九 三度の音
「音がおかしいってわけじゃないの。ただ、祝いの歌のはずなのに、ときどき重なった旋律が不安を掻き立てるような響きになるでしょう?」
『千灯歌』は、二つの旋律を重ねて奏でる曲だ。どちらの旋律にもおかしなところはない。それなのに、重ねて奏でると、ところどころ妙に落ち着かない響きになるのだ。
「古い曲だからだろ。今とは音の好みも違う」
「そうかもしれないけど……」
玉瑶は口を尖らせた。
もちろん、古い曲には独特の調べを持つものも多い。それでも、『千灯歌』を聴くたび、胸の奥がざわつくような感覚があった。
明るい歌詞と、時折陰りを帯びる音の重なり。どうにも、しっくりこないのだ。
「そういえば、蕗按は翡族なのよね? この曲、聴いたことある?」
玉瑶が尋ねると、蕗按は首を横に振った。
「そうなんだ。翡族の古い歌だし、てっきり知ってると思った」
「うーん。茴羅昭儀のお母様に直接お話を伺えたら、曲の解釈も二番のことも分かりそうなのになぁ」
阿蕙がため息をついた。
「昭儀って、昔の翡族の王家の血を引いていらっしゃるんでしょ? そうそうお会いできないよねぇ」
その言葉に、蕗按がぴくりと顔を上げた。
「……王家?」
「うん。翡族が曜国に降ったとき、王家の方々も都へ移り住んだんだって」
阿蕙が頷くと、蕗按は口を引き結び、手元の桴に目を落とした。
「……蕗按? どうかした?」
玉瑶が声を掛けると、蕗按は少し躊躇ってから口を開いた。
「翡族の王族は悪い人たちだって、聞いたことあったから……」
玉瑶たちは思わず顔を見合わせた。
陽峻が蕗按の肩を抱き、玉瑶と阿蕙にも顔を寄せるよう手招きする。
「……なんでそんな風に言われてるんだ?」
部屋には四人しかいない。それでも陽峻は、用心深く声をひそめて尋ねた。
「翡族の王族は曜国に降ってからずっと、豊かな暮らしをしてる。でも、俺たちは今も貧しいままだから……」
蕗按は少し困ったような顔で続けた。
「だから、王族は同胞を見捨てたんだって。そう言う人もいる」
「……そうなの?」
玉瑶は目を瞬いた。
翡族に貧しい人が多いことは知っている。だが、旧王族との間にそんな軋轢があったとは。
「詳しいことは知らない。みんな生活が苦しいから……王族だけいい暮らしをしてるのが、許せないんだと思う」
「そっか……」
玉瑶は、薄絹の帳の向こうに座っていた茴羅昭儀を思い浮かべた。陛下がわざわざ太楽府に奏楽を命じるほど大切にされている女性だ。少なくとも、食べるものに困るような暮らしとは無縁なのだろう。
もっとも、曜国へ移った旧王家が、今も翡族の人々の暮らしにどれほど関われるのか、玉瑶には分からない。けれど、普段は昼食を食べないという蕗按のことを思えば、軽々しいことは言えなかった。
それきり、四人は何となく口数が少なくなった。
やがて譜を広げ、合奏の練習を始めたものの、音は相変わらずばらばらだった。ただ、陽峻の怒鳴り声も、心なしかいつもほど勢いがなかった。
それから数日間、玉瑶は合奏の練習に励む傍ら、暇を見つけては翡族の古い曲を調べていた。
どうしても、『千灯歌』のあの陰りを帯びた旋律が気になるのだ。
古い翡族の歌に特有のものかもしれない。そう考えてさまざまな文献に当たってみたが、祝いの曲はどれも明るく華やかな調べを持つものばかりで、似たような例は見つからなかった。
一縷の望みをかけて、茴羅昭儀の母が暮らしているという内城の邸も訪ねてみた。しかし、こちらは文字どおりの門前払いだった。
もちろん、合奏の練習にも手は抜いていない。初めの頃に比べれば、四人の音も多少は噛み合うようになってきた。
それでも、玉瑶の心は晴れなかった。
今日も譜を眺めては溜息をついていると、とうとう陽峻が痺れを切らした。
「いい加減にしろ! お前のついた溜息で、部屋に雲ができそうだ! どうしたら満足なんだよ!」
「どうしたら……」
玉瑶はゆっくりと瞬きをした。
――その着眼点はなかった。
どうしたら、自分はこの曲に満足できるのだろう。
改めて譜に目を落とす。明るく軽やかな旋律の中に、時折、不安を掻き立てるような音の運びがある。
決して間違った音ではない。けれど、どうにも収まりが悪い。何かが欠けているような、そんな気持ち悪さがあった。
もし、本当に何かが足りないのだとしたら。
「……ああ、そっか」
玉瑶は思わず声を上げた。
「三度の音が足りないんだ」
「……は?」
陽峻が怪訝そうに眉をひそめる。
「ほら、ここ。根音と五度の音だけでしょう? ここに長三度の音を加えたら、明るい長三和音になる。ほかの節も、長三度か短三度の音を補えば、もっと響きが落ち着くと思うの」
「だから何だって言うんだ。勝手に譜を変える気か?」
「ちょっと試してみてもいい?」
玉瑶は二胡を構え、足りないと感じた音を拾いながら、一節奏でてみた。
「例えば、今の音を譜にある二つの旋律に重ねたら――」
「……范姐姐」
ふいに蕗按が声を掛けてきた。
「今の音……聞いたことがある」
「え?」
玉瑶は顔を上げた。
「昔、白川の辺りにある翡族の集落に住んでた頃、歌ってる人がいた」
「本当!? 何て曲?」
「曲の名前は知らない。でも、今の音に似てる」
蕗按は記憶を辿るように目を伏せた。それから、小さな声で歌い始める。
白き山には 風が吹く
谷にかがやく 千の灯よ
遠き空にも 春は来よう
あの子らの道を 照らしたまえ
「……千の灯?」
玉瑶は思わず息を呑んだ。
『千灯歌』と同じ言葉が使われている。しかも、旋律の一部は、先ほど自分が足そうとしていた音によく似ていた。
「蕗按。その歌に伴奏はなかった?」
「あった。確か、二胡の音」
蕗按はこくりと頷くと、二胡の音色をなぞるように鼻歌を歌い始めた。
玉瑶は慌てて、陽峻が蕗按に譜の読み方を教えるために用意していた紙と筆を引き寄せる。蕗按の鼻歌に耳を澄ませ、一つ一つの音を書き留めていった。歌詞のあった部分は、二胡も同じ旋律を奏でている。
「お前、昔聴いたって言ったよな? なのに伴奏まで全部覚えてるのか?」
蕗按が歌い終えると、陽峻が困惑したように尋ねた。蕗按は何でもないことのように頷く。
「一回聴いたら覚える」
「…………」
陽峻は絶句したようだった。
玉瑶も初めて聞いたときは驚いたので、気持ちは分かる。けれど、今はそれどころではない。
「ねえ、二人とも。一度合わせてみたいの。阿蕙と陽峻は、譜どおりに『千灯歌』を弾いてみて。お願い」
「はぁ?」
「う、うん。いいけど……」
阿蕙は琵琶を、陽峻は笛を構え、それぞれ譜に記された旋律を奏で始めた。
玉瑶も二胡を構え直す。先ほど書き留めた旋律を思い浮かべ、二人の音にそっと重ねてみた。
――ああ、やっぱり。
三つの旋律は、まるで互いの隙間を埋めるように響いていた。
一方が音を伸ばすところでは、別の旋律が軽やかに動く。節の区切りも、拍の運びも、不思議なほどぴたりと合っている。
根音と五度だけだった響きに、三度の音が加わる。それまで胸の奥に引っかかっていた、あの落ち着かない響きがふっと消えた。
代わりに広がったのは、晴れ渡る空を思わせるような、豊かで美しい調べだった。
「……綺麗」
阿蕙がぽつりと呟いた。
玉瑶も胸の高鳴りを抑えられずにいた。
あれほど不思議に感じていた『千灯歌』の旋律が、今は少しも不自然に聞こえない。それどころか、三つの旋律は、初めからこうして重なり合うことを待っていたかのようだった。
互いの音を引き立て合い、足りないところを補い合う。一つとして、余分な音はない。
玉瑶は夢中で弓を動かし続けた。
やがて演奏が終わると、ゆっくりと弓を下ろす。しばらくの間、誰も口を開かなかった。
玉瑶は手元の二胡を見つめ、今しがた耳にした響きをもう一度思い返した。
白川の集落に伝わっていた歌。その伴奏が、なぜ『千灯歌』の二つの旋律と、これほど美しく重なるのだろう。
偶然とは思えなかった。
もしかして、『千灯歌』は、もともと三つの旋律を重ねて奏でる曲だったのではないだろうか。




