八 存在しない『二番』
玉瑶は思わず身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を正した。
「翡族の古い歌で、この国では門出を祝う唄としてよく知られています。歌詞は、確か――」
昭儀は記憶を辿るように間を置き、静かに歌い始めた。
朝の光を 袖に受け
希望を背負い 道を行く
新たな里に 灯をともせ
千の灯よ 明日を照らせ
――『千灯歌』だ。
玉瑶はすぐに曲名を思い当てた。翡族に古くから伝わる祝いの歌で、今では昭華人の間でも広く親しまれている。
周囲に目を遣ると、受験者たちもほっとしたように顔を見合わせていた。誰もが知る曲が課題となり、安堵しているのだろう。
しかし、昭儀の話はそこで終わらなかった。
「この歌には、二番があったはずなのです」
玉瑶は目を瞬いた。
『千灯歌』は玉瑶もよく知っている。けれど、二番があるなど聞いたことがなかった。
広間に戸惑いの声が広がる。昭儀はそれに構わず、静かに続けた。
「母はいつも、二番まで歌ってくれました。私が聴きたいのは、母が歌ってくれた、あの頃の『千灯歌』なのです」
受験者たちが困惑する中、太楽府の役人が一歩前へ進み出た。
「それでは、昭儀様にお尋ねしたいことがある者は、申し出るように」
しばしの沈黙のあと、一人の受験者がおずおずと口を開いた。
「茴羅昭儀様。僭越ながら、『千灯歌』に二番はないと伝えられておりますが……」
「いいえ。そんなはずはありません」
昭儀はきっぱりと答えた。
「母は確かに、二番まで歌ってくれました」
その口調に迷いはない。受験者たちはますます困惑した様子で、互いに視線を交わした。
やがて、別の受験者が遠慮がちに尋ねる。
「では、二番の歌詞や旋律を、断片的にでも覚えておいででしょうか」
「……それが、思い出せないのです」
昭儀はわずかに俯いたようだった。帳の向こうで、簪の飾りが微かな音を立てる。
「ただ……何か、絆を思い起こさせるような。そのような歌詞だった気がします」
絆を思い起こさせる歌詞。
玉瑶はその言葉を胸の内で繰り返した。
「他には、何も……。申し訳ありません」
昭儀は小さく息をついた。やがて、気を取り直したように顔を上げる。
「けれど、二番があったことだけは確かです。どうか、母が歌ってくれた『千灯歌』を、もう一度聴かせてください」
そして、居並ぶ受験者たちに向かって、静かに告げた。
「皆さんの演奏を、楽しみにしています」
昭儀は侍女に付き添われ、席を立った。帳の向こうから人影が消えると、受験者たちは一斉に相談を始めた。
誰もが不安そうな顔をしている。けれど、玉瑶は一人、期待に胸を弾ませていた。
門出を祝う『千灯歌』に、知られざる二番がある。
――なんて、わくわくするのだろう。
制楽院へ戻ると、玉瑶はさっそく書庫へ向かおうとした。しかし、行動を見越していたらしい陽峻に捕まり、阿蕙や蕗按とともに楽堂の一室へ連行されてしまった。
「いいか。試験は二十日後だ。一刻たりとも無駄にはできない」
陽峻は腕を組み、三人を見渡した。
「まず、昭儀の言っていた二番についてだが――忘れろ」
「えっ!?」
玉瑶は思わず声を上げた。
「どうして? 茴羅昭儀は二番をお聴きになりたいのに」
「『千灯歌』は有名な曲だが、誰も二番なんて聴いたことがない。存在するかどうかも分からないものを探している暇はない」
「でも――」
「でももくそもない! 名馬を四頭揃えたところで、四方八方に走れば馬車はひっくり返る! 今の俺たちがまさにそれだ!」
陽峻が苛立たしげに声を荒らげた。
「たとえ正しい曲を見つけても、演奏が下手なら試験には落とされる。まずは『千灯歌』の合奏を練習するべきだ」
「……分かった。じゃあ、二番を探すのは後にするわ」
不本意ではあるが、陽峻の言い分にも一理ある。どれほど素晴らしい曲を見つけたところで、満足に演奏できなければ意味がない。
玉瑶は気を取り直し、口を開いた。
「それじゃあ、まずは『千灯歌』の解釈から始めましょう」
「お前な――!」
「まあまあ。玉瑶も一つ譲ったんだし、ここは陽峻が譲りなよ」
阿蕙がにこにこと笑いながら口を挟んだ。
「それに、昭儀様のお心を慰めるための曲なんだから、どういう歌なのか考えるのも大事でしょ?」
陽峻は不満げに舌打ちしたが、言い返すことなく腰を下ろした。
玉瑶はさっそく、『千灯歌』の歌詞を思い浮かべる。
以前読んだ書物によれば、この曲は翡族が曜国に降った際、新天地への門出を祝って歌われたものだという。
しかし、玉瑶には以前から気になっているところが二つあった。
「まず、『希望を背負い』っていう歌詞が気になるの」
「はぁ? どこがだ?」
「新天地への門出を喜ぶなら、『希望を胸に』とか『希望を抱いて』の方がしっくりこない? 『背負う』って、何だか重たいものを運んでいるみたいでしょう?」
「似たようなものだろ。希望を秤にでも載せる気か?」
陽峻がふんと鼻で笑う。
いちいち皮肉を言わないと死ぬ病気なのだろうか?
玉瑶は陽峻をじろりと睨んだ。その隣で、阿蕙は考え込むように顎へ手を添える。
「今まで気にしたことなかったけど、言われてみれば、確かにちょっと不思議かも」
「そうよね?」
玉瑶はぱっと顔を輝かせた。
「もう一つ、気になるところがあるの。ところどころ、音が気持ち悪いのよ」
「……気持ち悪い?」
陽峻が眉をひそめる。




