二 宮廷楽師を志す者
曜国には、科挙と呼ばれる登用試験がある。生まれや身分にかかわらず、才さえあれば官途が開かれる――そう謳われる試験だ。
文官を志す者は文科挙を、武官を志す者は武科挙を。
そして、宮廷楽師を志す者は、楽科挙を受ける。
この日、羅冠では楽科挙の地方試験『楽郷試』が開かれていた。試験会場となる官衙には、すでに大勢の受験者が集まっている。受験者たちが携えている楽器はさまざまだ。琵琶、笛、胡琴――中には、玉瑶も実物を見るのは初めてという珍しい楽器もある。
玉瑶は目を輝かせ、きょろきょろと周囲を見回していた。
あれは寧族の琴。それに、あちらは――戴衛族の天弦だ。
玉瑶は思わず足を止めた。天弦の実物を見るのは初めてだった。
故郷には、母のほかに音楽について語り合えるような相手はいなかった。朝から晩まで二胡を奏で、音楽史や詩学を学ぶ玉瑶は変人扱いで、「楽の虫」「玉瑶に一曲聞かせれば、三月は帰ってこない」などと言われてよく揶揄われたものだ。
だが、ここには音楽に魅せられ、その道を志してきた者たちが集まっている。――玉瑶のように。
「ねえ、あなたは何の曲を準備してきたの?」
「俺は『陽春薄氷』だよ。正月も半ばだし、ちょうどいいだろ」
試験官が来るのを待つ間、ふと、男女の話す声が聞こえてきた。
「――『陽春薄氷』?」
それまで借りてきた猫のように、会場の隅で大人しくしていた玉瑶だったが、とうとう我慢できず、話に割って入った。
「あなた、『陽春薄氷』を弾くんですか? 新譜で? それとも古譜で?」
「こ、古譜……? 何の話だ?」
「よかったら、譜を見せてくれませんか?」
たじろぐ青年に、ぐいぐいと詰め寄る。青年は困惑しながらも、荷の中から譜を取り出した。
玉瑶は丁重に譜を受け取り、譜面に目を走らせる。
「新譜ね! ほらここ、六節目から古譜より少し拍が速くなってるんです。春を祝う曲らしく華やかになっていて、これはこれで素敵。でも私は古譜の方が好きなんです! だって、この曲は本当は春の曲じゃなくて、作者が――」
「あ……あはは。きみ、詳しいんだね」
勢いよく話し出した玉瑶に、青年は若干顔を引き攣らせながら笑う。
「でも、そこまで昔の譜に詳しくなる必要ってあるのか?」
「え?」
「宮廷楽師になるなら、演奏に作詩、作曲。それに四書五経や詩学もあるだろ。試験に出ない昔の譜まで調べてたら、いくら時間があっても足りないじゃないか」
青年は一つ、二つと指を折って首をすくめた。
青年の言い分も分かる。
だが、それではまるで、楽科挙のために音楽を学ぶみたいだ。
曲は単なる音の連続でできているわけではない。誰が、いつ、どこで、何のために作ったのか。それを知らずに弾いたら、同じ譜でも全く違う曲になってしまうと玉瑶は思うのだ。
「あなたの言うことも分かりますけど……」
反論しかけたそのとき、控えの間が急に静まり返った。目を向けると、試験官らしき人が数人入室してきたところだった。その最後尾に、一人だけ武官姿の若い男がいる。
周囲より頭ひとつ抜けて背が高く、すらりとした長身に武官の装束がよく似合っていた。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。白皙の顔は目を引くほど整っていて、女の受験者が数人、「どなたかしら」と囁き合っている。
けれど、男はそんな視線など意に介さない様子だった。
背筋を伸ばし、静かに広間を見渡している。その眼差しは涼やかな顔立ちに似合わず鋭く、受験者たちを眺めるというより、不審な者が紛れ込んでいないか見張っているようだった。
「おい、そろそろ譜を返してくれ」
「あ……はい」
玉瑶が譜を返すと、青年は急いで試験官の近くへ歩いていく。小さく息をつき、玉瑶も試験官の元へ向かった。
一通り試験の流れが説明されたあと、初老の男が一歩前へ出た。他の試験官たちがわずかに身を引く。どうやら彼が、この場の責任者らしい。
「百年前、たった一人の楽師が、一兵も動かさず曜の威信を西方諸国へ知らしめました」
厳かな声が、静まり返った広間に響く。
「ここにいる人で、この逸話を知らない人はいないでしょう。ですが、試験を前にした皆さんに、あえてこの話を贈りたいと思います」
玉瑶たち受験者は、試験官の話に耳を傾けた。
百年前、かつて西方に覇を唱えた大国・霖から、曜へ使節が訪れた。彼らが連れてきたのは、国一番と名高い琵琶奏者だった。御前の宴で奏でられたのは、霖国では誰もが知る祝いの曲。
ただし、本来より低い調に変えられていた。
霖国では、祝いの曲を定められた調より低く奏でることは、宴の主を己より下に置くという意味を持つ。
――曜の者には分かるまい。
戦には強くとも、風流など解さぬ野蛮な国だと、使節は侮っていたのだという。
だが、帳の後ろに控えていた一人の女楽師だけが、その意図に気づいた。
女は使節を咎めず、演奏を止めさせることもなかった。
ただ琵琶を手に取り、異国の奏者の音へ自らの音を重ねる。低くされた調も、異国の旋律も変えず、それらすべてを活かしたまま、次第に自らの旋律を主へと押し上げていった。
やがて霖の奏者が驚いて手を止めると、女は一人で曲を引き継ぎ、高らかに歌い上げたという。
雨は天より降り、猛る川となる。
川は野を巡り、人馬を呑み込めど、ついには大洋へ帰る。
大洋は低きを厭わず、ゆえに天下の水を抱く。
雨を霖国に、大洋を大曜――偉大なる曜国――に掛けた返歌だった。
相手は曜を『低く』したつもりだったが、女楽師は、その侮辱さえ曜の大きさを讃える言葉へ変えてしまったのだ。
曲が終わったとき、時の皇帝は笑って言ったという。
『遠方より珍しき音を届けてくれたこと、礼を言おう。これでまた一つ、曜の音が増えた』
使節は帰国後、王にこう報告した。
曜には、天下の音が集まる、と。
「あなたたちが目指しているのは、かつてあの女楽師が立った場所です」
試験官の言葉に、玉瑶は顔を上げた。
「指が速いだけの者も、美しい音を奏でるだけの者もいりません。宮廷楽師の音は、時に陛下の言葉となり、曜という国そのものになる」
広間を見渡し、試験官は告げた。
「一曲で宴を沸かせる者なら、街にもいます。我々が選ぶのは――一曲で国を背負える者だ」




