↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/31

七 茴羅昭儀

 翌日、楽会試の受験者たちは、再び央舎の楽堂へ集められた。今日は茴羅《ういら》昭儀に拝謁し、直接お話を伺えるという。

 玉瑶は布に包んだ書物を胸に抱え、そわそわと周囲を見回していた。そのとき、高い位置で髪を結った美しい武官が、楽堂へ入ってくるのに気づいた。


「清辰様!」


 駆け寄ると、清辰は足を止めて振り向いた。玉瑶は笑顔で拱手する。


「おはようございます。清辰様も、昭儀様にお会いになるんですか?」

「はい。本日は瑞王殿下の代理として、同席させていただきます」


 清辰は穏やかに答え、ふと玉瑶の抱えている書物へ目を向けた。


「范姑娘。それは何ですか?」

「ああ、これですか?」


 玉瑶はにこにこと布を解き、大切にしまっていた書物を取り出した。


「以前、清辰様もご興味があると仰っていた『大陸楽史考』です。昭儀様がお望みの曲が、ここに載っているかもしれないと思って――」


 玉瑶は書を開いて見せようとした。

 その瞬間、清辰の手が伸びた。目にも留まらぬ速さで布を掴むと、開きかけた書を包み直してしまう。


「清辰様?」


 玉瑶はきょとんとして清辰を見上げた。清辰は布を押さえたまま、しばし黙り込んだ。


「……范姑娘。この本は、普段から持ち歩いているのですか?」

「はい! 何か調べたいことがあったとき、すぐに読めるので」

「そ――」


 清辰は何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。こめかみに指を当て、目を瞑る。

 頭でも痛いのだろうか。


「清辰様、大丈夫ですか?」

「……范姑娘」


 深く息を吸ってから、清辰が再び口を開いた。いつもの穏やかな表情に戻り、玉瑶へ向き直る。


「その書は、あまり人前では広げない方がいいかと」

「え……どうしてですか?」


 この書には、地方の祭礼で歌われる民謡から、とうに滅びた国の宮廷音楽まで、さまざまな曲や逸話が記されている。玉瑶が曲を解釈するうえで、なくてはならないものだ。


「古い楽史書には、高い値がつくものもあります。人目につくところで広げれば、盗難に遭うおそれもありますから」

「でも、ここには陛下がいらして、清辰様のような武官もいらっしゃるのに……盗みを働く人なんているのですか?」


 目を瞬くと、清辰は一瞬言葉に詰まったように玉瑶を見た。それから、少し困ったように微笑む。


「人の物を欲しがる人間は、どこにでもいるものです。……たとえ宮中であれど」


 玉瑶は思わず、手元の書物に目を落とした。


「母堂から譲り受けた、大切な楽史書なのでしょう」

「……はい」

「ならば、なおさら大事になさってください。昭儀にご質問する際、その本そのものをお見せする必要はありません。まずは、お話を伺ってからでも遅くはないでしょう」

「……そうですね。清辰様のおっしゃる通りです」


 宮廷のことなら、清辰の方が遥かに詳しいだろう。玉瑶は真面目な顔で頷いた。

 清辰は微笑み、ふっと視線を落とした。


「范姑娘は、素直な方ですね」

「そ……そうですか?」


 思いがけない褒め言葉に、頬が熱くなる。玉瑶が思わず頬を押さえると、清辰は静かに続けた。


「素直さは美徳ですが、時に身を滅ぼすことにも繋がりかねません。宮廷には、さまざまな思惑を持った人間がいます。……時には、人を疑うことも必要です」

「はい、分かりました!」


 玉瑶が笑顔で頷くと、清辰はまた、何か言いたげに玉瑶を見た。けれど結局何も言わず、太楽府の役人のもとへ歩いていった。



 やがて役人から声が掛かり、一行は後宮に隣接する春和殿へ案内された。

 春和殿の庭には梅や桃の木が植えられ、池のほとりには水仙も咲いている。通された室内には、ほのかな香が漂い、磨き上げられた床の上には美しい絨毯が敷かれていた。

 正面には薄絹の帳が下ろされており、しばらくしてその向こうに人影が現れた。


「茴羅昭儀様であらせられます」


 女官の声に、玉瑶たちは慌てて拱手し、深々と頭を下げた。


「面を上げなさい」


 帳の向こうから、凛とした声が響く。決して声高ではないのに、不思議とよく通る声だった。

 玉瑶は恐る恐る顔を上げた。

 薄絹の向こうには、華やかな衣を纏った女性の姿がぼんやりと浮かんでいた。顔立ちまでは見えないが、背筋をすっと伸ばした佇まいからは、気品が感じられる。わずかに身じろぎするたび、簪の揺れる音が微かに聞こえた。


「遠方から都へ参った者もいると聞いています。長旅、ご苦労でした」


 昭儀は一度言葉を切り、居並ぶ受験者たちをゆっくりと見渡した。


「皆、楽郷試を勝ち抜いた優れた楽師たちなのでしょう。このたびは私のために奏楽を披露してくれるとのこと。楽しみにしています」

「もったいないお言葉でございます」


 太楽府の役人が恭しく答えた。清辰は帳から少し離れた場所に控え、静かに成り行きを見守っている。


「昭儀様。本日は、楽会試の課題となる奏楽について、まずは昭儀様のお望みをお聞かせいただけますでしょうか」


 昭儀は小さく頷き、少し考えるように間を置いた。


「……私が聴きたいのは、幼い頃、母がよく歌ってくれた曲です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。