七 茴羅昭儀
翌日、楽会試の受験者たちは、再び央舎の楽堂へ集められた。今日は茴羅昭儀に拝謁し、直接お話を伺えるという。
玉瑶は布に包んだ書物を胸に抱え、そわそわと周囲を見回していた。そのとき、高い位置で髪を結った美しい武官が、楽堂へ入ってくるのに気づいた。
「清辰様!」
駆け寄ると、清辰は足を止めて振り向いた。玉瑶は笑顔で拱手する。
「おはようございます。清辰様も、昭儀様にお会いになるんですか?」
「はい。本日は瑞王殿下の代理として、同席させていただきます」
清辰は穏やかに答え、ふと玉瑶の抱えている書物へ目を向けた。
「范姑娘。それは何ですか?」
「ああ、これですか?」
玉瑶はにこにこと布を解き、大切にしまっていた書物を取り出した。
「以前、清辰様もご興味があると仰っていた『大陸楽史考』です。昭儀様がお望みの曲が、ここに載っているかもしれないと思って――」
玉瑶は書を開いて見せようとした。
その瞬間、清辰の手が伸びた。目にも留まらぬ速さで布を掴むと、開きかけた書を包み直してしまう。
「清辰様?」
玉瑶はきょとんとして清辰を見上げた。清辰は布を押さえたまま、しばし黙り込んだ。
「……范姑娘。この本は、普段から持ち歩いているのですか?」
「はい! 何か調べたいことがあったとき、すぐに読めるので」
「そ――」
清辰は何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。こめかみに指を当て、目を瞑る。
頭でも痛いのだろうか。
「清辰様、大丈夫ですか?」
「……范姑娘」
深く息を吸ってから、清辰が再び口を開いた。いつもの穏やかな表情に戻り、玉瑶へ向き直る。
「その書は、あまり人前では広げない方がいいかと」
「え……どうしてですか?」
この書には、地方の祭礼で歌われる民謡から、とうに滅びた国の宮廷音楽まで、さまざまな曲や逸話が記されている。玉瑶が曲を解釈するうえで、なくてはならないものだ。
「古い楽史書には、高い値がつくものもあります。人目につくところで広げれば、盗難に遭うおそれもありますから」
「でも、ここには陛下がいらして、清辰様のような武官もいらっしゃるのに……盗みを働く人なんているのですか?」
目を瞬くと、清辰は一瞬言葉に詰まったように玉瑶を見た。それから、少し困ったように微笑む。
「人の物を欲しがる人間は、どこにでもいるものです。……たとえ宮中であれど」
玉瑶は思わず、手元の書物に目を落とした。
「母堂から譲り受けた、大切な楽史書なのでしょう」
「……はい」
「ならば、なおさら大事になさってください。昭儀にご質問する際、その本そのものをお見せする必要はありません。まずは、お話を伺ってからでも遅くはないでしょう」
「……そうですね。清辰様のおっしゃる通りです」
宮廷のことなら、清辰の方が遥かに詳しいだろう。玉瑶は真面目な顔で頷いた。
清辰は微笑み、ふっと視線を落とした。
「范姑娘は、素直な方ですね」
「そ……そうですか?」
思いがけない褒め言葉に、頬が熱くなる。玉瑶が思わず頬を押さえると、清辰は静かに続けた。
「素直さは美徳ですが、時に身を滅ぼすことにも繋がりかねません。宮廷には、さまざまな思惑を持った人間がいます。……時には、人を疑うことも必要です」
「はい、分かりました!」
玉瑶が笑顔で頷くと、清辰はまた、何か言いたげに玉瑶を見た。けれど結局何も言わず、太楽府の役人のもとへ歩いていった。
やがて役人から声が掛かり、一行は後宮に隣接する春和殿へ案内された。
春和殿の庭には梅や桃の木が植えられ、池のほとりには水仙も咲いている。通された室内には、ほのかな香が漂い、磨き上げられた床の上には美しい絨毯が敷かれていた。
正面には薄絹の帳が下ろされており、しばらくしてその向こうに人影が現れた。
「茴羅昭儀様であらせられます」
女官の声に、玉瑶たちは慌てて拱手し、深々と頭を下げた。
「面を上げなさい」
帳の向こうから、凛とした声が響く。決して声高ではないのに、不思議とよく通る声だった。
玉瑶は恐る恐る顔を上げた。
薄絹の向こうには、華やかな衣を纏った女性の姿がぼんやりと浮かんでいた。顔立ちまでは見えないが、背筋をすっと伸ばした佇まいからは、気品が感じられる。わずかに身じろぎするたび、簪の揺れる音が微かに聞こえた。
「遠方から都へ参った者もいると聞いています。長旅、ご苦労でした」
昭儀は一度言葉を切り、居並ぶ受験者たちをゆっくりと見渡した。
「皆、楽郷試を勝ち抜いた優れた楽師たちなのでしょう。このたびは私のために奏楽を披露してくれるとのこと。楽しみにしています」
「もったいないお言葉でございます」
太楽府の役人が恭しく答えた。清辰は帳から少し離れた場所に控え、静かに成り行きを見守っている。
「昭儀様。本日は、楽会試の課題となる奏楽について、まずは昭儀様のお望みをお聞かせいただけますでしょうか」
昭儀は小さく頷き、少し考えるように間を置いた。
「……私が聴きたいのは、幼い頃、母がよく歌ってくれた曲です」




