事を言われました。 でも何人もの女性にモテたって困るだけですよね。 一人だって面倒見切れないのに」
人は見かけによらないと言うか。 女受けする容貌をしているのに案外真面目な男である事に感心した。 もっとも貴族の若い男が女はいらないと言ったら親や親戚から心配されるのではないかと思うが。 色々な意味で忘れ難い会話だったから備忘録にそのまま書き留めてある。
それはともかく、飛竜に乗るくらいなら死んだ方がましだ。 しかしここで乗らなかったら護衛任務を放棄した事になる。 とは言え、離陸した途端失神したら後世に残る物笑いの種となろう。 だが神域内で自決する訳にもいかない。
切羽詰まってヴィジャヤン大隊長の、飛竜に乗ったら上だけ見る、を思い出した。 試してみる価値はある。 覚悟を決めて乗り、北へ戻るまでの四日間、首が痛くなっても動かぬ空を見続けた。 ようやく第一駐屯地に着陸した時には安堵のあまり失神しそうだったが、なんとか失神せずに済んだ。
将軍に報告するため第一庁舎に出頭すると、四日間の苦行から帰ったばかりの私よりも憔悴なさっている事が窺えるお顔でおっしゃった。
「大変御苦労だった。 旅装も解かぬそなたに早速で申し訳ないが、第一の指揮を頼めないか?」
犯人はブロッシュだったか。
「いつまで、とお伺いしても?」
将軍は肩を落とし、無言だ。 こういう所は中々狡くていらっしゃる。 まあ、これくらいの狡さがなくては将軍は務まるまい。
「私が断れば誰がやる事になるのでしょう?」
「ヴィジャヤン大隊長だ」
「嫌、と言われてしまうのでは?」
「だろうな」
こんな時、嫌なら嫌と言えるヴィジャヤン大隊長が心底羨ましい。 将軍はすっかり諦め顔でおっしゃった。
「例の涙目でごねられたら勝てん。 その場合、私とジンヤ副将軍が交代で第一大隊の指揮を執る事になるだろう」
そんな事になったら第一大隊の中隊長にとってはいい災難だ。 将軍と副将軍はどちらもお役目上、不在になる事が多い。 お二人同時に不在となる事だってある。 その時に緊急事態が起こったら全て自分の責任において決裁せねばならない。
「今、そなた以外を動かす訳にはいかんのだ。 七人の誰を繰り上げても内紛は避けられん。 特にタケオを繰り上げたりしたら、タケオの命を狙う事件が毎月のように起こるだろう」
タケオ大隊長とヴィジャヤン大隊長なら何年でも昇進を待つ時間の余裕がある。 だが他の大隊長にとってはそうではない。 その点、私ならこの年で副将軍に昇進するはずはないから第一大隊長になったとしても誰も焦ったりしない、という訳か。
お断りします、と言う言葉が喉元まで出かかった。 第一大隊は将軍をお守りする要だ。 第一大隊長をやりながら備忘録の整理をしている時間などあるはずがない。
ただ煎じ詰めれば、今回の任務はヴィジャヤン大隊長の言葉に助けられ、無事に遂行出来た。 本人は与り知らない事だからと言って、私も知らぬ振りを決め込んでよいものか?
又、将軍に戴いた数々の思いやりへの返礼も出来てはいない。 この機会を逃したら碌な返礼もせずに退官する事になるだろう。
「お役目、謹んで承ります」
実は、そう申し上げた直後に後悔したのだが。 一年や二年、退官が先延ばしになったくらいで泣き言を言うのも気恥ずかしいと思い、何も言わなかった。
それがどんなに甘い見通しであったか、神ならぬ身の知る由もない。
追記
ルカ・トーマの備忘録は事実に忠実な点が評価され、後世多くの史家に引用された。 トーマの死後に刊行され、ベストセラーになった「ある上官の回想」(モン・アラナクワニス著)も多くの北方伯逸話を備忘録から抜粋している。 そのため劇的な玉竜飛行描写を史実と誤解している読者は多いが、トーマの備忘録にある玉竜関係の記述は一行のみである。
「本日玉竜にて出発す。」




