四 柳瓊華
荷を置くと、さっそく実技試験が始まった。
楽郷試の前には、『試し』と呼ばれる予備試験がある。そこで受験資格を得た者は、あらかじめ実技試験で何を披露するか申請しておかなければならない。
合奏か、独奏か。使う楽器に、演奏する曲。
玉瑶は二胡の独奏を選んでいた。
合奏を選んだ者には、本番の前に一度だけ、伴奏者と音を合わせる時間が与えられる。合奏を選んだ一人目の受験者が、合わせのため別室へ移る一方、広間では独奏の試験が始まった。
「次。受験番号、二番。柳瓊華」
名を呼ばれ、一人の少女が立ち上がる。彼女が顔を上げた瞬間、周囲の人が息をのむのが分かった。
歳は玉瑶と同じか、少し上だろうか。
雪のように白い肌に、端正な顔立ち。
装いは華美ではないが、纏う衣が上質なものであることは一目で分かった。艶やかな黒髪を銀細工の髪飾りでまとめ、背筋をまっすぐ伸ばして歩く姿には、自然と人の目を引きつける気品があった。
「誰だ……? すごい美人だな」
近くで、男の受験者が小声を漏らした。
「あなた、柳瓊華を知らないの?」
「有名なのか?」
「黄茗楽師のお弟子さんよ。門下でも一番の腕だって聞いたわ」
周囲の囁きに、玉瑶は思わず瓊華を見つめた。
黄茗の名なら、もちろん知っている。
かつては宮廷楽師として名を馳せた女性だ。その一番弟子となれば、腕も相当なものだろう。
「だったら、前回一位だった江嘉秀より上手いんじゃないか?」
「さあ。でも、合格は間違いないでしょうね」
そんな声が聞こえても、瓊華は振り返りもしなかった。
試験官の前まで進み、静かに一礼する。
書類に目を落としていた試験官が、ふと眉を上げた。
「おや……?」
紙をもう一度確かめるように眺めてから、瓊華を見る。
「柳瓊華。希望曲が記入されていませんが、これはどういうことですか?」
広間がわずかにざわめいた。
瓊華は表情一つ変えない。
「恐れ入りますが、曲は試験官の皆様にご指定いただけますでしょうか」
「こちらで?」
「はい」
試験官が訝しげに目を細める。
「……理由を聞いても?」
瓊華は抱えていた琵琶にそっと手を添えた。
「何でも弾いてご覧にいれます」
一瞬、ざわめきが止んだ。玉瑶はぱちりと目を瞬く。
――すごい。
大言壮語にも聞こえる。けれど瓊華の顔には、虚勢も気負いもなかった。
本当に、何を指定されても弾けると思っているのだ。
試験官たちが相談するように、顔を見合わせて囁き合う。その中で、先ほど受験者たちに訓示した初老の試験官が、白い顎髭を撫でながら口を開いた。
「ふむ……。では、『桃花源』を弾いていただこうか」
瓊華が僅かに目を見開いた。
琵琶奏者に、『桃花源』を……!?
本来は笛が主旋律を担う合奏曲だ。琵琶でも音を拾うことはできるが、ただ旋律をなぞっただけでは、この曲の持つ華やかさも、霞むような幻想味も失われてしまう。
広間が緊張に包まれる中、瓊華は静かに琵琶を構え、目を閉じた。
「承知いたしました」
瓊華の白く細い指が、弦に添えられる。
静まり返った広間の中、まるで桃の蕾が綻ぶような軽やかな一音から演奏が始まった。
迷いのない、滑らかな指遣い。琵琶一挺とは思えないほど音は豊かで、耳を澄ませば、二胡や笛までどこかで奏でているような錯覚を覚える。
目を閉じると、苔むした柔らかな地面を兎や子鹿が駆けていくのが見える気がした。一面に咲く桃の花は、風が吹くたびに花びらを散らしている。さらさらと流れる川の水は、底が見えるほど澄んでいて、ひやりと冷たい。花びらの隙間から差す陽光まで、眩しく感じられる。
まるで本当に、桃源郷へ迷い込んだかのような演奏だった。
演奏が終わっても、広間は水を打ったように静まり返っていた。瓊華は琵琶を置き、試験官と受験者たちに向かって優雅な仕草で拱手する。
「……大言壮語ではなかったようですね。素晴らしい演奏でした」
初老の試験官は満足そうに頷いた。隣の者に何かを囁くと、その者が紙に筆を走らせる。
「やっぱり柳瓊華が今回の一位じゃないか?」
「あんなの敵うわけないわ……。別格よ」
受験者たちが口々に言い合う声が聞こえる。玉瑶は唇を引き結んだ。
負けるつもりなんてない。けれど――宮廷一の楽師になるというのは、こういう相手たちを越えていくということなのだ。
玉瑶が二胡を抱き直した、そのとき。
「ふん。一人上手い奴がいたくらいで、どいつもこいつも萎縮して情けないな」
隣に座っていた青年が広間に響くような声で言った。太い眉に、やや吊り上がった目元。精悍な顔立ちの青年で、いかにも気が強そうだった。ぎょっとしたように、数人が振り返って青年を見るが、彼は気にした様子もなくこちらを向く。
「なあ。お前もそう思うだろ?」
「えっ、わ、私!?」
突然話を振られ、狼狽える。そんな玉瑶の耳に、少し離れた場所で囁き合う声が聞こえた。
「侚族の夏陽峻だ。相変わらず傲慢だな」
「ああ、狗族か。狗に楽が分かるのかよ」




