1. ドレスには、立つ場所も
「お姉さまばかりずるい!」
夜会のドレスを見つけるなり、妹が袖をつかむ。
「お嬢様、今日は何枚で?」
家令ガスパールは返事を待たず、横から紙を出す。
「こんなドレスを着るのが、お仕事になるの?」
「着て、お客様のご挨拶を受ける務めですわ」
「立つくらい、わたしだってできるもん!」
袖をつかむ手が上がる。
「四時間ですよ? お客様をお迎えし続けないと……」
「それでも着たい! ずるい! わたしのにして!」
「ええ、ずるいですわね。では明日の朝、お渡しします」
紙を抱えたガスパールは七十八歳。靴先はもう書斎を向いている。
「では、一枚ですな!」
わたしはアデール、二十五歳。ヴェルヌイユ公爵家の当主代理を務めて六年になる。
十八歳のノエラとは、父の再婚で姉妹になって八年。わたしが十九歳のとき父が倒れ、担う務めは社交から家全体へ広がった。父は今も口がきけず、病状も変わらない。
書斎でガスパールが紙を広げると、妹も身を寄せる。
譲り状は、物を持つ立場を、元からある務めごと渡す。
「お父様に聞かなくていいの?」
父の代わりに家を動かす当主代理の印で足りる。父の許可を取り直す必要はない。
「ええ。務めを聞き、印のある原本を明朝受け取れば、あなたのものですわ」
日取りを決めたのはノエラと婚約者のヴァレンタンだが、婚約の譲り状がないため、書面の上では彼はまだわたしの婚約者だ。
婚礼まで三十七日。三十七日目には、爵位に付く税と公爵家の借金も、ノエラへ渡る。
このまま毎朝ひとつずつ渡せば、最後に残るのは爵位だけだ。爵位には税が付き、その下には借財がある。ドレスのようには抱えられないものまで、この子の手は届くだろうか。
ノエラの指が、紙にかかるドレスの端を撫でている。朝日を受けた銀糸が、指の動きに合わせてきらめく。わたしの袖に寄った皺だけが、まだ戻らない。
この八年で育ったのは、誰かの望みを形にする腕だけだ。けれど、これはあなたのものだと、わたしに言う人はいなかった。
「夜会では、わたしが前に立つのね。お姉さまの後ろじゃなくて!」
「ええ。お客様がお帰りになるまで、ご挨拶を受けてください」
ガスパールの筆先が、務めの行でぴたりと止まる。まだ濡れた文字が、朝日に鈍く光っている。
「以前からある務めですとも。お嬢様が増やした行ではありません」
「読めるわ! 隠さないで、そのまま置いて」
妹の指が布を離れ、紙の端を押さえる。わたしは衣装の支度に使う金の置き場を教え、妹の隣で夜会の立ち方を示す。
「次のお客様へ向くときは、裾を踏まないようにしましょう」
「こう? ……あ、振り向きすぎた!」
「足だけ、少し戻して。ご挨拶を受けるお顔は、そのままでいいですわ」
六年のあいだ、この立ち方を教わる相手はいなかった。靴の中で足を縮めながら、笑う角度を覚えたものだ。こうして人に教える日が来るとは。妹が踏まずに向き直るだけで、わたしの足まで少し軽くなる。
「明日はわたしに挨拶してくださるのね。ちゃんと前を見てるから!」
「ご挨拶を受けたら、お名前を一度だけ心の中で呼んでごらんなさい。次にお会いしたとき、お顔が浮かびますわ」
「お姉さま、それをずっとしていたの? ……誰にでも名前で呼びかけるわけだわ」
◇
翌朝、ノエラの腕に、夜会のドレスと譲り状が増えた。
渡す寸前、布の重みが指に食い込んだ。抱え直した妹の肘も、朝の光の中でわずかに沈む。
「印もある! 今夜はわたしが、昨日練習したとおりに立ってお迎えするのね!」
「ええ。お客様は日が落ちてからお見えになりますわ」
「それまでに、もう一度だけ裾を踏んでおくの。本番で踏まないように!」
妹の向かいでは、写しを受け取る手が静かに開く。短い黒褐色の髪の下で、灰青の目が紙の上をたどる。
ベルガルド辺境伯、アロイス様だ。公爵家の所有する関所の実務を預かっておられる。
「アデール嬢、務めの続きも頼む」
「受礼はノエラの務めです。衣装の支度に使う金も渡してあります」
公爵家の領地は国の東三分の一を占める。物も人も関所を通るため、持ち主の変更は帳へ知らせなければならない。写しはあくまで控え。立場を動かすのは原本だけだ。
「辺境伯様のお邸から関所へ向かう折に、お寄りいただけると助かります」
「そうしよう。今朝の分は受け取った」
説明が終わってから、彼は革の挟みに手をかける。妹がドレスを持ち直す間も、急かす声はない。胸に残っていた息を、わたしはゆっくり吐く。
「……最後までお聞きくださって、ありがとうございます」
「聞かねば、帳に書けん」
写しの端から手を離すと、革の挟みが閉じる。門を出ていく背は、朝の道をまっすぐ関所へ向かう。短い返事が、まだ耳に残っている。
◇
夕方、公爵家の広間の入口には、あの袖に腕を通したノエラが立つ。わたしは脇へ退き、差し出される挨拶を見守る。いつも正面から受ける声が、今夜は横顔をかすめていく。
燭台に火が灯り、蝋の匂いがかすかに漂う。銀糸は昨日より明るく、妹が息をするたびに光る。
「まあ、ノエラ様によくお似合いですこと。今夜はこちらでお迎えくださるのね」
「はい! お越しくださって嬉しいの」
頭を上げた妹が、すぐにこちらを見る。わたしは小さく頷き、次のお客様へ目を向ける。
「まだいらっしゃるのね。……どうぞ、こちらへ!」
編み込みが揺れ、裾が床をすべる。靴先は、布をきれいによけている。
椅子に腰を下ろしても、膝の上の指が勝手に動く。裾を戻す動きを、妹より先になぞってしまう。仕事のない手は、膝に置くだけなのに難しい。
金髪の男性が広間を横切り、奥の椅子を覗き込む。ヴァレンタン様だ。妹がいないと見ると、今度は踊る人の輪へ向かう。入口には、まだ目も向けない。
「アデール、ノエラはどこだ? 私が迎えに来たのに」
「入口で、お客様をお迎えしていますわ」
「こんな日に立たせておくのか!」
「本日の受礼はノエラの務めですので、お声は挨拶が途切れてからおかけくださいませ」
彼が振り返る間にも、妹は次のお客様へ頭を下げる。わたしへ伸ばしかけたヴァレンタン様の手は、行き先をなくしたように宙に残り、やがて下がる。
客足が途切れる頃には、四時間が過ぎている。壁際のノエラは片足を浮かせ、すぐ反対の足へ替えた。笑うために上げていた顎も、今は下を向いている。
「ノエラ、やっと見つけた。君の好きな曲で踊ろう」
「今は座りたいの! ずっとここでお迎えしてたんだもん!」
「座るのは踊ったあとでいい。せっかくのドレスじゃないか?」
差し出された腕へ手を重ねる代わりに、妹は裾をつまんで持ち上げる。
「そのドレスで立っていたの! わたしの足まで曲に合わせなくていいでしょ!」
「……そんなに怒ることか」
「怒ってるんじゃないの、痛いの!」
椅子を引くと、妹が客の前で大きく息を吐く。両足を揃えて腰を下ろした拍子に、張っていたドレスの裾が床へほどける。
「最後の方まで、ご挨拶できましたわね」
「……できた。次の方が来たら、まだ立つつもりだったの」
「皆さまお帰りですから、今は足を休めてください」
「それ、先に言ってほしかったの! 椅子まで遠かったんだもん!」
妹の肩がすとんと落ちる。立ち通した四時間ぶんの重さが、ようやく椅子へ移ったようだ。わたしまで、靴の中でこわばっていた足の指をほどく。
「よく立っていらっしゃいました。最後のお客様まで、ひとりも欠けずに」
「……見ててくれたの?」
「ええ。ずっと」
妹の指が、膝の上の銀糸を撫でる。朝よりずっと、ゆっくりと。
広間を出て着替えを済ませると、ノエラは脱いだドレスを抱えて扉にもたれる。目だけは、わたしが外した宝石をしっかり追っている。
「お姉さま、その宝石もずるいわ。明日はそれを着けたいの」
「慈善の会へ出て、寄付を決める務めもあります。使える金と使い道を、朝までに確かめましょう」
「金も一緒なら、ちゃんと聞くわ。……それでも、この宝石がいいの!」
「ええ、眩しいですわね。では明日の朝、お渡しします」
ガスパールが宝石箱の横を空ける。筆はもう、明朝の紙の上だ。紙をかく小さな音につられ、わたしの口元もゆるむ。
「さて。明日は、何をずるいと仰るかしら」




