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三 受験者たち

 試験官からの話が終わると、受験者たちは荷物を預けるため、隣の広間へ移動するよう命じられた。演奏に使う楽器は手元に残し、それ以外の荷は壁際に並んだ棚へ置くらしい。

 人の流れに従って歩いていた玉瑶は、棚の前に立つ女に声をかけた。


「あの、すみません。譜も置いていって大丈夫ですか?」

「さあ、どうかしら」


 女が振り返る。

 五十はとうに過ぎているだろう。目尻には深い皺が刻まれ、黒髪にも白いものが混じっている。

 玉瑶は戸惑いつつ、首を傾げた。


「あの……試験官の方では……?」

「いいえ、受験者よ」

「えっ」


 思わず声を漏らした玉瑶に、女は僅かに目を細めた。


「そんなに驚くことかしら」

「い、いえ! すみません!」


 慌てて頭を下げる。女は一拍置いて、おかしそうに噴き出した。


「あはは、冗談よ! 私は魏《ぎ》秋蘭《しゅうらん》。二胡を弾くわ」

「范玉瑶と申します。私も二胡です」


 胸の前で拱手する。


「あら、一緒なのね。お互い頑張りましょう」


 秋蘭はそう言って、背負っていた荷を下ろした。玉瑶は念のため譜を取り出し、棚へ置こうと顔を上げた。

 棚には一つずつ受験番号が貼られている。自分の番号を探しながら棚沿いに歩き――ふと足を止めた。

 十二、三にしか見えない少年が、背伸びをしている。

 玉瑶の棚の上段へ荷を置こうとしているらしい。しかし、何度腕を伸ばしても届かない。小柄な体に、何度も繕った跡のある衣。腰には使い込まれた古い小鼓を提げていた。

 代わりに置いてやろうと、玉瑶が声をかけかけた、そのとき。


「おいおい。そんな衣で楽科挙を受けに来たのか?」


 横から笑い声が上がった。

 二十代前半ほどの青年が二人、少年を見下ろしている。


「楽器だけは立派だな。翡《フェイ》族のお前が、どうやって手に入れたんだ?」

「まさか盗んだんじゃないだろうな?」


 少年は冷めた目で青年たちを一瞥した。それから、黙って棚へ向き直る。

「おい、無視してんじゃねぇよ!」


 一人が苛立ったように少年の肩を押す。少年の小さな体はよろめき、床に倒れ込んだ。


「ちょっと、何をしてるんですか!」


 玉瑶はとっさに少年に駆け寄り、その体を助け起こした。青年たちは怪訝そうに玉瑶を見下ろす。


「なんだ、お前。見ない顔だな。どこの弟子だ?」

「……母ですが」


 一瞬の沈黙のあと、青年たちは顔を見合わせて噴き出した。


「聞いたか? 母親だってよ」

「母親に習った女に、翡族の餓鬼か。今年の楽郷試はずいぶん格が落ちたもんだ」


 玉瑶はむっと眉を寄せる。青年の一人はにやにやと下卑た笑みを浮かべ、玉瑶に顔を寄せた。


「お前、よく見ると顔は悪くないな。さっさと家に帰って花嫁修業でもしてた方が――」

「おい。女子ども相手に、何をやってる」


 不意に、低い声が飛んだ。振り返ると、三十歳前後の男が立っていた。

 日に焼けた顔に、飾り気のない衣。腕には笙を抱えている。使い込まれてはいるものの、隅々までよく手入れされていた。

 男は青年たちに目を向け、こちらへ歩いてくる。


「子どもだろうと、名のある師についてなかろうと、ここにいるってことは、『試し』を通って受験資格を得たってことだ」


 静かな声で言って、玉瑶たちを庇うように、青年たちの前に立つ。


「なら今は、お前らと対等だろ」

「……何だよ、徐《じょ》文成《ぶんせい》。偉そうに」


 青年の一人が鼻で笑った。


「お前、今年で四回目だろ。他人なんか助けてる場合かよ」


 一瞬だけ、男――文成の表情が強張った。

 だが、広間の入り口をちらりと見ると、声を荒げることもなく、「ほら」と返す。


「試験官が戻ってきたぞ。これ以上、騒ぎを起こせば俺もお前たちも失格だ。いいのか?」

「……ちっ」

 青年は面白くなさそうに舌を打つと、連れとともにその場を去った。


「助けてくださって、ありがとうございます」

「大したことはしてないよ。お前、怪我はしてないか?」


 拱手する玉瑶に軽く手を上げて応じ、文成が少年へ向き直る。少年は立ち上がり、小さく頷いた。


「荷、上に置くのか?」


 少年が再び頷くと、文成はひょいと荷を持ち上げ、棚の上段へ載せた。


「……ありがとう」


 小さく頭を下げ、少年がお礼を言う。文成は頬を緩め、少年の頭を軽く撫でた。


「お前、名前は?」

「獏《ばく》蕗按《るあん》」 


 ――獏蕗按。あまり聞かない響きの名前だ。

 先ほど青年たちが、蕗按を『翡族』と呼んでいたのを思い出す。

 曜は多くの民族を抱える国だ。中でも翡族は、曜の南西に暮らす小さな民族で、暮らし向きの苦しい者が多いらしい。都では彼らを見下す者もいる――そんな話を聞いたことがある。

 文成は一瞬だけ黙り、それから少し困ったように笑った。


「……蕗按か。歳は?」

「十二」

「そうか……若いな。俺はその歳にはまだ楽器を触ったことすらなかった」


 文成が苦笑する。


「そういえば、さっき『四回目』だって……」 


 玉瑶の言葉に、文成は頷いた。

 三年に一度、一月に行われる楽郷試を受けるのは、これで四回目だという。つまり文成は、十年近く試験に挑み続けていることになる。


「始めるのが遅かったんだ。まともに楽器を触ったのも、十八になってからだ」

「十八から?」

「子どもに楽器を習わせるような、余裕のある家じゃなかったんだ。だから昼は働いて、夜になったら師匠のところへ通った。最初は楽器だって借り物だったよ」


 玉瑶は目を瞬いた。

 自分は物心ついたときから二胡に触れ、母の蔵書を勝手に読み漁っていた。音楽を学べない生活なんて、考えたことすらない。


「ここにいる奴のほとんどは、親が楽師だったり、裕福な家に生まれたりして、子どもの頃から楽器に触れてきた」


 文成は微笑して視線を落とす。


「試験は公平だよ。誰の家に生まれたかで点を足されるわけじゃない。金持ちだからって、下手な演奏で受からせてもらえるわけでもない。ただ――ここに立つまでは、決して公平じゃない」


 腕に抱えていた笙をそっと撫で、文成が言う。玉瑶は何も言えなかった。

 文成はそんな玉瑶を見て、困らせたと思ったのか、ふっと表情を緩めた。


「悪い。試験前にする話じゃなかったな」

「いえ……」

「お互い、受かるといいな」


 笑って言うと、文成は軽く手を振り、立ち去った。玉瑶は改めて広間を見回す。

 受験者には、十代後半から二十代半ばまでの若者が多い。上質な絹で仕立てた、染めや刺繍の美しい衣を纏う者も目立つ。一方で、蕗按や文成のように生成りの着古した衣を身につけた者は、ごく僅かだった。

 楽科挙は、身分を問わず才ある者を選ぶ試験だ。

 ずっと、そう思っていた。

 けれど――才を磨くための時間まで、誰にでも平等に与えられているとは限らないのだ。

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