失敗 ターデネクの話
北方伯家の玄関をノックした時、夫人にようやく会えるという期待と不安で胸が震えた。 プラドナ公爵家諜報員の中でも女を陥落する事にかけては凄腕と知られた私がこれ程緊張しているのも、お会いするというただそれだけのために半年もの間、様々な苦労をさせられたからだ。
プラドナ公爵家が用意した縁故があるし、北軍に入隊して夫人の日常を調べれば巧妙に仕立て上げられた出会いを演出するのは難しい事ではない。 その予想の、何と甘かった事か。
いつまで経ってもお近づきになるどころか、お目にかかる事さえ出来ないまま、いたずらに日が過ぎていった。 それと言うのも北方伯夫人の日常が一般の貴夫人とは全く異なるものだったからだ。
後宮にお住まいの姫君顔負けの深窓とでも言おうか。 妻を一歩も外へ出さない北方伯の用心深さにはつくづく呆れてしまった。
普通、皇王族でもない限り高貴な女性であろうと頻繁に外出する。 高貴であればある程、外出の機会は増えると言っても良い。 お茶、観劇、夜会、会食、気晴らしに観光。 特に、たとえ人嫌いな貴夫人であろうと買い物に出掛けるのが嫌いな貴婦人などいるものではない。 出入りの商人は勿論いるが、それはそれ。 話題の店に一度も行った事がなくては話の種にだって困る。
北方伯夫人とて一歩も外に出掛けないはずはないのだが。 いつどこに外出しているのか、お気に入りの店はどこか、誰に聞いても知っている者がいない。
趣味や好物は何かを探っても同様だ。 平民出身だから貴族の令嬢らしい趣味がなくても驚かないが、そのような出自の貴族の愛人にありがちなドレスや宝石を必死に買い集めている様子もない。
礼装や夜会服は親戚でもあるボルダック家が全て提供したのだとか。 それは親戚の手前、断れなかったのだろう。 しかし伯爵夫人となると必要なのは夜会服だけではない。 昼のお出かけ着や遊び着、室内着やお茶会用の服を季節に合わせて取り揃える必要がある。 農家から嫁に来たならそのような服など一着も持っていなかったはず。 全てを買い揃えようと思えば服だけで百を超えるし、その服に合わせた宝石や小間物、靴が要る。 貴婦人によっては自宅の内装や馬車、侍女や従者のお仕着せも色目やデザインを自分好みに統一したりするものなのだ。 結婚して何年も経っていないのだから毎日買い物に出掛けていても不思議じゃない。
北方伯夫人は英雄として名高い夫に負けず劣らず幅広い人気がある。 正夫人で、遠慮しなければならない姑と同居している訳でもなく、しかも競争相手となる愛人の類は一人もいない。 正真正銘の一家の女主。 財布の紐を握っている夫がケチなら分かるが、オークの甲冑を何領もそっちこっちにくれている所を見ると、さぞかし太っ腹なのだろう。 英雄としての見栄や体面もあるだろうし。 それにお二人が一緒の所を見た事がある者は一様に、北方伯は夫人にメロメロだと口を揃える。 なら財布の紐も緩いに違いない。
サリ様のお散歩なら夫人も一緒に外出なさると聞いているが、赤ん坊の散歩なんていつどこに行くか予想が付け難い。 ある日突然家内の者全員で第一駐屯地大通りを馬で突っ走ったらしいが、そんなお散歩をされては待ち伏せのしようもない。
それ以外で夫人が外出なさるとしたら公式行事だけだ。 けれど六頭杯の時はあまりの人ごみで近づけなかったし、皇太子殿下の舞踏会は招待客の数が予想以上に絞られていて潜り込めなかった。
手を拱いていた所で御自宅へ招待されるはずはないが、奉公人に近づこうにも僅か四人。 プラドナ公爵家といえども自領の民でもない平民に伝手などない。 直属の部下でさえ大隊長なのに八人しかいないのだ。 一人に接近して失敗したら、あっと言う間に私の事を他の全員に知られてしまう事になる。 それを考えたら迂闊に近づけない。
唯一マッギニス補佐には彼の実家から武器を購入しているという繋がりがあるが、いくら大口の顧客であるとは言っても武器を売ってもらわねばこちらが困るという事情がある以上、強くは出れない。
やっとの思いで皇太子殿下舞踏会の翌日、スメタナレイクに宿泊なさるという情報を掴んだ。 余裕を見て、その日の昼には着いていたのだが、御一行は朝一番に第一駐屯地に向けて出発なさった後。 夕方御到着のはずが、御夫妻は舞踏会たけなわの時間に戻られたのだとか。 あのぼやっとした外見の夫に裏を掻かれるとは。
こうなったら玉砕覚悟で直接面会に行くか、と考えなかった訳ではない。 北方伯夫人は大変気さくな御方と噂されている。 町内会のど自慢大会に出場したと聞いた時は信じられなかったが、事実のようだ。 平民の妻でも夫に金があれば洗濯女を雇うが、押しも押されもしない伯爵夫人なのに洗濯さえ御自分でなさるらしい。 雪かきまでなさると言うのは話に尾鰭が付いただけだと思うが。
おまけに神社の狛犬とそっくりな番犬がいて、そいつに一度吠えられたら二度とお側に寄る仕事を回してもらえない決まりになっている。 大隊長の周りをうろちょろしている奴ならいくらでもいるが、犬に吠えられたらどうしようと思うからか、伝言先が自宅だと皆及び腰だ。 その隙を突いて、ようやく今日、大隊長の伝言を御自宅へ持って行く用事を頼まれた。
いくら凄腕の女たらしだろうと本人に会えなければ腕の見せようはない。 だが会ってしまえばこちらのもの。 誰でも自分が世界の中心になりたいと望んでいる。 私には女性が何を求めているかを察し、その望みを叶えてあげる魔法使いの役を演じる才能がある。
高貴な女性であろうと、いや、高貴であればある程、愛し愛されるのは叶わぬ夢だ。 従わねばならぬ夫がいて、しきたりがある。 しがらみもあり、あれはするなこれもだめ、と制約されるのだ。 そうそう自分の思い通りになるものではない。 なるのは目の前にいる男。 ただ一度の人生と思えば、たとえ駆け落ち先で醒める束の間の夢であったとしても掴まずにはいられぬものとなる。
焦りはしたが、辛抱強く待ったおかげでとうとう手に入れた機会だ。 無駄にしてなるものか。
とは言っても全ては番犬次第。 吠えられるだろうか、と内心びくびくしていたが、あっさりドアが開き、フロロバが現れた。
「大隊長から奥様への御伝言をお預かりして来た」
「御苦労さん。 じゃあ、お呼びして来る。 そこで待ってて」
そう言って二階に上がって行った。 どうやら第一関門を無事突破したようだ。 人によっては敷地内に入っただけで吠えられたと言っていたから、家に入れたのなら第二関門突破と言えるかもしれない。
すぐに北方伯夫人が降りていらした。 近くで見ると意外に小柄でいらっしゃる。 私は心の中で何度も繰り返し練習したセリフを言おうとした。
べりっ。
ただならぬ音がして、口にびらびらの布を銜えた犬が、あっと言う間に駆け抜けて行く。 その布切れが私のズボンだ、と認識するまでに僅かの間があった。 信じたくはなかったが、どんなに信じたくはなかろうと、すーっと股間を吹き抜ける風は現実だ。
「エナさんっ!」
夫人の前を歩いていた乳母が気を失って倒れたが、床に叩き付けられる前に素早くフロロバが受け止め、二階へ連れて行った。
私の前にバートネイア小隊長がさっと立ち、正面玄関のすぐ外に居た兵士に命じた。
「ネシェイム。 腰巻きになる布を持って来い」
目の前が真っ暗になるだなんて他人の話で聞いた事はあるが自分が経験した事などない。 どんな修羅場も平気な顔で乗り越えて来た私だが、その時ばかりは呆然と立ち尽くした。
するとバートネイア小隊長越しに小さい手が差し出され、北方伯夫人が遠慮がちな声でおっしゃった。
「あの、旦那様からの伝言を持って来て下さったんですよね?」
その掌を見てぎょっとした。 剣だこで盛り上がっている。 女剣士という噂は聞いていたが、実際剣を握っている所を見たと言う人はいなかったから、兄の七光りか、兄が出来るから妹もやれるはずという思い込みなのだろうと思っていた。
なんと逞しい指。 明らかに普段力仕事をしている事が見て取れる。 何をやればここまで鍛えられるのか見当もつかない。 ただ一つ明らかなのは、私が用意していた美しい手への賞賛はあまりにちぐはぐで使えないという事だ。
言葉を失った私は懐から預かった伝言を記した紙を取り出し、そっと夫人の掌に置いた。 封がされていた訳ではないので私もそれを読んでいる。 ただ一行、汚い字で書いてあった。
「8じが6じになった!」
そして子供でも、もうちょっとましに描けるのではと思う様な (^o^)
「旦那様ったら」
お読みになられたらしい夫人が、くすくす笑いながら、いそいそと二階へ戻って行かれる。
それからの事はよく覚えていない。 調理場らしい所で待たされたが、それにしては立派なテーブルと椅子がある。 そこでフロロバが何かを食べさせてくれたが、どれくらい時間が経ったのかさえはっきりしない。 しばらくしてフロロバが替えのズボンを持って来てくれたので、それをはいて駐屯地へ戻った。
私は平民出身だが仕事上、貴族の習慣はよく知っている。 貴族の家で白昼一物を晒し、命が助かるとは思えない。 私のせいではないと言った所で無駄だ。
理由が理由だし、貴族の庶子として入隊しているから北方伯家の温情で助命されるかもしれないが。 プラドナ公爵家がこの失敗を座って見ているはずはない。 ペトリーエ子爵家にこの不始末が伝わる事を恐れ、その前に私を殺そうとするだろう。 何しろペトリーエ子爵はアイデリエデンに住んでいる庶子が北軍に入隊した事を知らないのだ。 本物は今もアイデリエデンにいる。
仮に死は免れたとしても除隊となる事は確実。 任務を果たさず帰ったら重い処罰が待っている。 仕事は回って来るかもしれないが、使い捨ての駒にされて終わりだろう。 勿論昇進など望めない。 それ程取り返しのつけようがない失敗なのだ。
なのになぜだろう。 私をこんな目にあわせたあの犬に対する怒りがどこからも湧いて来ない。 悔しいとか悲しいとかも感じない。 迫り来る死や厳罰から逃れるには今すぐ世界の果てを目指して逃げねば間に合わないというのに馬鹿みたいに一歩も動かずにいる。
そしてぼんやり思い出す。 あの美しいとは言い難いごつい手を。
伝言を手渡す時に微かに触れた。 それを思い出す度に胸に溢れるこの温かいもの。 これを何と呼べばよいのだろう?
手入れの行き届いた美しく柔らかい手にならいくらでも触れている。 その手も、その手の持ち主も、一人として思い出せないのに。
女を落とすのは仕事で、相手のその後を気にかけた事などない。 そもそもどの相手も幸せな結婚をしていたとは言い難く、以前と何の違いがあると言えない事もなかった。
帰宅時間が早まったと子供のように喜ぶ夫と、その伝言を受け取って愛おしむ妻、か。 そんな夫婦がいるだなんて。
但し、私と駆け落ちしたとしても北方伯夫人を待っているのは他の女のような哀れな末路ではない。 この駆け落ちに関してはプラドナ公爵が北方伯夫人を「救出」する筋書きとなっている。 私達がプラドナ領に着き次第、プラドナ公爵は正妻と離婚し、北方伯夫人と結婚する手はずを整えていらした。 五十に手が届く御方なだけに焦っているのだろう。 少し間を置いて世間体を取り繕う余裕もないようだ。
今日北方伯夫人にお会いするまでは伯爵夫人が公爵夫人に格上げされるのだ。 感謝される事はあっても恨まれる謂れはない、なんてうそぶいていた。 けれどあのお二人の仲を裂いたら私は死ぬまで後悔したに違いない。
私が失敗しても諦めるような公爵ではないが、少なくとも私のせいでお二人が悲しい目にあわずに済んだ事にほっとした。
私は諦めと共に軍警が来るのを待っていたが、いつまで経っても誰も来ない。 しかもこんなに大きな不始末があったにも拘らず誰も知らないのだ。 噂にさえなっていないだなんて。 一体どうした事か?
一ヶ月ほど経ってからマッギニス補佐に呼び出された。 とうとうこれで幕が下りるのか、と妙に安堵した気持ちで出頭したら、そこで第三駐屯地への転属通知を手渡された。
転属?
「それは、どういう意味でしょう?」
「何か不満でもあるのか? 命が助かったのだから文句はあるまい」
マッギニス補佐が冷たく言い放つ。
助かった? いや、そんな事はない。 この転属はすぐにプラドナ公爵の知る所となる。 私は依願除隊して戻るよう命令され、そこから先は言うまでもない。 私はその場で決心した。
「私は北方伯夫人を誘惑し、駆け落ちするためプラドナ公爵から派遣された者です。 転属すれば私の失敗が即座に公爵に伝わってしまいます。 第一駐屯地に勤務し続けた所で、いつまで経っても任務が成功しなければ、いずれ呼び戻されるでしょうが、後任が現れるまでの時間は稼げます。 命を助けて下さるとおっしゃるのなら、どうかそれまでここで勤務させて下さい」
「任務に失敗しても死ぬと決まった訳ではないのに公爵を裏切る気か? そのような事をすれば死は確実だぞ」
確かにそうだが、第一から離れたら二度と生きて北方伯夫人にお会いする機会はない。 叫び出しそうになるのを必死に堪え、懇願した。
「長生きしたい訳ではありません。 どうせ遅かれ早かれ殺される運命です。 それなら少しでもこの命をあの方のお役に立つように使わせて下さい!」
マッギニス補佐の冷たい表情には何の揺るぎもない。 私が更に懇願しようとする言葉を遮り、おっしゃった。
「その覚悟があるなら転属後、プラドナ公爵から依願除隊の指令が届き次第、除隊せよ。 二、三ヶ月してほとぼりが冷めたらハト・ターデネクとして入隊しろ」
「え?」
いきなり自分の本名を言われ、驚愕のあまり絶句した。 そこまで御存知の上でおっしゃっている事なら私に言える事は何もない。 そもそもこれは上官からの命令。 私は諦めて転属した。
裏で何があったのか今でも分かっている訳ではない。 転属後、プラドナ公爵家から依願除隊して戻るようにとの命令が来たので私は除隊はした。 けれど私は公爵家に戻らなかった。 命令不服従が死刑なのはどこも同じ。 特に私のようにかなりの数の任務をこなしていると、口封じをしておかなければ後々面倒な事になる。 だがなぜか私の前に死刑執行人は現れなかった。
九月になり、私はハト・ターデネクとして北軍に入隊した。 正確に言えば再入隊だが。 髪を短くして髭を伸ばしただけなのに、ぼさっとした外見で身分も平民だからか、誰からもペトリーエと呼ばれた事はない。 ただお一人を除いては。
「自分はハト・ターデネクと申します」
「あれ、結婚して名前が変わったの?」
「結婚はしていません」
ヴィジャヤン大隊長は訝しげなお顔をなさったが、そうなんだ、とおっしゃっただけで、それ以上何もお聞きにならなかった。
そうして月日がまろやかに過ぎてゆく。 新兵がやらねばならないのはきつい汚れ仕事ばかりだ。 滑らかだった私の手は厳しい労働によって堅くなっていった。 なぜかそれが嬉しい。
私は大隊長のお邸に入れてもらえる伝令として重宝がられるようになり、おかげでよく北方伯夫人のお姿を遠目に拝見する。 二度目の冬には豪快な夫人の雪かきをこの目で見る幸運にも恵まれた。
最初の冬は暖房が行き届いている貴族用兵舎だったが、毎日寒い寒いと悪態をついていた。 それに比べて平民用兵舎はがちがちに寒い。 室内でも白い息が見える程。 なのにあの雪かきがまた見れるかと思うと冬が待ち遠しい。
自分がどれ程変わったかを思う度に我ながらおかしくなる。 ふと、ケルパは案外天からの御使いなのでは、と思ったりした。 何もよい事をした覚えがない私に、どうしてこんな幸せを運んでくれたのか分からないが。




