五 夏陽峻
侚族は古くから曜に暮らす民族で、都にも多い。商いで財を成した者も少なくなく、同胞同士の結びつきも強い。そうした侚族を疎み、侚をわざと『狗』と呼んで蔑む者がいることを、玉瑶も知っていた。
陽峻にも聞こえていたらしい。彼は声のした方を振り返ると、不敵な笑みを浮かべた。
「狗に楽が分からぬと言うなら、その狗にも及ばない者が楽を語るのは、ずいぶん滑稽だな」
「なっ……!」
「やめろ。夏家に睨まれたら面倒だ」
二人は悔しげに顔を歪めたが、それ以上は言い返さず、こちらに背を向けた。陽峻は嘲るように笑う。
「どうした? 狗に言い負かされて、尻尾を巻いて逃げるのか?」
「…………」
「はっ! 狗に負けたとあっては、お前らの師もさぞ鼻が高いだろうな」
二人は肩を震わせたが、振り向かなかった。
これでは、どちらが絡まれた方か分からない。
――この人といると、面倒なことになりそうだ。関わらないでおこう。
「つまらないな。もう終わりか? なあ?」
「えっ」
そっとその場を離れようとしていた玉瑶は、顔を引き攣らせた。そのとき、試験官が眉を寄せ、こちらに向かって声を張り上げた。
「そこ、静かに! 次の受験者の演奏が始まりますよ!」
玉瑶は慌てて俯き、身を縮こまらせた。対して陽峻は、どこ吹く風とばかりに明後日の方を向いている。
「ちょっと、あなたのせいで私まで怒られたじゃないですか」
小声で文句を言うと、陽峻は首をすくめてみせた。
「気にしなくていい。あいつら、進行を急いでて気が立ってるんだ」
「……今日、何かあるんですか?」
「司天台によると、今日の申の刻に日食が始まるらしい」
陽峻の言葉に、玉瑶は納得して頷いた。
「ああ……なるほど。試験中に日食なんて不吉ですもんね」
だから、日が欠け始める前に試験を終わらせたいのだろう。
曜国はしばしば太陽に例えられる。その曜に仕える宮廷楽師を選ぶ日に、肝心の太陽が欠ける。吉兆と受け取る者はまずいないだろう。
陽峻と小声で話している間に、次の受験者が前に出て楽器を構えた。玉瑶が次の演奏へ耳を傾ける一方で、陽峻は懐から譜を取り出し、手にしていた曲笛へ指を添えた。音は出さないまま、指運びを練習するつもりらしい。
「あいつの演奏を聴いてる暇があるなら、庭の雀の声でも聞いていた方が有意義だぞ。あっちの方がまだ調子が合ってる」
「そんな失礼な――」
言っている間に、演奏が始まる。
初っ端から調子の外れた甲高い笛の音が広間に響き渡った。……確かに、お世辞にも上手いとは言い難い。
「ほら、言っただろ」
ふふん、と陽峻が笑う。素直に頷くのも癪で、玉瑶は視線を陽峻の譜へ移した。
『陽春薄氷』だ。
譜面に目を走らせ――思わず譜に飛びつく。
「うわっ!? なんだ?」
「古譜!? あなたも古譜の方がいいと思ってるんですね!?」
「は……はぁ?」
声こそ抑えているものの、玉瑶は興奮を隠しきれなかった。
『陽春薄氷』は、現在では春を迎える喜びを奏でた曲として国中で親しまれている。
「でも、本当は単純な春の祝い曲じゃないんですよね」
――約六十年前、作曲者の女楽師には将来を誓った恋人がいた。男は翌年、湖の薄氷が解ける頃には戻ると約束し、戦へ赴く。
しかし約束の春になっても男は戻らなかった。
さらに一年が過ぎ、再び薄氷が解ける頃になって、ようやく男は帰還する。
戦場で人を殺したことを悔いた男は、女楽師に詩を贈った。
昨年の薄氷は、とうに解けた。
あなたの知る私は、もういない。
この身は血に濡れ、獣へ堕ちた。
死しても天には昇れず、焦土を彷徨うだろう。
あの日の私を待っていたのなら、その男は、もう死んだと思ってほしい。
それに対し、女楽師は即興で二胡を弾いて返したという。
薄氷は、去年の春に解けました。
あの日のあなたも、あの日の私も、もうどこにもおりません。
ならば今朝のあなたに、今朝の私が返事をいたしましょう。
あなたが獣なら、私も獣に。
天へ行けぬと言うのなら、共に焦土を歩みましょう。
このとき生まれた曲が、『陽春薄氷』だ。
「六年前に、作曲五十周年を記念して太楽府が新たに編曲したんですよね。逸話になぞらえて、宮城の湖の薄氷が解けた二月に初演され、その日に新譜も公布されたそうで」
「はぁ」
「そこまで逸話になぞらえたのに、新譜はすごく華やかなんです。『陽春薄氷』が春を祝う曲として定着したからだと思うんですけど、正直、私はあの編曲には納得できないんです」
「うん」
「編曲するなら、その曲にどんな背景があって、どんな想いが込められていたかを重視すべきじゃないですか? それを無視したら、違う曲になってしまうと思うんです。だから、私は『陽春薄氷』は古譜の方が好き」
「へぇ」
熱を込めて話す玉瑶に対し、陽峻は譜を見つめて指を動かしながら、上の空で相槌を打つ。玉瑶は眉間に皺を寄せ、陽峻の譜を奪った。
「あっ、おい!」
「ちょっと、私の話聞いてます? あなたも古譜の方が好きなんですよね?」
陽峻は顔を顰め、玉瑶から譜を奪い返す。譜についた皺を指で丁寧に伸ばしながら、怪訝そうに玉瑶を見た。
「いや、師匠から習ったのがこっちだったし。新譜より古譜の方が、俺の奏法に合ってて上手く弾ける自信があったから」
「……それだけ?」
「何だよ」
「別に……」
玉瑶は自分の譜を取り出し、小さくため息をついた。陽峻がこちらを一瞥して、呟く。
「変な奴だな、お前」
それはこちらの台詞だと、玉瑶は思った。




