六 盗難事件
午前の試験が終わり、いったん昼食休憩をとることになった。
受験者たちが一斉に荷置き場へ向かったため、入り口にはすぐに人だかりができた。休憩時間には余裕がある。玉瑶はしばらく広間に残り、人が減るのを待ってから隣室へ向かった。
荷置き場には、もうほとんど人がいなかった。
棚の前に、小さな背中が一つだけ見える。
「あれ、蕗按?」
声をかけると、蕗按が振り返った。
朝と同じように、棚の上段へ向かって懸命に腕を伸ばしている。指先は荷に触れているものの、引き寄せるにはあと少し届かないらしい。
玉瑶はその隣まで歩いていき、棚を見上げた。
「そこ、使いにくいでしょ。私と替わろうか?」
「いい」
「でも、荷を取るたびに大変じゃない?」
玉瑶の棚は、蕗按の一つ下だった。ここなら蕗按でも十分に手が届く。
「……試験官の人、番号のとこに入れろって」
「荷袋は同じ色だし、二人で替えるだけならばれないよ」
蕗按も玉瑶も、よく似た生成りの荷袋を使っていた。玉瑶は蕗按が何か言うより先に、上段の荷を取る。
「はい、これ蕗按の」
「……ありがとう」
玉瑶は自分の荷から紙で包んだ包子を取り出すと、その荷袋を蕗按の番号が貼られた上段へ置いた。蕗按は少し躊躇ってから、自分の荷を玉瑶の番号が貼られた下段へ置く。
「お昼、それだけ? 足りる?」
一緒に中庭へ移動しながら、蕗按に尋ねる。蕗按は小さく頷いた。
「いつも昼は食べないから」
そう言って、大切そうに、ふかし芋を両手で包み込む。
「今日は試験あるから、母さんが作ってくれた」
「……そっか。じゃあ、頑張らないとね」
蕗按がまた、小さく頷く。その口元がほんの少し、緩んだように見えて、玉瑶は微笑んだ。
休憩時間が終わると、すぐに午後の試験が始まった。
玉瑶の順番は、午後の六番目だ。午前中は他人の演奏を聞いているだけだったから気楽なものだったが、いざ自分の番が近づいてくると、さすがに落ち着かない。
二胡を手に、中庭から広間脇の荷置き場へ移動する。
調弦は休憩前に済ませた。譜も頭に入っている。今さら確かめることなど、何もないはずだ。
それでもそわそわと弦の張りを確かめていると、向かいから声が飛んできた。
「そんなに触ってたら、試験の前に弦が切れるぞ」
顔を上げると、棚の前に陽峻が立っていた。
「切れませんよ」
「どうだかな」
玉瑶は棚に貼られた番号へ目をやる。
「あなたの番号……午後の二番目ですか?」
「ああ。このあとすぐに合わせだ」
陽峻はそう答えながら、棚の荷袋を探っている。
合わせということは、彼は合奏を選んだのか。
「じゃあ、古譜の良さが分かる演奏をしてくださいね」
「まだ言ってるのか、お前」
呆れたように返した陽峻が、ふと手を止めた。
「……ない」
「え?」
「俺の笛がない!」
周囲にいた受験者たちがざわめいた。
「もう合わせに呼ばれてるんだぞ。誰かが持っていったとしか――」
「三十二番、夏陽峻! 合わせの時間です。早く来なさい!」
荷置き場の入り口から、試験官の声が飛んだ。陽峻は大股で試験官のもとへ歩いていく。その顔からは、先ほどまでの余裕が消えていた。
「待ってくれ。俺の笛がないんだ」
「笛が……?」
「昼前には、確かに荷の中へ入れた。誰かに盗まれたんだ」
試験官は眉を顰め、陽峻の手元へ目をやった。
「盗まれたと分かるものはありますか? 笛を荷へ仕舞うところを、誰か見ていましたか?」
「そんなの――」
陽峻が言葉に詰まる。試験官は小さく息を吐いた。
「毎年いるのです。試験の直前になって怖気づき、頭が痛いだの、忘れ物をしただのと嘘をついて、時間を稼ごうとする受験者が」
試験官の言葉に、陽峻の頬がかっと朱に染まる。
「ふざけるな! 俺をそんな腰抜けどもと一緒にするな!」
「声を荒らげても事情は変わりません。合わせの時間は決まっています」
淡々と告げ、試験官は踵を返そうとする。
「事情がどうであれ、今演奏できないのであれば、あなたの合わせは行えません。本番までに笛を見つけて――」
「何かありましたか?」
ふいに声が響いた。大声ではないが、不思議とよく通る低い声だ。
振り返ると、午前中、試験官たちの最後尾にいた若い武官が数人の兵を連れて立っていた。
切れ長の目が、騒ぎの中心にいる陽峻を捉える。
「笛が……俺の曲笛が、荷から消えたんだ」
「最後に見たのは?」
「昼休みの前だ。午前の試験が終わったあと、一度荷の中に入れた。でも今、取りに戻ったらなくなっていて」
武官は短く頷いた。
「分かりました」
それから、後ろに控えていた部下へ目を向ける。
「ここにいる者を全員外へ出せ。荷置き場を閉めろ。今から誰も中へ入れるな」
「はい」
部下たちがすぐさま動き出す。突然の物々しい空気に、受験者たちのざわめきが一段と大きくなった。
「お、お待ちください!」
一人の試験官が慌てたように声を上げた。
「試験はどうなさるおつもりで?」
「中断します」
武官は淡々と答えた。
「紛失したのが試験に使用する楽器である以上、放置はできません。笛が見つかるまで、皆さんには待機していただきます」
「しかし、日食が――」
「承知しています」
言葉は丁寧だが、有無を言わせない声音だった。
そのとき初めて、玉瑶は午前中に抱いた印象を思い出した。
試験を見に来たというより、広間全体を見張っているような目。この男は最初から、試験そのものではなく、会場の警備を任されていたのだろうか。
だが、試験官の彼に対する言葉遣いからして、ただの地方武官ではなさそうだ。
「荷を調べます」
武官が告げた。
「全員、広間へ戻ってください。確認が終わるまで、広間から出ることは禁じます」
受験者たちは兵に促されるまま、広間へ戻されていく。玉瑶も二胡を抱えてその流れに従ったが、どうにも落ち着かなかった。




