一 お母さんへ
「玉瑶、どこにいるの!? 玉瑶!」
素吟は怒りのあまり、顔を真っ赤にして娘の名前を呼んでいた。
今日は一人娘の見合いの日だった。
あの子は昔から、糸の切れた凧のような子だ。好きなこととなると、周りは置いてけぼりで、どこまでも突き進んでしまう。
まだ十七になったばかりだというのに、このまま好きにさせておけば、いつか本当に手の届かないところまで行ってしまいそうだった。
せめて恋のひとつでもすれば、少しはこの土地に未練もできるだろう。
そう思って設けた見合いの席に、娘は来なかった。素吟は出稼ぎから戻るなり見合いの席へ向かったが、結局、相手方には平謝りする羽目になった。
ここ数ヶ月大人しくしていたから、油断していた。やはり引き摺ってでも自分が連れて行くべきだったのだ。
「玉瑶! 返事なさい!」
家中の戸という戸を開けて探すが、娘の姿は見当たらない。
いつものように二胡を手に川原へでも行ったのだろうか。
ため息を吐き、水でも飲もうと厨へ向かう。そのときふと、甕の蓋の上に白い紙が置かれているのに気づいた。
手紙だ。素吟は慌てて手紙を掴んで広げた。
朝に胡琴を奏で、夜には月光の下で譜を開く。
眠れば宮廷で奏でる夢を見る。
匣に入れていれば、玉は傷つきません。
ですが、匣に仕舞ったままの玉は輝けないでしょう。
お母さん。
私はやはり、自分の目で都を見て、自分の音がどこまで届くのか試したいのです。
必ず、宮廷一の楽師になって帰ります。
追伸 母さんの『大陸楽史考』は貰いました。
范 玉瑶
素吟は卒倒しそうだった。手紙を持つ手がぶるぶると震えていた。
「玉瑶、あなたって子は……!」
◇◇◇
「だから、そこはもっと明るく弾くんだって!」
朝、羅冠の町で宿を出た玉瑶は、ふと足を止めた。通りに面した家の軒先で、二胡を弾く子どもたちの姿がある。
「これから旅に出るんだぞ? わくわくするだろ? だったら、もっと楽しそうに弾かなきゃ!」
少年が妹らしき少女を叱る。
奏でられているのは『長路歌』。新たな門出を祝う宴で、よく演奏される曲だ。
「違うわよ!」
少女も負けじと言い返す。
「旅に出たら、しばらくお家に帰れないのよ? お父さんやお母さんにも会えないんだから、寂しいに決まってるじゃない!」
「でも、旅立ちを祝う曲だぞ!」
「だからって、嬉しいばっかりじゃないでしょ!」
なるほど。玉瑶は思わず頷いた。
「二人とも正しいんじゃない?」
つい口を挟むと、兄妹は揃って玉瑶を振り返った。
「えっ、どっちも?」
「うん。旅立ちって、きっとそういうものでしょう?」
玉瑶は二人に歩み寄ると、背負っていた二胡を取り出した。
目を伏せ、弓を弦に当てる。
最初の一音は、明るく軽やかに。
足取りも弾むような旋律が、朝の通りに広がっていく。これから始まる旅への期待。まだ見ぬ土地、まだ出会わぬ人々。道の先には、きっと素晴らしい景色が待っている。
玉瑶は指を踊らせ、旋律を華やかに彩った。けれど、曲が半ばを過ぎたところで、ふっと音を緩める。
本来なら最後まで明るく奏でられるはずの旋律に、僅かな哀愁が滲む。
門を出て歩き続けるうちに、見慣れた景色は遠ざかっていく。ふと振り返っても、もう母と過ごした家は見えない。昨日まで当たり前だった日々が、少しずつ懐かしいものに変わっていく。
玉瑶は弓をゆっくりと引いた。
最後の一音が、名残を惜しむように細く伸び、やがて音が消える。
視線を上げると、いつの間にか近所の家々から人々が顔を覗かせ、こちらを見つめていた。
誰かが手を叩く。それにつられるように、ぱちぱちと拍手が広がった。
「すごい……! 最初はすっごく楽しかったのに、最後はなんだか、泣きたくなっちゃった」
妹が目を輝かせて言う。その横で、兄も顔を赤くして何度も頷いている。
「今度は二人の『長路歌』も聴いてみたいな」
玉瑶は二胡を仕舞い、微笑んだ。そのとき、辰の刻を知らせる鐘が遠くで鳴るのが聞こえた。
まずい。試験の時間に遅れてしまう。
「じゃあね! 二人とも、練習頑張って!」
慌てて荷物を背負い直す。名残惜しそうな兄妹に大きく手を振ると、玉瑶は通りを駆け出した。




